何も心配なんてしていない、って言えると良いのに。 信じてるよ、って言えると良いのに。 一度走り出してしまった想いが、不安で不安で堪らない。 |
交わした約束 |
のんびりのんびりと漂う雲が、空からリゼンブールを見下ろしている。 長閑な風景が広がる片田舎に暮らす人々は似つかわしく、やはりどこか穏やかだ。 製図が飛んでしまうからと閉め切っていた窓を押し開き、 ウィンリィはベランダに出ると大きく背伸びをした。 頬を撫でて行く風は微かに熱を帯び始め、夏の様相を見せ始めている。 「ばっちゃん、はまだ作業中か」 柵から下を見下しても、煙管を蒸かしている祖母の姿が見当たらない。 芝生を啄んでいる鶏とひよこ達がちらほらと見えるだけだ。 もうひとりの同居人は昨日から出掛けていてまだ戻っていない。 今日の夕方までには戻ると言っていた気がするが、 彼の口約束はあまり当てにはならないので半分くらいしか真に受けないでおこう。 長い旅から漸く戻ってきたかと思えば何だかんだで忙しそうで、 同じ家に居ても食事以外でゆっくり話す暇が中々無いのが現実だ。 かく言うウィンリィも修行の名目で長く留まっていたラッシュバレーから、 つい1ヶ月ほど前に故郷へと戻ったばかり。 目的を果たした彼がもうどこにも行かないと分かっていても、 否、分かっているからこそちょっとばかり寂しい。 芽生えた感情に気付いていない頃ならまだ良かった。 けれど気付いてしまったのだから後戻りは出来ない、する必要はない。 言葉にしたことはないけれど、確約されたに等しい感情は勘違いではないはずだ。 柵に寄り掛かり、長い溜息を吐いてみた。 それでも空は変わらず蒼く、広がる丘は冴え冴えとした緑だ。 そうしてウィンリィとエドワードの関係もまた、変わらないものなのだった。 小さく揺れる列車の中、 エドワードはガラス窓に映る自分のしかめっ面に深々と溜息を吐いた。 理由は厭と言うほど知れている。 今更、自分の感情が分らないとそら惚ける気はない。 (ない、けど) 渦巻く感情に素直になれるほど、大人にはなりきれない。 一度箍が外れてしまえば、それまでのような気がする。 だが若さゆえの過ちなどはっきり言って冗談じゃない。 大事で、大切で、絶対に傷付けたくはないのだ。 見慣れた風景が窓の外に流れ始める。 昨日から中央へと所用で出掛けていたエドワードは、 最初から汽車の最終には間に合わないと踏んでおり、 カレッジに在学中のアルフォンスのアパートメントに転がり込んでいた。 しかし、久しぶりに弟の顔を見たいと思っていたのも事実だが、 ビジネスホテルにでも泊まれば良かったと後悔したのも事実。 それと言うのも、同居中の幼馴染とのことを根掘り葉掘り訊かれるわ、 駄目出し食らうわ、詰られるわで散々だったのだ。 そういうときのエドワードは大抵ぐぅの音も出ないか、 しどろもどろで墓穴を掘るか、逆ギレするかのいずれかで良い結果に終わった試しがない。 覚えてろよと睨んでも、倍になって返ってくるものだから迂闊に反撃も出来ない。 『そんなだから、いつまでたっても幼馴染止まりなんだよ』 昨夜の弟からの痛烈な一言がぐっさりと刺さったままの彼は、またもや渋面を浮かべる。 このままで良いと思ってはいない。 何しろエドワードだけでなくウィンリィもまた、まだ約束を果たしてはいないのだから。 ―――そしたら私、ちゃんと言うから ―――じゃあ、俺も 待っていてと言った。 待っていると言った。 どちらがではなく、お互いに。 玄関のドアを開けると、診療所で患者とピナコに鉢合った。 ただいまを言って中をぐるりと見回すエドワードにピナコは患者の患部から目を離さずに、 ウィンリィなら2階だと訊かれもしないことを答える。 「…アイツ探してるなんて言ってねぇ」 「言わなくても顔に書いてあるよ」 患者は顔見知りの村の人間だったらしく、彼らの様子に声を上げて笑った。 若いって良いねぇ、と頻りに冷やかして来る声が照れ臭くて、煩わしくて、 ただの幼馴染だと叫んだ後にエドワードは逃げるように宛がわれた自室へと向かう。 