織りたいと想えば想うほど、それは遠く離れて。
蝶の様に朧げな感覚は、
畏ろしいほど空虚に思えた。



Butterfly




温かな、食卓の薫り。
いつもと変わらない風景。
「おはよう、ケイン」
「あ、ぁ」
明るく挨拶をする少女に、彼は面食らった。
先日の面影は何処にも無く、
むしろ、何も無くて、あれは夢だったのではないかとすら思われた。
「お寝坊さんですね、マスターは」
「仕方ないじゃない、ケインだもの」
くすくすと失笑する緑の髪の少女に、金髪の少女が答える。
いつもと変わらない日常。
他愛ない世間話。
夢でも幻でもなくて、現実だと言うのに、非道い違和感。
ケインはまだ眠っているのではないかと感じた。



食事が終わり、片付けも済んだ頃。
目的地まではまだ時間がかかる。
船の微調整には余念が無いホストコンビュータのホログラムであるキャナルは、
早々にメインルームへと引き上げた。
プライベートルームには彼等だけ。
話をするには丁度良い。
「ミリィ」
「何?」
開いていた雑誌から目を離さずに、ミリィは声だけでケインに返事をする。
「昨日…は」
「何の話?」
くるりと椅子に掛けたまま彼に背を見せる。
強制終了。
それ以上話すつもりは無いらしい。
しかも、無かったことにするつもりだ。
「それよりも、コレ見てよケイン!調理器具10点セットだって。いいなぁ」
「ミリィ」
「一度くらい、思う存分、腕を振るいたいわ」
「ミリィ」
「今日の夕飯どうしようかしら。材料確かめなくっちゃね」
彼女はそう言うと、立ち上がり、雑誌をテーブルに置いた。
少々、乱雑とも思えた動きは、焦っているようにも見えて、
彼女がここに留まりたくないことを如実に語っていた。
「ミリィ!」
声を荒げ、思わず腕を掴んだ。
彼女が止まるのが分かる。
振り返ろうとしないその瞳が、冷え切っているのも分かった。
けれど、離すわけには行かない。
離しては駄目だと、警鐘が鳴り響く。
無理矢理にこちらを向かせた。
「何?」
無機質な瞳で見上げられ、氷の刃で射抜かれた心地さえする。
急激に全てが冷えていく。
彼女はこんな声をしていただろうか。
彼女はこんな瞳をしていただろうか。
段々と分からなくなってくる。
きっと、織らないままであれば、
今までと変わらない笑みと言葉を向けていてくれたのかもしれない。
けれど、織ってしまった。
だから、戻れない。
織らないままではいられない。
いてはいけない。
ミリィはくすり、と笑うと、彼の手をすり抜けた。
「変なケイン」
「茶化すな」
「じゃあ、何よ?」
相変わらず笑ったまま、彼女は彼を見上げる。
押しやられた壁を背にして、けれど、
いつでも逃げてしまえるようなミリィに距離を感じた。
「…考えたんだ」
空いた手を眺めながら、ぽつりと零す。
彼女は無言で、彼を見ていた。
「生きてきた中で、一番考えた」
何も返さない瞳に視線を逸らさず、ケインは真っ直ぐ見つめた。
ほんの僅かでも、彼女に届いているのだろうか。
不安に襲われる。
「確かに、俺はお前のことを何も織らない」
幾度も命を危険に晒しながら、
これほどまでの恐怖を感じた事があっただろうか。
躊躇ったことがあっただろうか。
そう思うと、自嘲の笑みすら浮かびかけた。
「織る資格が無い、そう言われた気もした」
未だ、一言もしゃべらないミリィは聞いているのかどうかすら分からない。
わざと、そう見せている気もした。
「だけど、いや、だからこそ織りたいと思ったんだ」
自分の発している言葉が、何だか意味の無いものだとさえ思えた。
そんな不安を煽る感情に抗いながら、ケインはミリィの肩を掴む。
「俺は…っ!」
「止めて」
途端、弾かれた手。
ミリィは触れられていた肩を見つめ、視線を下に落とした。
彼の手は、宙に浮いたままだ。
「憶測でモノを言うのは勝手だけれど、押し付けるのは止めて」
「ミリィ!」
俯き加減である彼女の表情は、口元しか見えない。
余計に感情が読み取れなかった。
「私は、誰も必要としない。誰も要らない」
顔を上げた彼女は、眉根を寄せて、戸惑っている様でもあった。
それでも、語気を強めて、静かに同じ台詞を繰り返す。
「要らないのよ」
真っ直ぐに見返してはいるが、その目には何も映っていない。
努めて無感動に、無機質に。
「だから、その先を言っては駄目」
小さく振られる首。
「私は私。貴方は貴方。それでいいじゃない」
分かり合えない部分がある。
他人なのだから、仕方の無い話。
声に出さずとも、それを意味する言の葉に、強い憤りを覚えた。
「織らない方がいいことだってあるわ」
差し出された手を振り払い、自分に対する救いを拒絶する。
強く、強く。
「織ってはならないこともある」
「じゃあ、どうして」
触れることの赦されぬ手で、後ろの壁を触れる。
ミリィの視線が、一瞬だけそれに移動した。
「お前は頑なに心を閉ざす?」
何故、何かを護るように、己に触れるものを拒むのだろう。
「織らない方がいいと諭す心がありながら、何故、心を閉ざすんだ」



