月下にもの想ひたること




宵の暮れ。
深夜と呼んでも差し支えの無い程の夜闇。
月が明るいのは、救いだったかもしれない。



―――救い…何の?



誰の為の。
思い、苦笑する。
其のようなこと、疾うに織れている。
御簾越しに差し込んでくる柔らかな光は、ほんの数年前、
彼の君と出会った頃を思い出させた。
「…犬夜叉を、此処へ」
寝床に臥せったまま、少女は側女へと言い付ける。
暫く逡巡した後、女は是と頷き、外へと出て行った。
瞬きをするだけでも辛い。
呼吸とは、どのようにするものだったろうか。
手足は痺れたように言うことを聞かない。
己が身体なのだ。
厭と言う程、分かっている。
其れを望んでいた頃が在ったのも嘘では無い。
けれど、今は。
今だけは未だ、其れが先送りに成ることを望んで居る。
勝手なことだ。
自嘲気味に笑うことも出来ない。
ただただ白く、細い腕を恨めしげに眺めた。
「十六夜様、御前失礼を…」
外から掛けられた控え目な呼び声に、返事をする。
其の声すら、掠れていた。
「母、上?」
心配そうな声が響く。
御簾が揺れ、小さな影が躊躇いがちに入り込む。
月明かりに、朧げに映った色は白銀。
銀糸の、美しい髪。
薄明かりに垣間見える瞳は琥珀色。
ヒトとは違う、幼い指先の尖った爪。
袖口を藤色の括り紐で結われた、燃えるような深緋の衣が翻る。
ちょこん、と十六夜の褥の傍らに座した。
ひとでなしである其の幼子を、十六夜は愛おしげに見つめる。
「暫く、犬夜叉とふたりに、して」
「ですが」
「お願い」
懇願にも似た響きを持つ言の葉を、側女は拒むことが出来ない。
彼女が何故其れを望むのかを織って居るからこそ、出来ない。
側女が離れて行くのを確認して、犬夜叉は口を開いた。
燭台に灯された蝋燭だけでは、彼女の顔色を窺うことも許されそうに無い。
不安そうに、母の手を握る。
「母上、痛い?」
「如何して?」
ふわりと微笑み、優しく犬夜叉の手を握り返した。
尋ね返され、戸惑う。
理由など、織れている。
だからこそ、答えることなど出来ない。
漠然とした形でしか、其れを理解することなど出来ない。
不安が煽る。
「ね、犬夜叉」
俯いてしまった幼子に向けて、十六夜は軽く寝返りを打つ。
「母の願いを、ひとつだけ聞いてくれますか?」
静かに響く言の葉は、聞こえるだけで心が締め付けられる。
恐らく其れは、最期の願い。
厭だ、と首を振りたかった。
手を振り解いて、此の場を去ってしまいたかった。
其のようなことが、幼子に出来るはずも無かったけれど。
逃げ出すことも叶わずに、幼子は白い母の手を見つめる。
昔、自分を抱き締めてくれた腕は、こんなにも細かっただろうか。
此んなにも、頼り無かっただろうか。
「いぬやしゃに、出来る、こと?」
ゆっくりと顔を上げ、母を見やる。
頬に掛かった髪を払うこともせず
――否、出来なかったのかもしれない――
十六夜は微かに頷いた。
「犬夜叉にしか出来ないこと、よ」
不思議そうに、繰り返される瞬きは、
彼女を凝視することで止められる。
ゆるゆると重たい腕を持ち上げ、幼子の頬に触れた。
あたたかい犬夜叉の頬に比べ、十六夜の手の何と冷たいことか。
思わず、びくりと体を震わせた。
「犬夜叉」
呼ばれたことに気付くまで、少しの間が空く。
何かを紡ごうとして、幼子の口は其のまま閉じられた。




