あの頃に戻りたいと、思ったことが無い訳ではない。 過ぎた時を巻き戻すことが出来ないのと同じく、 時を止める術もないのだと分かっていながら尚、 願ってしまうのはやはりヒトであった名残か。 自嘲気味に見下ろした手のひらは、一度は年老い、 朽ちた身ではなく十代の後半から二十代の前半の青年のもの。 今更若返ったところで中身は酸いも甘いも十二分に知った老獪、 動きやすさを感じはしても感慨は無く、虚しさしか覚えない。 ここには、この時代にはもう、愛した者は居ない。 そうして彼もまた、ひとでなしの身。 冥府の官吏、鬼を従え此岸と彼岸を行き来する者。 嘗ての現世での名をそのままに、彼の魂を縛る言霊を―――小野篁、と言った。 |
夕暮れ刻に想う涙 |
顔見知りの老人の孫等と別れた後、一旦は帰途に着いたものの、 戻ったら戻ったで上司から面倒くさい仕事を押し付けられそうな予感がした彼は、 思い直して街中を歩いていた。 幽霊のように姿を消そうと思えば消せる。 もうヒトではないのだから、物質的束縛から逃れることは造作もない。 けれど彼はヒトと同じ実体を以てして、現世に関わる。 理由は至極単純だ―――気持ち悪い。 実体が無ければ、当然ヒトは気付かない。 物やヒトが自分の身体の中をすり抜けて行くのだ。 感覚が無いと言っても、気分の良いものではない。 口汚く言うのであれば『胸クソ悪い』。 元々、触れられることを嫌う彼はそう言った理由で肩がぶつかろうが、 雨に降られようが、実体を選んでいた。 理不尽ではあるが、その度に腹を立てはする。 妙な気配が無いか見廻っていると言えば聞こえが良いがただの単なるサボりである。 バレてはいるだろうが、それでも何も言ってこない内は気付かれていないと判断しておく。 日々、こき使わ―――…辛い労働を強いられているのだ。 たまには息抜きも必要、そう判断してひとつ息を吐いた。 上から下まで黒づくめな服装に、時折ヒトが振り返る。 勿論、服装だけが理由ではないだろう。 普通ならば、好奇や不審気な視線が突き刺さるところだが、 彼の見目麗しさの前ではそれらは些末でしかない。 端正な顔立ち、と言ってしまえば一言だが、 常人とは違った色香が漂う容貌に加え、 さらりとした黒髪、憂いを秘めた漆黒の瞳、 身長は高く、歩き姿すら紳士然として様になっている。 ちらちらと見てくるのが若い女性だけではない辺り、相当な美貌なのだろう。 また、性質が悪いことに彼はそれを十二分に理解しているのだ。 容貌だろうが何だろうが、使えるものは何でも使え。 猫を被って事が済むのであれば、猫の皮だろうが虎の皮だろうがいくらでも被ってやる。 彼が素顔を見せるのは気を許した、ほんの一部に向けてのみだ。 性根は良いのかもしれないが彼の場合、優しさが非ッッッッッ常に分かりづらい。 口を開けば暴言の数々、笑えと言えば鼻で笑い、手を貸せば余計な世話だと蹴り倒される。 常に上から目線でモノを言い、事ある毎に悪びれもせずに開き直り。 しかしながら居丈高に振舞うのは先にも言った通り、気を許した者の前でのみだ。 生前ならば例外も、居るには居たが。 思考を遮る派手な自転車のブレーキ音が響き、 同時に何かがコンクリートの地面に散らばった。 顔を上げれば、学生鞄の中身をばらまいた制服姿の少女が地べたに座り込み、 慌てて教科書を拾い集めている。 確かにブレーキ音も聞こえたのに自転車の姿は無い。 恐らくは、ぶつかりそうになった少女に謝りもせずに走り去ったと言ったところか。 篁は軽く眉を潜めた。 馴れ馴れしくするのもされるのも嫌いであるし、 人情味溢れる風景は慣れていない所為か、多少居心地が悪い。 無関心で居てくれたら良いのに、と何度思ったか分からない。 この時代、ヒトは他人に無関心である。 全てがそうだとは流石に言わないが、誰が何をしていようと見て見ぬ振りが常。 だがそれは、決して彼が望んだ無関心では無かった。 少女を振り返る者や遠目に見て憐みの視線を向ける者は居ても、 手を貸そうとする者はひとりも居ない。 苛立たしげに舌打ちをすると、篁は迷わず少女の傍で膝を付いた。 