抱き締めてしまえたら、どんなに楽か。
想いのままに、触れて、口付けて、愛していると囁けたら、どんなにか。
どうすれば、君の心に触れられる?
どうすれば、君の声が聞えるのだろう。



「私はずっとそうして生きてきた」
静寂を切り裂く鋭さで、刃を振るう。
ミリィは微かに笑みを浮かべた。
微笑みでもなく、嘲笑でもなく、憫笑でもない。
「今までも、これからもそれは変わらない」
何とも言えない、複雑な笑み。
笑っている自覚すらないのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
「駄目、よ」
「ミリィ」
彼女を留めようと名を呼ぶが、ミリィは左右に首を振るだけ。
俯いて、胸元を握り締める。
必死にも聞えた、その呟き。
「お願い、この気持ちに名前を付けないで」
俯いたまま、壁に体を預ける。
「蔑んで、厭って」
泣いているのかと思えるほどに、
彼女の声も肩も震えていた。
彼女が泣かないことなど、百も承知であるのに。
「この気持ちに名前が付く前に、忘れてしまって」
どんなことがあろうとも、彼女は泣こうとしなかったのに。
何故、唐突に泣いていると思ったのだろう。
思って、しまったのだろう。
「私には、赦されない」
自分に言い聞かせるように、何度も何度も呟く。
何がそこまで彼女を責め立てるのか、分からなかった。
そうして、
彼女はそれをケインが理解することを拒んでいた。
「赦されては、駄目」
分かり合うこと、傷を舐めあうこと、彼女はそれを厭っていたのかもしれない。
それが煩わしくて、腹立たしくて、感情に任せてケインは叫んだ。
「何で、誰かを想うことが罪に…っ!」
赦されないと何度も呟く。
赦そうとしないのは、彼女自身。
闇の眷属であるこの身が、倖せになどなっていいはずがない。
神殺しの罪は、私だけが背負えばいい。
今想えば、まるでそう言っているように思えた。
「お願い、忘れて」
何か言いかけた彼が音を発するよりも早く、ミリィは口を開いた。
躊躇いがちに伸ばされた腕は、ケインの胸に触れる前に下げられた。
拳が強く、握られる。
掠れた、泣いているような震える声で、
彼女は俯き、たった一度だけ呟いた。





「…ゆる、して…」







だからそれ以上、何も言えなくなった。





恋や愛は、思い描いていたほど甘くは無くて、
切なくて、苦しくて、そして痛かった。
同じ場所に想いはあるのに、決して交わることの無い感情。
けれどそれは、愛を囁くよりも誠実で、恋を謳うよりも清廉だった。
儚く、手の届かない夢。
本当は触れられるほど傍にいるのに、
果てなく遠い空間が、2人の間を広げた。



俺たちはまだ、暗い闇を歩き続ける。







END

あとがき。
・・・あれ?
おかしいです。ここで終わらせようと思ったのです。
ハッピーエンドにして、続けて、決別シーンにつなげようと思ったのです。
繋がっていません。
どうやらミリィさん、彼とくっつく気は毛頭無いようです。
・・・どうしよう。

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