憶えているのは、高く高く、透き通った空。 秋の足音が聞え始めた、夏の終わり。 |
Fine Autumn Day |
庭を掃く松葉箒が、静かに響く。 数人の僧侶が庭掃除に勤しんでいた。 「おい、江流。集めた葉っぱ、片しておけよ」 「お前が一番年下なんだからな」 その中でも、恐らく尤も幼い少年に、先輩僧は命じる。 やっかみや、嫉妬も混じったその声音に、莫迦らしいと思いながらも、 気付かれないように溜息を吐いて、生返事を唇に乗せる。 江流と呼ばれた小坊主は、僧侶に有るまじき有髪であり、 その髪は見事な黄金色。 瞳は紫水晶を思わせる、澄んだ紫暗だった。 その容姿もさることながら、先輩僧から受けた嫉妬は、彼の師に起因する。 光明三蔵法師。 天地開元経典と呼ばれる内の二つを所有する、最高僧の一人である。 本来であれば、経典一つに一人の三蔵法師。 その常識を覆したのが、江流の師なのである。 多くの羨望と尊敬の念を向けられ、 徳の高い、素晴らしい人物と崇め奉られている。 が、実際は物臭の上、何処か掴み所の無い不可思議な法師だ。 それに気付いているのは、恐らく近しい数人だけであろう。 何をしていても、『三蔵法師様のお考え』なのだと納まってしまう。 信頼とは、時に盲目になるものなのかもしれない。 「莫迦らし」 ぽそり、と呟いて、もう一度溜息を吐く。 不意に、門の辺りが騒がしくなった。 先に帰ろうとした先輩僧が、何やらうろたえた様子で話し合っている。 「?」 集めた枯葉を手近な籠に押し込み、器用に箒と共に持ち上げた。 彼らの後ろを通り過ぎる際、横目で様子を眺める。 一人が振り返り、江流と目が合った。 助け舟でも見たかのような瞳が向けられる。 本能が『不味い』と囁いた。 そうしてまた、彼の直感は正しかった。 急ぎ足で離れようとするが、もう遅い。 「俺達は織らないからな!」 一人がそう言って、足早に門から離れる。 それに続くようにして、他の僧もばたばたと忙しなく走り去った。 何かを押し付けられたのは、直ぐに分かった。 ならば、何を押し付けれらたのか。 厭な予感が盛大にしつつ、恐る恐る門の柱の傍へ寄る。 柱の下には、俵型の幅広い籠が置いてあった。 ごそり、と何かが動く。 「っ?!」 身体を強張らせ、持っていた籠を取り落とした。 それを目の端に映して、今度こそ江流は硬直した。 籠の中には、白い晒しに包まれた、 生まれて、それ程経っていないであろう赤子が居た。 「…俺だって、織るかよ」 江流の呟きは、あっけなく風に掻き消された。 墨の薫りが漂う。 硯にて磨られている墨は、淡く梅の香を纏っている。 ふと、初老の男は顔を上げた。 尼削ぎの横髪に、後ろは長く伸ばされたそれを三つ編に結っている。 真白な法衣に、双肩に掛けられた経文。 それこそ、三蔵法師の正装である。 きっちりと締められた障子を眺めていると、小さな影が映った。 「…お師匠様ぁ」 懇願染みた声がゆるりと届く。 聞き慣れた声なれど、このような情け無い声は、 幼い頃以来、耳にした憶えが無い。 ほとほと困り果てたという雰囲気を覚え、彼は腰を上げた。 障子の格子へと手をかけて、静かに敷居を滑らせる。 「如何しました、江流」 空けた瞬間、遠くに聞えていたものがはっきりと響いた。 ぐずぐずとした赤子特有の泣き声。 彼の記憶の糸がはっきりしているのであれば、 間もなく、けたたましい泣き声が響き渡るであろう。 光明は暫く少年の姿を呆けた顔で眺めていたが、 半泣き状態で、赤子を抱いた江流を見るなり、 細い目をきらきらしく耀かせた。 しまった、と思っても、もう遅い。 「朱泱!早くカメラを持ってきて下さい!!」 序に面白いものが見れますよ、と楽しそうに叫ぶ彼を見ながら、 江流は、自分が人選をミスしたことを理解した。 