暗く昏く、けれど明るい夜だった。
遠くから梟の鳴く声が聞こえる。
星は形を潜め、月だけが明々と地上を見下ろしている、そんな夜。
木々のざわめきで風が過ぎて行くことを知る。
急に、心にぽっかりと穴が空いたように不安になって、悟空は寝台を抜け出した。
寺院の夜は早い。
誰も居ない冷たい廊下をぺたぺたと素足で歩く。
長安でも名高いこの寺の広さは悟空でも一筋縄ではいかなかった。
今でこそすっかり憶えてしまったが、
連れてこられた当初は何度迷ったことか分からない。
だが悟空はその広さに懐かしさを憶えた。
寺院そのものに覚えがあるわけではなく、似たような大きな建物、
例えば館のようなものに記憶を擽られた。
憶えていないのに。
忘れてしまっているのに。
なのに、忘れているというコトを憶えている。
(そんなの、ヘンだ)
幼子は歩む足を止めずに前へ進む。
自分の異質さを織っていた。
今の悟空自身の不自然さに気付いていた。
憶えているのは断片的な知識だけ。
痛みも哀しさも全部残っているのに、肝心なコトは何ひとつ思い出せない。
(俺だけが、オカシイんだ)
想う度に、何故だろう、不思議と納得してしまう自分がいた。
泣きたくなるのではなく、やはりそうなのだと頷いてしまう。
不自然であることこそが自然なのだと。
幼子に課せられた罪咎は容易くはなく、
伸ばした手も届かずにひとつひとつ目の前でゆっくりと奪われていった。
風が鳴く。
渡り廊下まで漸く辿り着いた瞬間、悟空は目を細めた。
眩いまでの月光は大地に影を縛り付け、舞い散る春の雪を白く浮かび上がらせる。
幻想的なその情景を、何を言うでもなく悟空は見つめる。
息を押し殺して、ただじっと。
金晴眼の奥深くにまで刻み込むように。
微かに、腕が動いた。
いつか、それを求めて手を伸ばした気がする。
触れたものは優しかった気がする。
けれど動きかけた腕は途中で固まり、力無く降ろされた。
―――…なぁ、何でだよ」
覇気の無い声で月を見上げたまま悟空は呟く。
はらはらと目の前を桜が横切っていく。
「何で、憶えてねぇんだよ」
微かに、微かに、幼子の記憶は非道く曖昧で、
鮮明に思い出したとしても次の瞬間には忘れてしまう。
だから憶えていない。
憶えていられない。



「記憶を奪うくらいなら、何で」




―――何で、心も封じてくれなかった



卑怯だ、と悟空は拳を握り締める。
桜の下、月明りの下、何かを誰かと約束した。
なのに何ひとつ憶えていなくて、痛みだけが強く残っていて。
泣きたくなる衝動すら通り過ぎて、虚脱感に襲われる。
名前だけでも良い。
顔だけでも良い。
会話の一言でも、触れたぬくもりでも。
何か、たったひとつだけでも良いから。



「…ッ、頼むからさぁ!」



―――思い出すコトを、赦して



想いが通じたのか、神の気まぐれか。



―――生きろ、悟空



目には月を映したまま、悟空は崩れ落ちた。
零れるものは無かった。
ただ、哀しくて。
ただ、痛かった。
(よりにもよって、どうして)
聞こえた声を憶えていようとすることすら段々と薄れていく。
一瞬であろうとも、聞こえた声は残酷だ。
「…やっぱり、ずるい、よ」
時折、雲に遮られながらも輝き続ける月が眩くて、眩すぎて。
触れてはならなかったのだと、警鐘だけが鳴り響いて。
幼子の両手両足を縛り付ける枷はとうに外れていたのに、心は未だ縛られたまま。
囚われなかった心だけが囚われ続けるのは何の因果か。
幼子を蝕む罪咎は何も教えてはくれない。
高く輝く月と、淡く舞い散る桜に縋って、
悟空は己が愚かさを憎むしかなかった。






END



あとがき。
ある夜の風景。




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