バタン。
扉のしまる音がして、
俺は家に上がりこむ。
自分の家なのに、
どこか他人の家のような気がしてならなかった。
「ちょっとぉ、ドアは静かに閉めてよね」
非難染みた姉の声が、
玄関まで響いてくる。
荒々しく階段を上り、
部屋のドアをあける。
引き出しから一枚の紙を取り出して、
キッチンへ降りてきた。
キッチンでは、姉が新聞を眺めながらテーブルについていた。
母は夕飯を作っていたらしく、
鍋をお玉でかき混ぜている。
「慧、帰ってきたんなら『ただいま』くらい言いなさいって言ってるでしょう?」
呆れたようにそう言う母に、
俺はぶっきらぼうに言い放った。


「俺、医大行く」


え?と母と姉の目が俺を見る。
そして、訝しげに歪められた。
「…今、何て?」
「病院、継いでやるって言ったんだよ」
ガスの火を止めて、俺の傍に寄ってくる母。
「いきなりそんなこと言って…」
「アンタの今の成績じゃ無理に決まってるでしょ?」
姉も母も、本気には受け取っていないらしい。
それもそうだ。
今まで、俺は絶対に、継ぐなんて言ったことがなかったから。
拒否し続けてきたから。


逃げて、きたから。


「やる」
持っていた紙を姉の座っているテーブルに向けて投げた。
そのまま、キッチンを後にする。
「待ちなさい、慧!?」
それを拾って、
姉は驚愕の表情を浮かべる。
「母さん!」
「?」


「これ…全国一位よ…」


俺が渡したのは、
全国模試の結果だった。



夜。
電気もつけずに、俺はベッドに横になっていた。
眠ることも出来なかった。
スッキリしない気持ちを、
持て余しているだけで。

不意に、ドアをノックする音が聞こえた。
「何?」
出る気もないので、返事だけを返す。
「父さんが、部屋に来いってさ」
姉だった。
視線を合わせようともせず、
ドアをあけると、
彼女の傍を横切り廊下に出た。
すれ違い様に、彼女は忠告するように言う。
「何を焦っているのか知らないけど」
俺は聞こうとせずに、そのまま遠ざかる。
「そんなんじゃ、出来ることも出来ないよ?」


そんなこと、


知っているよ。


開かれたままの父の部屋の扉をノックする。
「入りなさい」
厳格な父の声。
容姿は、太った白髪の爺さんだ。
パッと見、人の良さそうに見えるんだろうが、
俺は大嫌いだった。
いつでも、人を見下したように感じていた。
俺は、言われるがままに入ってソファに腰掛けた。
「何の用?」
冷たく言い放つ。
ケンカ腰の口調に、彼は表情を変えようともしない。
「医大へ行く、と言ったそうだな?」
「それが?」
「どうして突然、そんなことを言った?」
もっともな問いかけに、
俺はイライラし始める自分に気付く。

焦っている。

その通りだった。

「何も、出来ないんだ」

初めて、自分の思っていることを口に出した。
父に対して。

「アイツが苦しんでいるのに、俺は見ていることしか出来なくて…っ!」

ただ、黙って聞いていてくれた。

「アイツは死にたくないって…言っているのに……ッッ!!」


倒れた彼女を抱き上げたとき、
羽のように軽かった身体。
逃れようのない、
あの病魔が、
彼女の身体を確かに蝕んでいた。
それに気付いたとき、俺は彼女を失うことを怖いと思った。

紗倖のこと。
エイズのこと。
何もかも吐き出して。
心の中のモヤモヤしたものを、
全部吐き出して。


あの時の、紗倖のように。


呟くように、父は言った。
「エイズか」
俺は、静かに頷いた。
「…お前の進もうとしている道は、決して楽なものじゃない」
また、頷いた。
「人の命を預かる、一番難しいものだ。わかっているな?」
「…あぁ」
深くため息をついて、
父は、俺に微笑んだ。
しかめ面しかしていない父の笑顔を見るのは、久しぶりだった。