本来であれば利用出来る某陰陽師の末裔だのでもない限り、 彼は現世の人間とあまり関わりを持ってはならない。 ひとならざる者が与える影響は考える以上に大きい。 勿論、理解している。 それらを度外視しても譲れないものがある。 簡単に言えば年齢問わず、女性にはいつ何時であろうと優しくあれという己の信念。 誤解の無いように言っておくが、 彼は決して見境が無い訳でも無く、女たらしな訳でも無い。 彼の日常に当然に浸透していると言っても過言ではない程にはフェミニストなだけなのだ。 細く長く美しい指が教科書を拾い上げて行く様を、少女は呆けたように見つめている。 全て拾い上げ、砂埃を叩くと篁は柔らかな笑みを向けて教科書を差し出した。 「どうぞ」 呆気に取られていた少女は、慌てて小さく頭を下げて礼を言う。 立ちあがる際に差し出された手を焦ったように断り、自分で立ち上がった。 スカートを軽く叩いて、ありがとうございます、と顔を上げる。 生者では無い彼にこの言葉が適当か分からないが、 例えるならばそう、一気に血の気が引く感覚を味わった。 声が震えなかったのは奇跡としか言いようがない。 一瞬、声を失った。 生きている頃ならば、心の臓が激しく脈打っていただろう。 少女の長い柔らかな髪が肩から零れた。 穏やかな色を湛えた瞳が一度瞬く。 長い睫毛が薄く紅色に染まった頬に影を落とした。 思えば、彼は冥府の官吏という立場にありながら、 転生した生前の親類縁者と出会ったことがない。 姿かたちは魂を目にする彼にとって関係の無いものだ。 無意識に出会わないようにしていたのかもしれないし、 上司等が考慮した上で篁を動かしていたのかもしれない。 そもそも同じ日の本の人間でない可能性もあったし、 ヒトでない可能性すら否定できない。 全く考えたことが無かった訳ではないが、 意識的に考えないようにしていたのかもしれない。 出会ったところで、相手が自分に気付くこともなければ、昔を繰り返すこともない。 かつて、源氏の白拍子が唄ったように昔を今に為すよしもがな、である。 全ては夢物語。 考えるだけ無駄である―――はずだった。 他人が気付かない程度に目を見張り、息を呑む。 篁の唇が微かに動いた。 「楓!」 彼が言の葉を紡ぐより先に、背後から若い少年の声が響く。 は、と身体の緊張が解けた。 駆け寄って来る少年を見て、篁は更に眩暈を覚えた。 (…嘘だろ) 何故こうも、次から次に。 目の前の少女も、今しがた姿を見せた少年も、覚えがあり過ぎる。 記憶からただの一度も消したことの無い彼の深く深い部分に根付くもの。 妹であり妻であった少女と、親友であった少年が、あの頃のまま目の前に居る。 「融くん」 「どうかしたのか?」 訝しげに篁を見やる少年に、楓は違うのと首を振った。 (まぁ、正しい反応だな。あの頃みたいに平和ボケはしていないらしい) 彼らの会話の間にどうにか平常心を取り戻し、 ふむ、と気付かれないように目の前の少年を観察する。 嬉しいだとか、切ないだとか、あって当たり前の感情を封じ込めるのは得意分野だ。 揺れる裡を悟られては、好機と踏んだ妖かしにでも襲われかねない。 まぁ、不意を突かれ、奇襲をかけられたところで負けてやるような優しさは無いが。 「転んで荷物ばらまいちゃった。拾うのを手伝って下さったの」 それを聞いて、少年は慌てて篁に頭を下げた。 「えっ、あっ、すみません!妹がご迷惑を!!」 顔に、妹に手を出そうとする不審者だと思ってたと書いてある。 あまりに分かりやす過ぎる彼に、必死で口の端が引き攣るのを堪えた。 転生した姿でなければ、罵詈雑言の上、思いっきりどついているところだ。 (…しかし妹、ねぇ) 篁は目を細める。 生前の縁は時折、転生時にも影響する。 特に彼等は篁との縁者、少なからず彼の影響の所為もあるのだろう。 こんなに近しい者として転生するのはごく稀だ。 「こんなに頼りになるお兄さんが一緒なら、もう大丈夫ですね」 一見、人の良さそうな笑みを浮かべ、篁は踵を返しかけた。 わざとらしく、歯の浮くような台詞でも彼にかかれば厭味には聞こえない。 