胸中でまだ、と呟いたのは秘密ではあったが。 ウィンリィの部屋と真向いの彼の部屋は、旅に出ている間も使用していた部屋だ。 適当にベッドへ上着と荷物を放り投げ、エドワードは彼女の部屋のドアをノックする。 以前、ノックも無しに開いたら容赦なくスパナが飛んで来たことがあったので、 以来習慣付いている。 習慣付ける以前の問題ではあるのだが、彼に幼馴染間での常識を求めても仕方がない。 「あれ?」 ピナコは彼女が2階に居ると言った。 当然自室だと思っていたエドワードは応答のない彼女の部屋のドアの前で立ち尽くす。 もう一度ノックしてみたが、やはり返事はなかった。 恐る恐るドアノブを回して、部屋を覗き見る。 部屋の中にも、開け放たれたベランダへと続くガラス戸の先にも目当ての少女の姿はない。 頭を掻いて、工具や部品ばかりが散らかった部屋に見られて困るものもないだろうと、 承諾無しに彼はウィンリィの部屋へと足を踏み入れる。 ふと、彼女の部屋には不似合いな縦長い箱がちょこんと机の端に置かれているのに気付いた。 ピナコが気付かない内に用を足しに行っていたウィンリィは診療所の奥から顔を出した。 患者が帰り、片付けをしていた彼女は目を瞬かせる。 「お前、奥に居たのかい」 「うん?」 「さっきエドに2階に居るって言っちまったよ」 「エド、帰って来たんだ」 ぱぁっと表情を明るくした孫を、ピナコは微笑ましく思う。 決して素直じゃないが、エドワードもウィンリィを悪く思っていることなどないはずだ。 大切な者が倖せそうならそれ以上に勝る倖せはない。 祖母への返事もそこそこに、ウィンリィは2階へ向かう階段を駆け上った。 ノックも無しに彼の部屋のドアを押し開く。 以前、エドワードにノックして部屋に入れと言った際に、 自分だってノックをしないではないかと愚痴られたが、男と女じゃ違うのだと一蹴している。 その後も彼は理不尽だと口を尖らせて不貞腐れていた。 放り投げられたままの荷物を眺め、目当ての主が居ないことに軽く落胆する。 自分の部屋に居るのかもしれないと思ったが、 逃げられることもないので放られた上着をハンガーに掛けようと持ち上げた。 不意に懐から手のひらサイズの箱が零れた。 「何これ?」 「何だこれ?」 店名のロゴが描かれた包装紙で包まれ、ラッピングされたそれは見たこともないものだ。 エドワードの誕生日は冬である、まず自分のものではないだろう。 「ばっちゃんの誕生日、じゃねぇよなぁ?」 拾い上げて引っくり返して見るが、名前が書かれているわけでもない。 友人間にでも贈り物をするようなイベントがあっただろうか。 (いや、無い。じゃあ、誰に…) 明らかに女の子用ではないラッピングを施された箱は邪推するには十分だった。 彼女が帰って来たら言うと約束した台詞は未だ実行されていない。 言い様のない感情が、焦りが、胸の奥から競り上がる。 エドワードは箱を元の場所に戻すと、茫然自失で扉を開いた。 ウィンリィが拾い上げたのは、 可愛らしく紅いリボンで括られたプレゼントのようなものだった。 一瞬だけエドワードの土産かと思ったが、 まさか彼がこんなセンスの良さげなものを買うはずがないと長年の付き合いが記憶している。 そもそも、仕事で出掛けた彼がわざわざウィンリィに土産を買ってくる理由も、 誕生日でもないのにプレゼントを渡す理由もない。 包装紙に描かれた商標は前に買った雑誌に載っていた気がする。 内容まで覚えていないが、確か女性に人気のある店だと書かれていた。 ラッピングまでされているそれは、まさかエドワードのものではないだろう。 かと言って、祖母の誕生日が近いこともない。 (じゃあ…?) 誰に、渡すものだというのか。 考えるよりも先に、指先が震えた。 そうして思い当たる。 ウィンリィはまだ、彼との約束を果たしていないのだということを。 上着の懐へと箱を戻すと、掛けようとしたハンガーと共にベッドへと滑り落ちる。 