全てを真実かと尋ねられたら、 否と応えるしかないだろう。 少年が目覚めたその時に、憎しみを覚えなかった訳では無い。 |
紅色の刻 |
風が通り過ぎ、出入り口に掛けられた莚が揺れる。 囲炉裏の火が無くとも、外は十分に暖かい。 時折、子ども達がはしゃぎながら通り過ぎていくのが分かった。 白い着物に、緋袴。 白い結い紐で、ゆったりと結われた髪。 如何にも巫女の風体をした老婆は、幾つもの薬草を擂鉢で潰している。 「犬夜叉、お前は外に行かんのか」 「何で」 腕枕で、寝転がったままの少年に、老婆は視線を投げた。 長く、きらきらしい銀髪が床に広がっている。 相反する紅い衣は禁色の袍。 紫の括り紐が袖を飾っていた。 頭の上の方で覗かせている獣の耳は、間違いなく本物だ。 「儂と居っても、面白くは無いだろう?」 ぴくりと耳が動き、肩越しに老巫女を振り返った。 「そりゃあな」 「正直な奴だ」 憮然として寝返りを打つと、老巫女をねめつけた。 彼女の片目は塞がれ、色を窺うことも出来ない。 「聞いたのはそっちだろ」 楓は、ふ、と笑うと隻眼を閉じる。 すっかりと白くなった髪を指先で整えた。 手元の薬草を磨り潰し、別の器に移しては、その作業を繰り返す。 「かごめを迎えには?」 「…うるせ」 起き上がり、顔を逸らす。 ぶっきらぼうな様子に、楓は頬を緩めた。 風が通り過ぎ、陽はきらきらと大地に降り注ぐ。 何の変哲も無い、穏やかな日。 そんな時だからこそ、色々なことを考えてしまうのもまた、事実。 犬夜叉はおもむろに口を開いた。 「なぁ」 薬草を磨り潰していた手を止め、囲炉裏の向こう側の少年を見やる。 「うん?」 言い難そうに舟を漕ぎながら、視線を逸らしたまま、言の葉を紡ぐ。 何事かと、楓は不思議そうに首を傾げた。 「その、目」 「目が何じゃ」 片目を覆う眼帯に触れ、問い返す。 意を決したように、犬夜叉は真っ直ぐ彼女を見据えた。 「もしかしなくても、俺の所為、か?」 止めていた手を再び動かし、楓は目を伏せた。 ごろごろと、石の転がる音が静かに響く。 「昔のことだ」 少年が、ぎくりと体を強張らせたのが分かった。 昔ならばしなかったであろう反応に、彼が口を開く前に老巫女が口を開く。 その口調は何処か、楽しげでもあった。 「謝ってくれるなよ、犬夜叉」 開きかけていた口を閉じ、吐くように短く言い捨てた。 「誰が」 足に頬杖をつき、むっつりと顔を顰める。 暫くの間を置いた後、ぽつりと呟いた。 「恨んだ、か?」 今度は手を止めることなく、彼女は答えた。 「それも、昔のこと」 じゃが、と楓は苦笑した。 薬草の青臭い匂いが鼻に付く。 犬夜叉は一瞬、眉根を寄せた。 「お前が目覚めた時、正直、苛立った」 「楓ばばあ」 呼びかけには答えず、楓は続ける。 「お前が封印されている間も、腹が立ったものだ」 生まれた育った村で暮らし続けると言うことは、 犬夜叉を封じた森の傍で暮らし続けると言うこと。 姉の血が染み付いた大地の上で、生きていかなければならないということ。 「何故、そのように安らかな顔で眠っている」 立っているのに、不確かな感覚。 姉が息絶えた場所で、何度も何度も蹲った。 死んで良いヒトでは無かった。 あのようなことで、死ぬはずは無かった。 望まれていたのは姉であり、自分では無かった。 あの時、姉が助かるのであれば、喜んで己が命すら差し出したものを。 「何故、あの頃と変わらぬまま、目覚めてしまったのだ」 犬夜叉ひとり、死に行けば良かったものを。 