忙しない様子でかごめが珊瑚達に追い付いたのは少し経ってからだった。 俯いて、言葉少なな少女に珊瑚はどうせ又犬夜叉が何か仕出かしたのだろうと当たりを付ける。 大抵に於いて其れは強ち外れてもいないのだから始末に終えない気がしないでもない。 薄らと埃が簀子に積もってはいるものの、長い間使っていないとは思えないほど汚れてはいなかった。 珊瑚に至っては、弥勒が村長と話し込んでいたこと、 空き家と言えど広い屋敷に宿借りしたことから多大な不信感を持っていた。 相当な地主だったと言っていた。 ならば、家主が居ないからと言って、用も無いのにおいそれと農民が足を踏み入れる筈が無い。 其んな場所へ、偶然通り掛った旅人を留まらせるだろうか。 弥勒が法師だと言うことを差し引いても、だ。 (何か企んでいるか、本当に何かを頼まれたか) 頼まれたのだとしたら、一体何を。 ぽてぽてと幼子と仔猫の小さな足跡が積もった埃の上に落ちて行く。 法師に望まれるものは一般的に降魔調伏。 珊瑚にしても妖怪退治の専門家だ。 ならば、と思うが此の屋敷には不穏な妖気は感じられない。 隣を静かに歩くかごめが感じていないのなら尚更だ。 かごめの視る力は相当の巫力を授かった者が生まれながらに与えられているもの。 例えば、彼の巫女と同じように。 (思い過ごし、か…?) 用心深く周りの気配を探るが、矢張り障りと成るようなものは感じられない。 だが、何かが引っ掛かる。 女の勘と言うのだろうか、弥勒が殊勝な面持ちをしているときは良くないことが起こる。 添うして其れは、彼がひとりで抱え込もうとしているときだ。 珊瑚は弥勒の優しさや強さを知る度に、彼を遠くに感じる。 彼が何を想っているのか分からない、其れを知りたい。 どうしようもなく不安で堪らなくなる。 「…法師様、何を考えてるんだろ」 溜息と共に零れた言の葉に、かごめは顔を上げた。 「珊瑚ちゃん?」 「御免、此っちの話」 何でもないと珊瑚は首を振る。 思い悩んでいても仕方が無い、訊ねたところではぐらかされるに決まっているのだ。 連れの少女や幼子まで不安にさせてはならないと、珊瑚は気丈に振舞った。 彼女が時折見せる物憂げな表情にかごめは同性で在りながら鼓動が早くなる。 彼女自身は気にも留めていないのだろうが、珊瑚は美しい。 凛々しい立ち居振る舞いや言動が、異性にも同性にも好ましく思われるのだろう。 彼女の美しさは姿形だけではなく、真っ直ぐな心根の表れからも見て取れる。 整った横顔に見惚れながら、かごめは深々と溜息を吐き出した。 「珊瑚ちゃんが男だったら、絶対私珊瑚ちゃんに惚れるのになあ。一途だし」 「なあに、其れ」 珊瑚は本気とも冗談とも取れない少女の台詞に苦笑する。 弥勒が羨ましいと嘯くかごめに、彼女は目を伏せた。 「其れでもきっと、かごめちゃんは最後に犬夜叉を選ぶんだろうね」 どんなに他のヒトが良いと口にしても彼女の心は其処には無い。 本当の想いはずっとひとところに留まり続けている。 実は珊瑚とて、他の誰かを好きになってくれた方がどんなに良いかと何度口にしそうになったか分からない。 あんな優柔不断な妖かしは止めておけと、一体幾度。 ぶつかって、挫けて、立ち上がって、涙して、悪循環ではないのかと。 友とする少女が無理矢理に感情を押し殺して我慢する姿など、見たくはないのだ。 何故彼女が泣かねばならない、遠慮せねばならない。 彼の巫女を憎いと思ったことは無いのだから、自然矛先は犬夜叉に向かう。 そもそもの現況はあの妖かしに在るのだと信じて疑わない。 疑えない。 事実、かごめが涙する要因はいちいち犬夜叉に在るのだから。 けれど、結局かごめは選ぶのだ。 どんなに傷付いて、涙を流しても、犬夜叉を選んでしまうのだ。 井戸の向こうに在ると言う国に帰って、此方に戻らない道も有る筈にも関わらず。 珊瑚には其れがもどかしくて、歯痒くて仕方が無い。 「うん、多分ね」 かごめは苦笑するでもなく、穏やかに肯定した。 添ういうヒトを好きに成ってしまったのだから仕方が無いのだと、 諦めている部分が無きにしも有らずだったのかもしれない。 心は何時でも正直だ。 犬夜叉のヒトと成りが如何在ろうと、彼を如何否定しようと、心だけは求めている。 彼で無ければ成らないのだと、叫んでいる。 「そろそろ陽も暮れるし、夕餉を作って暖を取らなきゃね」 陽が傾き掛けた空の端は既に茜色に染まりつつ在る。 囲炉裏端を探そうと踵を返した珊瑚の足元を、七宝と雲母がちょろりと走り抜けた。 幼子はくるりと振り返ると嬉しそうに目を輝かせる。 「旨そうな匂いがするぞ」 え、と珊瑚とかごめは首を傾げた。 言われてみれば、確かに汁物の匂いと火の爆ぜる感覚がする。 女性陣は此処に二人共居る、男性陣は器用だと言っても早々と夕餉の支度を始めるとは到底思えない。 若しや、誰ぞ村の人間が食事を届けてくれたのだろうか。 だとしたら納得が行く。 「待って、七宝ちゃん」 かごめは既に居なくなってしまった幼子達を慌てて追い掛けた。 珊瑚も後を追おうとしたが、ふと目の端に映ったものに何故か足を止めてしまう。 「…札?」 柱に辛うじて貼り付いている紙切れが、珊瑚が動く度に生じる風にひらひらと靡いている。 草臥れ、黄ばんでしまった札は切れ切れで何が書いてあるのか全容は分からない。 書かれているものが見えたとしても、珊瑚には恐らく読めない部類の文字だ。 幾つかの漢字のようなものが組み合わされ、 一番上には左に『日』、右に『王』が横並びに成っている。 其の下を一文字の線が走り、右端で折り返され更に左端まで行くと下へ伸びて、 伸びた線の内側には『肉』に似た文字の右横真下に其々又『日』が配置されていた。 矢張り、珊瑚に読める代物では無さそうだ。 札ならば生まれて幾つも見てきた。 だが其れは家内安全を願うものとは全く違う気がしてならない。 後で弥勒にでも訊ねてみようと、珊瑚はかごめ達に追い付くべく夕餉の香りを頼りに囲炉裏端へと向かった。 薄暗い簀子で柱に辛うじて貼り付いていた札がはらりと剥がれ落ちる。 乾いた音を立てて落ちた其の上にぱたぱたと幾つもの雫が降り注ぐ。 暗がりでは分かる筈も無かったが其れは、紛うことなく深い紅を宿していた。 壱 * 戻 * 参 |