奏失



沙耶が亡くなって後、郁子は宗司の家へと引き取られた。
元々、嫁ぎ先である家だ。
遅かれ早かれ、この家へと入るのだから、と勧められたのだ。
彼の実家であれば安否の情報も入ってくるだろう。
断る理由もなかった。
誰もいなくなった家を後にして、郁子は宗司の家へと招かれた。
小さな位牌を4つ手にして。


戦況は思わしくなかった。
ラジオから流れてくる情報は、どれも日本軍の有利を告げていたが、
それさえも信じられなくなるくらいに、日本は悲惨な状況にあった。
住む場所も燃やされ、怪我をしても十分な治療も受けられない。
病院とは名ばかり、収容人数はとうに制限を超えており、死体置き場も同然だった。
治る見込みなど、殆どなかった。空襲は続き、そのたびに人が死んでいく。
それが誰なのか、男か女なのか、それさえも判別できないほどに無残な死体が、
山のように転がった。
遺体は一つ一つ燃やされ、家に帰されるのではない。
ゴミと同じようにまとめて燃やされ、その遺骨を少しずつ分けて家へと帰すのだ。
故人への想いなど、無いに等しかった。


そんな中、郁子たちはなんとか生き延びていた。
「郁子ちゃん、裏の畑見てきてくれる?」
「はぁい、おばちゃん」
「もぅ、お義母はんて言うてくれて構へん言うてんのにぃ」
くすくすと笑いながら、義母は頭につけていた手ぬぐいを外す。
「食べられそうなんあったら、採ってきてえぇからな」
「えぇ、分かりました」
掃き掃除をしていた箒を元の場所に戻して、郁子は畑へと向かった。
宗司の家は父母に宗司を合わせて5人兄弟という構成。
長男、長女、次女、次男、三男の並びだ。
宗司は次男にあたり、上に3人の兄と姉がいる。
祖父母は既に他界していた。
父、長男はもちろん、三男も徴兵の範囲にあった。
長女と次女は嫁いでおり、結局は次男と三男しか家に残ってはいなかった。
宗司は一度目の徴兵のとき、丁度怪我をしており、先に三男が出兵した。
そうして遅れて宗司が出兵したのだ。

「高村さん、電報ですよー」

チリン、と鈴の音が聞こえて自転車の止まる音がする。
「はあい、今出ますよって」
大きめの声を出して返事をする。
礼を言って、何度目かの電報を受け取った。

一度目は長男。
二度目は三男。
三度目は夫。

じゃあ、四度目は?

彼女は丁寧に封を切り、中身に目を通した。








「…あぁ………」








力なく、その場に座り込んだ。





胡瓜やトマトを眺めて、手にとる。
「これは、まだかな」
艶やかな野菜を籠に入れていく。
何分2人しかいないのでそんなに沢山の量はいらない。
ここにそれだけの食料があるのが、倖せなくらいだった。
勿論、近所に分け与えたりもする。
お互いに助け合って行かなければ、生きていけないのも事実だ。
屈めていた腰が痛くなったのか、起き上がり背伸びをする。
「それにしても、暑いなぁ」
ふと、何かを感じて遠くの空を見やる。
「?」
最初はソレが何か分からなかった。
灰色のような色をしたソレは、段々と形を作っていく。

「煙…?」

あっという間に、キノコのような形をしたソレが遠い空を覆った。

「雲…なんか…?」

嫌な感じがして、身震いをする。
何故だか分からないけれど、それがよいものには思えなかった。
見たこともないのに。



裏口から表の庭へと戻ってくる。
「なぁ、おばちゃん。今、あっちの方でな…おばちゃん?」
彼女の目に映ったのは、背を丸めて蹲る義母の姿。
持っていた籠を置いて、急いで彼女のそばに駆け寄る。
「何?どっか痛いんか?!」
ふるふると首を振った。
泣きながら、胸で一枚の紙を抱きしめていることに気付く。

「それ、何?」

はっとして、彼女は紙を思わず隠した。
「何でもあらへん。」
「せやったら、何で隠すん?」
「郁子ちゃんには、関係あらへんもんや」
「電報…よね、それ」
「違う!」
「何て書いてあったの?」

