真に奇しは、心のうつし。
想うところと違うもの。
違うと想っていたところ。



常世の廻りは、何時も同じに。






ふぅ、と小さく息を吐き、紫の袈裟を纏った法師は誰にとも無く呟いた。
「さて、今日は野宿ですか」
法師にあるまじき髪は後ろでちょん、と結われている。
数珠を巻きつけた片腕を伸ばし、背伸びをした。
ふと、木の陰に紅い衣が翻る。
呆れを交えた声で、彼は影を叱責した。
「犬夜叉、お前も少しは手伝いなさい」
一歩踏み出し、衣を認めた場所を振り返る。
だが、その目線の先には木の皮が目に入るばかり。
上に登ったかと顔を上げたが、木々の葉がざわめいただけだった。
逃げたかと思い、嘆息して視線を落とす。
「い」
声にならぬ声が漏れた。
目を丸くして立ち尽くす有髪僧を、怪訝な目で少女二人が見やる。
足元では、子狐ともヒトとも言えぬ容貌の幼子が猫と戯れていた。
「どうしたの、弥勒様」
簡単な夕餉の支度をしていた少女達は、彼の視線を辿った。
見えたのは、紅い衣、銀の髪。
幼い、手足。
「犬夜叉が縮んだ!」
「んなわけねーだろっ!」
即座に、踏みつけられる感がして、声の主を見上げた。
否、間違いなく踏みつけられている。
肩に木切れを担ぎ、不機嫌そうに見下ろす黄金の瞳。
禁色の袍に映える銀の髪、獣の耳。
口を開けば、牙が見える。
弥勒が腕に抱いている子どもと、瓜二つの相貌だった。
「何、この子?」
恐る恐る、異国の出で立ちをした少女が法師の腕の中を覗いた。
きょとんとした顔で、首を傾げる幼子。
けれど何処か、危い儚さを漂わせるような幼子だと感じたのは気のせいだろうか。
「犬夜叉そっくり」
獣の耳と同じそれを、ぴくり、と動かす。
胡乱げに向けられた視線は、禁色の袍を纏う少年へ。
「矢っ張り…隠し子」
仲良く声を揃えて、ゆったりとした唐衣を思わせる着物の少女と法師が口を開く。
「何だ、『矢っ張り』って!」
むっつりと睨み返したが、彼等は気にもせずに溜息を吐いた。
瞬間、法師は何かに気付いたように少女の手を取り、真剣に見つめる。
「珊瑚」
「何さ」
珊瑚は毎度のことに慣れた様子で、問い返した。
はっきり言って、彼がこのような時に吐く台詞は、ロクなものが無い。
「犬夜叉に先を越されたとあれば、私達も」
微かに目を見開き、彼の呼び名を呟いた。
「法師様」
そ、と弥勒の手に重ねられる白い手。
見つめ返される視線。


