大切なもの。
倖せ。
希望。



絶対なる信頼と、愛情。





私が最も、恐れていたもの。







Fear of Lose







リーマス・J・ルーピンは悩んでいた。
買い物カートを傍らに止め、
両手にはミルクチョコレートとホワイトチョコレート。
「どっちにしようかなぁ」
ぽやん、とした口調で、彼は呟く。
彼の友人に言わせれば、
どっちでもいい上に、どうでもいいことなのであろうが、
彼にとってはそうでもないらしい。
段々、どうしてブラウンなのに『ミルク』チョコレートなのだろう、
などと脱線した思考すら浮かんでくる。
彼は、何かに気付いた様に、ミルクチョコレートを陳列棚に戻した。
「ミルクチョコレートは、戸棚にまだあった気がする」
籠の中にホワイトチョコレートを放り投げた。
まだ若いにも関わらず、白髪交じりの鳶色の髪。
彼はほんの少し伸びてきた髪をひとつに縛り、ふぅ、とため息をついた。
切っておかないと、逃亡中の友人にとやかく言えなくなってしまう。
逆に、あそこまで伸ばしたら、それはそれで驚かす事が出来るかも、
などと、取り留めの無い考えをつらつらと思い浮かべた。



そういえば、あの日もこんな普通の日だった。
リーマスは仕舞い込んでいた記憶の糸をそ、と辿った。








夕飯の買い物をして、家に帰ると、急ぎの梟便がリーマスの帰りを待ちかねていた。
不思議に思って、手紙を開けば聞き覚えのある声が、忙しなく早口で内容を読み上げた。
話し掛けられている、と言っても過言ではなかったかもしれない。
手紙から声が飛び出すということは、文字を書く暇も無く、
声をそのまま手紙に閉じ込めたのだろう。
よっぽど急いでいたのだな、と思った。

『リーマス・J・ルーピン殿
 何と言ったら良いだろうか。いや、何と言っても、事実は変わりはしない。けれど、わ
 しは未だに信じる事が出来ないのじゃよ。心してよく聞いて欲しい』

随分と、回りくどい言い方だと感じる。
この人は、こんなにも用件を後回しにするような言い方をしただろうか。
彼の記憶には、さっぱり思い当たるものがない。
食品を冷蔵庫に入れながら、リーマスは耳だけを傾ける。

『ポッター夫妻、そうしてピーター・ペティグリューが殺された』

一瞬、動きが止まった。
ゆっくりと曲げていた腰を伸ばし、手紙を見やる。
そこにあるべき声の主はいない。

『信じられないかもしれないが、シリウス・ブラックが裏切ったのじゃ』

何の冗談を言っているのだろう。
最初、そう思った。
無意識に、まさか、という言葉が零れた。
けれど、性質の悪いジョークだと思い込ませようとしている自分に気付く。
その後の内容は、右から左へと通り抜けていくように、よく覚えていない。
ヴォルデモートが力を無くしただの、
ポッター夫妻の子どもだけが生き残っただの、そんな内容だったとは思う。
つまりは、どうでも良かった。
遺体は、事が落ち着くまで声の主が預かると言っていた。
葬儀はそれかららしい。
最後に、手紙はホグワーツ魔法学校校長アルバス・ダンブルドアの名で括られた。

「ジェームズ達が、死んだ?」

物言わぬ紙を、じ、と見つめる。
手に取ると、その内容の重さとは裏腹にとても軽かった。

「シリウスが、裏切った?」

しかし、裏切るとはどういう意味なのだろうか。
ふと、思った。
彼はこの時、ポッター夫妻が忠誠の術を行使することは聞いていたが、
シリウスが秘密の守人として選ばれたということは織らなかった。
織らされていなかった、と言った方が適切かもしれない。
しかし、シリウスが裏切ったという事実によって、
自分が疑われていたという真実に結びつける事が出来なかった。

リーマスは、もう1度まさか、と呟いた。








手に重みを感じながら、ひとり、歩く。
切れかかっていた紅茶の葉も買った。
ミルクを買い忘れたが、まぁ、大丈夫だろう。
ホグワーツ魔法学校の教員をしていた事で、今しばらくは蓄えもある。
頬を撫でる風が温かくなってきた。
リーマスは顔を上げて、空を見上げた。






