じくうびと
時空人

■4時空





愛おしい者を想い、己が身を削ってまで護ろうとする。
それは、彼女には理解できない感情。
否、理解してはならない感情なのかもしれない。
「随分と、遅くなってしまったわ」
古い扉を押しやれば、錆びれた蝶番がザリ、と耳障りに鳴いた。
静かに歩きはするものの、床は軋み、所々に開いた穴からは、
時折鼠が顔を出す。
埃の積もった洋服ダンスは、いつから手入れがされていないのだろう。
部屋の真ん中にあるテーブルに、何かが倒れているのに気付く。
埃を払って眺めると、写真立てだと織れた。
仲の良さそうな家族が、楽しげに映っている。
父母に、息子がひとり。
元のように立てると、すぐ隣に置いてある冊子に触れる。
それも埃を払い、中を垣間見た。
「………」
ページをめくると、彼女は寂しく微笑んだ。
「私は『時空人』」
そう言って、彼女は話し掛けた。





「貴女の名前は…『リィ』と、言うのね」





開いた冊子は、日記のようだった。




『3025年シンシアの月12ヘイズ
私達に子どもが授かった。
この子の歩みを、今日から書きとめていこう。
男の子だろうか、女の子だろうか。どちらでもいい。
私達は神に感謝します』


陽はまだ高い。
昼食を終え、少女は食後のティータイムを楽しんでいた。
バタバタとそれをぶち壊すような騒音。
何事かと、出入り口へと視線を投げた。
「リィ!!」
「まぁ、どうしたのザック?」
やんわりと首を傾げるリィに、ザックは掴みかかった。
「子どもが出来たって?!」
鬼気迫る表情の夫に、妻はなぁんだと微笑んだ。
「えぇ、そうよ。どこで聞いたの?」
「こんな小さな村だったら、すぐに広まるさ」
安堵と、喜びが織り交ざった声で、彼はリィを抱きしめた。
優しく抱きしめてくれるザックに、嬉しくなる。
あぁ、このヒトは心から喜んでくれているのだと。
「お仕事ほっぽって帰ってきたんでしょ?」
くすくすと笑いながら、仕方の無いヒトだと囁く。
そのまま持って来たのだろう。
手には教鞭が握られている。
「だって、聞いたらいてもたってもいられなくなって!」
「明日から、生徒さんたちに冷やかされてしまうわね」
2人は、倖せだった。







何ページが読み飛ばす。
黄ばんだ紙が、今にも破れそうだ。






『3026年ディアの月43ヘイズ
ずっと待ち望んだ子どもが産まれた。
元気な男の子。
けれど、この子には右手が無い』



その瞳は、絶望に満ちていた。
産まれて来た子どもに向けられるべき、慈しみの色はそこには無い。
「そん、な…」
ぼろぼろと涙が零れる。
どうしよう。
夫に何て言おう。
この子は、どんな道を歩まなければならないのだろう。
ずっと待ち望んでいた子どもの右手は、
手首からそっくり何も無かった。



『3026年ディアの月45ヘイズ
出産から2日目。やっとザックと顔を合わせる。
私はどんな顔をして彼に会えばいいのかと、ずっと悩んでいた。
拒絶されるのが怖くて、ただ、怯えていた。
だけど、彼は私も子どもも受け入れてくれた。
貴方が、夫で、この子の父親で本当によかった。

ありがとう』


幼い我が子を腕に抱き、ザックは微笑んだ。
「お疲れ様」
張り詰めていたものがぷつりと切れた。
涙を流しながら、リィは謝る。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私…っ」
何を謝っているのかすら分からなくなる。
喜んでくれた夫に申し訳が無くて、
自分が何か大罪でも犯してしまった気がした。
「何を謝るのさ」
幼子を抱いたまま、片腕でリィを抱きしめる。
すやすやと眠る赤児は、母が泣いていることにも気付かない。
「君はこの子を産んでくれた。この子は生きている」
落ち着かせるように、妻の額にキスをした。
肩を何度も優しく叩く。
「何を謝る必要がある?」
また、涙が零れてきた。
今度は、悲しみの涙ではない。
喜びの涙。
「名前を、考えなきゃね」
「えぇ」
やっと、幼子が産まれて来たと感じるコトができた。



『2026年ディアの月50ヘイズ
名前が決まった。『ディーン』。
この世界に光を齎した天使の名前。
どうか、この子が光へと導かれますよう』


「うん、いい名前だね」
ザックは頷いた。
ふふ、と笑うと、リィも頷く。
「そうでしょう?」
きっと、この先ディーンは多くの困難に巻き込まれることだろう。
彼を育てると決めたその時に、ふたりは感じた。
障害を持った者の扱いを、美化させることも出来ない。
世間の目は、冷たく、厳しい。
受け入れてくれるのは、ほんの一部。
いつか、生まれて来たことすら悔やむことがあるかもしれない。
いつか、全てを否定したくなることがあるかもしれない。
それでも、闇に負けないで、歩いて行って欲しい。
親の勝手な我侭だけれど。



『2026年アキュアの月5ヘイズ
お医者様のお話。もう、何も考えたくない。
どうしてディーンばかりが背負わなければならないのか。
出来ることなら変わりたい。
ディーンは10年しか生きられないと言われた』


