『もし、生まれ変わったら強いヒトになりたいわ』 『強い?』 『そう、例えば…やっぱり生まれ変わった貴方と出会った瞬間に、その首に刃を突きつけられるくらい』 『…それは強いと言うよりも凶暴と言わないか』 『あら、貴方達と張り合うなら元気過ぎるくらいが丁度良いでしょう?』 |
moon child |
失敗した。 確かに敵の来襲があんな崖っぷちだったとしても、 足場くらいは確認して然るべきだったのだ。 歩けるところを見ると骨に異常は無いようだったが、 霧の深い森から頭上を見上げても落ちて来た場所が見えない。 視界を遮る霧を差し引いても、かなりの高さだったろう。 じっとしていて仲間の助けを待つのも情けない。 そもそも、助けて貰おうなどと言う腹は無かった。 痛みの治まらない足を引き摺りながら、青年は土壁に手を付いて立ち上がる。 呼吸がし辛い。どうやら腹部か胸部辺りも強かに打ち付けたようだ。 舌打ちをすると、彼は適当な方角へと歩き出す。 陽はまだ高かったはずだ。 気候も肌寒さは感じるものの、それ程厳しいものではない。 非常に勘の良い野生児もあちらにはいることだし、 どうにかすれば合流出来るだろう。 「……?」 ふと、青年は顔を上げた。 (水の音?) 川のせせらぎではなく、滝の流れ落ちる音でもなく、作為的な水音。 ぱしゃん、ともう1度聞こえた。 やはり気のせいではない。 動物かもしれないが、水場があるのは確かだ。 罷り間違えて熊でも出ても敵意がないのなら刺激しないか、 懐の短銃で眉間を撃ち抜けば済む。 重たい足を引き摺りながら、彼は水音へと向かった。 生い茂った木々のお陰か、空気が濃いのに気付いた青年は微かに眉を顰めた。 息苦しいことはない。 無いのだが、どうにも不自然だった。 (ここは、おかしい) しかしながら、果たして今現在立っている場所が現実であると誰が証明出来ると言うのか。 彼は自嘲気味に口元を歪めた。 立ち込めていた霧が一瞬晴れ、急に視界が拓ける。 足音しか届かなかった青年の耳へと水音が響いた。 (…女?) 確かに女だった。 否、少女と呼ぶべきか。 深い藍の長い髪、行水だろうか白い単を纏って湖に腰まで浸かっている少女は、 両手を組み、水面に浮かぶ月へと祈りを捧げているようであった。 「月、だと…?」 青年は思わず呟いてしまう。 陽はまだ高かったはずで、事実周りは霧に遮られているものの真っ暗闇とは程遠い。 なのに湖には確かに月が浮かんでいる。 空へと視線を廻らせたが、おかしなことにそこにはあるべきものが無かった。 夜闇を照らし出す月は空に無い、けれど水面に映る月は在る。 昼間の月は真白であるはずなのに、はっきりと湖に浮かぶ月は宵闇のそれだ。 ぞわりと肌が粟立つ。 青年が息を呑むのが速かったのか、それとも少女が動くのが速かったのか。 どちらか判断付きかねたが気付いたときには少女の姿は湖から忽然と消えていた。 反射的に動いた身体へ鋭い痛みが脳天まで走る。 咄嗟に身体が動かなかったのは足の怪我の所為か、それとも。 「誰だ、貴様」 喉元に突きつけられたのは懐剣。 「答えろ」 それはまるで、射抜くような眼差し。 三蔵は怪我の所為もあって1歩も動けずに息を呑んだ。 果たして同じ年頃の女がこんな目をするものだろうか。 ぽたぽたと少女の身体や髪から水が滴ることから、 やはり彼女が先程まで湖の中にいたのは明白だった。 微かに透けた単も乱れた裾も気にすること無く、少女の瑠璃色の眼差しは青年を射抜く。 少しばかりの距離がある湖からこちらへ、少女は一足飛びに駆けたと言うのか。 慌てる様子も見せず、彼は少女の身体能力の高さに仲間のひとりを思い出した。 「待って!」 不意に右脇から響いた高い声に青年と少女は瞳だけをそちら側へと動かした。 それでも少女の懐剣を突き付ける力は緩まないことに青年は軽く感嘆する。 「お願いよ、待って頂戴、セイヤ!」 引き摺るような衣を纏った少女が慌てた様子で息を切らして駆け寄って来るのを確認して、 セイヤは諦めたように青年を拘束していた剣を引き離した。 解放された青年は訝しげに駆けて来た少女を見やる。 身体を折っても尚息が整わない少女に、セイヤは膝を折って背を擦った。 「このような場所へ供人も連れず、おひとりでは危険だと何度も」 「えぇそうね、分かってる。何度も聴いたわ、セイヤ。でも、お小言は後にして」 漸く落ち着いたのか、少女は背筋を伸ばして青年へと向き直った。 茜色と黄金色を混ぜたようなふわりとした髪に、濃い桃の瞳。 セイヤとは正反対の雰囲気を持った少女だった。 淡い微笑みを宿し、少女は膝を付いて彼を見上げる。 「失礼致しました。私は月龍の巫女、チョウオ」 纏う衣は少しばかり風変わりであったが、よくよく見れば確かに巫女のそれだった。 結い上げた髪に飾った簪がしゃらりと揺れる。 淡い紅を差した唇が凛とした音を響かせた。 「セイヤの粗相をどうぞお赦し下さいませ、玄奘三蔵法師様」 零れるような金糸の髪に、深く澄んだ紫暗の瞳。 白い法衣と両肩に掛けられた経文、額に抱く真紅の印は神に最も近き者の証。 青年――玄奘三蔵法師は朝煌と名乗る少女への疑心を拭えないまま、 月龍の里へと案内する小さな背を追うしかなかった。 道の両脇に添え付けられた灯篭が、 里の中央の建物――恐らくは社殿のようなものだろう――へと続く石畳を照らす。 灯篭が並び始めた最初には龍を模した門が構えられていて、 壁ではなく、紅い格子のようなものが建物をぐるりと取り囲んでいる。 丈夫とはお世辞にも言い難い格子からは微かに結界の氣の流れを感じた。 なるほど、と三蔵は納得する。どうやら余程力が強い者があるらしい。 門番や門扉が無かったことを考えれば鳥居のようなものなのだろうと推測出来た。 茜色に染まった空が霧越しに薄らと窺え、陽も落ちかけているのだと分かる。 浮かび上がる橙が幻想的に彼らの姿を形作る。 明かりが灯った民家もここへ来るまでに幾つもあったが、 時間帯の所為だろう、ヒトと出会うことはなかった。 「全く、貴女というヒトは。格好を見れば、法師様だと言うことくらい分かるでしょう?」 「法師の格好をした不逞の輩がいないとどうして言い切れます」 「もう、貴女は少し神経質になり過ぎよ」 「考えナシの巫女様にはそれくらいが丁度宜しいでしょう」 彼は目の前で会話を続行する少女達を無言で眺める。 静かな夜と書いて『静夜』。 煌らかな朝と書いて『朝煌』。 少女たちはそう、名乗った。 名は命、そこに籠められたものもまた何かしら意味があるのだろう。 朝煌は巫女であるのなら尚更だ。 暫くして大きな格子戸へ辿り着くと両脇に控えていた男が目礼をし、矛を立てる。 静夜が進み出、ゆっくりと扉を押し開いた。 「三蔵!」 中から漏れ出した光と共に、聴き慣れた声が飛び出す。 栗色の髪をした少年が大きな目を輝かせて、三蔵に向かって走って来た。 「良かったぁ、マジ探したんだからな!」 「頼んでねぇよ、莫迦猿」 感謝する素振りも見せない三蔵に呆れた様子で濃い茶髪にモノクルを掛けた翠眼の青年が苦笑する。 「まぁまぁ、貴方を悟空も心配していたんですから」 「言ったって無駄だって、八戒。この三蔵様が『助かった、礼を言う』なんて言ったら天変地異の前触れよ?」 「悟浄、その面風通しを良くしてやろうか?」 ガチャリ、と不似合いな音を伴った銀色の短銃が紅い髪と瞳をした青年へと向けられる。 「冗談デース」 ひらひらと両手を挙げて、悟浄は降参のポーズを見せた。 玄奘三蔵、孫悟空、沙悟浄、猪八戒、会話から緊張感など微塵も感じられないが、 彼らは所謂神仏に牛魔王蘇生実験の阻止という大層な任を仰せつかり、 達成する為に天竺へと向かう途中なのだ。 ――と言えば聞こえは良いが、面白いことに彼らは無頼者の集まりである。 「ありがとな、朝煌!」 くるりと振り返って人懐っこい笑顔で悟空は最後に入ってきた朝煌へと礼を言う。 落ち着いて辺りを見回せば、広い拝殿のようだった。 高い天井を支えるのは紅い柱で、 偶像が安置されるべき場所は黄金の刺繍が施された布が垂らされており、 内側は窺えない。 隙間からは暗闇が映るだけだ。 壁の両側には女官のような出で立ちの女達が3人ずつそれぞれ控えている。 今までたった一言も口を開かなかった静夜が、 耐えかねる様子で拳を握り締めて悟空を睨んだ。 睨まれた理由が分からない悟空は怯えたように肩を竦める。 「巫女様の御前で何と無礼な物言い、私が留守の間に何故このような輩を招き入れられました!」 「静夜」 押し殺した低い声で振り返った彼女を朝煌は真っ直ぐに視線を受け止め、無言で諌める。 「巫女様は御身、如何に大事か分かってお出ででないのです…!」 堪え切れずに視線を逸らし、静夜は一礼をして拝殿を後にする。 しんと静まり返った拝殿の中、朝煌は哀しげに息を吐いた。 「おっかねぇ嬢ちゃんだなぁ」 少しも思っていないだろう面持ちで、悟浄は笑いを噛み殺す。 そんな彼を肘で強かに突いた八戒は申し訳なさそうに朝煌を見やった。 「すみません、僕らが押し掛けてしまった所為で」 「いいえ、こちらこそ申し訳ありません。どうぞお気になさらないで。静夜も普段は思いやりのある優しい子なのです」 あれで、と三蔵が物言いたげな視線を投げれば、朝煌は困り顔で微笑う。 「今は少し、祀りが近い所為で気が立っているだけで」 「まつり?お祭りあんの?」 「ただ皆で騒ぐ祭りではなく、儀式のようなものですけれど」 なぁんだ、と残念そうに悟空は口を尖らせる。 彼女はごめんなさいと謝り、女官へと視線を投げた。 「三蔵様も怪我を召されていることですし、お部屋に食事を運ばせます。宜しければ傷が癒えるまで、こちらに宿を」 「ですが」 躊躇う八戒に構わず、歩み出たひとりの女官が扉を開けて彼らを待つ。 様子からして朝煌の付き人か世話人と言ったところだろう。 正直に言えば、彼女の申し出はありがたいことこの上ない。 昼間に里内を散策したが、民家はあれど食堂や宿と言った利益を、 俗に言うなれば金銭を要するものはとうとう見当たらなかった。 自給自足らしいこの里で彼らが何処かに雨露を凌げる場所を探すのは間違いなく一苦労だ。 それと同時に、この土地が異様だと言うことにも気が付いていた。 「…祀りが終わるまで、この里からヒトを外に出したくないと言うのが本音で、つまりはこちらの勝手なのでございます」 困惑気味の彼らへ言い難そうに朝煌は口を開く。 不自由があれば出来得る限り対処する、 だから祀りが終わるまでここに留まって欲しいのだと彼女は目を伏せた。 普段のように『三蔵法師』に留まって欲しいと乞われている訳ではない。 三蔵の怪我で動けないほどではないが、野宿は避けたい。 食料を手に入れる場所もないのならば得意のゴールドカードも今回ばかりは出番無し。 ここは、妥協する他に道は無さそうだった。 八戒は仲間を振り返ると、お言葉に甘えましょうと頷いた。 女官を先頭に渡殿を案内されて歩いていると、不意に悟空が顔を上げた。 「…姉ちゃん、俺らの部屋って何処?」 「北側突き当たりの客間にございます」 「北、ってぇとこっちだよな」 よし、と方角を確認して悟空は廊下の欄干へと手を掛ける。 手入れの行き届いた庭先に宵闇に混じるような深い藍色が煌くのが見えた少年は、 紅い欄干をひょいっと身軽に飛び越えた。 「おい、猿!」 呼び止める悟浄を肩越しに振り返り、ちょっと、と叫んで走り出した。 「後で行くー!!」 遠くなっていく背中を眺め、三蔵は溜息を吐いた。 彼の突飛な行動は今に始まったことではない。 後でこちらへ戻ると言っているのなら、放っておいても構わないだろう。 ただし、それは認めたくもないが他称保護者である三蔵へと迷惑が被らない場合での話であって、 もしもがあれば容赦なく殴り付ける準備は万端だった。 「どうしたんですかね」 「知らん、行くぞ」 淡やかに笑みを湛え、彼らの行動に顔色ひとつ変えない女官はしっかりと教育が行き届いているのだろう。 彼らの会話が終わったと判断したのか、どうぞ、と廊下の奥へと案内を再開した。 ぱきり、と茎が折られる。 手のひらほどの大きさの白い花が摘まれ、静夜の腕の中で増えていく。 その手を止めずに、彼女は嘆息した。 「…何?」 「謝ろうと思って」 率直に言い切る悟空に、静夜は更に嘆息した。 「何に対して?分からないのに簡単に謝ろうとしないで」 不愉快だと言わんばかりの口調で、花の付いたうねった茎を折り続ける。 蕾を残しているあたり、飾る為に摘んでいるだけでなく手入れも兼ねているのかもしれない。 宵闇で花は怖いほどに白く浮かび上がった。 「静夜にヤな思いさせたと思ったから」 だからごめん、と悟空は彼女の背中をじっと見つめる。 花の茎を手折り続けていた静夜の手がゆっくりと止まった。 「もう、良いよ。ほんとは最初から怒ってない」 「え?」 「ただの八つ当たり、私の方こそごめん」 静夜は振り返り、摘んでいた花を1輪差し出した。 甘い香が漂い、悟空の鼻先を掠める。 花の名は何だったろう、見たことはあるが思い出せない。 「月来香」 悟空の心中を読んだかの如く、静夜は花の名を口にする。 月来香、一般に月下美人と呼ばれるその白い花は本来持った名の通り月の下でしか咲かない。 「お詫びにあげる。この里の月来香は特別なんだ」 差し出された月来香を悟空は何処か恐る恐る手を伸ばして受け取った。 見たことがある、はずだった。 けれど記憶の何処を紐解いても、結び付くものが無い。 どくん、と心臓が掴まれたような心地になって、悟空は息を呑んだ。 ―――この里の月来香は特別なの 声が、閃く。 ―――月の加護があるから、月夜でなくとも咲くのよ 良い香りでしょう、と誰かが微笑んだ。 あぁそうだな、と誰かが無愛想に答えた。 ―――貴方に差し上げますわ、悟空 あのときも、白い花を受け取ろうと少年は腕を伸ばしたのだ。 ではあのときとは、いつだったろう。 「月夜じゃ、なくて、も、咲く…?」 誰かの台詞を繰り返すように言葉を綴る悟空に、静夜は訝しげに眉根を寄せる。 「何で、知って…?」 え、と悟空は虚ろな瞳でゆっくりと顔を上げる。 「なに、が…?」 「何がって」 静夜は言葉に詰まる。 最初に目の前にいる少年から受けた印象は真っ直ぐな瞳と純粋さだった。 それが今、全く違うものに掏り替わっている。 困惑したいのは悟空ではなく静夜の方だったが、 彼が話をはぐらかそうとしている訳で無いのは明らかで、だから益々分からなくなる。 「悟空!」 悟空が弾かれるように顔を上げた。 幾度か目を瞬かせた後、渡り廊下に三蔵の姿を認めるとつい今し方目が覚めたかのように、 否、正に言葉通りに目を覚まし、やべ、と慌てた様子で後退りをした。 恐らくは無意識か条件反射。 「飯が片付かん、さっさと来い」 「そうだ!俺の飯!!」 当惑した静夜を残して走り去ろうとする悟空は最初に受けた印象通りで、 とうとう呼び止めようとする理由すら見つからなくなってしまう。 不思議と得体が知れないとは思わなかった。 感じたのは。 ―――切なさ?それとも 哀しみにも似た湧き上がる感情は。 ―――刹那、さ 莫迦莫迦しいと静夜は軽く目を伏せる。 今日初めて会ったばかりの者に対して抱く感情では決してない。 彼女の困惑を振り払うように、悟空は声を上げてくるりと振り返った。 「俺ね、悟空って言うんだ!」 「ゴクウ?」 幾つか字面を当て嵌めてみたが、 どれが正解かもしくはどれも正解でないのか分からない。 踵を返して戻って来る少年は静夜の手を掴んで手のひらを上向かせた。 指先で己が名を綴る仕草がくすぐったい。 「えと、『悟』『空』な」 悟空、と静夜は少年の名を反芻する。 その意は目には見えぬ何かを悟り織る者。 良い名だと思い、同時に彼に似つかわしい名だと思った。 大きく手を振って、駆けて行く背中に知らず笑みが漏れる。 恐らくは自分とそれほど変わらぬ歳であろうに、随分と幼さを感じる。 勿論、悪い意味ではなく。 急いで部屋へと戻る悟空を追い駆けることもせずに三蔵は嘆息する。 「…アレは気にするな」 アレ、と言われてどれのことだろうと首を捻りかけたが多分、 先程の悟空の様子のことだろう。 気にするな、と言われても土台無理な話だ。 忘れろと、訊くなと言われた方がまだ分かりやすいし、 変に理由を邪推した上で呑み込みやすい。 どういうことだと訊こうとして、訊く理由が無いことにも気付く。 面倒臭くなって、静夜は是とも否とも答えずに三蔵に背を向けた。 彼の視線がこちらを向いているのが、何故か酷く居心地が悪かった。 つきり、と腹の下の方が痛む。 女とは言え、毎月とは言え、これもまた面倒臭いものだ。 痛み始めた腹部に顔を顰めて、腕の中の月来香へと頤を埋める。 「…いたい」 言ったのは自分だったろうか。 確かに己が口から零れた言の葉に、静夜は妙な浮遊感を感じる。 紅不浄の穢れの頃、そして晴れた望月の夜は大体、いつもこんな感じだ。 自分が自分でなくなるような、他の誰かになってしまうような、 それでいて、傍観している自分がいる。 (分からない) 見上げれば、もうすぐ消えてしまいそうな三日月が浮かんでいる。 あと5日もすれば新月が来る、そうしてそれは終わりであり始まりだ。 奇妙な懐かしさも、恋しさも、切なさも、求めるものが分からない。 優雅さを含んだこの頃に頭へと響いてくる声も、 だからこそ今は普段以上に煩わしくて仕方が無かった。 例え、終わった頃には忘れてしまうと分かっていても。 ―――月来香を、お願いね 誰かに、何かを託す誰かの声もただ、哀しくて仕方が無かったのだ。 久し振りに屋根のある場所に柔らかな寝台。 部屋にはさり気なく香が焚かれており、 それも手伝ってか三蔵達はゆっくりと疲れを取ることが出来た。 朝食は大広間のような場所で、身支度を整えた彼らは朝煌と顔を合わせた。 