如何して、姉まで連れて行ってしまったのだ。 出来るのならば、自分こそが、犬夜叉の胸に矢を突き立ててやりたかった。 この手で、姉の仇を討ちたかった。 「桔梗お姉様は死んでしまったのに、とな」 そこで一旦区切ると、楓は息を吐いた。 犬夜叉は黙って、彼女の話に耳を傾けているようだった。 昔の話だ、と断り、聞き流せと告げる。 「物心ついた頃から、私はお姉様と二人だった」 この村で生まれ、この村で育った。 生まれながらに強い霊力を持った桔梗は、 その資質を見抜かれ、村の守人であった巫女に手解きを受けていた。 「親の顔も織らぬ。お姉様が親であり、かけがえの無い家族だった」 甘えて頬を摺り寄せれば、くすぐったそうに笑ってくれる。 そのような桔梗が、楓は好きだった。 時折、母の真似事は出来ないけれど、と、 炊事を賄う楓の代わりに、 得意でもない料理を振舞ってくれたことも在った。 お世辞にもおいしいとは思えなかったけれど、 姉の思いが嬉しくて、味の無い粥を啜った。 「桔梗お姉様の後を任されながらも、その重責に耐え切れず、逃げ出したいとすら思ったよ」 けれど、と楓は口を開く。 「儂は、何も織らなかったのだと気付かされた」 弓を持つ手が、震えたことも在った。 ヒトの血肉を狙う妖怪を前に、恐怖を感じた。 迷い、怯えた。 それが隙となり、ヒトの生命を奪う。 「お姉様が当然のようにして、持っていたもの。背負っていたもの」 守る為だけに、必死に学んだ。 多くの書物に目を通し、賢人の知恵にも耳を傾けた。 学ぶことが多過ぎて、今まで一体何をやっていたのかと、自分が腹立たしくなった。 「それは誇りなのだと思っていた」 悔しくて、声を押し殺して泣いた夜も憶えている。 励ましてくれる声も、抱き締めてくれる腕も無い。 ―――矢張り、楓様には荷が重すぎたんじゃなかろうか ひとりなのだと、唐突に突きつけられた思いがした。 「嘆きたい日も在ったろう。怒りたい日も在ったろう」 そうなって初めて、織った。 巫女であることの意味。 頼られるだけの存在。 寄りかかることの出来ない責務。 「お姉様には、そのようなことは無いのだと、思い込んでいたのだ」 何と、重たいことか。 何と、苦しいことか。 巫女として望まれ、巫女として生きる道しか織らなかった姉は、 一体、如何やって己と闘ってきたのだろう。 「一度、だけ」 犬夜叉が小さく漏らした。 「桔梗も弱音を吐いたことが、在った」 励ますつもりだったのだろうか。 桔梗でも弱音を吐くのだ、と。 気にするな、と。 けれど、楓は寂しそうに微笑んだ。 「それも、儂がお前を憎んだ理由」 一度も聞いたことの無い、弱音。 凛とした横顔を、子どもながらに美しいと思った。 まるで人形のようだと、陰口を叩かれたことも在る。 楓はそれを聞く度に腹を立て、喚き散らした。 桔梗はその度に楓を諌め、彼等に謝った。 自分が腹を立てることで、姉に迷惑がかかると気付くまで、 そう、時間はかからなかった。 妹巫女として、姉の支えになる、楓は強く決心した。 けれど。 「儂では駄目だった。お前にしか出来なかった」 何時でも穏やかに、たおやかに、微笑み続ける姉。 親を恋しとぐずっていた幼い日には、寝付けるまで傍で歌を歌ってくれた。 困らせたくて悪戯をしても、仕方の無い子だと笑って赦した。 「ただの、醜い嫉妬だ」 悔しかった。 最期まで巫女としての責を全うしようとした姉が。 家族であったはずなのに。 確かに、想っていてくれたはずなのに。 