刻は廻る。
輪廻は繰り返す。
それが全てだと思っていた。

それが全てだと思いたかった。



これは、廻らぬ環の物語。

永遠なりし刻
−序章−




簡素でありながら、落ち着いた感のする奥座敷。
その中に、老婆と若い娘が膝を付き合わせている。
「お久しゅうございます、永遠様」
着物を纏った老婆は、淡く微笑んだ。
前に座している娘は、彼女とは反対にジーンズにシャツというラフな格好だ。
「もう、何年になるか」
「何十年でございましょう」
ついこの前逢ったかのような口振りの永遠に、老婆は首を振った。
思い当たったのか、苦笑する。
障子は無く、開け放たれた座敷は風の通りが良い。
外に面した廊下側には御簾が下げられている。
時折通り過ぎる風が、さらりと鳴く。
「紅桜は如何致しました」
外から声が掛けられ、品の良さそうな小間使いが茶を運んできた。
小間使いの動きに合わせていた視線を、老婆は永遠へと向けた。
永遠は手前に置かれた茶碗に手を伸ばす。
カタリ、と茶托が音を立てた。
盆を過ぎたと言うのに、夏の日差しがまだ強い。
持ってこられた麦茶はよく冷えていて、
ガラス椀の外側には水滴が張り付いている。
指先が冷えた。
一気に中身を煽る。
小間使いが出て行ったのを確認して、永遠は口を開く。
「あれが来ると、煩くなるから置いてきた」
「まぁ、そのようなこと」
ころころと微笑う様は、少女の頃と変わらない。
自然、永遠も笑みが零れた。
「顔を合わせれば喧嘩ばかりだったのは、誰だったかな。なぁ、瑚胡李」
瑚胡李、と呼ばれた老婆は淡く頬を染める。
「昔のことですわ」
誤魔化すようにして、自分の椀に口をつける。
喉の奥に冷たいものが広がった。
「そう、昔のことだ」
微笑んで目を伏せる永遠に、瑚胡李は持っていた椀を握り締めた。
「今日、この日。貴女様とお逢い出来て良かった」
「お前がアメリカから出向くと、千尋が夢眞訪いで教えてくれたんだ」
「千尋が…」
永遠は、持ったままになっていたガラスの椀を茶托へと戻す。
彼女の瞳が優しく、哀しく揺れたのを気付かない振りをした。
「ヴィリーは息災か」
「三年前に他界しました。今は、末の娘が会社の跡を継ぎ、私はのんびり隠居生活です」
気まずそうにした彼女が織らないことは百も承知だ。
瑚胡李は明るく努める。
「夢眞訪いは、双闘珠当主のみが使うことの赦される術。退いた私には、所在の定まらない貴女様に報せる術がありませんでしたもの」
通り過ぎた風に振り返り、御簾越しに外を見やる。
蝉の声が遠くに響いた。
庭は丁寧に手入れされており、常人には視えない木霊や精霊が顔を出す。
珍しくも懐かしい客人に、気付いているのかもしれない。
「月日が流れるのは早いな。自分の歳すら忘れてしまう」
「私が九四になるのですから、それに八を足すだけでしょう」
あまりにも大雑把な彼女に、苦笑を禁じ得ない。
否。彼女には年齢を数えることなど、意味が無いのかもしれない。
「永遠様」
茶托に椀を戻し、居住いを正す。
それに倣って、永遠も姿勢を正した。
「私は、そろそろ黄泉路へと出向かねばならぬよう」
すっかりと皺枯れてしまった手を、胸元へと寄せる。
永遠が憶えているのは、瑞々しい少女のそれだ。
気の遠くなる程の年月が、確かに流れていた。
永遠は苦笑する。
「双闘珠である私は、己が死期が手に取るように分かる」
彼女は言う。
何の躊躇いも無く、彼女は言う。
年の功なのか、それとも元々の性格からか。
「本日は、別れの挨拶にここを訪れたのです」
死の訪れとは、かくもこのようにあっさりとしたものか。
顔を顰めることすら忘れてしまう。
永遠に出会わなければ、このように生きることも無かった。
瑚胡李は以前、彼女と別れる時にそう告げた。
家を出て、当主として地位も譲り、単身で愛する者の元へと向かう時だ。
ヴィレルドと出会うことも無く、双闘珠当主として全うを果たすのみであった、と。
本当に、感謝しているのだ、と。
だから、今更そのようなことは口にしない。
言わずとも、彼女はその心を織っている。
だから言わない。
「双闘珠は死ねば、その通り土に還るのみ」
その魂魄は大地へと還り、何者でもなくなると同時に、全てのものへと姿を変える。
学によって、持ち前の資質によって力を宿す陰陽師とは違って、
双闘珠はそのようなもの。
言わば、自然界との契約。
神と契るのが巫女ならば、この世を形成する基盤と契るのが双闘珠。
「力を得るのと引き換えに、魂魄は廻りません」
力を得たその日から、その魂魄は大自然の一部となる。
「黄泉の国で夫と逢うことも、転生し、遠い未来で貴女様に逢うことも叶わないでしょう」
静かに、目を伏せる。
腿の上に置かれた手が、握り締められた。