ただでさえ現世の者との接触は避けねばならないのだから、早々に立ち去るに限る。 長居しても、きっと虚しさが広がるだけだ。 どうせ彼等は何も覚えていないし、思い出させる必要もない。 永遠とも言える時間を渡り歩いて行く彼にとって、 こういったことはこの先また訪れるのかもしれない。 その度に胸を押し潰されそうになるのであれば、まだまだ鍛錬が足りない。 慣れなければ、もっと痛みに慣れなければ。 不意に、手のひらに温もりが触れた。 「え…」 成長途中の幼さを残した手が、篁の手を握っている。 咄嗟のことに、珍しくうまく頭が回らない。 少女も少年も驚いたように繋がれた手を見ていた。 「あの…?」 無意識だったのだろうか。 楓もまた自分のした行動が信じられないように狼狽しているが、 その手を放そうとはしない。 「えっと、あの、ごめんなさい、私…っそう、あの、お礼を!」 だんだんと紅潮していくその頬に触れられたら。 想いのままに抱き締めてしまえたら。 彼女を想う心は枯れず、未だにここにあるのに。 込み上げてくる想いが溢れそうになる。 「…お礼なら、先程聞きましたよ」 「でも」 手のひらが震えそうになるのをぐっと堪え、彼女の手をやんわりと剥がした。 これは仕事から逃げようとした自分への罰なのだろうか。 「…どうして、そんな泣きそうな顔をして笑うんですか?」 あぁ、ほらやっぱり気付かれた。 篁は左程驚きもしなかった。 彼女になら、彼になら、気付かれそうな予感がしていた。 だから早々に立ち去ろうとした。 ここに、感情は置いて行けない。 「妹がすみません、でも、その」 彼は妹の肩を掴んで篁と距離を置かせたが、 薄々感付いて彼女と同じ考えに行き着いたようで様子を窺って来る。 初対面の方にすみません、ともう一度謝られる。 (揃いも揃って、どうしてお前達は) 先にも後にも、彼の心を動かすのは彼等なのだ。 切なさは、無い。 哀しみも、無い。 彼等を見送ったあのときに、とうにそんな覚悟はしていたのだ。 ふ、と小さく笑うと、篁は楓の頭に手のひらを置き、融の額に指弾をくれてやった。 「君達は今、倖せか?」 「は、い」 「え、あ、はい…?」 先程までと全く違った態度の彼に少なからず動揺するふたりが可笑しくて、 彼はもう一度微笑った。 「それで、充分だ」 今度こそ篁は踵を返した。 掴んで来る手は無い。 振り返ることもしない。 安らかな眠りを。 倖ある転生を。 彼らを見送ったあのときに、そう願って黄泉路へと繋いだ。 全ての魂は平等にあり、特別扱いなどされない。 だから、柄にも無く彼はただただ祈り、願った。 今度は自分みたいなのに引っ掛からず、全うな人生を歩めるよう。 光あれ、倖あれとただ、それだけを。 微笑っていてくれた。 倖せだと、言ってくれた。 それだけで良い、他に何を望むと言うのか。 篁は、風に掻き消されるような声でありがとう、と呟いた。 大輪の牡丹が綻ぶような妖艶な笑みを浮かべた青年に、 楓と融は呆気に取られてその背中を見送った。 「…痛い」 「大丈夫?」 「いや、あんまし。何なんだ、さっきの」 「うん…」 融は額を抑えながら、楓の顔を覗き込む。 「楓?」 少女の頬に触れ、拭ってやれば泣いていたことにたった今気付いたようだった。 泣きたかったのは少女ではなく、先程の青年だったはずなのにと首を傾げる。 「どうした?どこか具合が悪いのか?」 違うの、と少女は頭を振った。 本当に違うのだからそう答えたのだけれど、どうしたと問われたらどう答えて良いのか。 「分からないの。嬉しいのと、寂しいのと…何かしら、よく分からないわ」 もう平気、そう言って目尻を拭う。 「…うん」 彼女の言い分が分からないようで、分かった気がした。 少なからず融の中にも同じようなものが漂い、霧散する。 もう消えてしまった方向を見やっても、 ぽっかりと空いた胸の洞を理由付けるものが見当たらない。 分からない、けれど、覚えた切なさは懐かしい。 「あれ、楓ちゃん?」 「と、融先輩?」 何度か目を瞬かせ、現実に引き戻された感覚を味わう。 