部屋の中へと促され、交流は赤子を抱いたまま腰掛ける。 乳臭いと言うか、何と言うか。 柔らかな髪が、頬を撫でる。 赤子というものに、今迄触れる機会も無かった所為か、 壊れ物でも扱うように、恐々と抱いていた。 抱いていると言うよりも、持っていると言った方が良いかもしれない。 「で、一体、その子は如何したのです?」 何事も無かったかのように、傍に立っている朱泱にカメラを手渡す。 「その前に、ネガを渡して下さい」 「絶対、ヤです」 きっぱりすっぱり言って退ける彼は、間違うこと無く三蔵法師なのだと、 ここで改めて言っておこう。 声を荒げようにも、腕の中の赤子が泣き出しては、 本当に如何しようも無くなる。 ぐ、と堪え、代わりに隣に腰を降ろした朱泱を睨みつけた。 「…憶えてろよ」 「俺は何にもしてねぇぜ?三蔵様が面白いモノがあるって仰ったから、参上したまでだ」 無精髭を生やした中年の男は、からかうようにして笑う。 無論、からかわれているのであるが、いつものことなので軽く流す。 ような性格であれば良かったのだが、江流は如何にも挑発に乗りやすい。 益々、胡乱げな表情で睨み付けるだけだ。 半ば諦めたように、光明へと向き直る。 「寺の門の傍で見つけました。多分…」 「捨て子、ですか」 彼の句を次いで、ふむ、と唸る。 江流もまた捨て子ではあるものの、 特段それを気にしている訳では無い。 捨てられたことを、恨んでいる訳でも無い。 その所為か、捨てられた赤子に自分を重ねている風には見えなかった。 それに少しは安堵したのであろう。 光明は、一瞬だけ彼の表情を窺い、居住いを正した。 「まぁ、取敢えず大僧正にお伺いを立てて、話はそれからですね」 彼の腕の中の赤子を覗き込み、懐かしそうに微笑む。 「それまで、貴方が面倒を見てください」 「なっ?!」 思いも寄らない、彼の提案に江流は目を剥く。 色々と言いたいことはあったのだが、如何しても言葉として出て来ない。 その間に、光明は彼の言をやんわりと制した。 「これも修行の一貫と思って」 冗談じゃない。 顔に大きく書いてある。 その上、朱泱は腹を抱えて笑い出す始末。 げんなり、否、うんざりとした表情で、彼は師を半眼でじとりと睨む。 「子どもを育てるのが、修行ですか」 朱泱が目尻に泪を溜めながら、ばんばんと彼の背中を叩く。 「頑張れ、江流!健闘を祈るぜ!!」 喧しい、と正座していた足を片方崩し、彼の脇腹を蹴り付ける。 それでも笑い続ける彼に、腹立たしさが一層増した。 「何時か、そんな日が来るかもしれないでしょう?」 「僧侶にそんな日は来ません」 「私は来ましたよ」 笑顔で言われ、言葉に詰まる。 それは正しく己のこと。 彼が拾った捨て子は自分であり、育てられたのも自分だ。 何時か、声が聞えただの言われた気がするが、半信半疑である。 「…ワカリマシタ」 江流は渋々と頷き、厭々ながら返事をした。 その返事ににっこりと微笑み、満足そうに頷く。 「頼みましたよ」 このやり取りに、江流の勝ち目は全くと言って良い程無かった。 分かっていた。 このような状況を予想していなかった訳では無い。 否。 絶対、こうなることを確信していた。 「何だよ江流。お前、もうお稚児さん連れてるのか?」 「自分が稚児みてぇな癖してよ」 「違いねぇ!」 品の無い笑いで、廊下を通りがかる江流へと、中傷が向けられる。 これは何時ものことなので、素通りするのは訳も無い。 だが、こちらとて好きでやっているのでは無い。 だったらテメェらもやってみろ、と叫びたいのは無理も無い話。 光明が用意した紐で、赤子を背中に括り付けられたあと、 出会う各々の僧侶にその都度、からかわれる。 笑って受け流せるほど、彼が大人であれば良かったのではあるが、 短気な彼が、そうそう大人しくしている筈が無い。 