「継いだあの頃は、そのようなこと何とも思わなかったのに、今になって怖いと思う。寂しいと、思うのです」
幾度か目を瞬かせ、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
その瞳には、永遠の姿が映し出されている。
切なげに細められた双眸が、微かに揺れた。
「永遠様」
軒下に下げられた風鈴が、ちりん、と鳴った。
「貴女様はそれでも、永遠を生きてゆかれるのですね」
永遠は答えず、微笑みを返す。
瑚胡李にはそれがもどかしく、ゆるゆると首を振った。
「子を成せば、その柵から逃れることが出来ると言うではありませんか」
語気が荒くならずとも、そのような雰囲気を漂わせ、彼女は言い募る。
何故、と問い掛ける。
「その子もまた子を成せば。それを続けていくのなら、永遠の生命などありはしないものを」
何故、永遠だけがそれを背負うのだ、と問い掛ける。
その答えは、とうの昔に出している。
瑚胡李もそれを聞いている。
けれど納得など出来ない。
「子を成すということは、永遠の生命を継ぐだけじゃない」
永遠は立ち上がり、御簾を掲げる。
吹き込んできた風に、長い髪が揺れ流れた。
強い日差しは雲に隠れ、淡く地上を照らすのみだ。
夕立が来るかもしれない。
「私に宿っている巫力も、霊眼も、私に至るまでの巫女の記憶も全て、継承しなければならない」
掲げていた御簾から手を離し、傍の柱へ背を傾ける。
逆光になっていて、瑚胡李には彼女の表情が見えない。
「望まずとも、必ず危険に晒される。そうして、護りたいと思っても、私から力は消え失せている」
思い出したように、庭先で蝉が鳴き出した。
風鈴の音すら掻き消される。
「私にとって、それは耐えられないことなんだ」
力をそのままに、生きていくのは永遠の決めたこと。
永遠を歩いて行くと決めたのは、自分自身。
「確かに、永遠は永い。死ぬこともなく、ただ刻が流れていくのを眺めるしかない」
時に、大切な者や、友人が死に行く様を目にしなくてはならない。
今のように、ただ、見送らねばならない。
「それでも」
その度に、心は重く、血を流すけれど。
「ひとりじゃないから」
永遠は手の平を見つめる。
掴んできたものは何だったろう。
失ったものは何だったろう。
二十歳を過ぎるか過ぎないかの姿で成長は止まり、
年を取ることの無いその姿は、ヒトから見れば羨ましいのかもしれない。
けれど永遠には、瑚胡李の年老いた姿の方がよっぽど美しく見えた。
愛おしいと思った。
彼女は仕方なさそうに、困ったように微笑う。
大声で笑っている様など、見た憶えが無かった。
「多分、大丈夫だよ」
多分、そう言った彼女が彼女らしくて、瑚胡李は苦笑する。
絶対などとは言わない。
そこまで自分に自信がある訳では無い。
いつかそう言っていたことを思い出した。
「私が、今日ここに今生の別れを告げに参ること、ご存知だったのでしょう?」
円座から立ち上がり、す、と歩みを進める。
足袋が床を擦った。
「紅桜は、それ故、姿を見せなかったのでしょう?」
「さぁ、如何だろうな」
嘯いて、永遠は御簾を潜り、廊下へと出る。
瑚胡李も彼女の後ろに続いた。
外へと向けられた背に、頭を垂れる。
「紅桜にも宜しくお伝えください。永遠様も如何か、お体ご慈愛の程」
一瞬だけ、見開かれる瞳。
けれど、泪は流さない。
それを、瑚胡李は望まない。
だから、振り返って微笑った。
「さようなら、瑚胡李」
別れの言葉を、瑚胡李に先には言わせない。
それも、永遠の優しさだなのだと織っていた。
ゆっくりと手を伸ばし、永遠へと抱き付く。
そんな瑚胡李を優しく抱き締めた。
「私、永遠様を本当にお慕いしておりましたのよ」
黒く艶やかだった長い髪は、何時しか真白のそれへと。
愛おしげに白髪を梳いた。
見上げて、名残惜しげに離れる。
永遠は微笑ってくれた。
今度は、自分が微笑う番だ。
瑚胡李は、あの頃と変わらぬままの笑顔を向けた。
「さようなら、永遠様」
風が永遠の周りに絡み付いていく。
その姿は溶けるようにして、淡く、幻となった。
瑚胡李は廊下に膝を着き、身体を折って泪を流した。







−序章− 了


あとがき
プロローグにあとがきってのも変な話ですが。
書き直すに当たって、がらりと変えてみました。
全部繋げて話にしようかと。
一冊の小説みたいに。
何度も言うようですが、この『紅桜』は私とは何の関係もないです。
彼女の名前を、私が貰ったようなものなので、
どちらが先かと尋ねられたら、彼女の方が先なのです。
次から、回想編ってか本編です。
いつになることやら。

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