粥を主食とした薬膳料理が楚々と並べられ、各々に席に着く。 「あれ、静夜は?」 きょろきょろと辺りを見回し、彼女の不在に気付いた悟空は箸に手を伸ばしながら訊ねた。 「静夜は今日から1週間ほど物忌みで部屋に篭ってます」 「モノイミ?」 「お休みってことですよ」 首を傾げた少年に、八戒は苦笑して傍にあった皿を悟空に渡す。 「静夜の部屋ってどこ?」 「黎明の宮、ここ月龍斎宮で最奥の宮です」 「悟空お前まさか、夜這いでもしようってんじゃ」 「エロ河童と一緒にすんなよなッ!!」 「はいはい、そこまで。朝食を頂きましょう」 黎明とは朝になろうとする夜明けを指す。 静夜よりも朝煌の方が似つかわしい気がしたが、ただの宮の呼び名だ。 深く考える必要も無い。 「祀り、と言ったな」 三蔵は茶を啜りながら抑揚のない声で口を開いた。 朝煌は是と頷く。 「100年に1度の祀りです。月龍との契約更新と言えば分かりやすいでしょうか」 朝煌が言うには、選ばれたチカラの強い者がそれを成すのだと言う。 隠れ里としてこの里が人知れず繁栄しているのは、月龍の加護あってこそ。 特別な結界に守護され、悪意を持った外敵の侵入を防ぎ安寧を齎す月龍への信仰心は、 この土地では絶対のものなのだろう。 100年ごとにチカラ、つまり霊力や巫力、 神通力などの目には見えない特別なものを強く持った者が祈りを捧げることで、 また100年間月龍の守護を受けられるらしい。 「100年間護ってくれる神様、ねぇ」 悟浄は半信半疑な眼差しでぼやいてみる。 確かに、この土地が他とは違うことくらいは分かる。 けれども、神だの何だのと言われても――例え、どう足掻いても手を合わせたくは無いような神様を目の当たりにしたことがあったとしても――、 信じられるか否かは別の話だ。 「その祀りはいつ?」 「次の朔、5日後です。不自由かと存じますが、それまでご辛抱を」 「…分かりました」 一拍の間を置いて、八戒は目を伏せる。 取って食われる訳でもないので、何が何でも無理矢理出発しようとは今のところ思わない。 しかし、だ。 彼女の説明にも、この里にもどこか不自然さを感じてしまう。 「八戒殿?」 「お世話になりっ放しも落ち着きませんし、何かお手伝いしますよ。男手はあって困ることはないでしょう?」 言いながら、視線は隣に掛けている紅い髪の男へと向けられる。 大げさに、否、多分わざとではないのだろう悟浄は飲んでいた茶に咽返った。 芋蔓式に悟空も巻き込まれるに違いない。 三蔵は梃子でも動かないくらいに働くとは思えないので最初から論外だ。 大人しくそこらで説法でもしていてくれると大いに助かる――有り得ないが。 「まぁ、ありがとうございます。助かりますわ」 くすくすと微笑い、朝煌は普段は目にし得ないだろう喧騒を楽しんでいた。 ぼんやりと目を開ける。 覚醒しきれない頭を手の甲で何度か叩き、ごそりと寝返りを打つ。 昼間と言っても明かりの点いてない部屋は薄暗く、 必要最低限のものしか置いていない質素な室内は見慣れた自分の部屋だった。 何時だろうと時計を探したが、寝惚け眼では視界に靄が掛かったように窺い知れない。 時刻を知るのを諦めた静夜は鈍痛に顔を顰める。 非常に不本意ではあったが、彼らが風の噂に聞いた三蔵一行だとするのなら、 護衛である彼女が傍にいなくても朝煌は危険から護られるだろう。 夢を見た。 酷く曖昧な夢で、もう一眠りすれば恐らくは忘れてしまうであろうほどの。 確かひとりではなかった。 周りに誰かがいて、きっと自分は笑っていて、 なのに最後は泣きたい衝動に駆られて目が覚めた。 そこまで思い出すと気分の良い夢とは言い難い。 最後に見えたのは紅だった、気がする。 手を伸ばそうとして、伸ばし切れなくて、暗転した。 「予知夢、だったり…」 して、と笑い飛ばそうとして、彼女は唇を真一文字に引き結んだ。 不謹慎だ。 そもそも、朝煌ならばともかく彼女は予知夢を見られるほど巫力が強くはない。 目の端で光を反射する蒼いものに気付いた。 首から掛けて肌身離さず持っているそれは、静夜の守りだ。 透き通った瑠璃色は彼女の瞳と同じ色で、 静夜の1関節分の直径をした硝子玉のようにも見えるそれは、 実際何で出来ているのかは分からない。 母から聞いた話では朔の夜、手のひらに持って生まれたのだそうだ。 望月に生まれた母は巫女として最高の存在だと崇められ、 そして新月に生まれた自分は最高の戦士だと望まれた。 「…何で、私が巫女じゃ駄目なんだろ」 今更だった。 生まれた頃から言い続けられて来ただろうこと。 生まれながらに巫力の高かった朝煌を皆が巫女に推したのは当然だ。 静夜もそれは認めている。 「あの子じゃなくて、私が巫女だったら」 それも何度も思った。 思っただけで、何も変わらなかった。 護衛として、影として、静夜は育てられて来た。 朝煌が物忌みや病などで表に出られないときには静夜が代わりに立つ。 巫女と同じ教育を受け、同じ舞や祝詞を覚えた。 けれど巫女は静夜ではなく、朝煌だった。 朝煌の最期まで護り抜かなければならない戦士だった。 それはきっと最期まで変わらない。 「静夜っ」 格子越しに窓の外から声が投げられる。 聞き覚えのある声に、静夜は身を起こして窓を上げた。 「悟空?」 「ごめん、寝てた?」 ぼさぼさの頭のままの彼女を見て、悟空は気不味そうに眉尻を落とす。 捨てられた仔犬の様子にあまりにそっくりで、静夜は痛みも忘れて笑ってしまった。 否と首を振る。 「どしたの?巫女様から物忌みだって聞かなかった?」 「聴いた、から来た」 「…そっか。でもあんまり近付いちゃ駄目だよ」 「何で?」 「物忌みってのはね、穢れから離れる為のもの。もしくは、自分の穢れを外へ出さない為のもの」 「静夜が穢れ?」 「ちょっと違うけど、社殿において今の私はあまり歓迎されないんだ」 この調子では、女の身体の仕組みをよく知らないのだろう。 かと言って詳しく説明する気も起きなくて、納得し切れない顔の少年に苦笑する。 「嫌われて除け者にされてるワケじゃないから気にしないで良いよ。そーゆー時期なだけ」 「…ほんとに?」 「ほんとに」 「なら良かった」 屈託なく笑う悟空に、またしても妙な感覚を憶える。 憶えがある、と言うのとは違う。 けれど誰かの記憶を垣間見ているようで、良い気分はしない。 ふと、悟空が思い出したように口を開いた。 「なぁ、静夜と朝煌ってどっちが先に生まれたの?」 「…私だけど」 「じゃあ、静夜のが姉ちゃんなんだ」 「まるで私と巫女様が姉妹みたいな言い方するね」 「だって姉妹だろ?」 冗談のように笑い飛ばそうとした静夜は表情を凍らせた。 「…あの子に、訊いたの?」 悟空は否と首を振る。 「そーゆーの、何となく分かる」 直感と言うものか。 静夜は脱力する。 隠している事実と言うことでも無かった。 里の者なら誰でも知っていることで、わざわざ確認されることも無い。 比べられるのには慣れているが、 その度に自分がどれだけ巫女に相応しくないのかということを思い知る。 「双子なんだ、似てないだろ」 「似てるよ?」 あっさりと否定してくれる悟空からは気遣いや世辞と言った類のものは感じられない。 本心からだと手に取るように知れたから、余計に静夜はどうして良いか反応に困る。 「顔じゃなくて、雰囲気とか仕草とかがさ。私とじゃぜーんぜん違うし?」 自嘲気味に笑ったのは半ば八つ当たりだったのかもしれない。 彼が深い意味を含んでそのようなことを口にするはずもないと分かっているのに。 自分に嫌気が差す。 「そんなの当たり前じゃん。だって静夜は朝煌じゃないし、朝煌も静夜じゃないだろ」 悟空が口にしたのは、当然の理由だった。 当然の理由だったからこそ、悔しかった。 ほろり、と頬を伝うものがある。 驚いたようにこちらを見やる悟空を思いやる余裕もなく、静夜は涙を流した。 泣くつもりは無かった、なのに零れたのは本音の代わりか。 「…何で、私が巫女じゃなかったんだろう」 呟くように言った静夜の台詞がはっきりと聞こえた悟空は、 近付くなと言われた手前、彼女の元へ行くことも出来ず途方に暮れるしかなかった。 祀りの準備だと、社殿の周りには煌びやかな装飾品が所狭しと並んでいる。 拝殿には引っ切り無しに供物が運び込まれ、 八戒と悟浄は手を止めて暫し呆然と眺めてしまった。 祀りの手伝いと言っても旅人である彼らに大層な仕事が出来るはずもなく、 荷物を運んだり、装飾品を飾り付けたりと所謂雑用に徹するしかない。 1室を借りて裁縫に勤しむ八戒の傍へ、ひと休みとばかりに悟浄が腰を下ろす。 手先が器用な八戒はあっという間に任された上等な布への房付けを終えていて、 しかも世の女達に喧嘩を売るような素晴らしい出来だ。 「お前ソレ、さっきおネエさん方が悪戦苦闘してるやつじゃなかったっけ?」 「さっき通りかかったときに試しにやってみたら上手くいったんで任されちゃいました」 「…ふーん」 謙遜を通り越してすでに皮肉だ。 思うだけに留めるのは長年の経験からと言うもので、 言ったが最後、どんなメに合うか分からない。 悟浄は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。 誤魔化すように卓上に置かれていた茶器を引き寄せ、2人分の茶を注ぐ。 差し出された湯呑みを受け取った八戒は一旦手を止めた。 「あら」 小さな音を立てて開かれた扉から、暁を思わせる色を宿した少女がひょこりと顔を覗かせた。 周りをきょろきょろと見回した後に部屋の中へ身を滑らせる。 「匿って頂けないかしら?」 唐突な申し出に2人が顔を見合わせて生返事を返そうとした途端、 朝煌は几帳の裏へと飛び込んで、 同時に開いた扉からは慌てた様子の女官たちが色とりどりの布を手にしたまま息を切らしていた。 「あのっ、巫女様がこちらへおい、ででは、ない、でしょ、かっ」 「えーと」 「いえ、見ませんでしたよ」 肩で息をする彼女達には非常に強い罪悪感を感じたが、 八戒と悟浄は苦笑して仕方無く首を振った。 失礼致しましたとあくまで丁寧に頭を下げる女官達は再び巫女を探しに行ったようだ。 「ごめんなさい、ありがとう」 几帳の端から顔を出した朝煌は申し訳無さそうに姿を見せた。 巫女装束ではあるけれど、幾分質素な感のする軽装で長い髪は高い所で編み込まれている。 「どうしたんです?」 「衣装合わせばかりで厭になって。ちょっと休んだら戻ります」 ちょこんと椅子を引いて腰掛ける少女は20歳という年齢にそぐわないあどけなさで笑い、 巫女の重責を負うにはあまりに儚く映る。 「あの嬢ちゃんとは正反対って感じ」 え、と朝煌は首を傾げる。 静夜のことだと思い当たり、少女は苦笑する。 「昔は、名前で呼んでくれていたんです。一緒に遊んで、笑って、時々喧嘩もして、でも」 巫女様と余所余所しく呼ぶようになったのはいつからだったろうと想いを馳せる。 思い出を辿れば、それはあっさりと紐解かれた。 生まれてから15年目の新月の夜。 生まれた頃から決まっていたことではあったことだけれども、 朝煌を巫女に、静夜を近衛にと正式に神託の下った日。 神託は巫女となる者がこの世に生を受けたときに1度、 そしてその認められた巫女が15歳になったときにもう1度。 刻を置くのは、成長するにつれて巫力を失う者も少なくないからだと聴く。 最初の神託を受けてから5年後、 幼い朝煌と静夜に告げられた真実もまた小さな両腕に抱えるには余りあった。 その日のことを、朝煌は今でも昨日のことのように思い出せる。 祀りの意味を。 巫女の役割を。 決して静夜が巫女であってはならない理由を、告げられたのだ。 「朝煌?」 呼ばれて我に返ったように朝煌は顔を上げる。 取り繕った笑顔はすぐにバレる、だが2人はそれについて何も言わなかった。 「なぁ、祀りって神聖なものなんだろ?ヤケに賑々しいよな」 悟浄は自分の茶に口を付けながら朝煌の前に湯呑みを置いた。 絢爛豪華とまでは行かないが、それなりに華美な装飾や供物に思わず溜息が漏れる。 金銀の煌びやかな細工物が軒下に下げられ、風が吹く度にしゃらりと鳴く。 里中、そして社殿の塀をぐるりと囲うのは鈴の付いた紅いランタン。 至る所に見られる月来香は仄かに香りを漂わせ、 拝殿へと続く石畳には陽が落ちてもヒトが絶えることはない。 「皆、はしゃいででもいないと落ち着かないのでしょう。100年ぶりの祀りですもの」 そんなものかと悟浄は頬杖を付いて窓の外を見やる。 だが、正直腑に落ちないのも確かだった。 悟浄は月龍信仰を知らない。 知っていたとしても、例え他の宗教だったとしても信仰だののガラではない。 だからこそ異常な程の信仰心に疑問を持たざるを得ない。 そう、異常だ。 八戒も顔には出さないが同じ思いを抱いている。 この里の月龍信仰には不可解なものが多過ぎた。 力仕事や手伝いにまるで縁の無い――否、重い腰が上がらないとも言う――最高僧様におかれましては、 のんびりと宛がわれた部屋で昼寝にでもまどろもうとしていたらしい。 ひとつ欠伸を噛み殺したところで、客間の扉が控えめに叩かれる。 開いていると返事をすれば、 昨日案内をして来た女官と同じ格好の者が扉を押し開け、静かに頭を下げた。 白い単衣に淡い紅の生絹の肩掛け、腰を締めているのは後ろで大きく結われた紺の帯。 長い裾下からは紅い袴が見えていて、 歩きやすそうな黄金の縁取りの濃い紫を地にした沓を履いている。 髪は全部後ろへ流されきっちりと高いところで団子状に纏め上げられていた。 どうやら女官の衣装は統一されているらしい。 「里の長老が是非とも三蔵法師様にお目通り願いたいと」 暇だ。 確かに暇だった、がそれは出来得る限り避けて通りたい暇潰しだ。 苦虫を噛み潰すなどと言う生易しい表現では物足りないほどに心底厭そうな表情を浮かべた三蔵にも動じず、 女官は笑みを浮かべたままでお返事をと淡々と繰り返した。 ある意味素晴らしい教育の徹底ぶりだ。 拒否権はほぼ皆無に等しい。 長老と言うくらいだ、老齢も良いところだろう。 世間一般、常識と呼ばれるものに関心のひとつも無い三蔵だったが、 世話になっている恩も手伝ってか、渋々とこちらから伺うと返事をするしかなかった。 長老と呼ばれる人間は女性らしい。 里長のようなもので、代々の務めを終えた巫女が就任、平たく言えば隠居する。 当代の巫女の住まう社殿と同じ敷地内に宮があり、 神託を授かって次代の巫女へと告げるのも彼女の仕事らしい。 ただ、先代の巫女が当代の巫女へと継がれる前に身罷ってしまったので、 先々代の巫女に役目が戻って来たのだと言う。 「こちらです」 音を立てて開かれた扉の奥には、おっとりとした老齢の女性が椅子に掛けていた。 目はもう殆ど見えていないのだろう、傍付きの女官がそっと耳打ちして彼女の手を取った。 部屋のデザインは彼女の品の良さを窺わせ、穏やかさすら醸し出している。 引かれた椅子に腰掛け、三蔵は目の前の老巫女に口を開いた。 「ご足労、痛み入ります」 おっとりと口を開いた彼女はやんわり眦を下げる。 高齢者に対する言葉遣いくらいの常識は持ち合わせていたらしい。 三蔵は嘆息交じりに両手の指を絡ませた。 「私に何用か?」 「貴重なお言葉拝謁致したく。本来であれば私が赴かねばならぬところを」 気にはしていないと片手を上げて彼女の言葉を制したところで、 彼女の目が見えないことを思い出したが女官は意を汲み取り老巫女へと告げた。 本当に教育の行き届いた女官達だと感心する。 「その前に、私からも尋ねたいことがある」 「私にお答え出来ることでしたら」 「この里は、何だ」 「何、と申されますと」 「ここはおかしい」 歯に衣を着せぬ物言いに彼女は少しばかり驚いたようだったが、 すぐにくすくすと笑い出して人払いをした。 ぱたりと扉が閉められ、室内には三蔵と老巫女2人だけになる。 「この地は月龍に護られし土地。月龍へ祈りを捧げ、信仰することに何の不思議がございましょう」 「ある」 またもやきっぱりと三蔵は答える。 「大地の氣の流れ、地脈が不安定だ。だが不安定なものを何かが支えようとしている、そして」 「綻びようとしている」 三蔵は言を繋いだ老巫女に、微かに目を見開いた。 だが目の前の彼女は動じることなく笑みを湛えたままだ。 「分かっているのですよ、三蔵様。皆、承知しているのです」 皆とは里の者を指すのだろうか、それとも起こり得る事象を言っているのだろうか。 判別が付きかねたがもしかしたらどちらでもあったのかもしれない。 では、何が起こると言うのか。 「その昔、失われたものがありました。それを補うために祀りがあるのです」 「では祀りとは何だ」 「祈りを捧げる儀式と巫女様は申せられませなんだか」 聴いた。 朝煌は確かにその通り説明をした。 だから、三蔵は老巫女に問うたのだ。 「別の答えをお聞かせ願いたい。祈りとは具体的に何を指す」 「祈りは祈り。それ以上も以下もございませぬ」 「だとしたら何故静夜ではなく朝煌が」 「三蔵様」 老巫女は三蔵の声をきっぱりと遮った。 これ以上は答えられないとでも言うように、これ以上は問うてくれるなとでも言うように。 「巫女は朝煌様、静夜では決してならぬのです」 三蔵は諦めたのか椅子の背凭れに身を埋めた。 分からないことばかりだ。 月龍の里。 月龍の巫女。 朝煌と静夜。 100年に1度の祀り。 言い様のない感情がぐるぐると渦巻いていて、三蔵にも説明が付かない。 むしろ理解するのを拒んでいるようだと自嘲気味に笑う。 「何故、行き掛っただけの地に対してそのように拘られます」 それも、訊きたいのは三蔵の方だった。 答えが見つからない。 悟浄や八戒であれば上手く立ち回れたのかもしれない。 悟空であれば気になるからなるのだと答えにならない答えを口にしただろう。 ならば自分は何と答えれば良い。 何も、分からなかった。 