声に振り返れば、見知った顔がちょこんと背後に立っていた。 少々小柄な気がしないでもないが、ふたりとも楓と同じ年齢だ。 「昌浩、俺をついでみたいに言うなっ」 「彰子ちゃんも珍しいね、こんな時間に」 楓がふわりと微笑うと、ふたりは顔を見合わせて曖昧に苦笑する。 彰子が頷き、ちょっとね、と昌浩が言葉尻を濁した。 「何だなんだ、言えないことかあ?」 「融先輩、言い方やらしい」 「なっ?!」 がしがしと頭を撫でられた上、妙な言い回しをする融に昌浩は非難がましくじとりと睨んだ。 年の離れた兄達で構い倒されるのは慣れてはいるが、 大人しく受け入れるには彼はまだ子どもで、もうひとつ言えば些か引っ掛かる。 とは言え、気の良い兄貴分である。 好かれ慕われることはあっても、憎まれたり嫌われたりはよほどでない限り無い。 「融くんが悪いわ」 妹にまで窘められ、彼は不満そうに口を尖らせた。 子どもっぽい仕草に思わず皆で笑い出す。 「あのね、さっき不思議なヒトに会ったの」 「どんなヒト?」 彰子はまだ笑いが治まらないまま、楓へと顔を向けた。 「すっごく綺麗な男のヒト」 「全身黒尽くめのさぁ」 そうそう、と融も相槌を打つ。 瞬間、昌浩と彰子の表情が凍り付いた。 たったふたつだと言うのに他人とは思えないワードに核心に近い思いが広がる。 恐らくは、彼らの推察は正しい。 「…黒、尽くめ?もしかして、すっごく背の高い?」 ぎぎぎ、と軋む音が聞こえてきそうなぎこちなさで融を見上げる。 「お、何だ?知り合いだったのか?」 「知り合いと言うか…」 (―――…何だろう) 適切な単語が出て来ない。 そもそも、まだこの辺りをうろついていたのか。 もしかしなくても意外と暇なんだろうか、冥官と言うモノは。 「…あの、よく、分からないと言うか」 酷く難しい顔をして考え込む少年に、不味いことを聞いたのかと融が焦る。 「ま、昌浩?」 「あっあの!確か、昌浩のお爺様の古いお知合いとか!!」 フォローになっているのか、いないのか。 熟考し始めた昌浩に代わり、彰子が誤魔化すようにぶんぶんと手を振った。 え、と楓が首を傾げる。 「古い?随分お若そうだったけれど」 (しまった…!) 墓穴を掘ってしまい、少女は更に慌てる。 どうにも昌浩も彰子も物事を誤魔化す術には長けていない。 口を開けば開くほどドツボにハマっていく。 黙っていた方が賢いのかもしれない。 「お近くに住んでいらっしゃるのかしら。だったら、また会えるかも」 「…あ」 昌浩が弾かれたように顔を上げる。 直感、だった。 根拠は無いけれど、まずは陰陽師としての直感。 次いで、残り香とも言える残留思念の欠片。 「昌浩?」 融が呼びかけると、居心地の悪そうに昌浩の瞳が泳ぐ。 意を決した少年の表情に、楓は自然背筋が伸びた。 「…もう、会えない、と思う。多分、だけど」 会えない、と言いはしたけれど、会わない、が本当だろう。 状況を見ていなかったのに手に取るように分かる、分かってしまった。 彼の残滓が、教えてくる。 力が強過ぎるのも考え物だ。 そこから先はきっと、見てはいけない。 踏み込んではいけない。 切なげに唇を歪めた彰子もきっと、同じものを視ている。 昌浩はぎゅっと目を瞑った。 「…そう」 ほんとうは、そんな気がしていたの。 紅に染まる空遠くを見晴るかして微笑う彼女は予想していたのだろうか。 寂しそうではあったけれど気落ちした様子はなく、ただそれだけを返した。 見上げた空が、橙から藍に変わって行く。 感慨に更けるのは夕暮れの所為かもしれない。 少しだけ昔を思い出し、昌浩と彰子と別れたふたりは久し振りに手を繋いで家路を急いだ。 終 |
あとがき。 |
遊火さまに捧げます。 どちらかと言うと、篁破幻草子に昌浩と彰子が入り込んだような感じでごめんなさい!! フェミニストな篁さんは確実に管理人の趣味です!でもそれっぽい気がするの!! 宜しければお持ち帰り下さいませ! リクありがとうございました。 |
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