奏失
お国の為だと、あの人は行ってしまった。 赤紙が届いて、急いで準備をして。 近所の人も、彼の家族の人も、両手を上げて喜んだ。 いってらっしゃい、と手を振って。 涙を流しながら。 でも、ウチは……。 行って欲しくなんてなかった。 「宗司さんの帰り、ウチ待っとるから」 そう言ったけれど、その先は言えなかった。 『生きて帰ってきてや』 絶対に言えへん、一番伝えたかった言葉。 お国の為に死ぬんは、幸せなことやと教えられた。 それは名誉なことやと教えられた。 「あぁ、必ず勝って帰ってくるから」 宗司さんはウチにそう言うて、笑うてくれた。 皆の手前、抱きしめてはくれへんかったけど、 その言葉と笑顔だけでウチは嬉しかった。 それから、1年が経った。 郁子は空を見上げて、背伸びをした。 「うん、今日もいい天気や」 にっと笑って、後ろを振り返る。 小さな弟と妹がこちらを心配げに見ていた。 「どうしたん?」 絣のもんぺに、くたびれたシャツ。 この時代に、着るものがあるだけでも倖せだ。 住む家があるだけでも。 「お父ちゃん、いつ帰ってくるん?」 「お母ちゃん、いつ帰ってくるん?」 続けて吐き出された質問は、郁子を困らせるには十分だった。 先日、年老いた父親にも赤紙が届き、戦場へとかり出されてしまった。 一体、あの父親に何が出来るのだろうか。 特に力があるわけでもない。 衰えていく体力が、戦力になるとも思えない。 だったら、考えられるのは一つだけだった。 お国の為に、『捨て駒』となる。 一人でも多くの戦力を。 一人でも多くの兵士を。 それがいくら微力なものだったとしても。 そうして、お国の為に父親は死んでいった。 父親の遺体があるわけではない。 父親の遺骨があるわけではない。 目の前で、父親の死を看取ったわけではない。 それを知らせたのはたった一枚の、薄い紙切れ。 口惜しくて、口惜しくて。 思わず笑いがこみ上げてきそうになった。 ただ、死ぬ為だけに戦場に行った父親が、あまりに不憫に思えた。 止める力などなかった自分が恨めしく思えた。 そして、いつも思った。 あの人は、今も無事に生きているのだろうか。 そんな事実を、幼い兄弟にすることができるはずもなく。 戦争に行ったまま、まだ帰ってこないと言うしかなくて。 母親は母親で、つい3日前の空襲で死んでしまった。 弟と妹を先に防空壕へ連れて行き、脚が弱っている母親を連れに戻った。 燃え盛る炎の中、道とも言えない道を感覚だけを頼りに家へと走った。 時折、火の粉が降ってきて、チリチリと皮膚を焼く。 顔をしかめながらも、構わず走った。 途中、逃げろと忠告されるが、まだ母がいるのだと叫びながら通り過ぎる。 どうやら途中までは自分の脚で逃げられたのだろう。 すぐそこに母親はいた。 「母さん!」 彼女を見つけると、母親は安堵したように手を伸ばそうとした。 郁子も母親がいることに安堵して、ほっと息をつく。 「郁…」 瞬間。 ガラガラと音がして、燃えていた家屋の柱が2人の間に降って来た。 否。 母親の上へと降って来た。 轟々と燃える炎。 その下敷きになった母親がどうなったかなど、考えずとも分かることで。 短い悲鳴の後には、何も聞こえなかった。 「母さ…ん…?」 何も考えられずに、地面に座り込む。 ぼたぼたと流れる涙。 「何やっとるんや、アンタ!はよ逃げ!!」 ぐいと強く腕をつかまれ、立たされる。 嫌だと首を振りながら、懸命に母親へと手を伸ばす。 「母さんがッ!母さんがぁッッ!!」 「お母はんなら、あっちで待っとるから!ほら、行くで!!」 「違…ッッ!!」 抵抗したが、崩れ落ちていた郁子にそんな力が残っているはずがなかった。 そのまま、腕を引かれて防空壕へと近付いていく。 目の前で燃えていった、小さな母親の身体。 助けることの出来なかった、 何も掴むことの出来なかった、 自分の両手。 「堪忍な…堪忍してぇや、母さん…」 何度も、何度も謝りながら。 あまりにあっけなさすぎる人の命を呪わずにはいられなかった。 郁子はまだ17歳になったばかりであった。 