「分からないからこそ、理由が欲しいのかもしれんな」 零した台詞は誰に向けられたものか。 空が群青から茜に染まり、雲も淡く空に溶け始めている。 白い月が銀の刃にも似て鋭く煌いた気がしたのは何故だろう。 三蔵にも老巫女にもやはりそれらは与り知らぬことだった。 空に浮かぶ朧は、この里そのものだった。 昼間でも里より先は深い霧がかかり、どうやらそれが結界となっているようだ。 「三蔵、どう思います?」 用意された寝酒を口に運びながら、三蔵は窓を開けて空を見上げる八戒に視線を投げる。 「何かが、おかしいと思いませんか?」 「何か?」 「この里にしても、祀りにしても、何かがおかしい」 「確かに妙だよな、ココ」 新しい猪口に手を伸ばし、悟浄も相伴に預かる。 「ヒトのいるとこに行ってもニコニコ笑っちゃいるが、どっか暗いし。そもそも、神様が土地を護るのに契約更新ってナニよ」 「月龍、か」 ぽつり、と三蔵は呟く。 猪口に映った細い月が波紋の中で揺らいだ。 「月龍を信仰する朧族、話に聞いたことはある」 妖怪とヒト、ヒト族の中でも民族はあり朧族もそのひとつだ。 種族、と言ってしまった方が良いかもしれない。 彼らは生まれた日の月齢によって異なった能力を持つと言う。 中でも望月と新月は特別で、望月は龍の守護を強く受ける、つまり護りのチカラが強く、 反対に月龍が地に降りて来て宿ると言われる新月生まれの者は身体能力における戦闘能力が高い。 月龍とは月そのもので、欠け行くのは月龍が地上へと下る為。 行ったり来たりを繰り返しながら、月龍はヒトの世を護るのだと。 「だとしたら、やっぱりおかしいですよね。月は在り続け、満ち欠けもまた同じく繰り返される。守護が無くなると言うのなら、月そのものが消えてしまわなければならない」 八戒は頤に手を当てて眉を顰める。 それとも、この里からだけ月が忽然と消え去ってしまうとでも言うのか。 既に寝入っている悟空が言うには、静夜と朝煌は双子で新月生まれ。 しかしながらどう見ても朝煌が戦闘能力に長けているとは思えず、 静夜もまた戦闘能力はともかく巫力のチカラは常人のそれに近い。 もしかしたら双子であったが故に、チカラが分割されたのかもしれないと思ったが、 その仮説は成り立たない。 そうであったのなら、2人を巫女に立てるべきだ。 昼間に会った長老と呼ばれている老婆は、 絶対に巫女は朝煌でなければならないのだと言い切った。 静夜では駄目なのだと。 「それにあの社殿、拝殿まではあったが本殿は無かった」 何ソレ、と目を瞬かせる悟浄に深々と息を吐きながら、猪口を卓上へと置いた。 朧月と言っても俄かに明るい。 悟空が先日貰ったと言った月来香が、枯れることなく淡やかに香りを漂わせている。 「本殿とは、神体を安置するべき場所。この里ならば月龍の神体が置かれていなければならないものだ。それが、無い」 「神体なら大事なものなんだろ?盗まれねぇようにどっかの金庫にでも入れてんじゃねぇの?」 どうしようもない哀れみと呆れの混ざった視線が悟浄に向けられる。 無言の嘲りにその喧嘩買ったとばかりに三蔵に掴みかかろうとする悟浄を制し、 八戒は彼に先を促す。 「本殿は清浄な結界のようなものだ。その中に安置してこそ、神体は護られる。それが無いということは、別の場所に本殿があるか、もしくは」 「最初から、神体が用意されていないか」 「これほどまでに根強い信仰があるなら後者は考えにくい。恐らくは、祀りと呼ばれる儀式もどこかにある本殿で行われるんだろう」 「里の中にはそれらしいものは見当たりませんでしたが」 「地上にあるとは限らん」 やけにきっぱりと言い切る彼に、八戒も悟浄も顔を合わせる。 「何か、心当たりでも?」 三蔵は答えない。 心当たりが無くは無かった。 最初、崖から落ちて静夜と出会った場所に感じた違和感。 昼間だと言うのに、空には何も無かったにも関わらず湖にはっきりと映っていた月。 あれは本当に湖だったのだろうかと考えていたが、 先程の話を統合すればひとつの過程が出来上がる。 湖の中に、何かがある。 そうしてそれは神聖なもので、 静夜が祈りを捧げていたもので、祈りを捧げられるようなものだ。 「里の外れの、湖」 嘆息と共に吐き出された単語は、やはり常識を逸脱していた。 夢かと見紛う現だったように思う。 今でもはっきりと思い出せるかどうかと問われると、正直怪しい。 里の外れの湖の傍でその男は暢気に煙管を蒸かしていた。 陽の高い時間に、しかも空に月などないのに水面に浮かぶ明らかに不自然な月の姿にもさして興味を示さず、 ただのんびりと木の根元で胡坐をかいていた、と思う。 「あんた、誰」 疑問系にもならない台詞を静夜はその男に向かって不信感も露に吐いた。 男は一瞥もくれてやらずに、喉の奥でくくと笑った。 「前にも同じ台詞を言われたのう」 長い布を頭に巻き付け、だらしなさげに身に付けた着物の懐に片手を突っ込み、 瞳の色も見えない丸い黒眼鏡が怪しさを更に際立たせている。 答えようとしない男に、静夜は足元の土を踏み締めて近付いた。 答える気がないのかと問おうとした矢先に男が口を開く。 「泣いておるのか」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「己が裡に邪霊悪霊を孕んでおる」 「マガ、タマ?」 「勾玉は禍霊、まだ足りぬか」 「言っている意味が分からないんだけど」 「お主はな」 目の前のいかにも怪しげな男は静夜に漸く目を向けると、なるほどなるほどと頷いた。 だが、彼女にはやはり彼が何を言っているのかひとつも理解出来ない。 泣いておるのだな、と男は繰り返した。 「泣いてない」 「お主はな」 では、誰が泣いていると言うのか。 繰り返す男は全てを見通すような視線で静夜を射抜く。 すこぶる居心地が悪い。 「多くのモノを背負い過ぎているようじゃな、ここらで少し手放してみてはどうか」 「私が背負っているモノなんて何も無い。無いモノを手放すことなんて出来ないよ」 「無いからこそ、手放せるモノもある。これは因果じゃよ」 「因果?」 「ずぅっと先からの因果、お主もまた夢のカケラだと言うコトだ」 「ゆ、め…」 ぎくり、と身体が強張るのが分かった。 夢なら見ている、幼い頃から何度も、何度も。 同じ夢の繰り返しだと言うのは分かるのだが、内容はほんの少しも覚えていない。 目の前の男がそれを知っているはずもないのに、 静夜の心臓はどくどくと大きく脈を打ち始める。 「何を、知っている」 「何も」 男は素っ気なく答える。 「お主が知っていると思うコトは何ひとつとして知らんよ」 のらりくらりと紫煙を燻らせ、男は湖へと視線を戻す。 湖には依然として月が浮かんでいた。 「ここの月は、欠けたままじゃのう」 だが、と肺腑の奥まで紫煙を吸い込むとふぅっと大きく吐き出した。 「求めるのもまた、月じゃ」 里の信仰対象を言っているのだろうか。 静夜には分かりかねたが、首を傾げようとは思わなかった。 何故か、納得してしまったのだ。 「泣いておるのじゃよ、月も、光も」 「光…?」 「まだ終わらぬのか、この因果は」 男は黒眼鏡の奥の目を細め、 微かにだったけれどそれまで浮かべていた読み取れない笑みではなく、 憐憫と哀愁の入り混じった笑みを見せた。 「哀しいのう」 ぽつりと、本当にぽつりと男は零した。 男の瞳には何が映っているのだろう。 創世か、終焉か、それとも―――…。 嘗て、男は少年に言った。 少年の存在は大地の見ている果てない夢なのだと。 けれど少年はそれで良いのだと答えた。 名前を呼んでくれる誰かがいる、だから自分は自分なのだと。 迷いのない真っ直ぐな瞳は古くから変わらぬもの。 信じたいと、思わせた。 「何だったとしても…例え哀しみだったとしても終わりは、来るよ」 静夜は小さく首を振った。 いつか、と零して視線を足元へと落とす。 込み上げてくる感情が先走って、そうとしか言えなかった。 「来るか」 「来る」 確認するように問うた男は、きっぱりと答えた静夜に声を上げて笑った。 すぅっと男の腕は持ち上げられ、煙管を持った手は水面を指差す。 「ならば見届けるが良い。そうして…否や、止めておこうかの」 これ以上は無粋だと男は目を閉じる。 男の指差した水面をじっと見つめ、静夜は知らず胸が締め付けられる。 泣いている、と言った。 何かの比喩かとも思ったが、直感が、本能が、違うのだと訴える。 泣いているのだ、恐らくは静夜の良く知るものが。 そうして、与り知らぬものが。 傍にいた男は知らないと言ったが、 やはり何かを知っている気がして訊ねようと顔を横に向けた静夜の瞳には、 誰もいない木の根元と新緑の影だけしか映らなかった。 男の姿は忽然と消えていて、 白昼夢を見ていたのかもしれないと今の自分の記憶を疑ったのだった。 庭先の井戸から水を汲み上げ、頭から勢い良く被る。 指先が悴むほどの井戸水は身体を芯から冷やして行く。 その方が目が覚めると思ったのだが、静夜の意識には靄が掛かりっ放しだ。 黎明の宮は小ぢんまりとした井戸付きの庭と共に紅い格子に囲われていて、 社殿の中に更に別の敷地があるようだった。 物忌みの間は宮から出ても、 格子に囲われた敷地内の中でしか自由に動き回ることが出来ない。 だがそれは社殿に身を置く静夜や朝煌だからこそ課せられるもので、 里の者全てがじっと家に篭っている訳ではないらしい。 「あんた、いつも何か言いたげだよね」 自分に向けられる視線に気付き、 けれど顔も上げずに髪から滴る水が大地に吸い込まれて行くのを見ていた。 「そう見えるんなら、お前の中に何かやましいことがあるんじゃねぇのか」 毒づく静夜を気にすることもなく、渡殿の欄干に寄り掛かっていた三蔵は煙草に火を点ける。 ジュ、と音を立てて煙草の先に橙が灯ると空に一筋の紫煙が昇った。 坊主のクセに煙草を吸うのかと嫌味のひとつでも返せたらまだ良かったかもしれない。 何も言い返すことが出来ずに、静夜は歯噛みする。 彼を見る度に苛々している自分に気付いていた。 八つ当たりだと悟空には言ったが、ほんの少しだけ何かが違う気がした。 そのほんの少しが何か分からないから益々苛立つ。 「…気付いてないのか」 ふと、三蔵が言の葉を紡ぐ。 視線だけを動かし彼を見やるが、 どうやら無表情と言う部類に属しているらしい面からは感情を読み取ることは難しいようだ。 何が、と問い返すのも面倒だった。 「祀りとは、何の為にある」 「…巫女様がお答えしたはずだ」 「お前は何だと思っている」 持っていた手に力が入り、桶が軋む。 全身の毛が逆立つような錯覚に陥り、静夜は唇を噛んだ。 「くだらない因習、けれど、拒む術を私達は知らなさ過ぎる」 知らなさ過ぎる、そう言った彼女の物言いには含みがある。 祀りへの賑々しさ、華やかさ、それらには全て不自然な蟠りが残った。 彼女だけではない、彼らが知らない事実を里の者皆が知り得ているのだ。 三蔵ら一行は他所の土地へ基本的に口を出さない。 どんな風習であったとしても大抵受け入れるが、 余程胸糞悪いものであれば首を突っ込むこともある。 それらは悟空のお人好しな性格によるものが殆どで、 他の3人は常に巻き込まれている気がしないでもない。 訪れるだけの地、通り過ぎるだけの町。 彼らはいつも前を向いて先を目指す。 思い返してみても、関わるだけの理由を作るのはいつも悟空だ。 恐らくは今回も。 ―――静夜、泣いてた 顔を見に行くのだと意気揚々と出て行った悟空は、 目に分かるほどはっきりと落ち込んだ様子で帰って来た。 何か悪いことを言っただろうか、困らせるようなことをしただろうか。 話を聴いても悟空に非があるとは思えず、 けれど少年が悩んでも仕方のないことを延々と悩み続けているのだ。 心根が純粋過ぎるのも考えものだと八戒が苦笑していた。 そうしてまた、三蔵の中にも蟠るものがある。 月龍の里に入ってからこちら強まるばかりだ。 五行山に幽閉されていた悟空が呼び続けていた声に驚くほどよく似ている感覚が廻り、 試しに里の中を歩いてみたが、それらしいものは何も無かった。 感覚は酷く曖昧で、薄ぼんやりと深い霧の向こう側に感じるような程度で頭痛がすることも無い。 「たかだか500年来の信仰で因習なんて言い過ぎかもしれないけどね」 自嘲気味に笑う静夜に、三蔵は煙草の灰を足元に落とした。 その目は微かに見開かれている。 (そうだ) そう、500年なのだ。 月龍信仰はたった500年前に起こった宗教。 いつか師に聞かされ、頭の端に留め置いていただけの知識が黄泉帰る。 『そうして、500年より以前は…』 (以前は、何だった?) 三蔵は必死に記憶の糸を辿ろうとするが、なかなか上手く行かない。 あのとき、師は何と言った。 何と言って。 ―――嫌悪感を露にしたのだったか くだらない因習だと静夜が言い切るような、忌まわしい何かがあるのだ。 そして三蔵はそれを思い出せないでいる。 密教でも無いのに決して表に出ることの無い月龍信仰が、 一部を除き隠匿され続けたのは何故だったのか。 「三蔵法師?」 黙り込んでしまった彼を訝しみ、静夜は視線を投げる。 法師を付けたのは彼女なりの敬称だったのかもしれないが、 呼び慣れないのかすぐに顔を顰めて三蔵、と言い直した。 自分らしくないと思ったのかもしれないし、 彼に敬意を表す理由がないと思ったのかもしれない。 「お前は、納得していないんだな」 唐突な低い声が静夜に投げられる。 息を呑み、素知らぬふりをしようとして失敗した。 里の者の前では普通に振舞うことが出来るのに、どうしてか彼らの前では脆くも崩れる。 虚勢に意味がないことくらい静夜だって分かっている。 事実が変わることなどないのだと理解している。 「…出来るワケ、ないよ」 出来る訳ないじゃない、と震えてしまう身体と声が忌々しい。 ぐしゃりと濡れた前髪を掻き揚げ、静夜は三蔵をねめつけた。 「だけど、祀りが終わらなければたくさんの犠牲が出る。それも分かってるから私は、私達は…ッ!!」 「言い訳だな」 「な…」 「そんなものはただの言い訳だ」 三蔵の耳元で荒々しく乾いた音が響く。 正しくは三蔵の顔のあった真横の柱で。 彼の足元には粉々に砕け散った桶の残骸が転がっている。 「図星か」 「黙れ、何も知らないヤツが勝手なことを…ッ」 押し殺したような殺気を漂わせ、 静夜は桶を投げつけたままの姿勢で瑠璃色の視線を鋭くした。 最初に出会ったときと同じ殺気だ。 常人なら竦むようなピリピリとした気配に臆すること無く、 三蔵はその視線を真っ向から受け止める。 「テメェみたいな言い訳ばかりで、何もしようとしない奴が一番虫唾が走るんだよ」 言い捨てて、三蔵は踵を返す。 宛がわれた部屋に戻るのだろうか、そんな関係の無いことを思い浮かんた。 鈍器で思いっきり頭を殴られたような衝撃に、静夜は何も言えずにいた。 滴る井戸水の冷たさすら感じないほどに呆然と立ち竦む。 ―――何も、知らない癖に 当然だ、彼らは旅人なのだから。 ―――何も、分からないくせに 当然だ、彼らは当事者ではないのだから。 ―――何も 静夜はその場に崩れ落ちる。 けれど泣けない、泣く理由がない。 「…ッ」 三蔵の辛辣な台詞は的を射ていて、否定する術などどこにも無い。 何かを口にすればそれは彼の言った通り、全て言い訳になるに違いないのだ。 逃げているのだという自覚が無いほど彼女は愚かではなく、 聡いからこそ逃れる術すら思い付くことも出来ずに二の足を踏んでいる。 ひとつを捨てて多くを取るか、多くを捨ててひとつを取るか。 選択肢はきっとそれだけなのだ。 「どうしろって、言うのよ」 あまりに多くを知り過ぎて、静夜は動くことが出来ない。 せめて彼らのように何も知らなければ心のままに動けるのにと、 逃避にも似た思いを抱え込むしかなかった静夜は己を罵る。 違うのだ、そうではない。 彼女は選ばなければならないのだ。 誰かの為にではなく、己が為に。 遠い昔、いつか彼女がそうしたように、選ばなければならないのだ。 ―――お願い、行かせて 女は切れ長の目を細め、幾つもの蓮が浮かぶ水鏡を静かに眺めた。 地上の月は明日の夜、新月となる。 あれから、500年が経った。 しかし、刻が廻ろうとも憤りは消えない。 果たしてあのときの判断は正しかったのだろうか。 否、彼女には正しかったのだと思うことが出来ないからこそ、 自問自答を繰り返しているに過ぎない。 だからこそ過ぎし日の答えが出ないことも重々承知している。 戻ることは出来ない、やり直すことなど出来ない。 出来ないからこそ後悔する。 ―――行かせて 形の良い唇が、きゅ、と締められる。 チカラの殆どは地上へと向かった。 後は成すべき姿の器、つまり彼女が降り立てば新月は成る。 「…我が君」 哀しげに女の双眸が歪められた。 新月が、訪れる。 覚醒しきれない頭の中で響き渡るものがあった。 悟空は必死で幼い小さな腕を伸ばし、 何かを掴もうとしているのだが結局掴みきれずに泣き叫ぶ。 目の前が紅く染まり、真っ暗になる。 悟空にとってそれらは起きてしまえば全て忘れてしまうと言うだけで、 さして珍しい夢ではなかったように思う。 いつもと違っていたのは驚くほど白い手が悟空の頬に触れ、 顔は分からなかったけれど儚げな微笑が向けられたこと。 口元が小さく動くと同時に頬に触れていたぬくもりは消え失せた。 ―――大好き、よ 答えようと、離れ行くぬくもりを留めようと、悟空は溢れてくるものを懸命に堪える。 その姿が掻き消えないように、幻となってしまわないように。 夢現のまま、少年はまだぬくもりの残る寝台から身を起こす。 ほぼ新月が訪れている所為か、陽も昇らない窓の外はまだまだ暗い。 腫れぼったい瞼と半端に乾いた頬がちりちりと痛む。 「…あれ」 手の甲を頬に押し付けて擦れば、自分が泣いていたことに気付いた。 睫にもまだ微かな雫が乗っている。 