手紙を聞いた後、とりあえず食事を作った。
食後に紅茶を入れて、思考を整理する。
何故か温もりも、立ち昇る芳しい香りも、何も感じなかった。
手紙はテーブルの上に置きっ放しだ。


―――何で、泣けないんだろう


放り出された手紙を眺めながら、ボンヤリと思う。
唯一無二の親友を一度に無くした。
倖せでいっぱいだったはずの親友の夫妻が、殺された。
共に笑い、はしゃいでいた仲間がどこにもいない。
泣くには充分すぎる要素だ。
ひとりになってしまった、とは不思議と思わなかった。
暗くなってきたことにようやく気付き、杖を取り出してランプに光を灯す。
「おかしいな」
リーマスはランプを見上げると、ぽつりと呟いた。
「ちっとも明るくないや」
橙色の灯が、弱々しく揺れた。

一体、何時間そうしていたのだろう。
食器は洗わずに流しに付けたままであったし、
いつも楽しみにしているはずの紅茶は、すっかり冷め切ってしまった。
リーマスは立ち上がると、立てかけてあった箒を手に取る。
勢い良く玄関を開け、箒に跨った。
「ゴドリックの谷へ」
短く、鋭く口を開く。
いつの間にか降り出していた雨も気にせずに、リーマスは箒を急かした。
段々と肌寒くなっていく気候は、夜になれば更に強まり、
晒した肌がぴりりと痛んだ。
雨で箒が湿り、ぐん、と動きが鈍る。
それでも彼は、進むことを止めなかった。
暫く進むと、目当ての場所へと辿り付く。
飛行高度を下げ、見覚えのある家屋へと急いだ。


―――急いだ所で、何かが変わるわけでもないのに


それでも何故か、心が急いた。
ようやく見えてきた場所は、暗く、静寂が広がるだけだった。
水分を吸収した家屋は、冷たく耳障りな音を生んだ。
箒から降り立ち、瓦礫と化した家屋に触れる。
悴んだ手には、むしろ温かく感じた。
「ジェームズ」
家の主を呼ぶ。
「リリー」
親友の妻を呼ぶ。
返事が無いと、分かっているのに。
何故、無性に呼びたくなったのだろう。
何故、無性に会いたくなったのだろう。
手が傷付くのも構わずに、瓦礫を退かす。
魔法を使えばいいのに、使えなかった。
湿りきったローブが重たい。
寒さで、手足の感覚が無くなってきた。
自分は、こんなところで一体何をやっているのだろう。
ふと、何かに触れた。
引き出してみれば、それは見慣れた眼鏡だった。
フレームも曲がり千切れかけ、レンズは割れてしまっている。
「これ、気に入ってるって言っていたのに」
苦笑して、それを撫でる。
傍に、何かの欠片が落ちていた。
拾い上げると、華の飾りの様だった。
「リリーの髪飾り。ジェームズが悩んで悩んで、シリウスと僕に泣きついて来た時の」
今度は、自然に笑みが零れた。
くすくすと一頻り笑うと、リーマスは小さく俯いた。


「2人とも、本当にいないんだね」


壊れた眼鏡と髪飾りの欠片が、手の中で痛む。


「そこにはピーターもいるのかな」


ゆっくりと空を仰ぎ見ると、幾千の針が降り注いだ。
目を開けば、冷たいものが飛び込んで来る。
あぁ、そうか。リーマスはひとりごちた。
急速に、もどかしい感情を理解していく。
必死に泣く理由を探していたのは、泣きたくてたまらなかったからだ。






―――君達が死んだと理解する自分を拒んでいたんだね






目頭が、熱く、震える。







「僕は、泣きたかったんだ」





ひとりになってしまった事ではなく、
皆がいなくなってしまった事への嘆き。
ちょうど、光を失ってしまったような痛み。
リーマスはようやっと、声を上げて泣いた。




雨が、全てをかき消したけれど。










空に、死んだ人間がいるだなんて、誰が思いついたのだろう。
蒼く澄んだ空の海に、軽く微笑む。
そうやって、救われる心もあるのかもしれないと思った。
買い物袋を抱え直し、また歩き出す。










