『おかえり』
そう言って、いつも君は僕を迎えてくれた。
『ただいま』
そう言って、いつも僕は君に迎えられる。
こんな倖せな日々が続くと思ってた。
少なくとも、あの頃の僕らは。




夕暮れ。
橙色の空が、大きく太陽を映し出す。
昼間は白い雲も、茜色に染まっていく。
見上げると、鳥が森へと向かって飛んでいた。
何となく、鳥にも帰るべき場所があるのだと改めて思う。
手に持っていた荷物を持ちなおすと、彼は歩みを速めた。
途中、近所の者に会い、笑って軽く挨拶する。
自分の家に近付くにつれ、明かりが灯っている事に気付く。
ガチャリと音を立て、ドアが開かれる。
「ただいま」
開いた瞬間に、夕飯の良い香りが漂って来た。
キッチンから少女の面影を残した女性が顔を出す。
「おかえり、悟能」
「ただいま、花喃」
入って来た時に言った言葉を、悟能は繰り返した。
花喃は、まだ夕飯を作っていたのかエプロンを着けたままだ。
「夕飯出来てないんだ?手伝おうか?」
彼は持っていた荷物を入ってすぐ左にあるソファに置くと顔を上げた。
「いいのっ、悟能は待ってて!」
「う、ん?」
彼女の様子に少々疑問を覚えたが、彼女がこうと決めた事は
なかなか覆らない事を彼はここ数年で感じていた。
苦笑しながら洗面所へ向かい、手を洗う。
「それなら、食器を並べておくくらいならいいだろう?」
鍋をかき回していたお玉を持ち上げ、思案顔のまま振り向く。
夕暮れ特有の橙色の陽光が、花喃の顔を染める。
鍋の蒸気が天井へと上っていくのが見えた。
「う〜ん」
チラ、と台所を見回し、このままでは遅くなると思ったのか、不承不承頷いた。
「…じゃあ、お願い」
「了解」
くすくすと笑いながら食器棚のガラス戸を開け、二人分の食器を出す。
葉のイラストが端に添えられている白い食器。
この家に移り住んで来た時に、二人で揃えたものだ。


『何だか、新婚夫婦みたいだね』


笑いながら言った花喃の顔を今も覚えている。
どこか恥ずかしそうに、でも嬉しそうに。
悟能も同じだった。
倖せだと感じていた。
清潔な布巾で軽く食器を拭く。
ふと、ソファの傍のテーブルにそれほど大きくない花が置かれている事に気付いた。
まだ買って来た時のまま、包装されている。
その疑問に気付いたのか、花喃がこちらに顔を向けないまま口を開く。
「あ、悟能。そこにある花、飾っておいて」
近付いて見ると、小さな可愛らしい花だった。
「それ、スノードロップって言うのよ。可愛いでしょ?」
楽しそうに言う花喃を見ながら、悟能は笑う。
「そうだね」
「本当は百合の花が良かったんだけど、食事をする時に香りの強い花は駄目だから」
オーブンを覗いているのか、屈みながら話す。
落ちてくる髪を手で押さえて起きあがった。
「よし」
両手を腰に当て、仁王立ちする花喃を見て悟能は吹き出す。
「なぁに、悟能?笑わなくてもいいでしょっ?!」
真っ赤な顔で言ってくる花喃を両手を立てて制す。
「ごめん、ごめん。えっと、花瓶は、と」
彼女から離れて、小さな花瓶を探しに行く。
「もぅっ」
そう言いつつも、彼女は楽しそうだ。
あ、と短く声を上げると彼女はパタパタとキッチンを出ていった。
「?」
そんな彼女を視線だけで追うが、すぐに戻ってくる足音がした為、
視線を手元の花瓶へと戻した。