だが、いつも通りだ。 「何だろ、コレ」 思い出したはずの記憶を思い出していたことすら忘れ、悟空は首を傾げる。 そうして忘れてしまったことすら忘れて終には何も分からなくなる。 その繰り返しにはとっくに慣れた、はずだった。 何を思ったのか悟空は頬に触れ、必死に思い出そうと記憶を手繰る。 出来ないと分かっているにも関わらず、思い出そうとする。 部屋の中を仄かに漂う月来香の香りがふわりと優しく悟空を包んだ。 途端、目頭が熱くなり、今度こそ泣いてしまいそうになるのを何とか抑え込む。 成長途中の手のひらは悟浄や八戒と比べて随分幼く映る。 緩く曲げられた小指をじっと見やり、何故かごめんと謝罪の言葉が漏れた。 「約束、したのに」 約束を思い出すことは出来ないけれど。 今この刻すら思い出すことは出来なくなるけれど。 幼き身に押し付けられた罪咎の刻印は色褪せることなくあり続ける。 蝕み、侵食し続け、封じられた記憶へと辿り着かせることは決してしない。 だがそれは在りし日の悟空を護っているようにも思える。 遠い昔に犯した罪の重責に耐え切れず、壊れてしまわぬよう。 真実すらもまた深く深い闇か光の中に立ち消える。 今はまだ、刻ではないのだ。 「独り言が喧しい」 ぽぉんと投げ付けられた言の葉に、悟空は視線を廻らせる。 一度眠れば梃子でも起きない――目を覚ましたとしても起きようとはしない――三蔵が、 寝惚け眼で少年を睨み付けていた。 慣れたもので、取り繕ったとありありと分かる表情で笑って謝る。 月光の影になって表情まではっきりとは映らないだろうけれど、 三蔵には全て見透かされている気がしてもう一度謝った。 わざとでも何でも、彼は何も訊いて来ないことを知っていて悟空はそれに甘える。 卑怯だとは思ったが、 答えるべき答えを悟空はもう忘れてしまったのでどうすることも出来ない。 「なぁ、三蔵。この里のヒト達って、妖怪を知らないのかな」 「あぁ?」 「だって、結界張ってあるんだろ?だったらここには入って来られないじゃん」 「悪意があれば、の話だろう。じゃなきゃ、お前らもここにはいねぇよ」 あ、そっかと合点の行った様子で頷く悟空に激しい頭痛を覚える。 そもそも彼らは妖怪と言っても一般見解からはみ出していて、 正確にその枠組みに当て填まるかとどうかと問われると如何とも答え難い。 悟浄はヒトと妖怪が交わったもの。 八戒は妖怪大量虐殺が故の後天性のもの。 そして悟空は、形容すべきカテゴリがないと言うのが本当の所だ。 妖怪でもなくヒトでもない、 神と等しいかそれ以上のチカラを持つ大地より生まれた限りなく純粋なるもの。 彼らは、それこそ神すらも彼を何と呼んで良いものか考えあぐねている。 「昔はこの里にも妖怪はいたらしい。だが桃源郷の異変が起きた頃、自我が残っている内に、自ら結界の外へと出て行ったのだと聴いた」 「それはまた興味深い話ですね」 「起きてたのか」 「だってお前ら煩ぇもん」 「悪かったって」 三蔵に倣うようにして、悟浄と八戒もごそりと身を起こす。 「他の方々に危害が及ばないように?」 八戒が訊ねると、面倒臭そうに三蔵は頷く。 「へぇ、殊勝なこって」 紅い髪を耳に掛けて、悟浄は喉の奥で笑う。 口調こそ軽いが、悟浄にも八戒にも嶮しさが滲んでいる。 膝を立て、八戒は微かに眉根を寄せて目を細めた。 不味いことにならないと良いのだが、と言外に示している。 夜明けが近い。 新月が訪れ、祀りが始まる。 終われば彼らは出立出来るのだが何故だろう、 胸につっかえたものが動こうとしない。 どうやらそれは三蔵や悟空だけではなかったらしく、 悟浄は誤魔化すように頭をがりがりと掻いた。 「なぁんか、ここ来てから夢見るんだよな。憶えてねぇけど」 「僕もです。全然憶えてないんですけど、誰かが」 「泣いているような夢、か?」 悟浄と八戒はゆっくりと三蔵を見やる。 俺もだと呟く彼に顔を見合わせ、3人は悟空へと視線を動かした。 「多分、俺も同じだと、思う」 感覚しか残っていない為か、歯切れの悪い物言いで悟空も頷く。 繋がる夢の意味は分からない。 この地に宿るものが視せているであろう夢。 ならば、それは何を告げようとしているのか。 「何で、泣き顔ばっかなんだろな。誰も、泣きたいほど辛いことなんて望んでないのに」 『誰が望むと言うのでしょう』 三蔵は重なった幻影に顔を上げる。 見開かれた目に映るのは深遠の闇。 ばらばらだった記憶のピースがかちりと填まって行く。 「…望まれない、祀りだ」 「三蔵?」 (思い出した) 何故あんなにも、彼の師が嫌悪を見せたのか。 月龍信仰の因習を善しとしなかったのか。 訝しげな視線を向ける八戒に答えるでもなく、三蔵は口を開いた。 「この地には、ヒトの血が染み込んでいる」 「―――いいえ、この桃源郷全てにございます」 荒々しく扉が開かれ、10数人の衛兵の手に掲げられた松明が部屋を明るくする。 それぞれが得物を持ち、部屋へと雪崩れ込む。 窓の外を見やったが、そちらにも人影がある。 どうやら囲まれたようだった。 三蔵達は反射的に寝台から降りて身構える。 数人の女官を従え、槍や剣を携えた衛兵で三蔵達を囲んだ張本人は見えない目を閉じたまま、 悠然と彼らの前に進み出た。 「随分と丁重なもてなしだな」 動じる様子も見せずに、彼らは老巫女の言葉を待つ。 操られている訳でも無ければ、妖怪でも無いヒトに刃の矛先を向けるような真似はしない。 だがそれよりも何よりも、 部屋を囲む衛兵にも老巫女にも露ほどの殺気や敵意を感じられないのが、 彼らが戦闘体制に動かない1番の理由だった。 「真夜中のご無礼、重々承知しております」 しゅるりと衣擦れの音が響く。 ひとりの女官に手を引かれた老巫女は恭しく膝を付き、頭を垂れた。 「ですが、祀りを妨げられる訳には参らぬのです」 「分かっているのか、貴方がたが何をしているのか」 「どうして存ぜぬとお思いになるのか。皆、承知の上にございます」 頭を垂れたまま、老巫女は皺枯れた声で朗々と言の葉を紡ぐ。 静か過ぎる声音はまるで、込み上げて来る感情を押さえ付けているようだ。 「ならば、皆同罪だ」 吐き捨てるように言う三蔵に、悟空は同罪、と口の中で反芻する。 彼が何を以って罪と言う言葉を選んだのか分からなかったが、 敢えて問わずとも答えはすぐそこまで来ているような気がした。 「罪と、仰せになりますか」 気付けば、三蔵達以外の者は痛みを堪えるようにきつく眉根を寄せ、 唇を真一文字に引き結んでいた。 彼らはきっと分かっているのだ。 三蔵の言葉を否定する術も持たないことこそが肯定の証。 「どういうコトだよ、三蔵サマ。この婆ちゃん誰?」 老巫女と初見であった三蔵以外は彼女が特別な地位にあることは理解したが、 どのような立場の者かは知り得ない。 だが億劫そうな三蔵が答える前に、長老を務めている先々代の巫女だと彼女は名乗る。 三蔵は老巫女を睨んだまま続けた。 「月龍信仰における100年に1度の祀り、失われたものを補うのだと言ったな」 どくん、と悟空の心臓が跳ねる。 血が逆流するようだと速く鳴り続ける鼓動を服の上から抑え付けたが、 冷たい汗がどっと吹き出て少しも落ち着く気配がない。 「ソレが失われた所為で均衡が崩れた。桃源郷全てと言うのなら、全土に関わるようなもの」 老巫女は狼狽する様子も見せずに三蔵の言葉に耳を傾けている。 全て理解しているのだと言ったのは強ち嘘ではなかったらしい。 「後継となったのが月龍、今お前らが信仰しているヤツだ」 何故師がそれを知り得たのか分からなかったが、 彼の台詞を思い出した三蔵の言は何よりも真実に近い。 「だが失われた均衡を補い切れなかった月龍が選んだのは、ヒトの持つ強い巫力、霊力」 承知の上だと老巫女は言った。 同罪なのだと三蔵は言った。 ならば何を以って罪とするのか、ここまで言われれば厭でも察する。 悟空の胸騒ぎは決定的なものとなる。 「失われたものとは500年前に隠れた神、補われるのは強いチカラを持つ人間――つまり朝煌は贄だ」 全員が息を呑んだのが分かった。 悟空は言葉をなくし、鼓動が治まらずに三蔵を見やる。 悟浄と八戒は漸く朝煌の台詞の意味を知る。 ―――皆、はしゃいででもいないと落ち着かないのでしょう だから彼女はあのときそう言ったのだ。 「…朝煌は、微笑っていたんですよ」 皆、はしゃいででもいないと罪悪感と哀しみに押し潰されてしまうだろうから、と。 そう、微笑って言ったのだ。 誂えていたのは儀式の為の晴れ衣装ではなく、死に装束に等しいもの。 朝煌は分かっていて、全てを受け入れたに違いない。 聴かされた事実に愕然とする。 「そんなことって、あるかよ」 笑おうとして笑えずに、悟浄にしては珍しく憤りを見せた。 死を恐れぬはずがない。 栄誉だと、喜んで受け入れるはずなどない。 それでも彼女は受け入れなければならなかったのだ。 幼き身に重責を背負い、毅然と振舞わねばならなかったのだ。 里の者ではない彼らには惨いとは言えない。 彼らには彼らの護るものがあって、それを三蔵達に理解されずとも構わない。 「婆ちゃん達、ヘーキなのかよ!」 堪らず叫ぶ悟空に、老巫女は顔を上げた。 「そんなの神様じゃないじゃん!ヒトを喰ってる妖怪と同じだ!!」 「貴方がたも妖怪でございましょう」 隠していた訳ではなかったが、 知られずに済むのならそれに越したことのない言い当てられた事実に怯む彼らに、 老巫女は続ける。 「同じだと言うのなら、貴方でしたら平気ですか」 「俺は、ヒトなんて喰わない」 「神とてヒトを口にはなさりません」 光を宿さぬ瞳に少年の姿が映る。 困惑した表情を浮かべた悟空には老巫女が言わんとしていることが分からない。 「それでも求めねばならなかった月龍が御心を痛めぬとお思いですか」 ―――お前達に私を赦してくれなど、言えない 神にも心はある。 以前、悟浄と八戒はそれを目にしている。 鼻を鳴らしてふんぞり返る偉そうな神様ではあったけれど、 確かにあれは己が意思と人格――と言ってもヒトではないが――を持っていた。 三蔵が面識のある三仏神にしてもそうだ。 彼らは助言と共に自身を喪失していた三蔵を叱責もした。 彼らに心がないのだと、一体誰が言えようか。 「でも、だからって」 「悟空」 今にも泣き出しそうな悟空は三蔵の声に弾かれたように顔を上げる。 ならば、どうする。 ならば、どうしたい。 いつもだったら、どのように行動していた。 (俺は、もう) 「ごめん!」 悟空は三蔵に向かって頷くと、高く跳躍し出入り口を目指す。 いち早く気配に気付いた老巫女が少年を阻む為の指示を出した。 慌てた衛兵達が得物を構えるが、 戦闘に措ける天賦の才と実戦経験の豊富な悟空の動きには間に合わない。 「悟空!静夜を連れて里の外れの池へ向かえ!!」 走り出す悟空の背に向かって三蔵は叫ぶ。 何故、と疑問を三蔵に投げることも無く悟空は大きく分かったと返した。 彼が言うのであれば、きっと意味があるのだと言う確信を少年は持っている。 少年を留めようと手を伸ばした老巫女に従った衛兵達は突然の銃声に動きを止めた。 天井に向かって銀の短銃が薄らと一筋の白煙を吐き出している。 真っ直ぐに伸ばされた腕はゆっくりと銃口を老巫女達へと定めた。 撃つ気が無いにしても彼の意は読み取れる。 目が見えないだけ老巫女は気配に敏感なのだろう、 一挙一動が手に取るように分かるようであった。 「本当に、貴方は聡いお方であらせられる」 老巫女はきつく寄せた眉根を段々と落として行く。 悟空の背を追い駆けようとした衛兵達を制し、老巫女は深い溜息を吐いた。 「選んだのはアイツだ」 自分に責任は一切ないとでも言うように、三蔵は構えた短銃をゆっくりと下ろす。 「あぁなったら無理だぜ、婆ちゃん」 「育て親が育て親ですから、あれでも1度決めたら頑固ですよ」 「…育てた憶えは無ぇ」 渋い顔を見せた三蔵だったが数年ほどは間違いなく彼が保護者であるのだから、 影響が全くないとも言い切れないが、 その辺りは捨て置くつもりのようだった。 彼らの軽口に小さく首を振る老巫女の表情は晴れない。 「何故邪魔立てなされます。祀りの妨げは桃源郷秩序の崩壊に繋がると言うのに」 大げさにも聴こえるそれは、老巫女にとって古くより聞かされてきた事実であり真実。 「歳若い少女を捧げること、納得していない貴女がそれを仰るのですか?」 明るい中にあった彼らの暗い影の理由は知れた。 朝煌は誰からも好かれていて、巫女としての責を全うしていた。 そんな彼女を送り出す彼らに躊躇いが無いと誰が思うと言うのか。 いつも微笑みを湛えた女官達の面差しにすら哀しみが宿っているのを見れば一目瞭然だ。 誰も望んでいない祀り。 けれど執り行われなければならない祀り。 本当に他の方法は無いのだろうか、見つけられないほど困難なのだろうか。 月龍の里に伝えられている祀りによって大地の気脈を補う贄を立てねば、 ゆっくりとだが確実に桃源郷の一部は永遠に失われてしまう。 500年前後継となった月龍とは天津神であり国津神。 月に宿る神のひとつでありながら竜脈が辿る大地と水を司る龍の姿を成している。 だが隠れてしまった先の祀られていた神のチカラがどれほど強大だったとは言え、 仮にも後継となった月龍が補い切れないとはどういうことだろうかと疑念が生まれる。 今まで祀られていた神がいつの間にか挿げ替えられていると言うのは珍しくない話だ。 政や刻の権力者によって信仰する神が代わるのも然り、廃れ忘れられてしまう神もある。 天津神とは空を支えるもの、国津神とは土地を守護するもの。 代替わりしたのであれば、代替わりした神がその土地を護る。 そう、元々あるものに付き、護るだけなのだ。 神は万能であるが故に無力、強すぎるそのチカラはヒトの世に影響を及ぼし過ぎる。 だからこそ三蔵法師のような限られた者の前にしか姿を現さないし、 その姿を見せる神も多くの中の本当に一握りでしかない。 神は何をするでもなく、在るだけで良い。 神の多くが伝承の中でしか生きられないのはそういうことなのだ。 だとするのなら、常人には姿の見えない先の神が隠れたことを告げたのが月龍だとして、 何故わざわざ明言する必要があったのか。 隠れたと言わねば彼らは先の神を祀り続けていたであろうにも関わらず、だ。 考えられるのは、 先の神の身罷った理由がつまびらかに出来ないやんごとないものであったか、 祀られていた神が外道に落ちたか、 あるいは天津神の世界に措いて抹消せねばならない理由が出来たか。 それとも、もしかすれば―――…。 神々の事情などこちらには正直どうでも良い、関わり合いの無いことだ。 だが、月龍はヒトを関わらせねばならなかった。 「神様が死ぬとかあんの?」 「滅多なことではございません、けれど覆すような何かが起こればあるいは」 彼らが知り得ぬ因果は、その覆すような何か。 殺生を禁忌とする天界を血に染めた、500年前に起こった現世への絆に連なるもの。 唯一知り得ているはずの幼子の記憶は未だ混沌の底だ。 「月龍は、ヒトの命を以って何を補おうとしている」 桃源郷の秩序、一体それは何を指すのか。 ひとつ深い息を吐くと、老巫女は女官をひとり残して人払いをする。 椅子に腰を下ろした彼女に倣うように、三蔵達もまた各々の寝台に腰掛けた。 「…先の神が身罷られた際、残されるものが残されなかったのだと」 昔話をするように、ぽつりぽつりと老巫女は記憶を紐解いていく。 彼らが、老巫女ですら知り得ぬ古より語り継がれて来た伝承は、 伝説ではなく確かに在った事実。 そうでなければ、彼らが100年に1度わざわざ贄を差し出す必要などどこにも無いのだ。 「命あるものの魂は死した後に魂と魄に分かれ、魂は現世に残り魄は輪廻へと向かう」 魂は精神、魄は肉体を動かすもの。 輪廻へ向かう魄には、転生した際に新たな魂が宿る。 心と呼ばれるのはこの精神を宿す魂の部分だ。 残された魂は大抵が眠りに就き、長い刻の中で昇華されるか、 あるいは人神として祀られて神の化身となることもある。 道を外れれば鬼となることも、ままあった。 そのようにして輪廻転生は繰り返され、自然のサイクルは廻り続ける。 「神は何をするでもなく、あるだけで良い。神であれば魄が輪廻へと向かっても魂は身罷られる以前通り桃源郷の一部となり続ける。だからもし神が隠れられたとしてもヒトの世に影響を与えることはない、はずだった」 「と、言うと?」 「どういう訳か、先の神は魂魄が分かれることなく身罷られたらしいのです」 万物全てに神は宿る。 神とは世界を成す基盤。 隠れたとしても魂は残るのだから、 災害やヒトの手に拠って土地や自然物が朽ち果てたとしても、いつかは在るべき姿に戻る。 けれど基盤となるべき神の魂が離れたとなれば話は別だ。 ヒトが何をせずとも滅び行き、何をしようとしても成すことが出来ない。 「月龍は先の神の眷属。後継には申し分無かったのですが先の神のチカラが大き過ぎ、御神が失われた魂を補うには手に余ったのでございます」 「先の神の名は何と言ったか…確か」 三蔵は師より継いだ知識の糸を手繰り寄せる。 幼い頃から教養には事欠かない寺院と師を持ったお陰で、 幸か不幸か至る方面の膨大な知識を修めていた彼はどの糸が望む意識へと繋がっているかを模索せねばならない。 漸く思い当たった記憶が浮かび上がる前に、老巫女は恭しく口を開いた。 「御名を―――『太真王夫人』と」 それは失われた刻の、失われた神の御名。 土埃に汚れた身体を浴室で洗い流され、黙っている内にも侍女達が清潔な服を着せていく。 まるで人形のようだと自嘲するも、表情に出すまで叶わない。 乾かされた床にまで届きそうな結わえていない蒼い髪がふわりと揺れた。 侍女達を皆下がらせて力なく椅子に掛けてみても、 現実味を微かにも帯びてくれない意識は熱に浮かされている。 何をしているのか。 自問自答を繰り返しても答えは出ない。 (どうして、このようなことに) じわりと目頭が熱くなる。 眠りに就いて目が覚めたとしても、彼らはもうどこにもいない。 彼女の目の前を、止める間もなく走り抜けて行ってしまった。 彼らの目に彼女の姿は映らず、声は届かず、倒れた血塗れの幼子の遺骸だけが残された。 相変わらず謁見の間付近は騒がしいようだが、 さすがに天帝の縁者の館となれば先程の騒ぎを届かせようとする者もいない。 静かだった、不自然なほどに。 泣いても叫んでも、これは現実なのだ。 「太真様」 生絹の垂れ衣の向こうから、年嵩の――それでも十分若い――女が静かに声を掛ける。 敬称と部屋に控えていたことから察するに従者だろうか。 切れ長の目は気遣わしげに太真王夫人を映すが、彼女の瞳には女の姿は映らない。 今目の前にある全てが、彼女の目には映ってはいない。 「…ひとりに、して」 白い夜着がしゅるりと衣擦れの音を生む。 ぽたり、と太真の手の甲に雫が落ちた。 ほとほとと零れ落ちるそれらが温かいのか冷たいのかすら彼女には判別が付かない。 「天帝が謀反人共の手に掛かり、お隠れになったとたった今火急の報せが」 太真はゆるゆると蒼白になった顔を上げ、女を凝視する。 控えめな銀の装飾品が耳と首元を彩り、長身を際立たせる裾を床に広げた細身の着衣。 黄金とも白銀とも付かぬ色の髪は高い場所でひとつに結い上げられ、背中に流されている。 いつもと変わらない彼女に、太真は呆然と声を絞り出した。 「どうして…だって、あのとき」 瑠璃色の瞳は信じられない事実を受け止めきれずに震えるばかり。 何が起こっているのか分からずに、理解する前にまた新たな事実を突き付けられる。 (あのとき、彼らは天帝の御座所へなど向かわなかった) 言葉にしようとして、太真は訝しげに形の良い眉を顰めた。 不安が込み上げる。 天帝からの縁によって確立されている己が立場などどうでも良い。 彼の死を悼む思いも、哀しむ気持ちも確かにある。 思わず零れた涙は、確かに天帝へのものだ。 だが明らかに何かがおかしい。 ナタクを使い策略を企てていたのは李塔天であるはずだった。 目障りな金晴眼を持つ幼子を殺めようとしていたのも彼だ。 まるで自分が天帝に成り代わったかのように振舞っていたのも。 (何かしら、違和感…) ナタクは人造物だと噂されていた。 もしそうだとするのなら、李塔天はどこからその知識を手に入れたのか。 たったひとりで神を模したそれを成したと考えるには、 あまりにも李塔天を買い被り過ぎのような気がしてならなかった。 野心が強いことは重々承知していたし理解もしていたが、 彼にそのような知識や力があるなど聴いたことがない。 (私は、私達は何か大事なことを見誤っている…?) ひとりで成したとは思えない研究。 ナタクを利用したからと言って、 あそこまでのし上がるには少々足りないのではないだろうか。 足りないのであったとするのなら、ひとりで成したとは思えないのだとしたら。 (まさか) 太真は思い当たった予想に愕然となる。 否定したい、否定してしまいたい。 手の、身体の震えが止まらない。 (そうだわ、ひとりで成し得るはずがない) 否、ひとりで成し得ようとするはずがない。 李塔天の動きはあまりにも突然で派手過ぎる。 言い換えるのであればわざと彼を立ち回らせているような感覚。 (隠れ蓑…違う、李塔天すらも利用、しているつもりで、されているのかも?) 動けば動くほど、見失って行く。 彼らの成した暴動が契機となり、動き出したに過ぎないのかもしれない。 そうしてそれら全てが計画通りなのだとしたらこれは。 ―――造、反…? 立ち上がろうとした太真は、あぁ、と声無き声で崩れ落ちる。 駆け寄った従者であろう女は倒れかけた彼女を両腕で支えた。 「…止め、なくては」 (金蝉達を、護らなくては) このままでは彼らは利用され、挙句闇に葬られる。 太真はよろめく身体を奮い立たせ、己が両足でしっかりと地を踏み締めた。 瑠璃色の瞳から一切の迷いは消え失せている。 夜着を脱ぎ捨て、衣装の並ぶクロゼットから衣を取り出すが、 何から何まで侍女達の仕事であるが故に太真は着替えひとつ自分では出来ない。 手を拱いている太真の傍へ歩み寄り、女は手慣れた様子で服を着せていく。 最後に腰の紐を結ぶと椅子に太真を掛けさせ、今度は髪を結い始めた。 「私はいつも甘えてばかりね」 飾りで髪を留め、編み込まれて行く髪も無駄になるかもしれない。 思いながらも着飾られていく己が姿を鏡越しに見やった。 微熱が続いていることを知っているはずなのに、 敢えて何も言わずに太真を手伝ってくれる彼女にもう1度そっと感謝した。 太真の眷属である彼女が、悟っていないはずがないのだ。 結い上げられた髪に触れていた手が止まる。 「太真様」 「良くないことが、起ころうとしている」 「いいえ、我が君」 「行かなければならないの」 「なりませぬ」 声を荒げそうになるのを必死に堪える女に、太真は優しく微笑んだ。 立ち上がり、自分よりも高い目線を見上げて捉える。 纏う衣の裾が柔らかく弧を描いた。 「お願い、行かせて」 決して覆らないのだと分かっていて、それでも女は彼女の前に立つ。 「なりませぬ」 天帝に弓引くものが現れたとなれば、縁者である太真の身も危うい。 主人を護ろうとする彼女の考えは正しい。 けれど混乱している天界において、 何が正しく何が間違っているのかを理解している者がどれだけいるのだろう。 護ろうとする者からの見解がいかに正しくとも、 護られる者が護ろうとする者への見解は違うのかもしれない。 「行かせて、月龍」 手に出来るはずだった林檎はとうに転がって見えなくなった。 聴こえるはずの喧騒も遠くに行ってしまった。 ずっと護られていたのは自分で、護りたかったのは彼らだった。 彼らの為にありたいと願うのはまやかしではない。 他の誰を犠牲にしても、彼らの無事を冀う。 迷いを捨てた彼女の瞳に、月龍はどうすることも出来ない。 かと言って道を開ける訳にも行かなかった。 太真は顎を引いて、真っ直ぐに月龍を見据える。 卑怯だと分かっていても言うしかなかった。 凛とした声音が響く。 「道を開けよ、月華龍世王。主の命が聞けぬと申すか」 否と答えることが出来ない命令。 彼女は決してどんなことであっても、己が立場を盾に命じることはなかった。 それでもそうしたのは、 そうしなければならなかったのは最後まで己が身を憂う従者を護ろうとせんが故。 息を呑んだ月龍は目を伏せ、脇に避けて主の背を見送るしかない。 何かを言いかけた口元は引き結ばれ、悔しげに歪められた相貌に切なさが漂う。 「彼らがいなければ、私にとってこの天界など意味が無いの」 扉に手を掛けて背を向けたまま、太真は呟いた。 彼らがいないのなら、平穏も倖せも色を失う。 月龍へごめんなさいと告げるのは違う気がした。 ありがとうと告げるのも傲慢な気がした。 だから、何も言わない。 最期だと決め付けて言葉を選ぶことはしない。 「あぁ、そうだわ」 ふと、彼女の半分が宿る大地を思い出す。 いつだったか捧げられた白い花を幼子に差し出せば、屈託のない無邪気な笑顔が返ってきた。 白い花の芳しい香は太真が最も好み、慈しんだものだ。 彼女の守護する大地を飾る、月の花。 ―――もう、見られなくなるかもしれない だから、他愛ない願いを唇に乗せる。 「月来香を、お願いね」 遠い遠い未来まで、月の花が咲き誇るよう。 悟空は黎明の宮を目指して走る。 追って来るかと思われた衛兵達の姿はひとりも見当たらない。 不思議に思いながらも、どうせ三蔵達が暴れているのだろうと見当をつけて自己完結させた。 悟空は元来、考え込むような頭を持ち合わせていない。 「静夜ぁっ!!」 静夜の宮が近くなると、悟空は待ちきれずに叫んだ。 今は真夜中だ。 しかし先程の老巫女の口ぶりからすでに祀りが行われていることを考えれば、 静夜も眠ってはいない気がした。 そして、物忌みだから部屋から出られないと言った彼女が、 祀りへ向かう朝煌の護衛をしているとも思えず、 彼女が部屋から出ていないのだと確信にも近い予感が悟空の中にはあった。 黎明の宮を囲んでいる格子を飛び越え、少年は勢い良く締め切られた扉を開く。 「悟空?!」 寝台の横に膝を付き、窓から新月が浮かんでいるであろう空へ向かって祈りを捧げていた静夜は、 真夜中の突然の来訪者に目を丸くして驚いた。 「何でこんな夜中に、ううん、そうじゃなくて近付いたら駄目だって」 「行こう、静夜!」 「え?」 「朝煌のトコ!こんなの間違ってる!!」 間違っている。 そう言い切った悟空の来訪の意味をようやっと知った静夜は、眉根を寄せて視線を泳がせた。 異邦者だから、何も知らないからそのようなことが言えるのだと、 昼間三蔵に向かって簡単に言えた台詞が少年には言えない。 それほどまでに悟空の言葉は何を含むでも無く真っ直ぐで純粋だ。 「駄目、だよ…だっ、て、祀りは、桃源郷の…」 言い淀む静夜に追い討ちをかけるように、彼は彼女の腕を引っ張った。 「他のことなんてどうでも良いよ!静夜がどうしたいかだろ!?」 ―――そんなものはただの言い訳だ 引かれた腕の痛みで、静夜は現実を思い出す。 幼い頃から共にあった片割れはいつも穏やかに微笑んでいて、 神託を受け、祀りの真実を知って涙を流した静夜にも大丈夫だからと繰り返した。 『だいじょうぶよ、静夜。だって私はこの世界に生き続けるのだもの』 ずっと、静夜の傍にいるわ。 自分よりもずっと弱々しい手がそっと肩を抱き締めた。 静夜はそのときに決めたのだ。 『じゃあ、護る。私が朝煌をずっとずっと護ってあげる』 では『ずっと』とはどこまでが『ずっと』なのだろう。 知っていたはずだ。 理解っていたはずだ。 心の底では、望んでなどいなかったことを。 「私は、朝煌を護りたい…っ」 選ばなければならなかった。 そうして、彼女は選んでしまった。 もう後には引けない。 想いが籠められた言葉とは絶対の呪なのだ。 「行こう!」 静夜は悟空に向かって頷き、黎明の宮を飛び出した。 数人の女官と衛兵達に見守られ、朝煌は湖の畔に佇んだ。 月は全て隠れ、朔の夜は訪れた。 煌びやかに飾られた巫女装束を纏い、水面に1歩足を踏み出す。 身体の重みで沈むことはないらしく、少女は波紋を描きながら水面を歩く。 踏み出す度に足元から段々と形成されていく本殿が淡く白い光を放ちながら姿を現した。 少女が実際に目にしたのは初めてだ。 水面から生える灯篭、石畳、壁、御柱は拝殿の造りによく似ていて、 何もかもが白で統一された本殿は湖に浮かぶようにして聳え立っている。 朝煌は入り口に辿り着くと、深呼吸をして本殿を見上げた。 眩い白に目を細め、ゆっくりと目を閉じる。 浮かんだのは幼き日。 真実を告げられたその日、涙を流した静夜はまるで自分の代わりに泣いてくれたように思えた。 他の誰でもなく彼女の為になら桃源郷の礎になることも構わないと思った。 『私が巫女だったら良かったのに』 そう言って、泣きじゃくる静夜を見たのはそれが最後だった。 彼女は決してそのときから泣き顔を見せることはなかった。 近衛として朝煌に仕えることを決めたのもきっとそのときで、 静夜は15歳の2度目の神託を授かってからとうとう他人行儀に巫女様と呼び始め、 彼女を名前で呼ぶことも無くなった。 幼い少女達はそれぞれの胸に誓いを立てたのだ。 ひとりでに開いた扉に、迷うことなく朝煌は足を踏み入れる。 ひやりとした空気が肌に纏わり付く。 巫女装束の後姿が全て本殿へと納まると扉は音も無く再びひとりでに閉じられ、 湖に浮かんでいたはずの本殿は姿を消した。 水中とは言え、外界とは違う空間にあるらしい本殿の中はがらんどうとしており、 自分の最期はこんなにも静かなものかと朝煌は拍子抜けする。 四角に割られた白い石が敷き詰められた床が広がる奥には、 部屋の半分ほどもある水鏡があり、その水面に長身の女が佇んでいる。 本殿の造りも老巫女から教えられていた通りだとするのなら、 彼女が月龍だろうと朝煌は進み出て膝を付いた。 「此度の祀り、執り行うのはそなたか」 「左様にございます」 なるほど、と月龍は頷き、すぅっと腕を前へ伸ばした。 朝煌の足元に梵字や様々な文様を絡ませた方陣が浮かび上がり、淡く白い光が漏れ出す。 「そなたの魂が永劫安らかなることをここに、約束する」 月龍の佇む水面がざわざわと騒ぎ出した。 朝煌は静かに頷くと立ち上がり、目を閉じる。 重ねられた両手が震えることはない。 この日の為に朝煌は生きてきた。 護りたいものがあったからこそ、迷うことなく使命を全う出来た。 心残りがあるのだとしたらそれは、彼女の笑顔を見られなくなること。 彼女の声を聴けなくなること。 彼女と2度と、会えなくなること。 ―――貴女が私の為に泣いてくれたから、私は貴女を護ろうと思った 選ばれなかったことに安堵するでもなく、選ばれた彼女を励ますでもなく。 ただ涙を流してくれた静夜が朝煌を護ると言ってくれたから、 朝煌も静夜を護りたいと思った。 月龍の為にでもなく、里の為にでもなく、桃源郷の為にでもなく、 静夜の為だけに生きようと誓った。 2人だけの家族、双子の片割れ、少女達は2人でひとつだった。 例え彼女を欺き続けることになろうとも、 彼女を護ることが出来るのならそれで構わなかった。 真実を知った静夜が騙されていたのだと憎んでも蔑んでも厭わない。 彼女だけが、朝煌を朝煌として護ってくれる唯一。 「…迷いは、無いのか」 月龍が口を開くと、朝煌は閉じていた目を幾度か瞬かせる。 酷く不思議そうな面持ちの後、にこりと微笑んだ。 「私は静夜の為に生きて来たのですもの」 「その意味を、分かっているのか」 「そのつもりです」 「里の者達を憎いとは思ったことは」 「ございません」 月龍の言葉を遮り、朝煌はきっぱりと言い放った。 生まれたばかりの幼い少女を巫女として担ぎ上げ、硝子にでも触るようにして扱われた。 最初からそれは決められていたこと。 幼い胸の内に真実を秘めることすらも決められていたことなのだ。 「静夜のいない世界なんて、私にとって何の意味も無い」 だから、迷うことなど無かった。 もし静夜が身勝手な人間だったとしたら、恨むことも嘆くこともあったのかもしれない。 どうして自分ばかりがこのような思いをせねばならないのかと、 誰かを詰らねば気が済まなかったのかもしれない。 けれど彼女は朝煌を護ってくれた。 たったひとりの家族として、愛してくれたのだ。 「もし彼女がまた私の為に泣いてくれたとしても、私は自分の選んだ道を後悔など致しません」 決して。絶対に。 朝煌は凛とした瞳を月龍へと向けた。 (まただ) 似たような台詞を聴いたことがあった。 それは女神がとうとう理解出来なかった想いにとてもよく似ていた。 ―――彼らがいなければ、私にとってこの天界など意味が無いの 揺るがないはずであった神位を持ち、 護られ、愛されながら生きていた月龍の主はある日突然、姿を消した。 神とて器がある限り、何らかの理由で命が絶たれれば遺骸が残る。 だが、彼女はそれすら残さずに魂魄全てを持って輪廻へと向かった。 輪廻へと組み込まれてしまえば、 そこから先へは例え最高位の神格を持っていたとしても手出しが出来ない。 輪廻とは世界の理、世界の中に存在する神もヒトもそれ以上へは絶対不可侵なのだ。 「ならば、もう何も言うまい」 月龍は前へと差し出していた腕を横へ凪ぐ。 足元で揺らめいていた方陣が宙へと舞い上がり、光と共に朝煌を包み込んだ。 眩い光ではなく、柔らかな淡やかな光。 月明かりと同じ色とぬくもりを宿して方陣は丸く繋がり、膨れ上がる。 羅列された文様はさながらたまご形の格子の檻のようで、そこから零れる光は粒子となってはらはらと散った。 暫くすると段々と床側から方陣を形作っていた墨が薄まって行き、 粒子となった光もまた彷徨いながら姿を消して行く。 ゆっくりと全てが掻き消えれば、確かに朝煌がいたはずの場所には光の残骸が漂うだけだった。 「…何故こうも、今になってあの頃を思い出すのか」 月龍は微かな予感を憶えていながらも、朧げで曖昧な感覚を信じられずにいた。 ただの彼女の独り善がりな望みが現実のような気がしただけなのかもしれない。 だったらそれは500年前のあの日からずっと続いているものだ。 気のせいだと否定出来てしまうくらいの予感であるのなら、 老巫女に告げるべきではなかったと月龍は自分の軽率さに閉口してしまう。 口は災いの元とはよく言ったものだ。 だが月龍は失念していた。 言の葉とは呪、現を具現化させる呪物であるということを。 仮にも神格を持つ月龍が何も感じずして思わずして、 本人がそれと気付かなかったとしても意味の無い言の葉を紡ぐことなど無いのだ。 神が神である限り、全ての言葉、行動に意味がある。 不幸だったのは、月龍がまだ後継神としての自覚を不確かなものとし、 最も信ずるべき己を信じられなかったことだろう。 静夜と悟空が辿り着いたのは朝煌と本殿が消えたすぐ後らしかった。 一瞬だけ里を覆っている霧が晴れて古い結界が崩壊し、 すぐに追いかけるようにして新しい結界が霧と共に訪れた。 「何だ、今のッ?!」 「祀りが終ったんだ」 簡潔な答えに悟空は走りながら振り返る。 悟空の目に、懸命に駆けて来た静夜の瞳に微かに揺らぎが見えたのもほんの僅か。 まだ諦めていない彼女に悟空は力強く頷いて見せた。 物忌みで篭っているはずの静夜が姿を見せて驚いた様子の女官達を問い詰め、 新月であるはずなのに望月の浮かぶ湖を顧みた。 彼女達の制止を振り切り、静夜と悟空は湖の畔で底を覗き込む。 彼女達が近付かないように簡単な結界を張った。 巫力の弱い静夜でもこれくらいの芸当は出来るのだ。 水深すら目測出来ない暗闇がだんまりを決め込んで悟空達を薄らと映し出した。 