それから郁子は一人で兄弟を育てていかなければならなくなったのだ。 「姉ちゃん?」 心配そうに覗き込んでくる弟達を、そっと抱きしめて大丈夫だと言い聞かせる。 「すぐに帰ってくる。それまで、姉ちゃんがお父ちゃんとお母ちゃんの代わりや」 「姉ちゃんやのに?」 くすくすと妹――沙耶が笑い出す。 「せや。姉ちゃんがお父ちゃんもお母ちゃんもするんやで。あ、でもお父ちゃんするんやったら、ヒゲ生やさなあかんかな?」 慌てて、郁子は弟と妹から離れた。 「えぇー?姉ちゃん、女やもん。ヒゲなんて生えへんでぇ?」 弟――孝も笑い出す。 「いぃや!人間、やろうと思えば何でもできる!!」 わざとらしいくらいに、身振り手振りで話す郁子を、近所の者達も微笑みながら眺める。 「郁子ちゃん、今日も元気やね」 見ていて痛々しいくらいに。 郁子の婚約者、高村宗司が戦場に出向いて1年が経った。 それから、何の音沙汰もない。 手紙も、何も。 家族でもない限り、女性との関わりは絶たれていた。 この戦争の真っ只中、交際など許されなかったのだ。 宗司さん、はよ帰ってきてや。 手柄なんていらん。 名誉なんてどうでもええ。 宗司さんが生きて帰ってきてくれさえすれば。 ウチ、それだけで倖せなんや。 「宗兄ちゃんもはよ帰ってくるとええな」 「また、遊んでくれるかな」 彼女は、そんな台詞に力なく微笑んだ。 「あぁ、せやな」 キィィンと耳鳴りがした気がして、顔を上げた。 (―――…?) 遠くの空を見て、郁子ははっと目を見開く。 「っ!」 それに気付くと同時に、辺りに鳴り響く空襲警報。 素早く家の中に入り、三人分の防空頭巾を掴む。 大事なものはいつも小さな鞄に入れている。 それも持って外に出た。 今は3人しかいない。 小さな家族だけれど。 とても大切な家族だから。 「孝!沙耶!」 弟達の名を呼んで、そばに呼び寄せる。 きゅっと、顎紐を結んで、しっかりと頭巾をかぶせた。 遠くでは、爆弾でも投下されたのか爆発音が聞こえ、煙が上がる。 同時に聞こえ始める、悲鳴。 赤子の鳴き声。 幼子の親を呼ぶ声。 男の罵声。 女の金切り声。 何度も耳を塞ぎたくなった。 燃え広がる炎が全てを焼き尽くしていく。 家屋も。 木々も。 人も。 何もかも。 弟達の手を引いて、防空壕へと走る。 沙耶は軽いので、片手で抱き上げた。 少しでも早く逃げることが出来るように。 しかし、それが悪かった。 大人に近い郁子の脚に、孝が追いつけるはずがなかった。 脚がもつれ、人ごみの中に倒れる。 「孝ッ!」 「兄ちゃん!」 逃げようとする流れの逆に進もうとしている為、中々近付くことが出来ない。 その間にも、近くで爆発音が響き、轟く。 飛んできた破片が突き刺さり、血まみれになる者。 そのまま、息絶える者。 炎に巻き込まれ、生きながらその身を燃やされる者。 1つの人ごみが通り過ぎて、やっとのことで孝に近付くことが出来た。 沙耶は郁子の腕から飛び降りて、孝に駆け寄った。 「兄ちゃん、兄ちゃん」 泣きながら、一生懸命兄を呼ぶ。 「何でぇ?何でやの?」 その様子に、郁子は疑問を覚えた。 「孝…?」 涙でぐしょぐしょになった顔をこちらに向けて、 沙耶は途切れ途切れに尋ねた。 「何で、兄ちゃんの脚ないの?」 見開かれる瞳。 郁子は言葉を失った。 紅い炎に更に染め上げられた、深紅の血。 血溜まりが出来ては、地に吸い込まれていく。 孝の下半身が、骨をも砕いて無くなっていた。 弟は、虚ろな瞳で郁子と沙耶を映していた。 もう、何も言えぬ口はうっすらと開いていて、血が流れ出している。 かすかに、唇が動いた。 「ね…ちゃ……いた…い…」 郁子は座り込んで、孝を抱きしめた。 「大丈夫やから!すぐにお医者様に看せてあげるから!!」 涙は沙耶と同じように次から次へと流れ出す。 「すぐに治るから!!だから、しっかりしぃや!?」 孝は、力なく郁子の長い髪をつかんだ。 「…ねえちゃ…」 「何?!何か欲しいもんあるか?!」 ふ、と笑った気がした。 「泣か…と…いてや…」 「兄ちゃん…?」 