「奈落を倒したらって約束、だ・っ・た・よ・ね?」


珊瑚は思いっきり、彼の手の甲を抓り上げた。
「はい…」
「阿呆じゃ」
そんな彼等の様子を、子狐は半眼で眺めていた。
ふぅ、と息を吐き、くるりと犬夜叉に向き直る。
器用に彼の肩に登ると、彼そっくりな幼子を見下ろした。
目が合うと、不思議そうに瞬きを繰り返す。
「かごめと桔梗以外にも、女が居ったか」
盛大に、隠すこともせずに溜息を吐く幼子に、
彼は遠慮なく拳を振り下ろす。
鈍い音が響いた。
「誤解を招くような言い方をすんな、七宝」
ちょこんと座り込んでいる幼子の前に、かごめが屈む。
「じゃあ、この子何?」
「お前も思いっきり疑ってるだろ」
こちらを見向きもしない彼女の背中は、何処か恐ろしい気がしないでもない。
半ばうろたえながらも、犬夜叉は口を開いた。
「考えてみろ」
身に憶えが無い上に、あらぬ疑いをかけらてはたまらない。
「俺の封印が解けたのはほんの数ヶ月前だぞ。計算が合わねぇだろうが!」
「お前、計算が出来たのか」
「喧しいっ」
横から法師の冷やかしを受けながら、犬夜叉は唸る。
半分どころか、弥勒が殆ど本気で呟いたというのは、
彼の自尊心の為にも織らない振りをしておこう。
「ねぇ。お前、名前は?」
埒があかないと考えたのか、珊瑚は幼子に問うた。
「なま、え」
質問が、たどたどしい発音で反芻される。
少しの間を置いて、幼子は答えた。
「『いぬやしゃ』」
「え…?」
聞き覚えのある名前に、彼女達は振り返る。
視線の先の少年は不機嫌露に、幼子の頭を押さえつけた。
「ざけんなよ、ガキ。『犬夜叉』は俺だ!」
彼の手を抑えながら、かごめは宥める。
「同じ名前のヒトくらい、居るかもしれないじゃない」
「珍しい名前だと思いますぞ」
彼の台詞に淡く笑いながら、幼子は首を傾げて同意した。
「ねぇ?」
ふと、幼子はじ、とかごめを見上げる。
その視線に気付くと、彼女は幼子の頭を撫でた。
「ん?何?」
にこりと笑うと、微笑み返す。
子ども特有の笑顔とは、どこか違和感を憶えた。
だが、それを違和感と感じる前に、幼子はかごめに抱き付いた。
あ、と弥勒と珊瑚が漏らし、犬夜叉は声も無く戦慄いている。
「あったかい。母上と同じ」
子どもに懐かれるのは嫌いではない。
寧ろ、嬉しいくらいだ。
嬉しいのでは、あるが。
「えっと、あの…」
けれどうろたえたのは、きっと、この幼子が連れの少年に瓜二つであるから。
仲間の幼子を抱き締めたり、頬を摺り寄せたりするのとは訳が違う気がした。
抱き付かれたままに、如何すれば良いのか考えあぐねている少女を、
幼子は不安そうに見上げる。



「いぬやしゃのこと、嫌い?」



え、と漏らして、ゆるゆると首を振る。



「好き、よ」



思わず零れた台詞に、かごめの顔は真っ赤に染まる。
反射的に、後ろに立っていた少年に向かって叫んだ。
「べっ、別にあんたに言ったわけじゃないからね?!」
「わ、分かってらぁ!!」
こちらでも顔を紅く染めた少年が、そっぽを向いていた。
忙しなく、頭を掻き回す。
夕焼けの所為でもなく、頬を染めた二人を見比べ、
幼子はふわりと微笑んだ。
「いぬやしゃも、『いといとほし』」
ぴくり、と頭を掻き回していた腕を止める。
困惑、とも取れる瞳を揺らし、犬夜叉はかごめの抱いた幼子を見つめた。
「…お前」
『イトイトホシ』の意味が分からず、かごめは首を傾げていたが、
それも目に入らず、彼の脳裏には懐かしい声が蘇って来る。





―――母も、犬夜叉のこと『いといとほし』、よ





とても、懐かしく暖かい声、が。



響き、染み渡る。



穴が開くほど見つめていたのだろうか。
かごめが不思議そうに犬夜叉を見やっていた。
「犬夜叉?」
彼女の呼び声で我に返ると、くるりと背を向けた。
突き放すように、吐き捨てる。
「何でもねぇ」
そのまま、森の奥へと入って行った。
暫し、彼等は呆然と彼の後を見やっていた。
分かりやすい性格であるからこそ、大まかな部分しか見えない。
そうして、見えているもの全てが、真実だとは思わない。
触れてはならない場所がある。
消えない傷もある。
織っているからこそ、織らない振りをした。
見せようとしない傷を、癒すことはできない。
それは思い上がりであり、傲慢なのかもしれないけれど。
「あっ」
不意に、かごめの腕を離れた幼子が、彼の後を追うように駆けて行った。
「付いて行っちゃった」
微かに残る温もりを確かめるように、今まで居た腕の中を見下ろす。
何時の間にか木切れに火を点け、野宿の支度をしていた法師に珊瑚は問い掛けた。
「良いの?法師様」
パキリ、と木切れを折り、火の中に放り込む。
じわじわと炎が皮を燃やし、芯へと纏わりついた。
「ま、多分アイツが原因でしょうから、放っておきましょう」
肩に立てかけた錫杖の輪がしゃらりと鳴る。
途中にしていた野営の支度に戻りながら、彼女は上から法師を覗き込んだ。
「やっぱ、アレって犬夜叉の子どもの頃だったりする訳?」
「恐らくは」
見上げて、小さく頷く。
遠くを眺めながら、溜息を吐いた。
「どこをどう、間違ったんだろ…」
「面影すら無かったぞ、性格の」
うんうん、と腕を組んで七宝は頷く。
ただ、かごめだけは幼子の呟きに、その微笑みに、不安を憶えていた。
何が如何、では無い。
如何もしていないのに、何故、こんなにも不安が押し寄せるのだろう。
理由が無いことに、更に不安が募る。
「あたしも行ってくる」
居ても立っても居られずに、かごめは立ち上がり、彼等の後を追った。
付いて行くのも野暮である。
弥勒はひらひらと手を振った。
「お気をつけて」
彼女が頷くのを確認すると、彼等は暮れ行く空を見上げながら、野営の支度を急いだ。