「なぁ、ほんとにここに朝煌がいんのか?」 「月龍の本殿は湖の底にあるのだと聴いた。尤も、空間は違うらしいんだけど」 よく分からないままに、悟空はへぇと頷く。 だがしかし、本殿は祀りと神託を授かる際にしかも巫女の前にしか現れないと聞き及んでいた。 本殿が受け入れるのもまた巫女だけで、彼らは足を踏み入れることすら出来ない。 (どうする) 静夜は湖の水を掬ってじっと見つめる。 溜まっていた水は指の間を潜り抜け、湖へ還ろうと腕を伝った。 気持ちばかりが逸り、考えが上手く纏まらない。 「あの映ってる月もヘンだけど、湖の中なんてどうやって立てたんだろ」 悟空も湖に腕を突っ込むが、掴めるものなど何も無い。 「元々地上にあったらしいよ。でも500年前、巫女以外誰も立ち入ることが出来ないように月龍が別空間に移動させたんだ。要するにカミサマがより強い加護を齎すには不浄を持ち込まないのが一番だってこと。湖に映る月は本殿の姿、異空間を通すとあんな風に見えるんだってさ」 がしがしと頭を掻き毟り、口の中でくそ、と毒づく。 肝心なときに、いつも自分は役立たずだ。 同じ新月生まれでも戦闘能力ではなく母の巫力を色濃く継いだのは朝煌だったし、 新月生まれの伝えの通り戦闘能力ばかり高い静夜ではこんな場面に出くわしても助けにもならない。 (考えろ、考えろ、考えろ。何かあるはずだ、確か…異空間とこちらを繋ぐような呪言が) 駄目だ、駆使出来るほどのチカラが自分には無い。 焦る静夜が分かっているのか、敢えて悟空は何も言わない。 言えば考えの邪魔になるのだと知っているのだろう。 他称保護者が考えごとをしているときに口を出せば、 すぐにハリセンだの銃弾だのが飛んでくる事例が身に染み付いているのかもしれない。 「私にも朝煌みたいなチカラがあったら…」 「あのさぁ」 隣でちょこんと首を傾げた悟空が静夜の顔を覗き込む。 「ソレ、前にも言ってたけどさ。もしかして気付いてねぇの?」 能天気にも思えた少年の台詞に、静夜は剣呑さを帯びさせて応えた。 最初に会ったときと同じ八つ当たりだと感じたが、 口に出してしまったものは仕方が無い。 謝ろうとしたが、気にも留めていない悟空は続けた。 「朝煌じゃなくて静夜のが、断然強い」 「―――…は?」 少年の単純過ぎる物言いを静夜は上手く咀嚼することが出来ない。 だから、と悟空は繰り返した。 「何で分かんねぇかな。静夜、もしかすると三蔵よりも強いチカラ持ってるじゃん」 一笑しようとした。 しようとして、出来なかった。 考えたことも無かったのだ、事実彼女がチカラを行使する機会など皆無。 静夜の巫力は一般人のそれと等しいのだと老巫女だっていつか言っていた。 自分で朝煌との巫力の差を視たことがあるが歴然としていたのを憶えている。 老巫女の言ったことが真実で、悟空の言うことも真実ならば、 静夜のチカラは自分も気付かない内に封じられていたと考えるに容易い。 (でも、何の為に?) 自分など謀って何になると言うのか。 理由が全く思い当たらない。 (朝煌の巫女としての地位を絶対とする為?) だがそんなことをしなくても神託は絶対だ。 朝煌と静夜が真逆のチカラを宿していたとしても、 月龍が巫女を定めたのであれば覆ることも無い。 ならば何故、静夜のチカラを封印しなければならなかったのか。 (…何だ?何かが、おかしい) 静夜はここに来て初めて心に痞えをを感じた。 これまで当然だとしか思えなかったことが、今になって疑問に掏り替わって行く。 「静夜?」 黙り込んでしまった彼女を不審に思い、悟空は水面ばかりを見つめる静夜を覗き見た。 (考えるのは後だ) 良い考えではなく疑問ばかりが浮かんでくる頭を大きく振って、静夜は勢い良く立ち上がる。 悟空は顔を上げて、立ち上がった静夜を仰ぎ見た。 「諦めて、堪るかっての…!」 ぱん、と小気味良い音を響かせて手のひらに拳をぶつけた静夜は、 静かな水面を振るわせるほどの声を張り上げた。 「出て来い、月龍―――ッッ!!」 部屋の半分ほどもある池の上に佇む月龍は、水面に生じた波紋に顔を上げた。 現世と隔てた本殿にまで響き渡るほどの何かに心が騒ぐのを憶える。 「…今のは」 何だったのだろう、と言い掛けて口を噤む。 知っているような気がした。 本能が悟っているような気がした。 その予感はまだ間に合うのだろうか。 朝が来ればまた天界へと戻らねばならない。 まるで東国の物語にある月に擬えた姫のようだと失笑が漏れる。 けれど彼女は姫ではなく、月龍、月女神なのだ。 地上で月へ還る日を泣き暮らして待つ身ではなかったからこそ、 腕輪に飾られた白い腕を眼前に掲げた。 「まだ、夜は明けやらぬ」 刻が迫っていようとも、彼女は彼女の意思で世界に触れる。 神の言の葉に気のせいと言うものは無い。 ならば、と彼女は初めて己が予感を信じることにした。 今ひとたび現世への道を開く気紛れすら、世界にとって必然だったのだ。 すぐ隣にいた悟空はキィンと木霊する彼女の声に軽い眩暈をくらりと覚えながら、 堪え切れずに思わず噴出してしまう。 訝しげに睨み付ける静夜に悟空は言い訳を試みた。 「何か、吹っ切れた感じ」 何それ、と静夜が益々顔を顰めたその瞬間。 湖に浮かぶ望月がぽぉんと揺れる。 静かだった水面がさざめき出し、湖の中心から波紋が広がって行った。 白い灯篭がふわりとひとつ、ふたつと畔から並び始める。 同時に白い石畳も中心に向かって伸びて行き、 まるで光の粒子が集まるようにして段々と形を成していく。 「…うそ」 「マジじゃね?」 やけくそで喧嘩を売るように叫んだ声が届いたのだろうか。 いやまさか。 神罰を恐れる訳ではなかったが、 先程の台詞はヒトに向かってでもあまり褒められた物言いではないと自覚があるからこそ、 静夜も悟空も冷や汗を流した。 仮にも神様に喧嘩を売るなど縁起が良いものではない。 ついでに言うと一応試してみようと本殿を呼び出す為の呪言も思い出しかけていたのだが、 大声で叫んで鬱憤を晴らしたかった静夜の一声で月龍が応えてしまったので用無しとなった上に、 すっかりと半端に思い出しかけていたものまで全部忘れてしまった。 そうしている間にも本殿は形を成し続け、 終には静夜達の前に悠然と全貌を明らかにして行く。 ひとりでに開く扉に、悟空と静夜は顔を見合わせた。 招かれているのか、それとも罠か。 神体が鎮座す本殿に罠も何もあったものではないが、 この形容がぴったりと当て嵌まるような気がした。 意を決して、2人は灯篭の立ち並ぶ白い石畳を一足飛びに駆け抜ける。 (あれ?) 仄かに香るものに悟空は鼻をくんと鳴らした。 里中に広がる香りとそれは同じもので、同時に閃いた既視感めいたものに意識を奪われる。 同じなのに違う、違うのに同じ。 (俺、知ってる) 胸を締め付けられる想いに、ほんの一瞬だったが目頭が熱くなる。 (この感じ、知ってる) 誰かが、名前を呼んでくれた。 誰かが、淡く微笑んでくれた。 誰かが、優しく微笑んでくれた。 本殿のそこかしこに残る香りが封じられたはずの記憶を擽る。 ―――大好き、よ 桜の幻影が視界いっぱいに広る。 「―――…ッ」 突然膝を折って崩れ落ちた悟空に、静夜は驚いて急停止をかけた。 呼吸が落ち着かない。 目は見開かれてはいたが虚ろでここではないどこかを映しているようだ。 「悟空?!」 呼びかけるが応えは無い。 初めて会ったときと同じで、悟空はそこにはいなかった。 三蔵には気にするなと言われたが、 気にしないでいられるほど楽観出来るとは思えずに、 焦ったように繰り返し悟空を呼び続ける。 まるで白昼夢を視続けているようだ。 肩を掴んで揺さぶれば、漸くぼんやりとした瞳に静夜を映す。 「…あ、れ?」 「大丈夫?」 「ん、へーき」 無理矢理に笑顔を見せる悟空に何も言うことが出来ず、 静夜はそう、と頷いてもう1度開かれたままの本殿の扉を見上げた。 三蔵が気にするなと言ったのは、 もしかすれば気にしたとしても悟空が答えるべきものを持ち合わせないからかもしれない。 彼らの双眸に映る限り、拝殿とよく似た造りは全て真白で月の光を思わせる。 祀られている神体は月の化身を宿すもの、 ならばここを月の神殿と呼んでも差し支えは無いだろう。 足を踏み入れた静夜と悟空は建物ごと異空間へと招かれ、 がらんどうとした本殿の中に広がる池にまず目を引かれた。 そうしてどこからか差し込む光を乱反射させ、 決して池の外へ水を零すことなくゆらゆらとたゆたう水面にひとりの女が姿を見せた。 水の上に立っている時点で、彼女がヒトでないことは知れた。 白い衣を纏い、白銀に煌く髪を全て高く結い上げ背中に流している。 本殿にて姿を顕現せしめる存在などたったひとつ。 (これが、月龍) 神というものの姿を初めて目にしたが、姿も仕草も随分と人間染みている。 否、ヒトの思い描く姿だからこそヒトに近しいのかもしれない。 神の形はヒトが成すものだ。 本殿へと足を踏み入れた異邦者を寛容に眺めていた月龍の目が、 悟空を映したときにだけ微かに見開かれた。 だが、彼女は何も無かったように口を開く。 「儀式は滞りなく終えた。また100年、桃源郷の秩序は保たれる」 厳かに告げられる託宣に静夜は否と首を振る。 「朝煌を返して貰う」 月龍は暫く沈黙した後、すいと後ろへ1歩分下がった。 見ろと言っているのだろうか。 意図が読めずに2人は警戒しながらも池の縁に近付く。 部屋半分ほどもある池はどこまでも澄んでいて、けれど底は見えないくらいに深い。 ただただ澄み切っている水が清浄過ぎて恐怖すら感じた。 恐らく底から伸びて来ているであろう月来香が水中花のようにして池の中心辺りで蔦を絡ませている。 「静夜、あれ!」 月来香がそれぞれに支え合い、伸びている蔦が絡め取るその先で何かが煌く。 透明の硝子か氷のようなもので出来た四角い箱。 青味を帯びた水の中、朝焼けのような薄紅が一所に浮かぶ。 硝子のような棺に眠る朝煌の姿が、静夜と悟空の目にはっきりと映った。 「朝煌!」 静夜は目の前の月龍に構うことなく、池へと飛び込む。 不思議と水飛沫は上がらず、水面は静夜を飲み込むようにして揺らめいただけだった。 池の水は本物なのだろうか、冷たさがむき出しの腕や足に絡み付く。 視界を遮る髪を無造作に後ろに掻きやり、朝煌の棺へと静夜は急ぐ。 距離感が掴めない中でどこまで息が保つか不安にもなったが、 気にしていては前に進めない。 必死で両手両足を動かして蔦が絡まり合う月来香を目指す。 漏れ出た白い気泡が天へ向かって昇って行った。 素潜りは苦手ではない。 それでも1分ほど経った頃、漸く静夜は朝煌の元へと辿り着いた。 触れた棺は冷たくもなく、温かくもなく、更に硝子でも凍りでもないのに気付く。 (神気が…結界?) 祀りの贄は失われた神の半身を補う為、桃源郷の一部となるのだと聴き及んでいる。 だがヒトが世界の基盤たる気脈に生身で触れたのなら一瞬で消えて無くなってしまう。 (直接影響を受けない為に、精神が原子レベルにまで分解され融合するまで神気の壁を作り、護らねばならないと言うことか) 伸びている蔦に首に掛けていた紐が引っかかり、脆く千切れる。 繋ぎ留められていた蒼く透き通る玉が紐と一緒に底へと沈んで行った。 慌てて腕を伸ばしたが、もう遅い。 ゆらゆらと漂いながら深く深く吸い込まれて行く。 だが朝煌と守り玉を天秤にかけるまでもない。 静夜は早々に諦めて顔を上げた。 棺を支えて巻き付く月来香を毟り取ろうとするが、 寸前でバチリと電流が走ったような痺れが身体中に流れ込む。 (この月来香、普通じゃない) じんじんと痛む指先を擦り、静夜は目の前の月来香の群れを睨み付けた。 どうやら何らかの結界か、呪が施されているようだった。 ここまで来て、と静夜は歯噛みする。 ―――退いて 突然ふわりと脳裏に浮かんだ声が実態を持ち、静夜の姿に半透明の白い影が重なる。 ぎょっと目を剥いた静夜は、成す術も無く霞がかった影を凝視した。 見覚えの無い白く細い腕は成人した女のものだ。 望月の夜にいつも聴こえる声の主によく似ていたが、 それが過ぎてしまえば忘れてしまうのでこうして姿を見てもイコールで結び付けて良いものか考えあぐねる。 混乱する静夜の視線の先で、ゆっくりと掲げられた腕に従うように月来香が退いて行く。 ぐらりと棺が傾ぎ、静夜は慌てて腕を伸ばした。 受け留めた瞬間、静夜と朝煌を隔てていた壁が今度は触れただけで砕け散った。 きらきらと光を反射させて欠片が水中で煌く。 いつの間にか消えてしまった影を思い出すことなく、静夜は朝煌を抱えて上を目指した。 手足が痺れる。 呼吸が恋しくなる。 ここで気を失えば朝煌もろとも先程沈んでしまった蒼水晶のように、 どこまでも落ちて行くしかない。 漸く見えてきた平たい水面に静夜は消えてしまいそうな意識を何とか繋ぎ留め、 力を振り絞って水を蹴った。 どこまで行けば良いのか分からないくらいに深い池へと飛び込んだ静夜の背中を祈るような気持ちで見つめていた悟空は、 尚も水面に佇んでいる月龍の視線を痛いほど感じ、徐に顔を上げた。 無表情と思えるほどに変化が無い面立ちの印象が冷たく感じる。 朝煌を贄とするのであれば、普通止めるのではないだろうか。 思慮の足りない悟空でも違和感を憶えた。 問うて良いものだろうか、だがそれもそうだと阻まれても困る。 「斉天大聖」 え、と悟空は自分を称するものだと理解していても聴き慣れない呼び名に反応が遅れる。 少なくとも、彼の周りには彼をそう呼ぶ者はいない。 三蔵はともかく、悟浄と八戒は知っているのかどうかすら確認したことも無い。 「金晴眼を持つ嘗ての不浄の嬰児よ、お前の為に我が主は命を落とした」 無感動だと思っていた女神の瞳に微かな怒りの揺らぎが見えた。 どくん、と心臓が大きく鳴った。 肌が粟立つ。 全身という全身を血が駆け巡っているようだ。 この女は何を言っているのか。 それでも失われた記憶の中に彼女の言の葉の真実があるのかもしれないと思ってしまった悟空には、 分からないと答える術すら見出すことが出来ない。 謝って済むのなら何度でも謝ろう。 膝を付き、頭を垂れろと言うのなら何度でも。 だが口先だけの謝罪を彼女が求めているはずがなかった。 例え命で贖ったとしても、恐らくは足りないのだ。 今ここで口を開いても、全ては言い訳になってしまう。 罪を忘れた今の悟空では謝罪すら謝罪には成り得ない。 「―――…何故、お前だけが生きているのだ」 女の声が、震えた。 赤い唇が痛みを堪えるようにして引き結ばれ、 怒りを宿していたはずの瞳には零れそうで零れない揺らぎが色濃く浮かぶ。 悟空はきっと、その感情を知っている。 (あぁ、そうか) 彼女の抱いている想いはずっと、 理由も分からずに少年が抱いて来たものと酷似しているに違いない。 ―――哀しいんだ 神として毅然と振舞わねばならない月龍が、一体どこで憤った感情を吐露出来たと言うのか。 偶然とは言え姿を現した彼女にとっての諸悪の根源である悟空に、 想いをぶつけてしまわずにはいられないほどに月龍は苦しんで来たのだ。 とは言え、月龍とて何をしたでもない幼子を知っていた。 時折、主の元に姿を見せ、無邪気に笑っていた幼子を見知っていた。 金晴眼だからと言って、幼子に邪悪なものの気配など微塵も感じないことに、 自分の認識は果たして本当に正しいものなのかと戸惑いもしたのだ。 それでも耐えられなかった想いは、彼女が主を心から慕っていたのだと思い当たるに容易い。 「…それは、俺にも分かんない、けど」 真っ直ぐに、500年ほど昔に見た眼差しと同じ澄んだ琥珀色の瞳が月龍を見据えた。 たどたどしく紡がれる言の葉は、ゆっくりとした瞬きに弾かれるように静かに響く。 「まだ駄目なんだ、って、叫ぶから」 ―――心と、心の奥から求めるものがずっと 「死んだって赦されないって思うから、俺は」 ―――いつか紅い血に濡れた罪を思い出して 「絶対、生きなきゃ駄目なんだ」 ―――思い出して、名前も知らない誰かの為に泣きたいんだ そうすることすらも、赦されないのだったとしても。 選んだのは贖罪の道ではなかった。 忘れた全ての痛みを思い出し、背負い続ける業の道。 謝らない、謝れない。 罪咎人の刻印を落とされたその身は、 望んで茨の道を歩き続けるしか無かったのだ。 月龍の哀しみの色が更に濃くなるのに気付いた悟空だったが、目を逸らすことも叶わない。 先に逸らしたのは月龍だった。 「…間に合ったようだ」 「え?」 少年が目を瞬かせると、水面が激しく震え出す。 池の縁に手をかけていた悟空の指先に冷たいものが繰り返し触れた。 続いて水面に現れた顔にどっと安堵が押し寄せる。 「静夜、朝煌!」 縁を腕でしっかりと掴み、片腕で掴んでいた少女を先に押し上げる。 飛沫すら零れなかった床に静夜と朝煌は水溜りを遠慮なく広げた。 長く呼吸が出来なかった所為だろう。 盛大に咳き込みながら静夜は濡れて重たくなった身体を引き摺って朝煌を抱き起こす。 肌は白く透き通って、青白くすら見える。 肌に張り付いた幾重もの衣が重たそうに床に広がる。 結い上げられていた髪からは装飾品が幾つも落ちて、すっかりばらばらになってしまった。 強かに頬を叩いて揺り起こす静夜の甲斐もなく、朝煌は一向に目を覚まさない。 「朝煌、お願い…!」 祈るような思いで静夜は未だに体温を感じられない朝煌を強く抱き締める。 護ると誓った、朝煌に、自分に。 そして選んだ、桃源郷でも里でも他の誰かでもなく、朝煌を護り続けるのだと。 その為になら神に背くことも厭わないのだと。 震える睫に気付いた悟空は、思わず静夜の服の裾を引っ張った。 「…せい、や」 暫くして、腕の中の朝煌が身じろぐ。 顔を覗きこむと頬には赤味が差し、静夜に向かって伸ばされた手にはぬくもりが戻っていた。 生きている。 朝煌が生きている。 静夜は目頭が熱くなるのを感じるがままに顔を顰めた。 