自分への誹謗中傷だけならば、まだ甘んじて受けられた。 だが、時には彼の師にまで及ぶものには、いい加減我慢ならない。 苛々が募りに募って、少年らしからぬ鋭い瞳で射抜く。 目は据わり、見えない怒りの気配がひしひしと感じられた。 「これは我が師、光明三蔵法師様より直々に命を受けしもの。三蔵様もアナタ方に任せるよりも、私に任せた方が安心出来るのでございましょう」 にっこりと笑っていない目で微笑み、極上の厭味を投げつける。 思わず掴みかかろうにも、彼の背中には赤子が括り付けられている。 それを配慮してか、ふん、と鼻を鳴らして彼らは踵を返した。 その背中に溜息を吐いて、肩越しに背中の赤子を見やる。 江流に気付き、きゃっきゃと笑う幼子に思わず脱力した。 「…誰の所為だと思ってんだ」 一日のお勤めを、早々に終わらせよう。 江流は、止めていた足を再び動かした。 自室の障子を開けた途端、赤子のけたたましい泣き声が響く。 江流は思わず耳を塞いだ。 境内の鐘を激しく打ち鳴らしても、ここまで煩くは無いだろう。 「何やってんだ」 自室、とは言っても、江流一人の部屋では無い。 同じ年頃か、或いは近しい年頃の小坊主との相部屋だ。 面倒を見てくれると言ってくれた同室の者に赤子を任せ、 ほんの少しばかり、部屋を留守にした。 宵の暮れ。 そろそろ寝静まろうとしていた頃である。 寺の朝は早い。 規則正しい生活習慣は、基本中の基本だ。 怪訝そうに見やれば、 部屋の、しかも江流の褥の周りに人だかりが出来ている。 明らかに同室ではない小坊主もいた。 江流は人込みを掻き分けて、その中心へと足を向ける。 「江流がいなくなって、ぐずり始めたと思ったら、ずっとこの調子なんだよ」 「あぁ?」 その目は、赤子一人宥めることも出来ないのかと言っている。 一瞬怯むが、彼の常はこんなものだ。 悪気がある訳では無い。 江流は晒しに巻かれた赤子を抱き上げ、軽くぽんぽんと背中を叩いてやる。 「なァに泣いてんだよ、お前は」 彼が抱き上げてすぐ、 火の点いたように泣いていた赤子が、段々と静かになっていった。 周りに座っていた小坊主達は感心したように、その様子を眺めている。 「江流がゼブス・キリシトの聖母に見える…」 一人がポツリと呟くと、一同は言い得て妙だと頷いた。 異国の宗教なれど、知識くらいはある。 「テメェ、それ女だろ」 すっかりと寝入ってしまった赤子を抱いたまま、 江流は脱力しながらも、彼らを睨みつけた。 散り散りになっていく小坊主達は、それぞれの褥へと戻っていく。 隣に敷かれた、布団を小さく折りたたんだものに赤子を寝かせる。 柔らかな温もりが何故か、壊れてしまいそうで怖かった。 けれど、その優しい匂いに泣きそうになった。 このような生き物がいるのだと、改めて織った気がした。 数日が過ぎ、江流の負ぶっている赤子を誰も気にしなくなってきた頃。 ふと、江流は疑問に思っていたことを光明に尋ねた。 「お師匠様。この赤子、名は無いのですか?」 師の綴る書を、乾いた物から巻いていく。 少年は光明の手伝いをしながら、動きはそのままに振り返った。 「手紙も何もありませんでしたからねぇ」 筆を止め、硯の脇へと休める。 道具箱から煙管を取り出して火を点けると、ゆるりと一筋の白煙が昇った。 「それもまた、御仏の思し召しやもしれません」 江流は手を止めると、彼を振り返る。 「? それは、如何いう…」 「三蔵様」 障子の向こうで、年嵩の声が江流の台詞を遮った。 返事をすれば、静かに障子が開く。 彼の言を聞く前に、光明は頷いて腰をあげた。 江流は不思議そうに、彼の動きを目で追う。 「言ったでしょう、御仏の思し召しだと」 「お師匠様?」 いらっしゃい、と光明が促すと、少年は彼の後をついていった。 