どうにもならないもどかしさ。
貴方の声は届かない。
貴方に声が届かない。



声が、聞えない。



Explosion






もう、どのくらい経っただろうか。
時間の感覚すら失われていることに、彼は苦笑した。
じん、と悴む両手足は、思うように動いてはくれないらしい。
小さく舌打ちをすると、諦めたのか、その場に腰を下ろした。
辺りは白い闇に閉ざされており、一寸先すら危ういほどに視覚を奪われている。
露に濡れた草が、墨染めの衣にじわり、と染み込んだ。
吐く息は白く、気温が低いことなどとうに理解していた。
「何だってんだ…」
幾分、男子にしては高めの声音は、掠れる様な呟きを伴う。
金糸の髪は、霧の欠片にて湿り、重みを増した。
瞬きを繰り返す紫暗の瞳を覆う睫にすら、雫が落ちている。
忌々しげに拳を、膝の上で握った。
火を起こす気にもならない。
多少なりとも明るいので、そこまで陽は落ちていないはずだ。
それでも、確実に冷え込んでいく大気は、昼の終わりを告げていた。
育った金山寺を出て、一体どれほど経っただろう。
それなりに新しかった僧服は裾が綻び、所々生地が薄くなっている。
洗濯など滅多にしない為、不衛生極まりない。
露を凌ぐ笠を取り、彼はため息をついた。
「こういう、時は」
少年は、今まで学んできたものの記憶回路を総動員して、頭を回転させる。
『良いですか、江流』
聞き覚えのある声を思い出す。
『深い霧のかかった場所では、無闇に動き回ってはいけません』
のほほん、と呑気な口調は、いつ何時も変わらない。
そう、例え。





己が死の、間際であったとしても。





同時に思い出される、今際の際。
夥しい血痕が、脳裏を埋め尽くす。
一瞬、吐き気を覚えたが、どうにか抑えた。
知識を探ることに、集中する。
「『朝が来るまで、暖を取る』…だったか」
口にしてみたところで、この状況の打破は難しいようだ。
手近な枝を手にしてみたが、湿っていて、お世辞にも使えるとは思えない。
『大量の紙と火でもあれば、一番手っ取り早いんですけどね』
「そんなもの、いつも持ち歩けって言うんですか。お師匠様」
ふ、と漏れた笑みに気付き、彼はすぐに口を閉じた。
視線を泳がせ、片膝を寄せる。
額を、ぐ、と押し付けた。
「何言ってるんだ、俺は」
精神的にヤられたか、と己の失態に苦笑した。
段々と、薄暗さが増していく情景は寒くもあり、寂しくもあり、恐ろしくもあった。
『紙』を思い出し、背中に意識を巡らせる。
「いっそのこと、燃やしちまうか」
本来ならば、その両肩に掛けなければならない『三蔵法師』としての証。
『魔天経文』は彼の背で、布に包まれたままである。
勿論、『天地開元経典』と呼ばれる内の1つである経文が、
炎などに呑まれるとは到底思えない。
だからこそ、思う。
何故、あの時失われたのが、己が師ではなく、経文では無かったのか、と。
全ては必然の内に、進んだ。
抵抗することも無く、彼は身を委ねた。
彼ほどの法力を持つものが、不意打ちを食らったくらいで屈するとは思えなかった。
彼には何かが、見えているように思えた。
見えないところで、何かが、己の織らぬ何かと繋がっているような気がした。
それは、厳粛な取り決めであるかに思え、その実、一種の賭け、ゲームにも思えた。
彼が儚くなった今では、織る術もない。
「何で…っ」
少年は低く唸り、奥歯を噛み締めた。




―――こんなにも、重たいんだ




ずしり、と背中に重みを感じる。
決してそれ自身の重さではなく、『三蔵』としての役割に対する重さ。
筋が悲鳴を上げ、骨が軋む。
切り裂いてくれた方がどんなにマシか。
己には、師匠のように笑うなど出来ない。
小さな肩に背負うには、余りに過ぎた重責。



『泣いちゃいなさい』



ふ、と彼は顔を上げた。
心臓を鷲掴みにされる感覚。
雫が、木々の葉から1つ落ちた。
『は?』
『そこまでやって、どうにもならない時は、思いっきり泣いちゃうんですよ』
すっきりしますよ、と事も無げに言い放つ。
『泣いたら、その分、体力減るじゃないですか』
何を言っているのか、そう思って胡散臭げに彼を見た。
ハッキリ言って、利口ではない上に、稚拙で情けない。
『気分は楽になるでしょう?』
呆れて嘆息する。
軽く眩暈すら覚えた。
『なってどうするんですか』
『気を持ち直したら、前向きになりますよ』
空の煙管で、肩を軽く叩きながらくすくすと笑う。
子どもの雰囲気を思い出させる空気は、彼にしっくりと馴染んでいた。
『つまり、助かる助からないは気の持ちよう』
顔をこちらに向けて、微笑む。
『だと、思いません?』
彼の言うことも一理あるが、かと言って、納得するには聊か無理がある気もする。
少年は、ぽつりと呟いた。
『…如何とも』
『あ、冷たい』
火鉢から取って来た火を煙管に入れて、ふ、と息を吹き込んだ。
耐えきれなくなったのか、少年が声を大にして叫ぶ。
『大体、お師匠様はモノ教える気あるんですか!』
縁側に腰掛けたままで煙草をふかす彼に背を向けて、
滞っていた庭掃除を再開した。
ざざ、と土を掃く乾いた音が響く。
『酷いですねぇ。こんなにも江流を想っているのに』
くるりと振り返ると、ぶっきらぼうに噛み付いた。
『どこら辺がですか』
『ここら辺が』
己を指差し、にっこりと笑う。
本気で頭痛が襲い、少年は箒を引き摺りながら庭を去ろうとした。
『…本堂の清掃当番なので、失礼します』
誰に言うでもなく、彼はぽつりと零した。