まるで幼子のように溢れる涙でぐしゃぐしゃになりながら、 声を失くして泣き崩れた。 一方、朝煌は最初こそ何が起こったのか分からずに目を瞬かせていたが、 漸く自分が置かれている現状に気付くと力無く表情を曇らせた。 身体が思うように動かない朝煌は静夜の腕に支えられ、視線の先に月龍の姿が映る。 女神の面持ちからは感情を読み取ることが出来ない。 「どうして、来てしまったの…」 掠れた小さな声は、ともすれば掻き消えてしまいそうなものだったが、 静かな本殿の中でははっきりと聴き取れた。 「私で良かったと、思って、いたのに」 「朝煌?」 「貴方でなくて、私で良かったと思って」 いたのに、最後まで紡げずに朝煌は口を閉ざした。 静夜の頬に触れた手のひらが、ゆっくりと稜線を撫でる。 惚ける視界に朝煌が映ると、静夜は項垂れて嗚咽の混じった声で呟いた。 「どうして、私じゃ無かったのかな」 感覚が戻ってきた朝煌は自分の力で身を起こし、黙って静夜を見つめた。 濡れた深い濃紺の髪が首筋や服に張り付いている。 見れば自分も大差ない姿だと気付き、苦笑してしまう。 「私が巫女だったら、朝煌がこんなことしなくても済んだのに…っ」 「…莫迦ね」 静夜の両頬を己が両手で包み、こつん、と朝煌は彼女の額に自分の額をくっつけた。 体温が高く感じるのは、彼女が泣いていたからかもしれない。 「莫迦ね、静夜」 最期まで、騙し続けるつもりだった。 最期まで、隠し果せると思っていた。 けれどもう、良いだろうか。 告げれば、彼女の涙は止まるだろうか。 朝煌は淡く微笑んだ。 「月は、静かな夜にこそ輝くものよ」 決して煌らかなる朝ではないのだとそう、言って。 神託が下されたのはやはり朔の夜だった。 老巫女は決められたように本殿へと向かい、地上に降りた月龍と会い見えた。 神のチカラなのか、目の見えぬ老巫女にも月龍の姿はありありと脳裏に浮かぶ。 若い頃、巫女と定められた際に記憶した姿と一寸違わず月女神はそこに在った。 月龍と直接言の葉を交わせるのは代々の巫女だけだ。 ヒトは老いるもの。 神の刻を思えば、ヒトの刻など一瞬の瞬きに過ぎない。 真白な髪に皺枯れてしまった面立ちへ、月龍は目を細めた。 「面を上げろ、巫女」 膝を付いて傅いていた老巫女はゆるゆると顔を上げる。 本殿の中は拝殿と変わらぬほどの広さがあり、 四角に割られた石が敷き詰められた床は白く、高い天井を支える柱もまた白い。 全てが月の光を模したように真白だ。 神体を祀る正面の祭壇より手前には部屋半分ほどの水鏡が揺らめいている。 覗けば、どういう仕掛けなのか水中花のようにして月来香の群生が見えた。 「此度の巫女は、随分と強いチカラを秘めているようだ」 水鏡に佇む月女神は美しいかんばせを曇らせる。 いつまで続くのか、続けねばならぬのか。 ヒトの命を食い物にしてまで護られねばならぬ秩序とは何なのか。 神としての責を放り出し、逃げ出すことも出来ずに月龍はただ待ち続けるしかない。 神はヒトを護る為にこそあるもので、ヒトを贄とするものではない。 手に余るほどの後継を任じられたとき、正直月龍は眩暈がした。 主のチカラの大きさを知っていたからこそ、彼女に背負いきれるものではないと。 事実、彼女に後継を補いきれるほどのチカラは無く、考えあぐねているときに、 この頃まだ地上にあった本殿で祈りを捧げていた当代の巫女が口を開いた。 ―――月龍よ、我が身をこの現世に捧げましょう 巫女は神の声、心を聴くチカラを強く持っていたが故に、 届いてしまったらしい月龍の苦悩。 莫迦なことを、と首を決して縦に振ろうとしなかった月龍へ巫女は尚も言い募った。 『巫女は神の為にあり、神はヒトの為にあるのです』 ヒトを護る術に何を躊躇うことがあるのだと。 巫女は巫女となった時点で神饌となる。 ヒトではなくなる、だからそれで構わないのだと。 月龍は巫女の手を取った。 すまない、と謝ったのは先にも後にも、このただ1度だけ。 彼らに赦しを乞うことも出来ないのだと気付いた月龍は、 己が無力さを悔やむしかなかったのだ。 捧げられた身は死に行くのではなく、桃源郷の一部となる。 故にヒトを作り上げている全てが精神体へと変換され、髪の一筋すら遺骸は残らない。 だが神とは違い、ヒトのチカラでは限界がある。 つまり、100年に1度の祀りは切れ掛かった電池を補充するようなものなのだ。 月龍の足元の水鏡に波紋が広がる。 「お前達に私を赦してくれなど、言えない」 巫女が月龍と見えるのは巫女に選ばれ、初めて巫女として祈りを捧げるとき。 そして、新たな巫女に代を譲る為に神託を授かるとき。 ただし祀りを執り行う際の巫女は生まれたばかりの頃を覗けば、 祀りのときに初めて月龍と見える。 だが先代の巫女が若くして身罷ってしまった為、 そして当代の巫女が先代の巫女であった為、 役目が戻った先々代の老巫女が月龍と見えるのは生を受けて4度目だったが、 どれであっても女神はまるで笑い方を忘れてしまったかのように麗しいかんばせを晴れさせはしなかった。 まるで、憂いしか知らないとでも言うように。 「…月龍よ、私達は終わりを望んでも良いのでしょうか」 老巫女は徐に、憂いた面差しの女神へと光を宿さぬ虚ろな昏い目を向けた。 彼女の言わんとしている意図が手に取るように分かり、月龍はやっと苦笑を浮かべた。 「待っているのだ、巫女よ」 「待っている?」 「私は待っているのだよ」 繰り返す月龍は静かに目を伏せた。 彼女はあのとき、別れを口にはしなかった。 ただ、月来香を頼むと言い残して帰らなかっただけなのだ。 彼女がこんな未来を望むはずが無い。 だから、信じ続けられた。 ―――あの方の御心が、この大地に還る日を 重ねられた両手に力を籠めて、老巫女は幼い少女に神託と真実を告げた夜を思い出す。 「月龍はそう、言っておりました」 三蔵達には、恐らく老巫女達にも途方も無い話にしか聞こえなかったに違いない。 神にとってはほんのひとときだったとしても、ヒトには永すぎる刻だ。 その永い間に幾人もの贄を差し出さねばらない。 月龍も理解し得ているであろうに、その台詞はあまりにも軽々しいのではないだろうか。 疑心暗鬼に囚われる。 「…近いのかも、しれんな」 「三蔵?」 思い付きのようにして口を開く彼に、八戒は視線を投げた。 事実其れはその通りで何故そのようなことを思いついたのかも分からずに、 三蔵は感じたままを言の葉に乗せる。 「アンタの言う、終わりが」 直感、だったのかもしれない。 どんなに乱暴で礼儀知らずで口も目つきも悪い彼でも、 一応は神に最も近き存在である最高僧。 彼にだけ感じる何かがあったとしても不思議ではない。 「だからこそアンタも、神を謀る気になったんじゃないのか?」 何の躊躇いもなく言い切った三蔵に老巫女は諦めたように深い溜息を吐いた。 無言の肯定だと受け取った彼は懐から取り出した煙草に火を点ける。 一瞬、紙が焦げる匂いがして、煙草特有の匂いが部屋の月来香の香りに混ざった。 「いや、謀るのとは違うな。祀りを執り行うのは、桃源郷の礎となるのはチカラの強い者であれば良い。最初こそ巫女であったようだが、必ずしも巫女でなければならないということはないはずだ。現にアンタも朝煌も祀りを執り行う者を巫女と限定しなかった」 カチン、とライターの蓋が蒼い光を呑み込んでぶつかる。 「月龍の巫女は、静夜だ」 朝煌の言葉の意味するところを悟れないほど愚かではなかった。 「静夜が、巫女…?」 呆然と呟く悟空の声も届かず、静夜は強く憤る。 (最初から仕組まれていたんだ、これは) 「―――…ッッ」 静夜は息を呑んだ。 何故気付かなかったのかと、己を罵った。 朝煌の近衛のつもりで、本当は逆だった。 護るつもりで、護られていた。 告げられた神託は偽りのもので、里中で恐らくは自分ひとりが知らなかったのだ。 初めて神託と思っていたものが告げられたとき、朝煌に真実は告げられた。 静夜が巫女なのだと、月龍を祀る里を護るためには静夜を失う訳にはいかないのだと。 幼い胸の中に朝煌はずっと真実をひた隠しにして過ごして来たのだ。 どんなに苦しかっただろう。 どんなに辛かっただろう。 「ふざ、けるな…」 祀りの日を思って、怖くて不安でいっぱいになった夜もあっただろうに、 何も知らずにのうのうと生きてきた自分が赦せなかった。 「なに、が、祀りだ…ッ」 逸る動機を抑えられずに、静夜は立ち上がり月龍を睨み付けた。 「ヒトを犠牲にして、何が神だ!!」 怒りに震える腕を横に薙ぎ払う。 「秩序ならもうすでに壊れ始めている!ここが崩れたくらいで、今更崩壊するものなんて無い!!」 池の中の何かを探るように細められていた月龍の目がみるみる見開かれていく。 ―――行かせて、月龍 重なる、懐かしい幻影。 「私は私の意志で、私の護りたいものをこの手で護る!!」 強い眼差し、曇らぬ意思。 (あぁ、やっと) それこそが、彼女の待ち続けていた光。 穏やかに和らげられた表情を月龍は浮かべる。 こんな風に笑ったのはどれほどぶりだろうと、自身すら忘れるほどに長い歳月が流れた。 「そうだな」 あっさりと肯定された静夜は気を挫かれて呆けてしまう。 女神は両の腕を広げると厳かに告げた。 「犠牲はもう、要らぬ」 「月、龍…?」 池の水面がさざめき、ぽつりぽつりと光を宿し始める。 まばらだった光はやがてひとつになり、水の中から零れ出した。 月来香の香りが漂ったかと思うと、白い柱それぞれに床から蔦が伸びて絡み付き、 次々に白い花を開かせて行く。 全ての蕾が開くとそれらは石像になり最初から柱に施された細工のように刻を止めた。 「失われたものが今、戻った」 硝子の割れるような音がしたかと思うと、本殿へと確かに陽の光が一斉に差し込んだ。 地上と異空間が隔たりを無くし、本殿が地上へと戻ったらしいと悟る。 性急な展開に付いて行けず、静夜も朝煌も悟空さえもきょろきょろと辺りを見回すばかりだ。 微笑を湛えたまま、月龍は3人を見渡す。 そっと胸元に手をやり、静かに目を閉じる月龍に憂いは無い。 「我はこの地を護り続けよう。巫女よ、後はそなたの仕事だ」 首を傾げるより先に、月龍は光となって姿を消す。 朝が来ていたことを思い出し、朝煌と静夜は顔を見合わせた。 新月の夜は明けた。 祀りは終わり、儀式も終わりを告げた。 だが朝煌も静夜もここにいる。 失われたものが戻ったのだと月龍は言ったが、 彼らにはどうしてそのようなことになったのか見当も付かない。 神にしか分からないような何かが起こったのだとすれば、 彼らには知り得ないことなのだろう。 「…もう、祀りはいらないと言うこと、よね?」 「うん」 「もう誰も、哀しい想いをしなくても良いのよね?」 「うん」 「もう…」 「良いんだよ、朝煌」 何度も何度も確認する朝煌に、静夜は何度も何度も頷いた。 抱き締め合う姉妹に、悟空は嬉しそうに破顔する。 「良かったな、朝煌、静夜」 言いながら、月龍が消える寸前に悟空の耳にだけ届いた声を思い出す。 先程の怒りと哀しみでぶつけられた想いとは打って変わって、 それはとても穏やかなものだった。 ―――忘れるな たった一言。 忘れるな、とたった一言を囁いた女神は何を思っていたのだろう。 何を忘れるなと言っているのか。 何を忘れていると言っているのか。 分かるようで分からなかった。 今は、まだ。 「ま、いっか…あれ、でもさ」 「ん?」 「後は静夜の仕事、って何のことだろ」 ふと生まれた疑問に、悟空は首を傾げた。 言われて静夜も朝煌も同じように首を傾げる。 巫女としての責務を全うせよとの教えだろうか。 だが不意に悟空は空を見上げた。 「悟空?」 「来る」 短く告げて、悟空は本殿の外へ走り出る。 手にはいつの間にか如意棒が具現化しており、少年の目は真剣そのものだった。 静夜も武器を構えて、朝煌を背に庇いながら外へ出た。 湖の上に現れた本殿は長い石畳が渡り廊下のようになっており、 水面から生えた石灯籠がその両端に立ち並ぶ。 500年前にあった本来の本殿の姿なのだろう。 ざわざわと肌の表面が粟立つ。 そうして漸く静夜は月龍の言った意味を知り得たのだった。 陽が昇った空を眺めながら、三蔵は紫煙を吐き出した。 静夜を巫女だと言い当てた彼に、老巫女は否定すること無く頷いた。 「仰る通りでございます。私達は朝煌を影とし、静夜をそれと知らせずに育てて参りました」 「何故」 「月龍を祀るこの地を護る為に我々は静夜を失う訳には行かなかったのです」 「勝手だな」 「承知の上です」 きっぱりと答える老巫女は恐らく全ての責を背負うつもりだったのだろう。 もし月龍が自分を謀るのかと問うたのなら、己が身ひとつで償うつもりで。 彼女が里の勝手でヒトひとりを犠牲にすることを善しとしないことなど、話していれば分かる。 断腸の思いで幼子に真実を告げ、秘めて行く道を選ばせたのだろう。 そうしてそれを朝煌も静夜の為に受け入れた。 愛し愛され、けれどそれらはどこかすれ違っている。 哀しいすれ違いだ。 「ですが今頃はもう、朝煌か静夜が贄として捧げられているのでしょう」 彼らが訪れなければ、全ては恙無く終えられるはずだった。 祀りを終え、また100年を待ち、贄を捧げる。 その繰り返しの終わりを望むのはやはり、 間違いだったのだろうかと己が裡に問いながら。 「それはどうだろうな」 三蔵は言うが速いか、咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。 悟浄と八戒も上着を羽織ると立ち上がり、素早く辺りの気配を探る。 茶化すような笑みを浮かべた悟浄の頬に冷や汗が流れた。 「…オイオイオイオイ、何だコレ」 「どうやら、危惧していたことが現実になったようですね」 気配を探ると言う芸当が出来ないらしい老巫女は、 訝しげにどうしたのだと三蔵達へ口を開いた。 「この里にいた妖怪は自分達から出て行ったのだと言ったな」 老巫女は頷く。 「だったらコレは知っているか」 三蔵は襟を正し、天地を創造する際に用いられたと言われる天地開元経典の内のひとつ、 魔天経文を両肩に掛けた。 「異変の影響を受けた妖怪は、自我が崩壊したとしても記憶が消えるワケではないと言うコトを」 「まさか…!」 老巫女は声を無くし、口元を押さえた。 里の者であれば100年に1度の祀りが今年行われることくらい誰でも知っている。 巫女として知られている朝煌が実は巫女ではないと言うことも、 静夜の巫力が封じられているということも。 そして儀式が行われ、 契約が結び直されるその瞬間に結界が作り直される為にひととき崩壊することも。 彼らに仇なす厄介な土地はひとつでも減るに越したことはない。 「来たな」 三蔵達はその一瞬の間に入り込んだと思われる大量の妖怪の気配を感じ取ったのだった。 戦う術を持たない朝煌をもう1度本殿に押しやり、 悟空と静夜は足場の悪い石畳の上で倒しても倒しても襲ってくる妖怪達を退けていた。 薙いでも薙いでも限がない。 悟空はともかく、静夜は里の者との手合わせは何度もあるが、実践となると話は別だった。 里の結界から出ることはまず無かったし、出たとしても妖怪と出会うなんて稀なのだ。 それでも何とか感覚を研ぎ澄まし、身体に染み付いている動きを繋げて行く。 「くそ、皆のとこに行かなきゃいけないのに!」 「三蔵達がいるから大丈夫だって!」 「保証してくれてんの?!」 「ただの勘!」 「何ソレ!」 それに、と如意棒を横に払って湖へと妖怪を数人叩き落す。 「三蔵がいるって分かったら、あいつら経文取りにいくはずだから!」 後ろに朝煌がいる所為か、静夜は前に進めない。 代わりに悟空は高く跳躍すると石畳を渡っていた妖怪達を勢いに任せて殴り倒していく。 本殿へと繋がる入り口を固めれば周りは湖、朝煌には近付くことが出来ない。 「ってことはさぁ!」 静夜は1度本殿を振り返り、敵がいないと確認して悟空の傍へと駆け寄った。 「今ここに妖怪全部が押し寄せてるってワケ?」 「は?」 つい、と伸ばされた腕の手の、更に指の先には見知った影があった。 気を抜くことも出来ずに、悟空と静夜は背中合わせで攻防を繰り広げる。 「おお、無事だったか猿」 「猿って言うなエロ河童!!」 「はいはい、後にして下さいね」 さすがは戦い慣れていると言うべきか。 軽口を叩きながらも、彼らは攻撃の手を緩めない。 各々好き勝手に動いている割には無駄が無いことに感嘆する。 里には老巫女がいる。 あまり目の当たりにしたことが無いが身を護る結界を張る巫力はあるはずだから、 里の者達への心配は無かった。 (でも、数が多過ぎる) たん、と後ろに右手を付いて倒れ様に、静夜は目の前にいた妖怪を蹴り上げる。 持っていた得物を左手で下から逆薙ぎに斬り上げ、妖怪の骨ごと肉を断った。 悲鳴は一瞬で途切れ、あっけなく崩れ落ちる。 敵とは言え、気持ち良いものではない。 結界が途切れた一瞬の内に入り込んだにしては数が多過ぎる。 祀りの儀式を待ち構えていたとしか思えない。 「何とかしろ、お前の里だろうが!」 「何とかったって!」 「三蔵、余所見してんなよ!」 三蔵の理不尽な物言いに静夜は食って掛かるが、脳裏に閃くものが突如生まれた。 憶えは無かった、だが知っている。 胸の奥で熱く燻るものが、ここから出せと叫んでいる。 「ねぇ、三蔵!封じられたものを放つ術は?!」 ガウン、と重たい銃声が響く。 今のは何発目だろうかと考える間も無く、もう1発。 「テメェを信じて強く念じろ!」 答えのようなそうで無いような、曖昧な応えだ。 呪言だの呪具だのを用いた術を思い描いていた静夜は三蔵の答えに頷こうにも頷けない。 だからそれを具体的にどうするのかを教えて欲しかったのだが、 それ以上の回答は得られないような気がして――事実その予感は正しい――、 あぁもう、と苛ついたように地団太を踏んだ。 