踏み付ける葉が、ささ、と音を立てる。
たた、と急ぎ足音が耳に届いた。
こちらが速度を速めれば、あちらも早足になる。
「何だよ」
煩わしげに立ち止まり、振り返った。
生き写しの幼子は、息を切らした様子も無く、ぱちくりと瞳を瞬かせた。
「いぬやしゃ」
的外れな回答に、苛立ちが一層強くなる。
「そうじゃなくて!何で付いて来るんだって言ってんだよ!!」
訳も分からず、募るだけの苛々を幼子にぶつけた。
普通の幼子ならば、泣くなり、逃げるなりするであろうに。
目の前の幼子は逃げるどころか、彼に歩み寄った。
けれど、幼子がそれらの負の感情を全て受け入れることを織っていた。
ぶつけられる感情を当たり前なのだと、思っていることも。
「サミシイ、から」
強く睨むと、二、三歩離れた場所で立ち止まり、見上げた。
抑揚が在るのか無いのか分からない声音。
「誰が」
「いぬやしゃ」
「どっちの」
「いぬやしゃは、ひとり」
見開かれた両目は、ただ、幼子を映す。
ぞくりと、肌が粟立った。
「うれしい?」
「あ?」
幼子の発する台詞に、彼は眉を顰めた。
「たのしい?」
「何、言ってんだ?」
重ねて問う声。
高い、子ども特有の声。
何もかもが耳障りだ。
「大丈夫、よ?」
小首を傾げて微笑む幼子を、腕を横に振って拒絶した。
大声で叫ぶ。
「何が、言いたいっ!」
張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。
後は、雪崩れるだけだった。
関を切ったように、溢れる。
「要らねぇんだよ、目障りなんだよ!!失せろ!!」
じっと、黙って彼の台詞を受け止める幼子は、
子どもらしさとはかけ離れていた。
何時だったか、幼子を『子どもらしくない子どもだった』と言った者が居た。
それは、言い得て妙だったのかもしれない。
彼はそれを織らないけれど。
「俺は、お前なんか要らねぇ!!」
幼子の胸倉を掴み、持ち上げる。
だらりと下がった四肢は、抵抗すら見せない。
「お前が居たから、お袋は…っ」
静かに見つめる瞳は、何も語らない。
俯いてしまった犬夜叉の瞳にも、その色は映らない。
「俺が、居たから」
搾り出すように呟かれた台詞は、忌々しげに歯噛みされる。
上目使いに垣間見た幼子は、微笑んでいた。
「…何で、微笑ってんだよ」
睨みつけても、怒鳴っても、幼子は何も言わない。
言うことを織らない。
そう。



『あの頃』は、在ることこそが罪だと思っていたのだから。



小さな手が、そ、と犬夜叉の手に触れた。
びくりと震えたのが、自分でも分かる。
「いたいのも、うれしいのも、全部、いぬやしゃ」
腕の力が緩んだのか、とす、と足元に幼子は落ちた。
土を叩いて、ゆっくりと立ち上がる。
「嫌わないで。怖がらないで。逃げては、駄目」
彼の足へとしがみ付くように、抱き付いた。




