ふと、思った。
俺には何がある?
俺には何が残っている?
多くのものを持ち合わせるほど器用じゃない。
だが。
はっきりと自覚している。
どこかで思っている。
――『失いたくない』と


Necessary




暗く、長い夜が明ける。
新月の夜は不気味なほど静かで、
重たく、冷たいものだった。
そんな雰囲気に我知らず不快感を覚えていたのだろう。
明るく、穏やかな朝が来たことに、
ほっとしている自分がいた。
それは、いつもの風景なのに。
ベッドの上で起き上がり、布団を足でどける。
周りを見やれば、珍しく悟空以外に目を覚ましている者はいなかった。
皆がいることにも安堵を覚える。
旅を続けている限り、誰かが抜けない限り、
この風景はいつでもあるものだと分かっていても。
「……腹減ったあ…」
ぼそりと呟く悟空の声は、まだ静かな小さな部屋にはよく響く。
いつもの台詞に茶々を入れる者もいない。
天井を見上げると、明かりの無い部屋である為か、
薄暗く木目がうっすらと見えるだけだ。
「…………」
退屈だと感じる事は時々ある。
それは誰も構ってくれない事と同異議だ。
しかし、この空間は別であった。
規則正しい呼吸が聞こえる。
皆いるのに、誰もいない。
そんな空間。
「早く皆起きねーかな」
天井を見上げたまま、悟空は再び小さく呟いた。


しばらく経って、八戒を筆頭に皆が起き出す。
その頃には、悟空は顔も洗い、身支度が済んでいた。
そんな悟空を悟浄がからかう。
「今日は大雨どころか、槍が降ってくるんじゃねーの?」
笑いながらそう言う悟浄に悟空が食ってかかり、
彼らの騒がしい朝は始まる。
三蔵は寝起きが悪く、一番最後に起きた事もあり、
寝癖の直らない頭のまま、傍に置いてあった小銃を携えている。
顔を洗って、部屋に戻って来た八戒はタオルを持ったまま、
苦笑しながらその異様な光景を眺めている。
この普通と言えない光景が、彼らの普通なのだ。
銃声が何度か響き、悟空達の声共々聞こえなくなってから八戒が口を開く。
「さぁ、食堂に行きましょうか」
静かな夜は明けた。


八戒と悟浄は買い出しに行ってしまい、
部屋には三蔵と悟空だけが残った。
今日の買い出しはそんなに多くはなかったが、
一人で持つには多い量だ。
その為、悟空と悟浄、どちらが行くか口論となり、
恨み言無しで結局じゃんけんで決めた。
見事、悟浄の負けである。
嫌々ではあったが、一通り騒ぐと
八戒に引きずられるようにして部屋を出て行った。
彼らが出かけると、嘘のように静かな部屋。
三蔵は例によって、眼鏡をかけ新聞を読んでいる。
バサリとそれが動く音がした。
朝とは違う、静かな空間。
誰かがいる、確かな空間。
悟空は暇そうに、ベッドに腰掛けている。
足をぶらつかせ、体重を後ろに傾ける。
彼の体重を支えている両手は、
歳相応の少年よりはいくらか力強い。
年齢よりも幼く見られてしまう事は常なのだが。
本当に暇になったのか、悟空はどこを見ていた訳でもない視線を三蔵に向けた。
静かな部屋に響く、低い声。
「…何だ?」
こちらを見てもいなかったはずの彼から聞こえた声に、一瞬度肝を抜かれる。
続いて聞こえたのは、変に裏返った声だった。
「へっ?!」
仰々しく舌打ちが聞こえ、新聞がテーブルに置かれる。
眼鏡を外しながら、悟空に視線を合わせた。
紫暗の瞳が真っ直ぐ彼を見据える。
「用がないなら、紛らわしい事してんじゃねえよ」
悟空は言いたい事ははっきりと言う。
しかし、三蔵が、否三蔵に限らず誰かが何かをしていて、
邪魔になると思った時にはその人物をじっと待っている事がある。
目は口ほどに物を言う。
その言葉通り、口には出さずとも悟空の場合はよく分かる。
凝視するように、じぃっとその人物を眺めているのだ。
もっとも、本人に自覚があるのかどうかは別として。
「……誰かが…三蔵がいるんだなあって」
「はぁ?」
いきなり、理解不能な回答に三蔵は疑問符を携えた台詞を発する。
煙草に火を付けようとしていた手が、一瞬だが止まった。
次の瞬間にはシュボッという音がして、煙草に灯が付く。
紫煙を吐きながら、彼は不機嫌そうに眉をひそめた。
「馬鹿か?お前は」
「なっ…馬鹿って言うなよっ!!」
心外だと言わんばかりに、悟空が声を荒げる。
「だって…だってさ、昔は誰もいなかったじゃん!…誰かがいない方が…普通だったじゃんか。」
聞いているのかいないのか分からなかったけれど、
彼は言葉を繋げる。
「だから俺、皆がいるのって…すっげー楽しい」
煙草の灰が、灰皿に落とされる。
火を失った煙草の先端は白く、黒ずんだ固まりに変化した。
少し風が吹けば、ボロボロと崩れる脆いものへと。
「俺、三蔵たちを失いたくない」
それは、傍に居たいではない。
どこかで、笑って生きていてくれるだけで良い。
楽しい事ばかりじゃなくても、
それはきっとその人の糧になる。
今までが、そうであったように。
『失いたくない』
その言葉が漠然と目の前にあった。
相手の迷惑であったとしても。
それが、自分のエゴでも。
沈黙していた三蔵が口を開く。
無愛想な表情で。
「俺はお前を失ったって、何とも思わんがな」