後ずさるようにして、ウィンリィは部屋のドアノブを掴んだ。 ドアを開いた瞬間、エドワードとウィンリィはようやっと顔を合わせた。 瞬間、表情がお互いに凍り付いたことには気付かなかった。 咄嗟に口を利けずにエドワードは空気を飲み込む。 我に返ったのはウィンリィが先だった。 「…なっ、何であたしの部屋から出て来るのよ!」 「お、お前こそ!」 「あたしは洗濯物回収に行ったの!」 その割には手ぶらだったが、気にする余裕のないエドワードは矛盾点に気付かない。 すれ違うようにして、2人はお互いの部屋へと戻り荒々しくドアを閉めた。 あ、とそれぞれのドアの前で唐突に思い出す。 ―――…おかえり、って言い損ねちゃった ―――…ただいま、って言い損ねた 思い思いに胸中に抱えるものは酷似していて、なのに、気付かない。 疑っていない、はずだった。 想いは同じなのだと、信じていた。 今まで感じたこともない感情に、 不安だけが降り積もって行くのを力無く感じるしかなかった。 約束を果していない彼が、彼女が、 他の誰かを想おうとも口を出す権利などどこにもないのだ。 夕食に何が出たかも覚えていない。 エドワードは味のしない食事を腹に納めて、 言葉少なに灯も点けずに自室のベッドへと寝転んだ。 嘘から出た真ではないにしろ、アルフォンスが言った台詞がまざまざと蘇る。 何を安心していたのか、エドワードは自身を罵った。 彼女は確かに待っていてと言った。 待っていると言った。 彼もまた同じように約束を交わした。 だがそれらは全て確約されたものではなかったのだ。 やっと自覚したエドワードの胸中は素直だった。 (渡さない、渡したくない) けれど、彼女が倖せになって欲しいとも思うのだ。 笑っていて欲しいと願うのだ。 もしそれが、エドワードの隣でなかったとしても、 最後の最後には赦してしまいそうな気がして恐ろしい。 いつからこんなに憶病になってしまったのか。 エドワードが寝返りを打つと、カーテンも閉めていない窓から夜空が見えた。 一筋、星が流れる。 『願い事?そんなの自分で叶えるから価値があるのよ』 『お前、もちっと夢のあること言えよ』 『…じゃあ、ひとつだけ』 旅から帰って来たばかりの頃、星空へと指を組んで目を伏せた横顔を思い出す。 彼女の紡いだ願いは決して変わらないのだと言った。 そうしてそれは決して他の誰にも叶えられないものなのだと微笑った。 直接的な愛の言葉ではなかった、それでも確かに彼女の想いだった。 忘れないでと彼女は、ぬくもりの戻った彼の右手をたおやかな白い手で強く握ったのだ。 忘れないで、と幾度も。 (言ったのに) 『ずぅっと、こうしていられますように』 どうして、忘れていたのだろう。 どうして、疑うことなんて出来たのだろう。 エドワードはベッドから飛び起きて、 壁に掛けられていた上着の懐を探り、部屋を飛び出した。 ピナコと食器を洗い終え、ウィンリィは自室へと戻った。 物音ひとつしない向い側の部屋を一瞥し、無意識に嘆息するとドアノブを回す。 あからさまに、帰って来てからの彼は不自然だった。 部屋の灯を点けると、散らかったままの工具を片付けようと手を伸ばすが途中で留まる。 何をする気にもなれずに、椅子を引いて腰を下ろした。 机に広がった製図は未完成でまるで自分のようだと自嘲する。 足りないのだ、部品が。 何を組み込めば上手く作動するか分かっているのに、まだそこは空っぽなのだ。 机の端に置いていたラッピングされた箱を取り上げ、額を押し付けて握り締める。 (やだ) 厭だ、厭だ、厭だ。 望まないパーツが組み込まれてしまったら、動けなくなってしまう。 それがどんなに浅ましく、子ども染みた感情だったとしても、 ウィンリィは目を逸らすことが出来ない。 (他の誰かなんて、厭) 悔しくて、怖くて、目頭が熱くなる。 彼以外、考えたことなど無かった。 彼も他の誰かを選ぶことなど絶対にないのだと、安堵していた。 