「…宗…兄ちゃ…に笑われ…まぅ…で?な…ぁ…沙耶…」 「孝…?」 目も閉じず。 口も開いたまま。 流れ出ている血は、まだこんなにも止まることを知らないというのに。 孝は、天に召されてしまった。 こんな幼い命までも奪って、一体何の為の戦争なのか。 一体、誰の為の戦争なのか。 あまりに長い戦いの中で、誰にも分からなくなってしまっていたのかもしれない。 また、 それからしばらく時が流れた。 「…いらん」 沙耶は、小さく首を振って断った。 コト、と食事の皿を卓に置いて沙耶の隣に座る。 「いらん…て…アンタ、昨日も一昨日も何も食べとらんやないの」 それでも少女は小さく首を振るだけだった。 ぎゅう、と小さな手を膝の上で握り締め、俯いている。 「沙耶?」 「いらん」 覗き込むようにして、郁子は沙耶に言い聞かせた。 「沙耶。ちゃんと食べんとお母ちゃんもお父ちゃんも安心して帰って来られへんで?」 「ちゃんとしてた!」 「……?」 「ちゃんとしてたのに、兄ちゃん死んでしもた!」 ぽたぽたと、いつのまにか少女の瞳からは涙がこぼれている。 両手の甲でそれを拭いながら、懸命に言葉を紡いだ。 「お父ちゃんたち帰って来ぃへん!!」 「沙耶」 「何で!?ねえ、何で?!」 泣きじゃくる妹に、何も言えずに郁子は詰まった。 どんなに『いい子』にしていても、両親が帰って来る気配はない。 『いい子』にしていたのに、兄は死んでしまった。 幼いながらも、その矛盾に気付いていた。 そしてそれは、考えたくない結果へと考えを導く。 「お父ちゃんたち、ほんまは死んでしもたんやないの?」 「なに言うてんの?そんな訳ない…」 内心動揺しながら郁子は沙耶を抱きしめた。 「やったら何で?!」 その手を振り払い、郁子を見上げる。 「お父ちゃんたち、どこいるの?!」 ぼろぼろと涙はこぼれ、その目で郁子を見ることも出来てはいない。 力のない腕で叩かれ、郁子は何も言えなくなった。 痛かった。 叩かれた場所など、痛いわけがない。 痛いのは。 『ココロ』。 幼い弟の死は、幼い少女の『ココロ』を深く深く傷つけた。 ヒトが死ぬと言うことを、残酷な形で深く深く刻み付けた。 「兄ちゃん死んでしもたのに、姉ちゃん何で平気なん!?」 どうしていつも通りに笑えるのか。 何もなかったように振舞えるのか。 幼い少女にはそれが分からなかった。 だから、残酷な台詞を吐けた。 「宗兄ちゃんも死んでるかも知れへんのに!!」 一瞬、郁子は目を見開いた。 そして、あげられた手。 「っ!」 沙耶は思わず身を固め、目を瞑った。 「…死んでへん」 押し殺した声。 沙耶を殴るかと思われた手は、寸でのところで止められていた。 俯き、その手を握り締める。 「死んでるわけあらへん!!」 唇を噛み締め、郁子は自分を抱きしめた。 それはまるで、自分に言い聞かせているようで。 「帰って来てくれるて言うてくれた…」 呟くように、震える唇からこぼれる言葉。 泣いてはいなかった。 けれど、泣いているように見えた。 兄弟の前で必死に明るく振舞っていた姉の姿は、とても痛かった。 不安がらせまいと懸命になっていた姉もまた、幼い少女だったのかもしれない。 沙耶はぼろぼろと、再び涙を流しながら、郁子に謝った。 「ごめ…ん、姉ちゃん。ごめんなさい…嘘や、そんなこと思てへんよ…?」 何度も頷きながら、郁子は少女を抱きしめた。 「姉ちゃんこそ、ごめんなぁ…。不安にさせてしもてごめんなぁ」 強く生きなければならない。 家族を護ることが出来るのは、自分しかいない。 たった1人になってしまった家族が、何よりも愛おしかった。 見上げた天井は薄暗くて、遠かった。 さほど大きくもないこの家が、とても広く思える。 数ヵ月後、栄養失調で沙耶は息を引き取った。 元気になったかと思われた妹の記憶には、兄の死に様が強く残っており、 食べ物を全く受け付けなくなっていた。 呼吸も、いつ止まったのかわからないくらい微弱なもので。 冷たく、重くなった妹の亡骸を抱きしめて、郁子は声を殺して泣き続けた。 |