――俺には『失いたくないもの』があるか?



昔はあった。
師と仰ぐ光明三蔵を。
守りたくて、失いたくなくて。
まだ子どもであった分、その考えは幼かった。
実際に、守りたい場面になって
何も出来なかった。
反対に守られた。
今でも、あの風景を覚えている。
先程まで笑っていた師が横たわり、
その腕は引き千切れ、
紅い血溜りが畳へと広がり、染み込んでいく。
生温かいその鮮血は、己の手だけでなく、
顔にも、体にも滴っていた。
その上から流れる温かく、冷たい涙。



『守れなかった』



失いたくなど、なかった。
ずっと、彼の自然な寿命が終わるまで続くと思っていた。



――ならば、今は?



今の俺には何がある?
何を失いたくないと思う?
誰かを失いたくない、なんて今更思わない。
その者の考えがあって、想いがあって。
自分とは違う生き物だから。
自分が失いたくないと我が侭を言うのは情けなくて嫌だった。
その人物を自分の尺度で図り、ある型にはめ込んでいる様で。
ましてや、悟空のように純粋に言える素直さなど持っていない。
『失いたくない』なんて、思うものが俺にあるのか?



「知ってる」



悟空は笑いながら言った。
卒然、三蔵は自問自答の己から開放された。
現実に引き戻された感じがした。
最初からそこに居たにもかかわらず。
重心を前に戻し、前かがみの姿勢になる。
三蔵は目を細めた。



「知ってる」



もう一度、悟空は同じ台詞を繰り返す。
先程と同じように笑いながら。
他人が聞けば、突き刺さるような言葉。
分かっている。
三蔵は自覚していた。
彼の言葉の残酷さを。
誰かに好かれようと思った事などない。
自分の思ったことをそのまま口に出す。
口が悪い事も重なって、それは相手に恐怖感を抱かせてしまう。
望んだ訳ではないが、それを受け止めてくれたのは数えるほどしか居ない。
気にしようともしなかった。
それが本当の自分なのだから。
誰がどう思おうと。
強がりでも、何でもいい。
強くありたかった。
今の自分を支えるだけの強さが欲しかった。



――何だ、あるじゃねえか



「…フン」



加えていた煙草を灰皿に押し付け、頬杖を突いて再び新聞を広げる。
思い出した。
ずっと、奥に持っていた想い。



『強くなりたい』



力は勿論だったが、心が強くなりたかった。
彼は弱くない。
自分の能力を過信している訳ではない。
強くなった。
そう言えるのはいつだろうか。
その時には分からない。
ずっと、後かもしれない。
それでも構わなかった。



「三蔵にだって、失いたくないものってあるだろ?」



見透かされたように、紡がれる彼の言葉。
悟空は自分が三蔵たちに見透かされていると言うが、
本当に見透かされているのは三蔵たちの方だ。
誰も気付かないような小さな想いに。
その名の通りに。



「さぁな」



曖昧に返事をすると、三蔵は頬杖していた手を伸ばし眼鏡を取った。
再び、静かな空間が広がる。


失いたくない。
失ってはならない。
『強くありたい』という想い。
弱い自分への戒めを、
ずっとこの胸に刻みつける為に。



END

あとがき

十夜様に捧げるキリリク小説です。テーマ設定として、『三蔵の失いたくないもの』をリクエストに頂きました〜。三蔵と悟空の考え方のはっきりした相違が出てしまいましたねえ(汗)。でも、三蔵って、もう誰かを失いたくないとは思ってないと思うんです。悟空、八戒、悟浄は自分で自分を守る事の出来る存在であるし、それが当然みたいな。守りたいものと失いたくないものは必ずしも同異議には成り得ないとは思います。失いたくないから守りたい。それもありです。しかし、三蔵の言うように、『守らなくていいもの』もあるはずですから。最後の方は、私の考えですけれど。