境内に、大僧正と話している歳若い女に気付く。 物見のようにして、辺りにもちらほらと幾人かの僧が目に入った。 「坊や!」 若い女が江流を見るなり、駆け寄ってきた。 正しくは、江流の負ぶっている赤子を見て、だが。 光明は何も言わず、彼の紐を解き、女に赤子を渡した。 瞬間、弾かれたように赤子が泣き出す。 「あ…」 微かに逡巡する江流を気にせず、光明は目の前の女を見据える。 未だ泣き続ける赤子を抱き締め、頻りに謝る女に彼は柔らかく微笑んだ。 「そのように大事ならば、最初から捨てるなど莫迦なことはしないで頂きたいものですね」 口調こそ穏やかだが、その色は厳しい。 びくり、と肩を揺らし、女は俯く。 震える声で、もう一度謝罪した後、直ぐに門へと足を向けた。 振り返ることはしなかった。 彼女はきっと、赤子の泣いている理由すら織ろうとはしないだろう。 短い時間の間に、軽くなってしまった背中が物寂しく感じる。 煩わしいと思っていた筈なのに、無くなってしまうと哀しくなった。 情が移ったのだろうか。 師の纏う着物の裾へしがみ付き、額を押し付ける。 すると、優しく頭を撫でられた。 「同じ親としては、腹立たしいものなんですよ」 「…こうなることを、お師匠様はお分かりだったのですね」 彼の言葉に、いいえ、と光明は首を振る。 「貴方を拾った時、直ぐに名前を思い付いたんです」 怪訝そうに、質問の答えではない言を口にする師を上目遣いに窺う。 「あの赤子は、そうでは無かった。他の誰も、あの子の名を口にしなかった」 名が無いことにすら、誰も頓着しなかった。 それはきっと、他に名があるであろうと、誰もが思っていた所為なのかもしれない。 縁と言うのは不思議なもので、交わる処でしか交わらず、 それ以外は平行線を辿るだけなのだ。 「つまり、そういうことなんですよ」 分かるような、分からないような理屈に、江流は眉根を寄せる。 「お師匠様は、俺を捨てようとは思わなかったんですか」 もう見えない女の姿を追うように、門を見つめる。 一度あのようなことをしたのであれば、多かれ少なかれ繰り返すであろう。 光明はそのように思う。 実際、寺に子どもが捨て置かれて行くのは、このご時世決して珍しいことでは無かった。 長年の経験から、迎えに来るであろう赤子は、 何とは無しに分かるのだ。 そうして、引き取られて行った赤子は、 自分が捨てられたことすら織らずに育っていくのかもしれない。 考えると、腹立たしくなり、苛立った。 三蔵法師と言えどもヒトの子。 全てを寛容して受け入れるには、難しいこともある。 私は、と呟き、江流に微笑みかけた。 「江流が可愛くて可愛くて、育児ノイローゼにかかる暇なんてありませんでしたね」 少年は軽く目を見開き、つい、と視線を逸らす。 「そう、ですか」 漏らされた呟きに、光明は目を細める。 照れていることに気付かない程、彼と過ごした時間は短く無い。 楽しげに笑うと、もう一度彼の頭を撫でた。 秋の空の下、小さな手の平はするりと溶けて無くなった。 変わりに聞え始めたのは、喧しいくらいの悲痛な叫び。 あの時は聞えなかった筈の、確かな、声。 ガンガンと忙しなく打ち付ける声に腹を立て、 殴りに行こうと思うのは、もう少し先の未来。 それは、解くことも困難な、 しっかと幾重にも結び付けられた縁の紡ぎ糸。 END |
あとがき |
最近、江流しか書いた憶えが無い。 あぁそうさ、三蔵様が大好きさ! 序に言うと、写真取り捲る光明様が書きたくて書いた話さ! この後、壁一面に引き伸ばして暫くの間飾られます。 子抱き江流。 ちっちゃい子がちっちゃい子抱っこしてるー!みたいな(このネタ織ってるヒトいないだろうなぁ)。 |
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