如何してこんなにも、遠く思える? 「のう、犬夜叉よ」 零れるように漏らした呼びかけ。 犬夜叉は楓に視線を投げた。 「お前には、お姉様様がどのように映って見えた?」 ―――お前の目には、私はどのように映っている? ずっと昔、同じことを問うた女が居た。 ヒトが老いるには十分過ぎる程の昔に。 あの時は、答えることが出来なかったけれど。 「…桔梗は、桔梗だろ」 寂しげに歪められた笑顔に、罪悪感を感じた。 それと同時に、儚さを美しいと想う自分も確かに居たのだ。 彼女が縛られている『らしさ』とは、巫女であるということ。 色に溺れるな。 迷いを捨てろ。 ヒトでありながら、ヒトで無き者。 巫女とはそのように定められたもの。 その身は神のものであり、誰のものにもなってはいけない。 清いままで保たれた身体は、生きながらに神の供物、神饌なのだ。 もし、何かに心奪われるようなことがあれば、 桔梗のように力を失い、衰えて行くのだろう。 「他の何でも無ぇ」 彼女は哀しげに口を歪め、けれど慈愛に満ちた微笑みを犬夜叉に向けた。 「そんなお前だからこそ、見えるものもあるのだろうな」 あの時、確かに桔梗は犬夜叉を殺した。 だが、それは結果として、封印を成した。 巫女とは穢れてはならぬもの。 妖怪を滅するということは、殺すことではない。 荒魂を清め、和魂へと返すこと。 目には映らぬ、全てのものに宿ると言う、精霊へと姿を戻してやること。 ならばもし、その相手が荒魂を持っていなかったのであればどうだろう。 犬夜叉が持っていたのが、和魂だけであったのならば。 楓は考える。 荒魂を鎮める為の術は、和魂を眠りに誘い、封印となって成されたのでは無いかと。 本当のことなど、誰にも分からないけれど。 「そんな顔をするな。お前らしくも無い」 珍しく神妙な面持ちをしている犬夜叉に、苦笑する。 「ゴロゴロしてるんだったら、裏山へ行って、薪でも拾って来い」 其方の方が助かる、と楓は笑った。 無言で立ち上がり、莚を潜ろうとした瞬間、 子狐妖怪とはち合った。 不思議そうに彼を見上げ、尋ねる。 「何じゃ、犬夜叉。どっか行くのか?」 「丁度いい。七宝、お前も来い」 何が感に触ったのかは分からないが、 彼はひょい、と七宝を掴み挙げるとそのまま外へと出て行った。 「横暴じゃあっ!!」 甲高い声が響き渡り、楓は頬を緩めた。 今となっては昔のこと。 憎しみは薄れ、怒りは霞む。 負の感情は続かない。 貴方を縛り付けるものがそれであるというのなら、 貴方はとうに、赦しているのではないのだろうか。 貴方は、少年の歩く道を、切り開こうとしているだけなのでは。 真実は、霞の遥か先向こう。 END |
あとがき。 |
犬桔スペシャルに対抗しているわけではありません(笑)。 元々、あの片目は犬夜叉の所為かなぁ、と考えて、 楓ばあちゃんの話を書こうと思っていたところにアレだっただけです。 そこで、予告の『何故そのような〜』の台詞を聞いて、混ざったのです。 桔梗が料理下手とか、勝手な想像なんでお気になさらず。 ほのかに犬桔、ベースは犬かごで(どこらへんがだ)。 メインは楓だもの。 タイトルの紅色は楓のことです。 ちなみに、私がよく使う『禁色の袍』は、犬夜叉の紅い衣をさしてます。 帝しか纏う事が赦されなかった色のひとつです。 この時代には、関係ないだろうけれど。 |
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