ずっと、振り返るのが怖かった。 そこには何も無いのだと、思い知るのが怖かった。 |
白い世界に降り積もる 紅い桜を手のひらに |
聞いているのかいないのかも分からない。 幼子は零れるような黄金色の瞳を見開いて、窓からそっと手を伸ばした。 あたたかな風が優しく肌を撫ぜて行く。 「三蔵…なぁ、三蔵」 職務机に向って無心に書簡へと筆を流す最高僧に幼子はもう一度呼びかける。 やはり返事は無かったが、気分を害す様子は微塵も見せない。 語りかけているようでいて、実は大きな独り言なのだと三蔵は理解していた。 「俺さ、怖かったんだ」 腕を外に向かって伸ばしたまま、届きそうで届かない春の雪が手のひらを掠めて行く。 寺院の外を眺めやれば、満開の桜。桜吹雪。 「いつも、夢を視る。真っ白なとこで、何処からか降ってくる桜の花、眺めてて」 額に納められた金鈷が陽の光を浴びて鈍く煌めいた。 白い世界に降り積もる桜の花弁は少しだけ赤味が強かった気がする。 理由は知れないけれど当然なのだと、思った。 「誰か、居るんだ。一緒に微笑ってて、そんで」 伸ばしていた腕が力無くだらりと窓枠に下がる。 小さな背中が更に縮こまって、顔を引っかけた腕に埋めるようにして項垂れた。 幼子は決して振り返らない。 声だけが明るく、はしゃいでいるようにして。 顔を見られないようにして、微笑う。 幼子らしからぬ笑顔で、微笑うのだ。 関係ないと思っている傍らでその歯痒さを感じ、三蔵は莫迦莫迦しいと嘆息せざるを得ない。 分かろうとしていないものを感じられるほど達観しているのだと思うことは出来ない。 「振り返ったら、誰も居なくて」 たったひとつの揺らぎすらない静かな水面に、一滴が落ちるような言の葉。 ぽつん、と波紋が広がって行く。 「だから俺、振り返るのが怖かった」 見てみろ、と指を差された先に怖いくらいに美しい桜の洪水。 はしゃぐ幼子に誰かが、そう誰かが。 ―――そうだな、悟空 呼んでくれたのだ、たったひとつのかけがえのない幼子だけに与えられた呪を。 胸の奥から熱いものが込み上げて、嗚咽に変わろうとするのを堪える。 「変だよな。怖いのに、夢の中でやっぱり何度も振り返る」 憶えておくことの出来ない声に縋るように、悟空は振り返る。 何度も、何度も。 誰も居ないのだと思い知る度に今度こそ振り返らないのだと心に決めて、 だのにいともあっさりと挫かれてしまう。 小さな手が、誰も居ない虚空を掴んでどうしようもなく切なくなる。 居なくなった誰かを呼ぼうとして呼べる名前がひとつも浮かばずに、 それでも呼びたくて、声ならぬ声で叫んだ。 悟空はでも、と呟いた。 「微笑ってたんだ」 はしゃいで、頬を上気させて、止め処ない花弁にめいっぱい両手を広げて。 終わりが来ることなどないのだと、盲信していた。 「誰かと、微笑ってたんだよ」 本当は分かっていたのに、分からないふりをした狡猾さ。 卑怯だと、思った。 分からないふりをしていれば、倖せな夢は続くのだと打算的な考えを拭えはしなかった。 まどろんでいたい夢は、ともすればぬるま湯のような依存を齎し、蝕んで行く。 腐って、朽ち果ててしまえるのならそれでも良かった。 もう断片的にしか思い出せない夢は、明日になれば忘れてしまうのだろう。 忘却こそが幼子に科せられた罪咎。 思い出したことすら思い出せなくなる果てない忘却こそが。 「悟空」 低く、聞き慣れてしまった声が悟空を呼ぶ。 何の反応も示さない背中は、まるで泣いているようにも見えた。 だが、幼子が決して心から笑わないのと同じように、 決して涙を流そうとしないことを知っていた。 忘却と共に刻まれた幼子の罪咎はそうそう容易くはない。 紫暗の瞳は振り返らない悟空を無感動に映す。 切らないのだと言った長いはしばみ色の髪が、揺れた。 「…夢は、夢でしかないから」 ほら、と三蔵は嘆息する。 やはりそうなのだ。 やっと振り返った悟空は今にも泣き出しそうな瞳で微笑う。 一切の感情を宿すことすら罪なのだと言い聞かせるかのような幼子はきっと、 断罪の日を待ち望んでいるに違いなかった。 それでも、悟空は必然のようにして微笑うのだ。 「名前を呼んでくれる三蔵が居る、こっちのが良いなぁ」 例え、どれほど甘美な夢の芳しさに誘惑されても夢は夢でしかない。 失われた日は還らない。 届かなかった腕が何を掴もうとしていたのかすら思い出せない。 未だ残る感じた痛みを忘れる日は来ないけれど、醒めない夢は何処にもない。 寺院に来たばかりの頃は夢の続きかもしれないと、 悟空は気配を感じていても名を呼ばれるまで振り返ろうとはしなかった。 誰かがそこに居るのだと確信出来るまで、身体が凍り付いて動かなかった。 そうして悟空は気付いていなかったが、 名を呼ばれると安心したようにほんの一瞬だけ穏やかな表情を浮かべるのだ。 振り返るのが怖いのだと漏らした本音を知った今となれば、その理由も知れた。 恐らくは500年の孤独の末、他にも恐れているものがあるに違いない。 幼子の心の闇は三蔵が考えている以上に深く、濃い。 悟空が年相応に明るく、無邪気に振る舞えば振舞うほどそれは浮き彫りになって行く。 「…お前は、よく分からんな」 筆を硯に置いた三蔵は、正直な感想を漏らす。 傍らに積まれた書簡はまだ山のように残っている。 聞こえたであろうに、幼子は首を傾げた。 彼の言葉の意味を量りかねたのかもしれない。 俺は三蔵の方がよく分からないと思うけど。 口の中で呟いて、幼子は空を仰ぎ見た。 はらり、はらりと春の雪が舞い続ける。 目の端に映った外から舞い込んだ花弁は、夢の桜よりずっとずっと白かった。 END |
あとがき。 |
付録になってた最遊記外伝3巻特別カバーより思いついたネタ。 どうせなら天界編書こうぜ自分ー!!(爆) |
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