しかし考えている時間も無いし、自分で他の方法を思い付けるとも思えない。 静夜は三蔵の言う通りを試みるしかなかった。 (今までずっと、護られて来た) (だから今度は私の番) (皆を護るチカラが、欲しい) 己が裡に眠るものがあるのならどうか。 ―――目覚めろ 森の木々が一様に騒ぎ出した。 大地の鼓動に敏感な悟空は動きを止めて静夜を振り返る。 悟空だけではなかった。 変化に気付いたそれぞれは訳が分からずにうろたえている。 「静夜…?」 確信が持てない悟空は思わず疑問符を語尾に追随させてしまう。 静夜、のはずだ。 悟浄も八戒も、三蔵でさえも彼女の姿を凝視した。 呆気無く戒めから放たれた静夜のチカラは想像していたよりもずっと大きく、 まさか、彼女の封じられていた巫力がここまでだとは思わなかったのだ。 纏わり付く神気にも似た巫力に静夜は息を呑む。 朝煌や老巫女など比べ物にならないほどの巫力。 よくも今まで気付かなかったものだと、逆に呆れてしまう。 「これが、私の…?」 呆けている静夜に、妖怪達は好機だとばかりに飛び掛る。 彼女を野放しにすると不味いのだと本能が訴えていた。 だが、遅い。 静夜は彼らを触れることなく弾き飛ばし、得物を一文字に薙ぎ払った。 一撃で十数人の妖怪が地に伏す。 敵と距離を置いた静夜は瞼を降ろし、高らかに謳い出す。 それは、失われた古の神の言葉。 憶えの無いはずの唄が自然と溢れて行く。 だがそれも月龍の巫女としての本来のチカラのほんの片鱗でしかないに違いない。 旋律は狂うこと無く紡がれ、大地から呼び起こされるように気流が噴出した。 姿無き龍が一陣の風となり妖怪もろとも邪まなるものを巻き込み一掃する。 里をぐるりと1周したかと思うと、龍は天へと昇り光となって四方に散った。 新たな結界を月龍の結界の上から成したのだと、 巫女としてのチカラを取り戻した静夜には分かる。 風が通り過ぎ、先程までの騒々しさが嘘のように姿を消した。 朝日が眩しい。 湖の上の石畳を振り返ると本殿から出てきたらしい朝煌が嬉しそうに微笑み、 両膝を付いて頭を垂れた。 「月龍の巫女よ、その役目今貴女にお返し致しましょう」 今まで自分が背負わねばならない責務を背負ってくれていた片割れに、 静夜は申し訳なさでいっぱいになる。 泣き言ばかり言っていた自分に嫌気が差す。 謝ってしまいたかったけれど、そうして自分ばかりが楽になってしまうのはもっと厭だった。 「朝煌…」 「貴女が本当の月龍の巫女よ、静夜」 驕ることなく、恐れることなく、迷いの無い瑠璃色の瞳を月龍は選んだ。 選んで、認めた。 終わりは訪れる。 どんなものにも必ず、等しく。 黎明の宮に住まう姫巫女は、やはり似つかわしかったのだ。 終わりを告げた朝は今まで見たどんな夜明けよりも鮮明で美しかった。 長い廊下を行く月龍の前に、よく見知った顔が現れる。 神格が遥かに上である神に彼女は脇に避けて立ち止まり、頭を下げた。 「よお、戻ったのか」 「はい、観世音菩薩」 ひらひらと手を振って、観音は不遜げに笑う。 曲のある黒髪を高い場所で結い上げ、白い衣は上半身が涼しげだ。 男神でも女神でもある神はいつも何を考えているのか分からず掴み所がない。 「そっちも、戻ったんだな」 月龍が大事そうに持っている蒼水晶に気付き、くつくつと喉の奥で笑う。 小さく頷くと、月龍は穏やかに微笑んだ。 久しぶりだったのだろうその笑顔を目にし、観音は少なからず感嘆する。 500年ほど前、丁度彼女の主が身罷った頃から月龍は笑みを失くした。 元々表情がころころと変わるような性格でも無かったが、 以前にも増してそれは顕著になった。 否、変わったのは彼女だけではなかったのだろう。 天界からあの頃の騒乱はすっかりと消え失せ、今はまた穏やかな日々が続く。 観音もまた、気付かれない程度には変わったのだろうと思う。 ただ月龍がそれに気付くには少しばかり周りに目を配れなかっただけなのだ。 「ひとつの身に魂魄と更に魂ひとつ宿していたのか、生まれ変わっても難儀な奴だよ」 相変わらず笑みを口元に湛え、観音は彼女の持っていた蒼水晶に手のひらを掲げる。 淡く光を宿した水晶に神は目を細めた。 「ですが、失われた半身はこうして戻りました。これは、あの方の御心」 心ねぇ、と観音は笑う。 彼女の主が決して手放そうとしなかったそれは、彼らの知り得なかったもうひとつの真実。 古の日を強く強く残したもの。 命ある者は全て、魂魄と魂もしくは魄を同時に宿すことは出来ない。 出来なかったからこそ静夜の身体から離れ、それを手にして生まれ来た。 それでも深いところでは繋がっているが故に、 彼女は遠い日を思い描き、感じ、嘆くばかりの声を厭った。 誰かがそれを邪霊悪霊と呼んでいたのは秘められた強い負の感情、 在りし日の痛みを感じ取った所為だ。 魂に宿っていたのは愛しさが故の哀しさ。 手を伸ばしても触れられなかった現実。 欲しくても得ることの出来なかった感情。 それでも、彼らを愛していた失われた神の失われた心。 何故半身すらも共に隠れてしまったのかは失われた神だけが知っていれば良い。 詮索するような無粋な真似はしない。 主を喪う切欠となった嘗ての幼子を赦せない想いは確かに、まだある。 500年越しの感情は簡単には昇華出来ない。 だから見届ける。 彼らの選んだ道のその先を。 少年が彼女の主の想いを無駄にするのか否かを。 見届ける為に神は天にあるのだと、目の前の神がいつか言っていた。 その意味が今なら分かる。 己が目で、己が心で、月龍は見届けねばならないのだ。 だから忘れるな、と彼女は少年に囁いた。 だから忘れてくれるなと、少年に望んだ。 どうか、主の想いを無下にしてくれるなと。 ただ、愛おしかったのだと蒼水晶は告げた。 ただ、護りたかったのだと在りし日の想いは奏でた。 ならば彼女が護ろうとした世界を、存在を、月龍は護り続けるだけなのだ。 「…還り際、空から珍しいものを目にしました」 「へぇ?」 「随分と彼らによく似た者達が斉天大聖と共に」 ひとことも言を返さずに、観音は意味ありげに含んだ笑みを浮かべる。 斉天大聖含む玄奘三蔵一行を天竺へ向かわせたのは観世音菩薩だと聞く。 彼の神がもし偶然だったとしても、何も知らずに采配をしたとは考え難い。 「やはり全てご存知であったのですね」 「さぁてね」 呆れたように嘆息する月龍に、観音は何のことかとそら惚けた。 きっとそれで良いのだ。 天界にて自由を奪われた魂は地上を目指した。 何も出来ない神であるより、何でも出来るヒトでありたい。 神の世界は彼らにとって窮屈だったに違いない。 彼らを繋ぎ止める術など、最初から用意されていなかった。 廻り合う因果の元、迷うことなく地上を選んだ彼らの魂が辿り着くその先を見てみたいと、 月龍は初めて思ったのだ。 桜が舞う。 限りなく白い薄紅のひとひらひとひらが、洪水のようにして入り乱れる。 暗闇の中、浮かび上がるようにして舞い散る春の雪に、 太真は眩みそうになる視界を何とか保たせた。 このまま目を閉じてしまうのは、あまりにも勿体無い。 だがそれも、長くは続かないのだと分かっていた。 「太ねぇ、ちゃ…ッ」 身体中が焼けるように熱い。 手も足も、首を擡げることも今は億劫だ。 喉の奥から込み上げて来るものを咳き込んで吐き出す。 大地を染めるのは黒と見紛うほどの真紅。 (あぁ、せっかく見られたのに) 抱き起こそうとする幼子の腕に施された戒めの硬い感触が背中に伝わる。 いつか見たいと、いつか観に行こうと約束したのに、 どうして叶った今幼子は泣いていて、彼は辛辣に顔を顰めているのだろう。 並々と酒を注いだ盃を傾け、笑い合っているはずだったのに、 どうして彼らしか立っていないのだろう。 理由など、とうに知れていた。 知れていたからこそ、太真は朦朧とする意識の中で微笑を作る。 高位の神格を持つ女神を手にかけたことで、 彼らを追っていた兵達の士気は困惑の色を宿し、あからさまに狼狽を見せた。 もう殆ど見えていないだろう瞳に太真は金蝉を映す。 「…私は最期まで、貴方の1番にはなれなかったのね」 「何を…」 「金蝉、貴方の1番護りたいものは悟空だった。それだけのこと」 互いに、親同士の決めた縁だった。 見知っていた2人はそれを苦に思ったことはなかったし、 それが当然なのだろうと異を唱えることも無かった。 愛ではあったけれどそれはきっと恋と呼ぶにはまだまだ未発達で、 花開く前の蕾が出来たばかりだったのだ。 まだこれから、ゆっくりと花が綻ぶはずだったのだ。 「違う、違うよ太姉ちゃん!金蝉は…ッ」 「良いのよ、悟空。嫉妬ではないの」 太真は手探りで両腕を伸ばし、悟空の頬に触れ、頭を抱きかかえた。 彼女の傷から溢れ流れる血が幼子を汚すが、掻き抱く腕から逃れようとは思わない。 悟空もまた、太真の腕に縋り付く。 この幼子はこんなにも小さかっただろうか。 この幼子はこんなにも頼り無かっただろうか。 分からない。 分からないけれど涙が溢れた。 愛おしくて、愛おしくて、声を上げて泣きたかった。 「だって私も貴方が1番だったのだから」 護らなければと考えるより先に動いた身体は悟空への刃を阻んだ。 金蝉の元を選びはしなかった。 彼らの護りたいものと、彼女の護りたいものは同じだったのだ。 悔いは無い。 あるのだとすれば、最後まで幼子を護り切れなかったこと。 そして約束を果たせなかったこと。 きっとそれだけだ。 悟空の小さな肩越しに、太真は金蝉の朧げな輪郭を見た。 瑠璃色の瞳から新しい涙と共に、自然と笑みが零れる。 「私達、似た者同士だったのね」 歳の離れた弟が出来たようだった。 退屈な毎日が急に目まぐるしく賑やかしいものに変わった。 彼らの知らなかったものを、教えてくれた。 当然だと思っていたものを全て、覆した光。 幼子こそが、彼らの欲した煌らかなるもの――希望だった。 ―――だからこの心は、私だけのもの 「大好き、よ」 ―――世界にだって渡さない 誰に向けられた言葉だったのか。 残ったのは彼女が魂を手放さずに輪廻へと向かった事実だけ。 桜舞う宵闇が遠い日になった今もそれは彼女にしか分からない。 まだ珍しい部類である車のエンジン音が朝日の中で響き渡った。 車と言っても白い小柄な竜が変化したもので、歴とした生命体である。 ずっと八戒達と引き離され、厩で身を休めていたジープは殊の外嬉しそうに鳴き声を上げた。 さすがに恐らく獣に分類される白竜を社殿の中には入れられなかったのだ。 「お世話になりました」 八戒はハンドルを握って、礼儀の1画も知らない最高僧に成り代わり礼を言う。 後部座席にはいつも通り悟空と悟浄が陣取り、ひらひらと手を振った。 「それは私の台詞です」 別れは社殿で済ませたつもりだった一行は、姿を現した朝煌に虚を突かれた。 確かに巫女の役割は真実本来の龍巫女である静夜に返したが、 それでも静夜に及ばないまでも強力な巫力を持った彼女が捨て置かれることはまず無い。 朝煌が影となることを望まない静夜が、かと言って彼女を近衛とするようにも思えなかった。 だが、あくまでも三蔵達は異邦者。 一所に留まることが無いからこそ、深く関わるつもりも無い。 彼らがどんな道を選ぼうとも、一行には何ら関わり合いの無いことだ。 「なぁ、静夜は?」 「えぇと、それが…」 悟空に訊ねられると、朝煌は眉尻を下げて頬に手を当てた。 本当に困ったと言うように見える仕草に、彼らは心当たりが無い。 彼らの頭上の太陽が皆既日食でもないのに翳る。 疑問符を浮かべて見上げたが、少しばかり遅かった。 「はい退いて退いてー!」 「うおわっっ!?」 妙な雄叫びを上げて悟浄が後ろへずり下がるが、 狭いジープの中ではすぐに端へとぶつかってしまう。 悟空も前のめりになって避けた為、ジープから転げ落ちそうになった。 悟浄と悟空の丁度真ん中で、深藍の長い髪がふわりと揺れる。 見事に後部座席に着地した彼女に、一行は目を剥いた。 「せ、静夜?!」 長い髪は簡単に2つに結わえられており、静夜が身を包んだ軽装はどうやら旅装束。 深々と嘆息する朝煌に、厭が応でも彼らはその意味を理解してしまう。 「…まさか、付いて来る気?」 恐る恐ると言った風体で、悟浄は静夜を指差した。 「誰が好き好んで悪名高い吠登城なんて行きたがると思ってんのさ」 「行こうとしてるじゃん」 「仕方無いでしょ、月龍が行けってんだから」 「は?」 「だから、夢枕で神託下ったの!」 じれったそうに静夜は叫んだ。 彼女とて、月龍の里から離れたくなど無い。 だが彼らと共に行けと他ならぬ月龍が言うのだから、巫女として聴かない訳にはいかない。 静夜の見て来た世界は酷く狭く、見聞を広めるには良い機会でもある。 廻り回ってそれが里の為になるのであれば、ここは辛酸も舐めようと言う気になったのだ。 「ですが、里の守護は」 思案する八戒に静夜はきょとんと首を傾げた後に笑い出す。 「朝煌がいるから大丈夫だよ。朝煌のチカラは護りだから」 ねぇ、と身を乗り出して朝煌へ同意を求める。 諦めたように苦笑する彼女に、静夜もまた頬を緩めた。 こうして見て初めて、彼女達が姉妹なのだと素直に思えた。 「ところでさ」 にゅ、と静夜は何も言おうとしない振り返らない三蔵へと腕を伸ばす。 指先で彼の頬を摘んだかと思うと、こちらを向かせる程度に引っ張った。 蒼くなって身を引いたのは額に青筋が浮かんだ三蔵以外で、 気にしない様子で静夜は彼の顔をまじまじと眺めた。 「…にを」 声を発した三蔵の動く気配に、彼女は呆けた声を出しかけて遮られた。 何に遮られたかと言うと、痛みに。 「しやがるッッ!!」 顎目掛けて振り上げられたハリセンが小気味よい音を立てて直撃した。 仮にも女の顔にハリセン振り上げるような輩を見たのは初めてだったらしい朝煌は目を丸くして声を失くす。 「ちょ、三蔵っ!」 「うわ、直撃だー…」 「…一応女にソレは無いっしょ」 性別に関わらず容赦の無い彼の行動に一同は慣れていると言っても申し訳なさでいっぱいになる。 顎を押さえて蹲る静夜の背に、悟空は恐々と視線を投げた。 恐らくこの2人は似た者同士だと少年の直感が告げる。 正しかった場合、この後の状況はありありと思い浮かべられた。 「な…っにすんのさ、このエセ坊主ッッ!!」 「誰がエセだ!先に手ぇ出したのはテメェだろうがッッ!!」 「だって!!」 取っ組み合いにならないだけまだマシかもしれない。 大声で怒鳴り合う2人に巻き込まれないように面々は心持ち遠目に見守る。 朝煌さえも困惑気味で、彼女がこんなに怒鳴っている姿など見たことがなかったのかもしれない。 「何か、が…」 (あったような気がして) 軽くなった首元を撫でて、もう蒼水晶が無いのだと改めて実感する。 生まれた頃からずっと肌身離さず持っていたそれが本殿の池に沈んで行ったとき、 何故か静夜は身体が軽くなったような感覚に囚われた。 寂しさが無いではなかったが、 追いかけたとしても桃源郷の気脈に繋がっているであろう池の奥に辿り着く前に、 深海の水圧でひしゃげてしまうことはなくともヒトの形を保つことは不可能。 それに彼女は蒼水晶ではなく朝煌を選んだ。 過去の幻影よりも目の前の朝煌を選んだのだ。 失くしてしまったものは仕方が無い。 振り返るのも煩わしい気がして、静夜は頭を振った。 背中を押してくれたのは悟空で、切欠を作ってくれたのは三蔵で、 今はすっかりと砂糖が溶けてしまうように失せてしまった感情が懐かしさであったような、 だが彼らと会ったことなど1度も無い。 だったら何だと言うのか。 (もしかしてあの蒼水晶の…まさか、ね) 彼を見る度に苛ついて、もどかしくて、 何か言ってやりたいのだが何を言えば良いのか分からなくて。 果たしてそれが静夜自身の感情だったのかと問われると、 三蔵達が訪れて以来、誰かの意識が混在していた彼女には更に分からなくなる。 同じ年頃の女が抱くような、愛だの恋だのとは違う気がした。 何かが、繋がっている。 けれどそれが何かはやはり視えない。 「…やっぱ、良いや」 言うと、静夜は三蔵から離れる。 彼らと共に行けば、その内視えて来るかもしれない。 静夜は思い直すと朝煌を振り返った。 「朝煌、私が帰るまで里の皆をお願いね」 「言われなくても」 「じゃあ、いってきます」 「いってらっしゃい」 彼女が見送りに来ていたのは一行ではなく、静夜だったのだろう。 彼らが知る儚げな微笑とは違う穏やかな笑みを朝煌は見せた。 もう彼女達は大丈夫なのだと信じられる笑顔だった。 出発になっても三蔵が何も言わないと言うことは、静夜の同行に対して諾の意なのだろう。 御仏に仕える彼が渋々ながらだったとしても、 己が意に反しない限り神託に従わないことは滅多に無いのだ。 静夜をお願いしますと朝煌が告げると、ジープはゆるりと走り出す。 段々と加速していくスピードが風景を幾筋もの線へと変えて行く。 彼女にとっての終わりは始まりであり、始まりはまた終わりへと向かう。 輪廻を繰り返すのは、生前に思い残したことがあるからだと言う。 それを叶える為だけに転生を繰り返すではないが、 彼らの魂はきっと果たし得なかった願いをどこかで想いながら地上を望んだ。 交わした約束は、思い出される日が来るのだろうか。 幼子の小指に絡められた約束は、いつか果たされる日が来るのだろうか。 春の雪の幻影の中、ゆびきりげんまんと声が響く。 ただ、あるがままに生きたいと願ったあの日に―――…。 END |
あとがき。 |
anamさまに捧げます。 詰め込みすぎですよ。 うおおおおおお、お待たせした挙句何か色々スミマセン。 最近、最遊記書いてなかった所為で箍が外れすぎたと言うか何と言うか(爆)。 どっか矛盾してるとこあったらご指摘を! リクありがとうございました。 |
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