懸命に紙を握り締め、首を振る。
しかし、郁子には聞こえていない。
この時代の電報と言えば、相場は決まっていた。


「見せて!!」


半ば奪い取るようにして、郁子は彼女から電報を取った。


「見たらあかん―――…っ!!」




「何、これ………?」




















『高村宗司、戦死ス』


















「ねぇ、おばちゃん。何て書いてあるん、これ?」




引きつった笑いを浮かべながら、義母を振り返る。

「あぁ…」

口元を抑えて、義母は涙を零した。
「こんなん、嘘よね?宗司さん、帰って来るて言うてくれたやん?」


確かに帰ってきた。


「あの時、笑てくれて帰って来てくれるて」


一番、欲しくない形で。


「帰って来るて………」


遺骨も何も無い、ただ1枚の紙切れが。


「何で…?何でぇ―――ッッ!!」


両手で耳を覆って、何も聞きたくない子どものように座り込み、泣きじゃくる。


「お国の為て、一体お国が何してくれるんや?!」


「郁子ちゃん!」
義母は郁子を抱きしめ、慌てたように口を塞ごうとする。
だが、切れてしまった糸は留まることを知らない。
「お国なんて、お国なんて」
「言うたらあかん!言うたらあかんよ、郁子ちゃん!」
このような事を言っているところを兵にでも見つかれば、懲罰は免れない。
彼女は郁子が大事だからこそ止めた。
止められると良かった。









「お国なんて、ただの人殺しやないの……ッッ!!」








握り締められた電報は、くしゃくしゃになって所々が破れていた。



8月6日。
暑い夏の日の出来事だった。




郁子は、あの時見た雲が原爆と言う新しい兵器のために出来たモノだと後に知った。




だが、そんなことがどうでも良くなるほど、
婚約者の死の知らせは『ココロ』の奥まで突き刺さった。


抜けることなど無かった。












宗司サンヲ返シテ。











8月15日。
戦争が終わった。
日本軍が負けたというのに、終わったと言う言葉に安堵感を覚えた。
同時に。
彼を失ったということに呆れるほどの喪失感を覚えた。
何もかもが終わったと同時に、何もかもを失った。
そこには何も無かった。



宗司の母と過ごし、そうして死を看取った。
結婚もせず、ただ1人で暮らした。
後にも先にも、愛したのはただ1人だった。
年老いていく自分を感じながら、時は流れていく。
周りの友人達は結婚し、子孫を作っていった。
郁子はそれもせずに、緩やかな静かな時間の中、終わりの時を待っていた。

温かな日差しの下、揺椅子に座って外を眺めている。
ぼんやりと、誰かがいるように感じた。
その眼は殆どモノを映すことなく、耳も殆ど聞こえなくなっていた。
時々、ホームヘルパーが家にやって来る。
それだけの生活。
人が訪れることなど稀なこの家に、誰がいるというのか。

それでも、感じた。
眼で見えなくとも、耳で聞こえなくとも。

『ココロ』が。

誰がいるのかを教えてくれた。
老婆は穏やかに頬を緩める。

「宗司さん…そこにいてるん?」

笑って、頷いてくれたように見えた。

「せやな、そろそろやからな」

皺枯れた骨と皮ばかりの手を伸ばして、彼に触れようとする。

「宗司さん」

その手が、ふいに大きな両手に包まれる。
瞬間、老婆は少女に姿を変えた。

「もう、離さんといてや?」

ふふっと笑って、少女は少年に抱きしめられる。

「一緒だよ、郁」



何も言わずに頷いて、2人はゆっくりとその姿が薄らいでいく。



倖せそうな笑顔を浮かべて。








家のチャイムが鳴り響く。
「高村さーん?生島です、上がりますよー?」
ホームヘルパーと思われる女性は、勝手知ったるこの家に上がり、
郁子のいる縁側へと向かう。
「今日はですねぇ、綺麗な花を持ってきたんですよ」
数本の美しい花々を郁子に見せながら、その女性は笑った。
「いい薫りでしょう?すぐに活けますね」
ガサガサと買い物してきたものを冷蔵庫に入れながら話を続けた。
すぐに花瓶を持ってきて、水を入れる。
水の流れる音が、キッチンに響いた。
















「花言葉は『変わらぬ想い』って言うんですよ」

















あの頃と同じ風が、優しく通り過ぎた。















END

あとがき。
『奏失』いかがでしたでしょーか。奏でることを失うということで、『奏失』です。これは『喪失』とかけております。人の死を、淡々と描くことで、戦争の中での『死』とはそれほどの意味しか持たれていないような概念を書いてみました。人としての『想い』ではなく、戦争としての『意味』。静かな中での残酷さというか。本当は八月中にアップしようと思っていたんですけど、何分暇が…。


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