「どうして、僕の父と親友だとおっしゃらなかったのですか?」
教え子が、そう問うて来たのは、魔法学校を去る少し前の事だったと思う。
ハリー・ポッターという緑の瞳をした少年は、
在りし日のジェームズを髣髴とさせる、真っ直ぐな眼差しでリーマスを見上げた。
「先生は父が嫌い、でしたか?」
重ねて躊躇いがちに問うてくる彼に、リーマスは呆けた顔を見せた。
「彼を嫌いになるのは魔法薬学よりも難しいな。大好きだったよ、今でもね」
苦笑して、彼の視線に高さを合わせた。
だったら何故、と言いたげな瞳にまた、困ったように微笑う。
「大好きだから、言えなかった」
彼は、自分の中の気持ちを整理しながら、言葉にしていった。
問われることで、改めて考えているようでもあった。
「私は、彼等に何も出来なかった」
少し悲しげに揺れる瞳に、ハリーは戸惑う。
聞いてはならなかっただろうか、と今更になって思った。
けれど、どうしても織りたかったのだ。
「それなのに、親友を名乗るなんておこがましいと思ったんだ」
眉を顰めて、少年は首を傾げた。
「よく、分かりません」
真っ直ぐに見つめる瞳は、気の強い彼女と同じ。
懐かしいとすら思った。
「友達だと言うことに、何の躊躇がいるんですか?」
きっぱりと告げる彼の声に、別の声が響く。


『親愛なる仲間達よ。僕は、君達が親友だと誇りを持って言える』


重なった過去のイメージに、軽く目を見張る。
「そうだね。それが本当なんだ」
目を細めながら、リーマスは頷いた。


『愛しているよ』


確かあの時は、と思い浮かべる。
シリウスが思いっきり顔を顰めて、気味が悪いと言っていた。
ピーターは何を企んでいるのかと、顔色をうかがっていた。
リーマスはあんまりに唐突の事に驚いて、何も言えずに笑ってしまった。
それでもジェームズには、ただのひとつも偽りなど無かっただろう。
「ジェームズも、いつか同じような事を言っていたよ」
掴み所の無い性格ではあったけれど、嘘をついた事は悪戯以外では無かった。
全部を信じられるかどうか、と聞かれたら、
苦笑しながら曖昧に頷くくらいではあるけれど。
「ただ、一瞬でも彼等を疑い、責めてしまった自分が赦せなかったのだと思う」
どうして、言ってくれなかった。
どうして、信じてくれなかった。
どうして、僕を疑った最初に殺してくれなかったんだ、と。
ハリーから離れ、紅茶を入れようと言って立ち上がる。
紅茶を入れる為の湯を火にかけた。
それを眺め、ため息ついでに吐き出される少年の声の調子は、
言葉の内容とは違って意外に軽かった。
「やっぱり、それって変です」
「何がだい?」
彼が言い出した台詞に、リーマスは首を傾げる。
「親友って言ったって、自分じゃないんだから、自分じゃないからこそ、疑ったり妬んだりするんだと思います。誰だって聖人君子じゃありえない」
きっぱりと告げるハリーは、真っ直ぐに言葉をぶつける。
子どもの視点で紡がれる言葉に、思い知らされる感は否めなかった。
参った、とすら思う。
自分が子どもの頃、恩師達が繰り返し言っていた、
『いつも子どもに教えられる』とは、この事なのだろう。
あの頃は、全く分からなかったけれど、色々な柵に縛られ、
それらを織る事によって『大人』と呼ばれるものに自分がなったのであれば、
彼等の気持ちが分からないでもない。
縛るものが多過ぎ、支えきれずに子どもを羨ましいと思う。
しかしそれは、大人の身勝手なエゴであって、子どもにも悩みと言うものが存在するのだ。
己が子どもであった頃も忘れて、勝手な言い分だと自嘲する。
「僕だって、ロンにチェスで勝てなければ悔しいと思うし、ハーマイオニーに叱られたらムカムカする。僕の養家だったら、腹が立つなんてしょっちゅうだ」
普段は、友人に対してあまり弱音や悪態を吐く子ではないのだろう。
最後のもの以外、言い淀む台詞はそう思わせた。
元々しっかり者のイメージが強かったが、ハッキリした口調はそれを殊更強く感じさせる。
同時に、甘える事を織らない故の強さのだと感じ、寂しくもなった。
「先生は完璧?」
「まさか」
紅茶の葉をポットに入れ、湯を注ぐ。
芳しい薫りが、部屋中に広がった。
「だったら、別に気にする必要なんてないじゃないですか」
あっさりと言い放つ彼に、リーマスは手を止め、ふむ、と頷いた。
「そう、だね」
言われて、妙に納得する自分がいることに驚いた。
確かにそうだ、と。
いつだったか、似たような事があった。
喧嘩とまでいかないけれど、関係がぎこちなくなってしまった時期が。
ジェームズ達は何も言わないリーマスに腹を立て、
リーマスはジェームズ達を煩わしいとすら思っていた。
わだかまりが解けると、顔を見合わせて大笑いした。
お互いに謝って、それでも謝り足りないといったリーマスに、
ジェームズ達は声を揃えて言ったのだ。

