少年が笑ってくれたから、幼子も笑った。
幼子が手を差し伸べてくれたから、少年も握り返した。

立ち上がり、瞬きした瞬間に、少年の顔が見えなくなった。
不思議に思って、視線を下げると少年は可笑しそうに笑う。
「どうしたんだよ」
「…なぁ。お前、小さくなってねぇ?」
幼子は戸惑いながら、視線を泳がせた。
弾かれたように、少年が更に声を上げて笑う。
「何言ってんの、お前」
そうして、気付いた。
呆然としながら、悟った。





「大きくなったのは、お前だろ?」





魅入るようにして眺めた掌は、幼子が既に幼子ではないことを示していた。








Camellia








ジープの淵に頬杖を付き、ぼんやりと流れ行く景色を眺める。
時折、強く横切る風に目を細めながら、今、ここに見えている風景が絵空事のように思えて仕方が無い。
夢現とでも言うのだろうか。
未だ、夢の中にあるようで、けれど確かにここは現で。
「珍しく静かだな、悟空」
沈黙に耐えかねてか、それともただ単に暇になったのか。
紅い髪をした青年が、目の前の座る少年に声をかけた。
だが、心ここにあらずといった風に、悟空は視線を向けることもしない。
返事が無かったことに、随分と短い忍耐力が根をあげた。
彼の背中に向かって蹴りを入れる。
「どわっ!何すんだよ、この赤ゴキブリっっ!」
「ヒトのこと無視するから悪いんですぅ」
「悟浄、気持ち悪いしゃべり方しないで下さい」
運転席から、笑いながらもしっかりとした非難が飛んで来る。
その隣の助手席からは、深々とした溜息が漏れた。
「…折角静かだと思ったんだがな、この莫迦共」
「いや、ちょっと待って三蔵。何で銃口向いてんの?」
慌てて抗議する悟浄も、何故か遠くに思える。
おかしい。
この感覚は一体何だと言うのだろう。
笑おうとしている自分すら、違和感を感じた。
笑えない。
笑ってはいけない。
そのような資格が、自分にあるはずが
―――…。
「悟空」
不意に呼ばれ、顔を上げる。
不機嫌そうな面がこちらを見ていた。
否。睨んでいたと言った方が正しいかもしれない。
ともかく、三蔵は不躾に視線を投げると眉根を寄せた。
「不細工な面してんじゃねぇよ」
一瞬、何を言われたのか理解出来ずに呆ける。
とは言え、至極簡潔に述べられたその台詞は、すぐに意味を脳へと運ばれた。
けれど、反論はしなかった。
代わりに、どれだけ自分が酷い顔をしているのだろう、と思った。
そう、分かっていたのだ。
「…酷っでぇ」
悟空は、笑みとも呼べない笑みを曖昧に浮かべ、視線を大地へと落とした。
線となって過ぎ行く大地。





