Nowhere





あの方は変わられてしまった。
あの方が何を考えていらっしゃるのか、
分からなくなってしまった。
ここにいるのに、どこにもいない。
ずっとお側にいるのに、誰もいない気がして。
何をどう望めば、あの頃に戻れるのだろう―――




一面の花畑。
八百鼡は、薬草を採りに吠登城から離れ、
人里までおりてきた。
森に行けば薬草は採れるのだ。
見つからないモノは、町へ仕入れに行けばよい。
薬師として、八百鼡は自分自身の仕事を怠ることは無かった。
だが。
「何のために…?」
ぽつりと呟く。
「どなたのために…?」
風が通り過ぎ、花びらが舞う。
黄色の花は空の光を吸い込み、
余計に光を帯びる。


「あの頃のあの方は」


彼女の髪を、風が優しく撫でていく。


「もう、どこにもいないのに」


黄色い絨毯の上、彼女は座り込んだ。
持っていたバスケットには、色々な薬草が摘まれている。
トス、と音がして、それが地に落ちた。
全てがある世界。
やろうと思えば何でも出来る世界。
良いことであろうが、
悪いことであろうが、
それでも、
望めば手に入る世界。
制限はあったとしても。
「どこにもないの」
彼のいない世界では、
そんなもの意味をなさない。
「あの方の御心がどこにもないの」
見当たらないの。
感じられないの。
ただ、
冷たい刃と、
凍った瞳と、
意思の無い肌の温もり。
「どうして…?」
不意に、涙が流れる。
泣くつもりなど無かった。
だけれども、
泣きたかった。
声を上げて泣いて、狂ってしまいたかった。
いっそのこと、
壊れてしまいたかった。
彼がいなくなった事実など全て夢で、
目が覚めれば、変わらぬ日常がやってくる。
それこそ夢の話。
今は、それさえも叶わない。
「紅孩児様……っ!」
うずくまり、嗚咽を堪える。
花の香りに混じって、
その根元の土の匂いも感じた。
おろしている黒髪が頬を掠め、
肩から滑り落ちていく。
周りの風景は変わらず、
花びらと香りを運び、
青い空へと舞い上がって。
高く。
高く。


どれほどの時間が経っただろう。
太陽が先程より傾き、そこにあった雲も遠くへ流れていく。
仰向けになって寝転がり、八百鼡は手を天へ突き上げた。
「届く、はずがない」
あの空を触れることなど出来はしない。
あの太陽に触れることなど許されない。
開いた手のひらの指の隙間から、陽の光が瞳の中へ飛び込んでくる。
その眩しさに目を細める。
「なのに、太陽は暖かいと感じることが出来るのね」
ぽつりと何気なく呟いたその言葉に、彼女は起き上がる。
「……そうよ」
自分に言い聞かせるように、口を開く。
「暖かいわ」
感じることが出来る。
それが、どんなに小さなものであったとしても。
「存在しているんだもの」
それが、どんなに遠くにあったとしても。
「あの方が、そう簡単にいなくなるはずが無い」
彼女は強く頷き、バスケットを掴み走り出した。






―――ガシャン




静かな部屋の中で、陶器が砕ける音がする。
同時に水の飛び散る音も。
「余計なことをするな」
低く、静かな声音。
怒っているでもなく、突き放すでもなく。
感情のない、抑揚のない声。
「俺達の成すべきことは何だ?」
黄色の花が彼の足に踏みつけられ、
原型をなくす。
「…申し訳ありません、紅孩児様」
八百鼡は、その光景をただ、
目を丸くして見ていることしか出来なかった。
先程の花畑で摘んできた花。
それを紅孩児の部屋へ飾っていたのだ。
ほんの少しだけ、期待があった。
もしかしたら、昔の彼のように喜んでくれはしないだろうか、と。




『あぁ、美しいな。ありがとう、八百鼡』




そう言って、微笑んでくれないだろうか、と。
だが、それは夢だったと思い知らされる。
部屋へ戻ってきた彼によって、花は花瓶ごと床へ叩きつけられた。
「何だと聞いている」
一瞬、息を呑む。
「……三蔵一行の抹殺です」
俯き加減に、押し殺した声で返事をする。
彼は八百鼡に向かって歩を進め、すれ違い様に視線も合わせずに言う。
「分かっているのなら、それだけを考えろ。それ以外は無用だ。」
「御意」




―――バタン




扉が閉まる。
八百鼡は、花瓶のかけらを集めるために座り込んだ。




―――カシャ




陶器の花瓶のかけらは、拾うたびに音を立てる。




―――カシャ




ひび割れた自分のカケラを集めるように。




―――カシャ




元には戻らない、カケラを手のひらに乗せて。




―――カシャ




ただ。




―――カシャ




懸命に。




―――ガシャン




拾い上げたカケラが音を立てて、
再び地に落ちる。




―――ポツリ




ツ、と流れ落ちる涙。
床に広がる水溜りに彼女の涙が波紋を作る。
「きっと、いつか」
戻ってきてくださる。
「…いいえ、取り戻してみせます」
この手で。
いつか、あの方が救ってくださったように。
「今度は私の番」
もう一度。
自分に言い聞かせるように。
「貴方を取り戻してみせます」
もし、それがあの方を苦しめる結果になったとしても。
私たちは。
私は。
「貴方をお慕いしているんです」
迷いも、苦しみも、痛みも。
そんな感情さえも。
全て。
貴方らしいと思えるから。
「紅孩児様」
彼女が顔をあげたとき、
風が、優しく通り過ぎた。






神様になど任せておけない。
自分自身の手で、
掴んでみせる。
今。
ここにある私の手で。







END

とがき
設定は紅孩児殿が洗脳された後です。タイトルは、『どこにもない』ですね。優しいけれど、その中の八百鼡殿の強さを書きたかった話です。どこか抜けているけれど、一生懸命なところは誰にも負けないと思いますv