月酔桜 |
水、というものは捉え所が無い。 掴もうとしても掴めないし、かと思えば氷らせてしまえば容易に掴める。 そのままにしておくと姿すら消してしまい、目には見えないものになる。 姿を変え、名を変え、けれどそこに確かにあるもの。 彼の目に映るものはすべからく、そのようなものであった。 水と全く違うのはそれらが意志を持ち、時には悪意を以て害をなすこと。 言葉にすれば簡素だが、残念なことにそれらは笑い話で済まない。 命を危うくしたのは一度や二度ではなく、けれど救われたのも一度や二度ではなかった。 得てしてそれらは非常にきまぐれであるものの、時に恩情に厚く、義に厚い。 かと言って、それが全てではないのだから絆されてしまってはこちらが危うい。 境界を見極め、出来うる限り関わらない。 君子ではないが危うきに近寄らずがモットーである。 「若」 鳥の鳴き声によく似た高めの声が脇から聞こえる。 決して現代的とは言えない畳敷きの部屋で、 古ぼけた机に向かって数冊の本と、 走り書きされたルーズリーフを広げていた青年は顔を上げ、視線を下げた。 鳥の鳴き声によく似た、と思ったがそれは紛うことなく白い文鳥であり、 けれど文鳥にしてはやけに大きく、一見山伏のような格好をしている上、 人語を操っている時点で鳥ではない。 ただの、と付け加えるべきか。 背に翼があるのに、ヒトと同じく手足がある。 若と呼ばれた青年は驚くでもなく鳥へと返事をした。 「姫がお見えです」 「尾白。尾黒はどうした」 「酒の調達に出ております」 「勘弁してよ」 大仰に彼は頭を抱えて溜息を吐いた。 青年――飯嶋律――の家は妖かし屋敷と言っても過言ではない。 事実、そのように呼ばれることも珍しくない。 「来週提出のレポート、半分も出来てないのに」 軽く背伸びをして、畳に後ろ手を着く。 「あら。別に相手してくれなくても良いのよ、律」 姫、と白い鳥が恭しく頭を下げる。 尾白に向かって小さく手を振り、髪の長い女はぶら提げてきたビニール袋を揺らした。 中には少量のアルコール類と肴らしきものが透けて見える。 年の頃は律と同じくらい、 雰囲気と面立ちもどことなく似ているのはふたりが従姉弟だからか。 「声くらいかけてよ、司ちゃん」 「見られて困るものなんてないくせに」 天井を仰ぐように振り返り、声の主にじとりと目を据わらせた。 「相手しなくて良いなら何でこっち来るの」 「鳥が居るから」 「あぁ、そう」 不意にごとり、と音がしたかと思うと、 司と律の間に酒瓶や缶ビール、果ては焼酎までがいつの間にか鎮座していた。 ふたりは別段驚くことも無く適当に手に取ってみる。 「準備が良いじゃない」 明らかに嬉しそうな声音に、律はがっくりと肩を落とした。 いつもどこから調達されて来るのか、彼女が訪れる度に大量の酒が姿を現す。 あきらかに自宅の台所からだけではないが、改めてそれを訊ねるのも怖ろしくて出来ない。 何となく予測がついているだけに憚られた。 ただいま戻りました、と声を発したのはやはりいつの間にか部屋の中に現れた黒い鳥。 尾白と殆ど同じ姿かたちをした黒い文鳥である辺り、同じく妖かしなのであろう。 「遅いぞ、尾黒」 「ただ待っていただけの奴が何を言う」 「何だと」 「何を」 険悪な雰囲気が漂い始めるのを見咎め、青年が二羽の名を呼ぶ。 妖かしにとって名とは命そのもの。 器を縛る呪のようなもの。 背筋を正しはしたものの、どちらも得心の行かない表情で押し黙る。 「ね、何か面白い話はないの?」 場の空気を読もうとしない彼女が缶チューハイの栓を開けながら、 小さな背中を覗き込んだ。 しかし妖かしに於いての面白い話が、 えげつないものが多いことを知っている律はあまり良い顔をしない。 知らないからね、と顔を逸らす。 所望されたことに嬉々とした二羽は我先にと振り返って膝を進めた。 「それならば私が」 「いいえ、私が」 「ええい、お前は黙っておれ」 「お前こそ」 「はい、そこまで。今度やったら追い出すからな」 軽くそれぞれの頭を参考書で叩いて釘を刺す。 仲が良くないのは分かっているが、だからと言って大喧嘩を許す道理もない。 相手をしなくても良いと言われた手前、書きかけのレポートと向き合ってみる。 が、背後の賑やかしい喧騒で思考が纏まるはずもなく早々に集中力を手放した。 開け放した窓からふわりと柔らかな香りが漂ってくる。 季節は秋の初め。 煌々と月の光が降り注ぐ、静かな夜だった。 勉強机に一枚の薄紅色の花弁が落ちてきて、 見上げると満開の桜が月に照らされている以外は。 「えー…」 美しい、風流だと思う余地は全く無い。 顔が青褪め、頬が引き攣る。 その後ろで気付いた司がわぁっと声を上げた。 