『お前は、泣いても良いのに泣かないから』




すぅっと、肺腑の奥まで煙を吸い込む。
微かに、舌に苦味が残った。
『誰も言わないなら、私が言うしかないじゃないですか』
箒を握る力に、力が篭る。
手の平が熱を帯びる。
『俺は、泣いたりしません』
顔を背け、背を向けたまま、少年は目を閉じた。
ゆっくりと、静かに言の葉を紡ぐ。
冷静でいて、何処か凍てついた感のする言の葉。
じゃあ、と光明は煙管を口から離した。
白い煙が、ほわんと浮かぶ。




『私が死んだ時くらいは、泣いて下さいね』




彼が、一瞬息を呑んだのが分かった。
想像するのも厭うことを織っていながら。




『考えて、おきます』





織っていたのに、言葉にしたのは、
彼に泣いて欲しいと思ったから。







『あとは任せましたよ、『玄奘三蔵』』







何ひとつ、語られることは無かったけれど。






寒い。
芯まで凍えて、痛みすら感じてきた。
思い出しても、何も変わらないのに。
思い出したところで、声が届くはずなどないのに。
声が、聞きたい。
「……っ」
父の温もりは、いつでもそこにあって、それが当然だと思っていた。
果てる日など、まだずっと先のことだと思っていた。
何が、『三蔵法師』だ。
何が、『魔天経文』だ。
こんな年端も行かぬクソガキに、何が出来ると言うのだ。
事実、何も出来なかったではないか。
どうにもならないもどかしさしか、ここには残っていないではないか。


『泣いちゃいなさい』


師の言葉が、追い討ちをかけるように囁いた。
聞えれば聞えるほど、意地になって必死に堪えた。
熱いものが込み上げてくる。
泣かない、泣くもんか。
どんなに強く思っても、歯痒くて、癇癪を起こしたい衝動には劣っていた。
「…ってェ」
小さく呟かれた言葉が、音を立てて関を崩した。
「重てぇんだよ!足も痛ぇし、腕だって動かねぇ!霧は出てくるわ、寒いわ、陽は沈むわ、挙句の果てには走馬灯まで見えるわ!!」
一気に捲くし立てて、彼は肩で息をした。
収まりのつかない感情と呼吸が、静寂を揺らす。
「何だってんだよ、畜生…っ」
力任せに、寄りかかっていた木を殴りつける。
痛むのは己の拳だ。
ざり、と木の皮を擦ると、指の関節が紅く染まり、うっすらと血を滲ませた。
「一番ムカツクのは、俺だって…分かってん、のに」
どんなに歯を食いしばっても、抑えられるのは嗚咽だけ。
頬を流れる雫は、留まらない。
「…痛ぇ」
無造作に倒れこむと、地面に頬が触れた。
土臭さが鼻をつく。
けれど、乾いた土は彼の体には温かく感じた。
「何故俺なんかを、選ばれたのですか」
流れる涙そのままに、彼は目を閉じ、体を丸めた。
何と無力なのだろう。
何と、情けない姿なのだろう。
今はまだ、『三蔵法師』は名乗れない。
かと言って、『江流』にも戻れない。
中途半端な身の上に、苛立ちは募るばかり。
「お師匠、様」
己で己を抱き締め、寒い夜に凍えた。
眠りに落ちれば、暗闇が否応なしに襲ってくる。
身を休める為に眠るのではない。
己を戒める為に眠るのだ。
幾度、悪夢に魘されようとも、
この現世に留めおく鎖ならば、喜んで受け入れよう。




夜は未だ明けず、陽は廻り来る。







END

あとがき。
大爆発最高僧。
誰もいないから、無性に叫びたくなったり、癇癪起こしたくなるわけですよ。
でも、結局情けなくて腹がたつのは自分だから、何にも当たることが出来ない。
だって、まだ子どもだったんですよ?旅に出た時は。
ヒステリー起こす事だってあるさぁ(笑)、と思って書いたシロモノ。
何で『プラスチック爆弾』かというと、
お手軽だけど、危なっかしいみたいな雰囲気で。
泣くこと自体はとても簡単だけど、
泣いてしまえば、今まで張っていた虚勢が音を立てて崩れてしまうのが怖い。
爆発の危険性のあるもの。
抱え込んでいる気持ちは、まるでそれと酷似している気がするのです。

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