『気にしすぎるのはお前の悪い癖だ。今度言ったら、2度とチョコレートが食べられなくなる魔法をかけてやる』

それは困る、と目を丸くして、やっぱり腹を抱えて笑った。
沸騰し始めた湯を火から下ろしながら、リーマスははにかむように笑う。
ハリーは、彼が過去を思い出しているなどとは織らない。
笑い出した彼を、怪訝そうに見上げていた。
「あんまり言っていたら、ジェームズがゴーストになって、喜んでからかいに来るかもしれない」
それを聞き、少年は一瞬だけ目を丸くする。
何かを考える仕草を一通りした後、非常に聞きにくそうに、
否、聞きたくないようにおずおずと尋ねた。
「僕の父はそういうヒトだったんですか」
「君の父親はそういうヒトだったんだよ」
さも当然とばかりに言う彼に、ハリーは口の端が引きつるのを感じる。
会ったこともない両親に、実際以上の憧れや尊敬は仕方がないだろう。
しかし、恐らく聞けば聞くほど、
立派だと言われている両親像は音を立てて崩れていくに違いない。
これ以上聞くのは今度にしよう、と少年は1人頷いた。
「それにね、ハリー」
充分に蒸された紅茶を差し出し、リーマスは悪戯っぽくウインクする。
「私達は親友と言うよりも、悪友と言った方が良いかもしれない」
温かい紅茶の温度が手に伝わるのと、
その意味を理解するのは一体どちらが先だったろうか。
2人は顔を見合わせて笑いあった。








足元の影を見下ろす。
ヒトの形をしていることに、何故か安心した。
顔を上げて、見えてきた自宅の玄関に視線を投げると、
黒いもさっとした大きなものが目に入った。
彼が近付くと、ぴくりと動く。
どうやらイキモノの様だ。
すぐ傍まで歩いていくと、ソレは勢い良く立ち上がった。
「やっぱり、ミルクを買っておくべきだったかな」
ドアに鍵を差し込み、かちゃり、と廻す。
ノブを引けば、簡単にドアは開いた。
黒く大きな犬は、何も言わずにただじ、とリーマスを見上げる。
「なんて言っている場合じゃなさそうだね」
彼の来訪により事態を悟ったのか、彼は大きくドアを開いた。
灯の点いていない部屋が、薄暗く広がる。
「まずは久しぶり、パッドフット。あぁ、今はスナッフルだったかな。ともかく、どうぞ上がって」
無言で部屋に身を滑らせる黒犬を見届け、リーマスも中に入る。
無機質なガチャリ、という音と共に、何かを纏うような気配を感じた。







大切なもの。
倖せ。
希望。



絶対なる信頼と、愛情。





私が最も、失いたくなかったもの。






END


あとがき
続いて親世代?なルーピン先生モノです。
本当は独白みたいにしようと思ったら・・・難しくて止めました(笑)。
彼の中はどろどろしてそうだ。
そろそろコンテンツ作ろうかな・・・。
しかも、親世代中心っぽい。
病的なほど好きらしい。
タイトルは『失う恐怖』ってことで。

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