「何これ、きれーい」 やや、と扇を手に舞っていた尾白と尾黒も律の肩へと降り立った。 後ろの姫君は恐らく大分出来上がっている。 花弁に触れようと伸ばした彼女の腕を慌てて掴む。 「触っちゃ駄目」 「こんなに綺麗なのに」 「魅入るってどんな字書くか知ってる?未だ鬼でないものだよ」 いずれ鬼と成るものやもしれぬ、と。 纏まらないレポートをそのままに、律はひょいとワンカップの酒を掴んだ。 「これ貰うね」 「飲むの?」 「飲まないよ」 えぇと、とぶつぶつと何事かを呟いて彼は窓枠に酒を垂らしていく。 (簡単な結界くらいには成ってくれるだろう) 生憎と見えるだけであまりこういったことには詳しくない。 妖かしや呪術の知識に明るい祖父もそういったことを教えてくれる前に他界してしまった。 だからこそ孫を守るための御法神と呼ばれる式神を残していったのかもしれないが、 今となっては分からない。 ともかく、色濃く継いだ血は妖かし共にとって格好の餌食に成り得る。 やっと覚えた自衛の方法は逃げる、見えない振りをする、妙なものには関わらない。 命だけは御法神が守ってくれるが、本当に命しか守ってくれないので困りものである。 ぱちり、ぱちり、と窓からこちらへ入ってくる前に花弁が弾けて消える。 眺めていた尾黒はふむと頷いた。 「悪いモノではありませぬ」 「良いモノでもないだろう」 御法神が喰ってくれないものか、と考えていると、思考が知れたのか尾白が首を擡げた。 「あれを喰ろうても腹はくちくなりますまい」 「ふぅん」 何故、と問うても良かったが、大抵に於いて理由のあるものは少ない。 そうあるからそうなのだと、それ以上に理由などないのだ。 綺麗なのに、司がもう一度呟いた。 「こんな季節に桜が見られるなんて」 「こんな季節に桜は咲きません」 「狂い咲きとか」 「満開ってのはないだろうね」 「捻くれてるわねえ」 「何とでも」 桜のようでいて桜でないもの。 あるべきものがあるべき姿でないものは、 総じて妖かしや鬼と呼ばれるものに分類される。 決して御伽噺でないそれらに対しての畏怖は何年経ったところで慣れることはなく、 ほぼ万年維持の厄介ごととどう折り合いを付けて行くかは、 まだまだ先の長い律にとって課題でもある。 気が付けば何本も空になってきた酒の器を目の端に映し、彼は外を見やった。 「綺麗、ねぇ」 嘯くも賑やかしい従者と姫君の喧騒に飲まれ音は消え行く。 それを綺麗だと手を伸ばしていたのはいつの頃までだったか。 伸ばす直前で留めてくれたあの皺が刻まれた手は確かにあたたかかった。 駄目だよ、あれは駄目だ。 ついていってはいけないよ。 優しく諭す祖父の視線の先にはいつも妖かしが居た。 妖かしもまた、祖父の前では大人しいようだった。 いつか自分もこのようになるのかと思ったものだが、 祖父は危険なものから律を遠ざけるだけで一向にその術を教えてはくれなかった。 幼い彼に教えるにはまだ理解が足りないのだと、 時期を見計らっていたのかもしれない。 自然と覚えていった身を守る術は御法神が教え、 時には関わったヒトならざるものが教えてくれたもの。 そうして未だに家族を守ってくれるそこかしこに祖父の気配が残っているこの家は、 最期に彼の残した一種の呪やもしれない。 目を閉じて、呼吸をひとつ。 鬼が入ってしまわぬよう、魅入ってしまわぬよう、ゆっくりと瞬く。 従姉弟に触れた手を握っては開く。 綺麗だと伸ばそうとした腕を押し留めたのは律の腕。 いつかの幼い日に祖父がそうしたように。 (おじいちゃんがやっていたことを僕が?) まさかと笑うも、強ち間違いではない。 危険なものとそうでないものの境界線を曖昧ながらも彼は知っている。 はらり、はらりと舞っていたはずの桜はいつの間にか月光の元に消え行くのを見た。 去ったのだと何とはなしに思う。 煌々と輝く月を見上げ、酒の乾き始めた窓の縁に腰を下ろした。 終わりを告げた酒宴の際に転がった空の缶やら瓶は明日片付けよう。 押入れから引っ張ってきたのであろう薄手の毛布を尾白が司に掛けている。 律に気付いた尾黒が何かを言おうとしたが、人差し指を口元に寄せてしぃ、と呟く。 静かな夜だった。 煌々と月の光が降り注ぐ、静かな夜だった。 終 |
あとがき。 |
風見麻阿さまに捧げます。 大変お待たせいたしました! とりとめもない日常話を雰囲気で読み取って下さるとうれしいです(爆)。 形のないお話を書きたくて玉砕したという!!ね!!! すみません。 宜しければお持ち帰り下さいませ! リクありがとうございました。 |
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