そこには何の根拠も無かったのに。 (無くても、それでも) エドワードでなければ駄目なのだ。 離れたくはないのだ。 いつかの夜、繋いだ手を放せるはずもなかったのだ。 リゼンブールの空と同じ蒼をした瞳から大粒の涙が零れ落ちた瞬間、音を立ててドアが開く。 ノックは、無かった。 「ウィンリィ!」 エドワードの瞳に光が飛び込んで来ると同時に映ったのは、 目を真っ赤にして泣き腫らしているウィンリィだった。 「って、うお?!何泣いてんだ!?」 意を決してウィンリィの元を訪れた彼だったが、 先程の勢いがすっかりと殺がれ、泣いている彼女を見て思わず狼狽する。 昔から、理由がどうあれ彼女が泣くのは苦手だ。 泣き止ませる方法が思い付かずに、どうして良いのか分らなくなる。 しゃくり上げながらウィンリィは、 潤んだ視界の向こう側に見慣れた姿があるのにどうしようもなく安心してしまった。 目の前にエドワードが居る。 手を伸ばせば触れられる場所に居る。 それだけなのに嬉しくて堪らない。 「だ、って、エド、がっ」 「オレ?!」 「やだ、ぁ…っ」 「オレが?!」 エドが、エドが、とまた泣き出す彼女に、 エドワードは厭だと言われるようなことをしただろうかと記憶を手繰る。 何もしてないはずだ、多分。恐らく。 そういえば、先程了承も無しに部屋に足を踏み入れたがそれだろうか。 昔と変わらず、泣き止ませる方法なんて彼は知らない。 ほとほとと零れる涙はまだ止まりそうにもなかった。 途方に暮れたいのはエドワードだって同じである。 約束を果たしていない彼の腕が、行き場を無くして宙を彷徨う。 「…何で泣いてんのか、知らねぇけど」 彼は持っていた小箱をウィンリィへと押し付けるようにして差し出した。 見覚えのある箱に、彼女は目を瞬かせる。 何故、これがここにあるのか。 何故、自分に向かって差し出されているのか。 理解が追い付かずに彼と箱を交互に見やった。 「これ、やるから泣き止めっ」 昔から、彼が何かくれるときは彼にやましさがあることが多々だった。 丹精込めて造った機械鎧を無残に壊してくれたときが殆どで、 彼女の怒りの矛先を誤魔化そうとして、誤魔化された。 ならば、渡そうとしているそれは何を誤魔化そうとしているのか。 見ないようにしていたウィンリィの手の中にあった箱が、 彼女の膝の上にそっと置かれる。 その手でエドワードから小箱を受け取るが、 やはりまだよく分かっていないようだった。 「なん、で…?」 「土産」 「うそ」 「嘘って何だ」 「エドっぽくない、エドが物くれるときは下心あるもの」 「てめ…ッ」 エドワードらしくない。 彼がどう足掻いても選びそうにないものが手のひらに納まっていて、何だか居心地が悪い。 あまりに彼を凝視していたのか、早口で誤魔化すように捲し立てる。 「べっ、別にモノで釣ろうってんじゃねぇからな!リザさんが勧めるか、ら…っ」 リザ、と聞き慣れた名が聞こえた時点で、ウィンリィはようやっと合点が行った。 誕生日でもないのに贈られたプレゼント。 彼らしくない一般的に可愛らしいデザイン。 他の誰かではなかった。 最初から、それはウィンリィの手へと納まるもの。 少し考えれば分かったはずだ、彼がそこまで器用ではないということくらい。 しゅるりとリボンを解けば、中から現れたのは微かに桃色に染まったガラスの小瓶。 「香水?」 「安心しろよ、オレが選んだんじゃねぇから」 彼らしくないと言ったのを根に持っているのだろうか。 たぷんと揺れる液体を光に透かして眺めてみる。 軽く手首に吹き付けてみると、ストロベリーの甘い香りが漂った。 「…平気?」 確か、エドワードは化粧品の類の匂いがあまり好きではなかったように思う。 恐る恐る彼の様子を窺うと、これくらいならと返って来た。 「ありがと、嬉しい」 やんわりとはにかむ彼女に、エドワードの鼓動は跳ね上がる。 彼女はこんなにも可愛らしく微笑っていただろうか。 