「よほどその子が、大切なんだな」

知らず知らずのうちに、俺の瞳からは涙が流れていた。
俺の横に座って、
父はなだめるように、背中を撫でる。

「それがお前の決めた道なら、絶対に諦めるな」

「あぁ」

父に対する誤解が、
涙と共に流れて行った気がしたんだ。



涼しい風が吹き、
落ち葉が音を立てて移動する。
今日は、
テーブルの椅子にではなく、タイルの部分に腰掛けていた。
庭に向かうガラス張りの扉を出ると、
タイルが敷き詰められている。
そこの辺りだ。
紗倖はクッションを持って出てきている。
俺はそのままで平気だったから、直に座っているが。
日差しも強くはなく、
丁度良い天気だった。
「そっか。慧、お医者様になるんだ」
紗倖は嬉しそうに笑った。
「なれるかどうか分からないけどな」
苦笑して、俺は返事を返した。

苦しんでいる人の手助けが出来れば、
そう思ってのことだった。

きっかけは紗倖がくれたに相違ないが。


高く、蒼い空。
良い天気だった。

本当に良い天気だった。

涼しい風も。
散っていく金木犀も。
木々の葉も。
何もかもが綺麗で。


「ね、慧」

紗倖が、口を開いた。

「お医者様になれたら、一番最初に教えてね」

「もちろん。一番最初に伝えに来るよ」

俺達は微笑み合った。

紗倖は、持っていたクッションをタイルの上に置いた。
その時、俺は彼女が疲れているような気がして、
そう言っただけだった。
「少し横になってるか?」
「うん」
彼女は返事をして、横になる。
ざぁ、と風が吹いた。

彼女は、ゆっくりと目を閉じる。
「慧」
もう一度、彼女は俺の名を呼んだ。
「ん?」
「あのね」
目を閉じたまま、彼女は言葉を続ける。

「私、ね。倖せってどんなものかよく分からなかったんだ」

長い間一人で。
親の愛情を受けたことさえも忘れるような年月を。

「でもね」

目を開いて、俺を見上げる。
どこか嬉しそうな表情。
儚げで、
今にも消えてしまいそうな柔らかさ。

「最近になって、やっと分かった気がするの」

優しく微笑んだ。



「私、倖せよ」



目を閉じて。
俺の名前を呼んで。


「慧」


伸ばされた手を取って、
俺は彼女を見下ろす。


微笑んだ表情のまま。
倖せそうに。









「…紗…倖……?」









掴んだその手からは、


力を感じなくて。





眠るように。


穏やかに。


確かにある温もりは、


もう、失われていくもので。



涼しい風が吹き、

金木犀の花が散る。

その中で、


彼女は夢のように






儚く散ってしまった。










「紗倖、俺も…。」







彼女に笑いかけようと思うのに、

上手くはいかなくて。


流れる涙のせいで、

声は嗚咽に変わりそうだった。




「俺も、倖せだよ」



倖せだったんじゃない。









君と出会えて、
俺は、倖せなんだ。



「紗倖」









数年が過ぎた。
キリスト教徒の墓地へと足を運び、
一人の墓の前で立ち止まる。
持っていた花束を、
腰を落として供えた。


あの時のように、
良い天気だった。

愛しい人の名を呼んでみる。


「紗倖」


返事はないけれど。


「報告に来たよ」


それでも、彼女が目の前で微笑んでいるようで。


「俺、医者になったんだ」


そう、告げた。



迷いのない声で。








一番大切な、俺の愛する人へ。





「紗倖」







END

あとがき

これも、昔、漫画として描いていたものです。
ただ、エイズに関しての詳しい資料がなかったので、
原稿に書くにはいたりませんでしたが。
どうせ描くのなら、しっかり調べて、の方が良いと思ったんです。
でも、どうしても描きたかったもので、
こんな形で書いてしまいました。
私自身は、病気の方に対する偏見とかはないんですけど、
一般的に見たらこんな感じなのかなあ、と。
慧の独白みたいになってます。
ひとつ、ひとつ思い出すみたいに。
ほんっとーに偶然なんですけど、
慧の最初の名前、『真沙希』だったんです。
そう、『神様、もう少しだけ』の主人公と同じ名前だったらしいんですね。
友人から聞いた話によると。
あれもエイズの話ですねえ。
こんなものと比べ物になりませんけど(当たり前だ)。
私、ドラマとか見ないんで、本当に知らなかったんですよ。