剥いていた林檎ごと、ザックはナイフを取り落とす。
診察に訪れた医師が、言い難そうに口を開いた。
「ディーンは先天性の…生まれつき、心臓に障害がある」
生まれてきて、その時の検査で分かった。
彼はそう説明する。
「だから…10年しか生きられない、と?」
呆然と、リィは表情を無くす。
小さく首を振り、医師は渋面のまま、拳を固めた。
「長くて、だ。もしかしたら10年も…」
「やめてください!」
悲鳴にも似た叫び。
リィは耳を塞いだ。
「何か、何か方法は?!」
ザックも飛び掛るように、医師に縋る。
幼い頃から見てきた2人に告げねばならない真実は、
彼自身にも重く圧し掛かる。
いつだってそうだ。
こんなこと、出来れば織られずにいたい。
けれど、医師と言う職業上そういうわけにも行かなかった。
「今の技術では、どうにもならんのだよ…っ」
悔しげに呟くマレトー医師に、リィは嗚咽を殺して涙を零す。
目が覚めたのか、ディーンが弾かれたように泣き出した。
幼子の鳴き声だけが、部屋の中に響く。
弱々しい泣き声だった。



『2026年アキュアの月11ヘイズ
ようやく体を動かしてもいいと許可がおりた。
なのに、何もする気になれない。
ディーンは、死ぬ為に生まれてきたのだろうか。
厭な考えばかりが、渦巻く。
私は、母としてディーンに何が出来るだろう』



『2026年アキュアの月15ヘイズ
ディーンの小さな手が、私の指を握った。
恐る恐る頬に触れると、嬉しそうに笑う。
この子は、生きている。生きようとしている。
だったら、私はそれを支えていこう』



温かい体温の、柔らかい手がたどたどしく彼女の指に触れた。
小さく体を揺らす。
「見てご覧、リィ」
隣で見ていたザックは、リィの肩を優しく叩く。
「ディーンは生きているんだよ」
最近、塞ぎこみがちであった妻に、ゆっくりと話し掛ける。
彼女の瞳は、小さな命を映し、揺れていた。
「えぇ、えぇ…っ」
死ぬために、ではなく、
生きるために産まれて来た命を、リィは愛おしそうに抱き上げた。




『時空人』は、重たい冊子の半分ほどを読み飛ばす。
中には、子どもの様子に対する一喜一憂がぎっしりと書き込まれていた。
両親を初めて呼んだ。
支えなしに歩いた。
字を覚えた。
ジュニアスクールに入学した。
日常の、他愛ないことが事細かに。
少女は、目の前の揺り椅子に掛けている女性に視線を向ける。
持っていた冊子から力を抜いた。
支えを無くしたそれは、容易く床へと落ちる。
開かれたままに。




『2034年フィアの月54ヘイズ
今日、ディーンが神の御許へと帰りました。
彼が教えてくれたこと、与えてくれたもの、
私達は一生忘れません。
彼と出会えたことを、私達は深く深く感謝します。

愛しい私達の息子。
生まれてきてくれて、ありがとう』




いつの間にか、グローブの無くなった両腕。
絡みつく文様は、彼女の背負った業を示す。
「お疲れ様、リィ」
リィの頬へと触れれば、それはぼろりと崩れた。
眼球があったと思われる空洞は、暗く、虚ろ。
美しかったであろう、長い指。
うっすらと埃の堪った膝には、くすんだショールが畳んであった。



すぐにでも砂に変わりそうな、干からびた女性の木乃伊。



『時空人』は愛おしそうに、抱きしめる。
どうして、彼女がたったひとりで朽ちているのか。
夫に先立たれ、身寄りがなくなったのかもしれない。
自分で命を絶ったのかもしれない。
病で、眠るように逝ったのかもしれない。
様々な憶測が飛び交う。
けれど、時空人にとってそんなものは如何でも良かった。
『世迷人』が目の前にいる。
それだけの為に、彼女は存在しているのだから。



「貴方の願いは…叶ったのね」



強く抱きしめると、今度こそ全てが砂のように消える。
さらさらと流れる欠片を、掴もうと手を伸ばした。
それらは『時空人』の指をすり抜けると、そのまま闇へと消えた。
つ、と涙が『時空人』の頬を伝う。




闇に包まれた『時空間』は、全てを包み込んだ。




未だ流れ続ける涙を拭いもせずに、『時空人』は目を閉じる。
「『母は強し』って、本当ね」
苦笑して、倒れこむ。
長い髪が揺れるように流れた。
「私は…強く、なれるのかしら」
少女の姿から、女性の姿へと転じる。
宙に伸ばされた腕は、何かを触れるように一点で動きを止めた。
小さく微笑うと、彼女は伸ばしていた手から力を抜く。
目元を片腕で覆い隠し、うつ伏せに転がった。
「ありがとう」
完全に目を閉じて、意識を退けようとする。
眠りへと向かう、虚ろな意識の中で、『時空人』は薄く微笑んだ。
「貴方と出会えて…」
けれど、そこから先は言葉を飲み込む。




―――良かった、なんて言えない




彼が、『世迷人』でなければ、
ヒトとして倖せになれたかもしれないから。




「貴方、を」




だから、言えない。
だから、言わない。
だから、代わりに最上級の想いを込めて。




「愛しているわ、シェイド」




繰り返し、『時空人』は変わらぬ想いの言の葉を紡ぐ。







END
あとがき。
まあ、こういうこともあるのです。
『世迷人』がすでに亡くなっている、というのも。
そういう時は、遺体とか、骨とかを消すのです。
魂は、輪廻へと戻らずに、眠った状態でその世界に浮遊してます。
つまり、生まれ変わりも出来ません。
『時空人』に消された時点で、やっと輪廻へと戻るのです。
異色な感じを出したかったので、いつもとは雰囲気を変えて。
最後の方は同じですけど。