知らない内に、気付かない内に、いつの間にか彼女は少女ではなくなっていて、 彼を狼狽させるには十分だった。 「ウィン…」 「あ、そうだ」 湧き上がる感情に後押しされるように、 果たされていない約束を口にしようとしたエドワードを遮ったウィンリィは顔を上げた。 遮ったことにも気付いていないのか、 彼女は膝の上に置いていた箱を脱力する彼の手に握らせる。 「あたしも、あげる」 一度は邪推したそのプレゼントに、今度はエドワードが目を瞬かせた。 贈り物をされる覚えなど全く無い。 取り敢えず、開けても良いかと訊ねると是と返って来たのでベッドに腰を下ろして広げてみた。 「銀時計…」 勿論、表面には軍の紋章など入ってはいない。 旅を終えたそのときに、内側に忘れるなと彫られた国家錬金術師の証を、 もう必要の無いものだと謹んで返却したのだ。 手に取ると銀のチェーンがしゃらりと鳴った。 蓋を開けずとも秒針の振動が手のひらへと伝わって来る。 「返しちゃったから、寂しいかなと思って」 寂しくはない、言おうとしたが止めた。 馴染んだ重みが思い出させるのは遠い日の決意。 国家錬金術師の証は決して喜ばしいものではなかった。 違うものだと分かっているのに、 エドワードの指は重く12時の真上にあるつまみをかちりと押した。 琥珀色の瞳が見開かれる。 「『Don't…forget』」 忘れるな、忘れないで、どうか、どうか。 彼女が繰り返していた言葉がそこにある。 言葉を失くしている彼の瞳に映っていたのは、 忘れないでと書かれた文字と彼らが旅を終えて戻った日付。 自分への戒めと覚悟ではない、彼女が願った彼女の想い。 (やば…) 予期しなかったプレゼントに、エドワードは目の奥が熱くなるのを感じた。 今まで泣かせてばかりだったからと言って、 ここで彼女に泣かされるなんて格好悪いにも程がある。 ウィンリィはエドワードの隣に座り直し、彼の肩へと体重を預けて寄り掛かった。 「ちゃんと持っててね、忘れないでね、もう」 涙の痕を残したまま、ウィンリィは微かに紅く腫れた瞼をゆっくりと伏せる。 長い睫毛が頬に影を落とした。 「どこにも、行かないでね」 ずっと、こうしていられますように。 星空に願うふりして、彼に望んだ。 手を離さないでと強く握った。 「…行かねぇよ」 エドワードは彼女の頬に指で触れ、頤まで伸びる涙の痕をそっと拭った。 ウィンリィの顔の横を流れる髪を掬って耳にかける。 ひやりと銀色のピアスが指先に触れた。 「え、ど…?」 近付いて来た彼の顔に、思わずウィンリィはぎゅっと目を瞑る。 ぬくもりが落ちたのは想像していた場所ではなく、零れきれなかった涙の残る目の端で、 それでもぺろりと舐められたことに意識せずとも頬に朱が走った。 目尻に唇が寄せられ、 竦みそうになる肩にはいつの間にか抱き寄せるようにしてエドワードの腕が回されている。 「言わなきゃ、って思ってて」 「え?」 「ずっと、言えなかったから、今言う」 何を、と問う暇は与えられなかった。 耳元で囁かれた彼の声がじわりじわりと浸透して行く。 短く、簡潔に述べられた言葉に偽りは無かった。 たった一言、エドワードがウィンリィへと囁いた言葉には。 「好きだ」 彼女が今までずっと貰っていた『好き』ではない。 家族でも、友人でも、幼馴染でもない『好き』。 一番欲しかった、彼の想い。 ウィンリィにだけ与えられる想いが込められた言葉に、 漸く止まったと思っていた涙が困ったことにまた溢れ出した。 「泣くなって言ってんのに」 エドワードが苦笑しているのが分かったが、ウィンリィだってどうしようもないのだ。 嬉しくて嬉しくて、ほんとうに嬉しくて、 言葉に出来なかった分の想いが溢れて、零れてしまう。 彼の胸に顔を埋めて、堪えきれずに嗚咽を漏らした。 言ってないのは自分も同じだ。 伝えたいけれど、声が震えて上手く出て来ない。 「えど、ぉ」 ぎゅっとしがみ付く彼女から、先程の甘い香りがして眩暈がする。 声も仕草もまるで砂糖菓子のようで、その甘さに酔ってしまいそうだ。 