外は陽が沈みかけて、薄暗くなっていた。
ようやく夕飯の支度が済んで、椅子に掛ける二人。
スープ皿に盛られたシチューから湯気が出ている。
ロールパンは浅いバスケットに。
サラダが木で作られた小さな器に彩りを添える。
ミートパイをナイフで八等分して、一切れずつ皿に分けた。
深いグラスに紅玉の色をしたワインを注ぐ。
バターやドレッシングは端の方に見えた。
テーブルの中心にはスノードロップ。
「乾杯」
キン、と硝子のぶつかり合う音が響く。
グラスの中のワインが波打ち、静まり行く中で波紋を広げた。
「悟能」
並べられたスプーンを取り、シチューを口に運ぶ。
「ん?」
「はい」
差し出された長方形の箱は、緑のリボンで飾られ、
鮮やかな包装紙でくるまれている。
両手で持つとその手のひらが余るくらいの大きさだ。
「これ…?」
「チョコレート!」
軽く頬を膨らませ、それを取るように促す。
ようやく合点がいったように、悟能は、あぁ、と呟いた。
「今日はバレンタインデーだったっけ」
その包みを受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
フフッと笑う花喃を見て、悟能も微笑む。
そう考えれば、これまでの花喃の行動にも納得が行く。
一人でメニューを考えて。
一人で飾る花を選んで。
全ては悟能を喜ばせる為。
悟能はくすぐったいような感情を覚えた。
とても、嬉しかった。
そんな陳腐な言葉で表す事も躊躇われるくらいに。
「本当に、ありがとう」
もう一度、礼を言う。
花喃はクスリと笑い、自分もスプーンを取ってシチューを口に運んだ。
「ね、覚えてる?」
「え?」
「ここに来たばっかりの頃」
子どものように、悪戯っ子ぽい表情を悟能に向ける。
「私、料理なんて殆どした事なくて、悪戦苦闘して作ったのがこれ」
自分の皿を指差す。
でも、そう言って花喃は悟能を見た。
「野菜に全然火が通ってなかったんだよね」
未だに不思議そうに頬杖をつく彼女を見て、
悟能はスプーンに人参を掬ってみせる。
「そうそう。これなんか芯が残ってて」
失敗談であるのに、二人とも楽しそうに笑った。
「時が流れるのって、早いんだね」
花喃の呟く声はどこか寂しそうだ。
俯き加減で、表情がよく見えない。
「一緒にいられなかった時間は、すごく、すごく…長かったのに」




「ここにいるよ」




悟能の声に反応して、花喃が弾かれたように顔を上げる。




「僕はここにいる。花喃もここにいる。それだけじゃ駄目かな?」




優しく微笑む彼に、花喃は一瞬目を見開く。




「……ううん」




そして、つられたように彼女も花のように微笑んだ。


水の流れる音と食器のぶつかる音がする。
花喃が食器を洗い、悟能が隣に立ち、それを拭いている。
「そういえば」
「どうしたの?」
食器を洗い終えて、彼女は傍に掛けてあったタオルで手を拭き、エプロンを取る。
悟能も片づけ終わったのか、布巾を洗って手を拭いていた。
「バレンタインデーって、女の人から男の人に贈るだけじゃないんだよね」
花喃に向き直り、優しく包むように抱きしめる。
「悟能?」
「大切な人に贈り物をするんだって」
不思議そうに見上げる恋人の瞳には自分の瞳が映っている。
同じ深い緑の瞳。
それは、同じであるという逃れられない戒め。
それでも。
「僕は何も用意してないから、代わりに、誓うよ」
君に。
彼女の頬に手を伸ばし、顔を近づける。
唇が触れ合う瞬間に閉じられる瞳。
ほんの数秒の短いキス。
「…ずっと、傍にいる」
耳元で囁くその声に、
涙ぐんだ瞳で花喃は悟能の胸に顔を埋める。
その手は悟能の背へと回され、彼女は無言で頷いた。
離れる事のない様に、その小さな体を悟能は愛しそうに抱きしめた。






僕たちは倖せだったんだ。






――Happy  Saint  Valentine's  Day.――

END

あとがき

バレンタインデー企画第一弾!悟能殿×花喃殿です。まだ倖せだった頃の話ですね。彼らはどうしてもシリアスになってしまいます(汗)。明るくするつもりが、初っ端からテンション低いですな〜。料理をもう少し考えた方が良さそうな表現方法・・・・・。