きっと、例えようの無いほどに、情けない顔を晒しているのだと、分かっていた。





不自然な沈黙が流れる。
ジープのエンジン音だけが、耳喧しい。
「夢を、見たんだ。良く思い出せないけど、すっげぇ痛い夢」
ともすれば、聞き逃してしまいそうな声。
時折、掠れたようにも聞こえる。
「頭、ガツーンって殴られたみたいな衝撃のくせに、意識ハッキリしてて」
無意識に、頭を押さえる。
瘤など、当然出来ているはずもなく、掌に触れたのは無機質な抑え行くもの。
余計に、物哀しくなる。
「見たくも無いもの、突きつけられた気がした」
今更だよな、と悟空は笑う。
感情の篭らぬ瞳で、微笑う。
笑いたくもないのを感じ取れるほどに傍にいるのに、それでも。
「あぁ、今更だ」
素っ気無く、三蔵は頷く。
煙草を燻らせ、紫煙が筋となって後ろへと流れた。
「…何でだろ」
「悟空?」
「何で、かな」
八戒は、バックミラーで悟空を見やる。
俯いたままの少年の顔は殆ど見えない。
栗色の髪が、風に靡いているのが僅かに映るだけだ。
「…仕方が無いんだ、って思えば思うほど、辛いんだ」
何故か、泣いているような気がした。
こんなときに、手を伸ばして抱き締めてくれる存在を、少年はきっと織らない。
織っていたとしても、覚えていない。
長い間、彼を戒めていた時間と言う名の枷は、抗うだけでは簡単に離れてはくれない。
「恐くて、たまらないんだ」
それでも、何がそう思わせるのか分からないけれど。
言い様の無い不安と孤独。
決して、逃れることの出来ない罪咎の意識。
「莫迦じゃねぇの、御前」
唐突に、悟浄が口を開く。
顔を上げて彼を見やるが、視線はこちらを向いていない。
進行方向を、ジープの淵に頬杖を付いて眺めている。
「何がだよ、悟浄」
わざと不機嫌そうに聞こえるように紡ぐ。
少なくとも、そのように思えた。
常の覇気がそこには無い。
「気付いてねぇみてーだから言うけど?御前の悪い癖はな、悟空」
面倒臭げに伸ばされた腕。
節張った指で、悟空の鼻を摘みあげた。
「いっ、ででででッ!?」
「周りを見ようとしないトコだよ」
指の力を緩めることなく、何時になく真剣な面差しで悟空を睨む。
「『仕方が無い』ってことは、『当たり前』ってことだろ。御前自身が当然だって分かってんのに、一体何が恐いんだ」
漸く、悟浄の手を払い退け、涙目で鼻頭を抑えた。
痛みが熱に変わって行く。
「だからって、謝る必要のないモンに、謝ろうとするのはお門違いなの」
分かる?とわざと語尾を上げて悟浄は眉を顰めた。
彼らは織っているのだ。
織っていて、敢えて何も言わないのだ。
必要以上の干渉はしない。
暗黙のルールと、都合良く生きていく為の術。
悟空の『恐い』と、彼らの『恐い』は違う。
大きく、変わる。
悟空の『恐い』と言う思いは、深い悔恨の念によるもの。
何も覚えていない、何も思い出せない自分自身への。





そうある癖に変わり行く自分への、果て無き後ろめたさ。
名も呼べぬ誰かへの、深く、深い
―――親愛の情。





大声で叫ぶことは、出来ない。
名も織らぬ誰かを想って、泣くことは出来ない。
我武者羅に手を伸ばすことも。
脇目も振らず、追い駆けることも。
何故なら、それらは。




「織ってる…分かってる。けど…ッ!」





全て、疾うの昔に過ぎ去った出来事。
戻ることは出来ない、過去。







それでも、失ったものを取り戻したいと想うのは罪だろうか。









三蔵が嘆息したのが分かった。
「『だけど』は要らん」
とん、と煙草を脇で揺らせれば、灰はあっと言う間に風に溶けて消えて行った。
フィルター近くまで燃え尽きたそれを灰皿に押し付け、懐を探る。
「そうやって、何時まで御前は言い続ける?」
探り当てた煙草のケースを開き、新しい煙草を銜えて火を点ける。
「手前の痛みくらい、言い訳しねぇで真っ直ぐ見据えろ」
最後に莫迦だとか、糞餓鬼だとか付属されかねない彼の台詞が、不思議と心地良かった。
顔を上げ、目を開く。
隣に、だらしなく足を放り出して掛けている喧嘩相手。
前を見て、時々、こちらを気にしてくれている自他共に認める保父さん。
ハッキリ言って、他はどうでも良いのだろうと思っても差し支えの無い最高僧。
「…ん」
そうして、今ここにいる自分自身。
動き出した時間を止めることは出来ない。
けれど、何時か。
過ぎ去ったもの、忘れてしまったものと向き合ったその時に。
泣いてしまいそうな想いを抑え込み、情けない顔で謝るよりも、
誇りを持って笑えるように。
そんな自分に、なれるように。





強く、なりたいと、
強く、思った。







END



あとがき
天界編をね、書きたったわけですよ?
何でこんなことになったのだろう…。

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