可愛い、と口が裂けても言えない形容が思い浮かんでしまったエドワードは、 なけなしの理性を総動員させてウィンリィが泣き止むのを待つしかない。 触れている彼女の柔らかさを意識してしまえばそれまでで、 極力考えないように別の方向へ意識を持って行く。 鬩ぎ合う感情に葛藤している間に、潤んだ瞳でウィンリィがエドワードを見上げた。 「…すき」 まだ少しだけ震える語尾の掠れた台詞がエドワードの耳に届く。 聞こえもしないのに、自分の身体がぴしりと固まる音が響いた気がした。 宥めようと伸ばしていた手も動けなくなる。 「あたしも、エドが好き」 ウィンリィは硬直したエドワードの首に腕を回すと、力任せに抱き付いた。 「大好き」 彼の首筋に甘えるように頬を擦り寄せ、もう一度大好きと囁いた。 動けなかったエドワードの腕が彼女の背へと回され、抱き竦められる。 今まで、まともに抱き締められたことなど無かったウィンリィは少しばかり驚いたが、 心地良さに抗うことは出来ない。 瞳だけを動かして彼の横顔を垣間見ても髪で隠れてよく見えなかった。 分かったのは真っ赤に染まった耳とくっついた身体から感じる早鐘の鼓動。 愛おしさが溢れる。 「エド」 彼が先程の台詞をもう一度言ってくれるとも思えず、 彼の口のすぐ傍にキスをして、代わりにとばかりに唇を強請った。 ぎしり、とベッドのスプリングがふたり分の重みで軋む。 程近いところでお互いの吐息を感じ、決められたようにゆっくりと目を閉じる。 だが唇が触れ合う寸前、鳴り響いたのは電話のベルだった。 「…ッッ!!」 静かだったロックベル家に騒がしく鳴り響く電話の呼び出しベルは、 4回鳴ったところで鎮められた。 ピナコが取ったのだろう、はっきりと言葉になりきれない話し声が階下からぼそぼそと聞こえる。 口付ける直前の体制だったふたりは、思い出したように慌てて身体を離した。 ばくばくと心臓が喧しく鳴っている。 あまりの間の悪さに自己嫌悪に陥ってみるが、 落ち着いて仕切り直しと言うわけにも行かずにエドワードは落ち込む。 (タイミング悪過ぎ…っ) ちら、と肩越しにウィンリィを見やれば、 あちらも耳まで真っ赤に染めてそっぽを向いている。 取り合えず、照れ臭いのは自分だけではないことに安堵を覚えた。 抱擁も口付けも厭がられてはなかったことも救いだった。 空っぽになった腕の中に残るウィンリィの柔らかさと香りに、知らず顔が紅くなる。 「…ねぇ、エド」 「ハイ!?」 突然名を呼ばれ、不埒なことを考えていたエドワードは思わず敬語で返事をする。 不自然極まりない。 背を向けたまま、彼女は気にせずにえっと、と口篭った。 「あたし達って、もう、幼馴染だけじゃない、よね?」 ただの幼馴染じゃないんだよね? 言外に求められているものに気付き、 エドワードは視線をうろうろと泳がせた後、小さく是と頷いた。 果たされた約束はバニラビーンズのように芳しく、 触れてしまえばココアに浮かべたマシュマロのように甘く甘くとろけてしまう。 勘違いや擦違いはそれに至るまでのエッセンス、揺るがない想いへの再確認。 道のりは長くもなく、短くもなく、困難ではあるけれど安易でもある。 たった一言告げられた想いが、全身を隈なく満たして行く。 短いけれど確かな愛の言霊を次に聞けるのはいつだろう。 どうせなら、触れたぬくもりを忘れない内が良い。 今度は好きだと囁いて、君の唇を奪ってみようか。 END |
あとがき。 |
リク子さまに捧げます。 時間軸としましては、503企画内(2007年)の『約束』の後くらいです。 そしてファーストキスはまだですフライングです(笑)。 エドが思っていた以上にへたれになってごめんなさい。 ちなみに遮った電話の主はアルです。 何かの電波を受信して…! 宜しければお持ち帰りくださいな。 リクありがとうございましたーv |
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