「大丈夫。いぬやしゃ、ひとりじゃないよ」




声が声にならぬまま、犬夜叉が手を伸ばした瞬間、
その姿は溶け行く霧のようにして消えた。
手の中に違和感を感じ、開いてみる。
暗がりでも見える、仄かに光を放つ琥珀色の石がそこに在った。
「…石?」
呟くと、耳元で老人染みた声がした。
「此れは正しく、『共鳴石』」
「冥加」
何時の間に、とは思ったが、それも何時ものことなので、
わざわざ問いかけようとはしなかった。
肩口に移動して、ふむ、と唸る。
「『うつしのかけら』とも言いましてな。心の『うつし』となる石なのです」
うつし、と呟き、彼は冥加を見やった。
「どっちの『うつし』だ」
侍従は目を伏せ、小さく首を振った。
ゆっくりと瞼を上げると、二、三度瞬きをする。
「鏡の『映し』とも、真の『現』とも。どちらが真か、それともどちらでもないのかも、今となっては分かりません」
見たことが在ったのだろうか。
誰かの、もしくは己の『うつし』を垣間見たのだろうか。
「己でも気付かぬ、心の奥底を見せるのです」
そう言った後、押し黙った彼に、問い掛けることは出来なかった。
嘆息して、犬夜叉は石を握り潰す。
「悪趣味、だな」
ざらりとした感触が手の中に残り、開くとさらさらと風に乗って舞い散った。
夜の帳が降りてくる。
薄暗くなってしまった森の中で、石砂がきらきらと光を放ちながら、消えた。
少し離れた場所に人影を感じた冥加は、何も言わずに目を伏せて立ち去る。
暗くなった足元では、その小さな姿を追うことも出来なかった。
近付いて繰る足音の主は、見なくとも匂いで分かる。
けれど、自分から声をかけるのは躊躇われた。
「犬夜叉」
彼を見つけ、安心したように名を呼ぶ。
かごめは辺りを見回すとあれ、と漏らした。
駆け寄り、犬夜叉の顔を覗き込んだ。
「あの子は?」
はっきりとは覗えない顔を背け、短く答える。
「織らねぇ。消えた」
消えたのではない。
正しくは戻ったのかもしれない。
思ったけれど、口にするのが憚られて言わなかった。
何処か情けない気がした。
「ふぅん?」
尋ね返しても、恐らくそれ以上答えてはくれないだろう。
意地っ張りな彼の性格を織っている彼女は、仕方が無いなぁと背を向けた。
戻ろう、と言いかけたが、犬夜叉の台詞がそれを遮る。




「…ひとりじゃないから、怖いんだよ」




囁きにも似た声に、かごめは振り返った。
「え?」
思うよりも先に、体の力がすぅっと抜ける。
後ろから抱きすくめられ、一瞬思考回路が停止する。
状況把握すると同時に、彼女の顔は真っ赤に染まった。
「ちょ、なっ、犬夜叉?!」
うろたえて彼を見やるが、肩口に額を押し付けられて、表情は見えない。
心なしか、抱き締める力が強くなる。
抱き締めると言うよりも、幼子が母に甘えるようだと言った方がしっくりきた。
振り解くことは出来なかった。
かごめもまた、その温もりに甘えたかったのかもしれない。
「如何か、した?」
常とは違う彼の雰囲気に、自然、心は落ち着いていった。
首を傾け、彼の頭に自分のそれをこつんと当てる。
「如何も、してない」
目を閉じて、くすりと微笑う。
子ども染みた仕草が、愛おしくてたまらなかった。
「そう」
夜の帳が降りきった。
空には星屑が鏤められ、きらきらしく瞬いていた。







END



あとがき。
明るくと務めてはいるのですが、何でこう、シリアスになるのか。
最近は諦めモード突入。
後ろから、甘えるみたいにぎゅ、ってするのが好きです。
素直に甘える犬夜叉が可愛いと思うのですが?(笑)

ブラウザの戻るでおもどりください