「母が死んだら、泣いて、頂戴」




琥珀色の瞳が、大きく見開かれる。
微かに、震えているのが分かった。
其れでも、十六夜は続ける。
「一度で良い。たった一度で良いから、母の為に泣いて、下さい」
「…はは、う」
「聞いて、くれますか?」
犬夜叉は、今度こそ首を左右に振った。
声も無く、頬に触れた母の手を握り締めて。
「犬夜叉」
「だめ…母上、ずっといっしょ、に」
普段の幼子を考えれば、其れはとても弱々しい声だった。
十六夜は、犬夜叉の泣いている所を見たことが無い。
赤子の時ならばいざ織らず、物心ついてからは、一度も。
どんなに傷を負って帰って来た時も、転んだ時も、
詰られ、謂れの無い誹謗中傷を浴びた時も泣いている様など覚えが無い。
隠れて泣いていたとしても、目が腫れていたことも無いし、
紅く成っていたことも無い。
時折、子どもらしくない笑みを浮かべるのも織っていた。
だからこそ、歯痒かった。
幼き身に、其のようなことをさせる我が身が口惜しくて仕方が無かった。
「…御前は、どのような大人になるのでしょうね」
叶わぬ未来を思うのは我侭。
分かっていながら、想いを馳せる。
もう十六夜には、彼の君の面影を残す幼子の、成人の儀すらも見届けることは出来ない。
一刻後の、幼子の姿すら。
「母は、犬夜叉のこと…いといとほし、よ」
幼いながらも、護りたいと思った。



―――何時も此れを持っていて。父上様がきっと、護って下さるわ



何時だったか、背守を渡された時のこと。
ならば、母は誰が護るのだろう。
添う、思った。
添うして、何時も、寂しさから護ってくれる母を、自分が護りたいと思った。
其の想いは届き、叶わない。
病魔は、確実に十六夜の身体を蝕んでいる。
其れを防ぐ術など、犬夜叉は知らない。
護りたいと思った。
護れないと織った。
悔しさが、溢れて来る。
如何して、と。
「母上、いぬやしゃ、もっ」
最後まで言い切らぬ内に、十六夜は淡く微笑み、瞼を閉じた。
ゆっくりと、本当に静かに。
何かの絵空事でもあるかのように。



静かな月夜だった。
白い光を放つ月が、煩わしく感じる程の。





居ない。
もう、居ない。
抱き締めてくれる腕も。
見つめてくれる瞳も。
呼んでくれる声も。
ぬくもりで、さえ。









何処にも居ないのだと、思い、織らされる。








微かなぬくもりが、未だ残っている。
生きていた時と同じに、あたたかな。
けれど、其れが動くことはもう、無い。
「は、はう…え…?」
頬に触れていた手が、力無く、幼子の膝に落ちる。
全てが関を切ったように、流れ込んで来る。
理解しかけて、切り崩す。
解けた糸を手繰り寄せ、けれど掴みきれない。
分からない。
分かりたくない。
全てが嘘で、全てが夢で、全てが
―――幻だと思いたかった。
声が、出ない。
手が震える。
月明かりに浮かぶ人形のように横たわる母は、畏ろしいほどに美しかった。
髪箱に入れられた髪を一房掴む。
黒く艶やかな其れは、さらりと手のひらを流れた。
爪で断ち切り、母の枕元に置かれていた半紙に包む。
無言で立ち上がると、簾子縁へと向かった。
御簾を持ち上げる其の瞬間、犬夜叉は肩越しに母を振り返る。




「…いぬやしゃも、いといとほし、よ」




ざらり、と御簾が風に鳴る。
翻り、影を浮かす。
時が経ち、側女が恐る恐る部屋を覗き込めば、
其処には幼い妖かしの姿は無かった。
「十六夜様…?」
声を掛けども返事は無い。
無礼とは知りながらも、一言断って部屋へと足を踏み入れる。
「いざ…っ、誰か…誰か!!」
普通では無い十六夜に気付くと、大声でヒトを呼ぶ。
慌しい足音と、声だけが、屋敷に響き渡る。





煌々と地上を照らす月夜に、幼子はひとり、姿を消した。





護りたいものがあった。
護れないものがあった。
何かを愛することに臆病になって、
けれど其のぬくもりを求めずには居られなかった。



ただ、愛おしい想いを掻き抱くように。











あとがき。
えぇと、百花繚乱の途中のハナシで、犬かご50の34に繋がってます。
んで、清風明月の殺生丸に会う直前の時間軸。
ややこしいですが、よーするに穴埋め話です。
過去とかそーいうの、繋げていくのが好きなんで、何処かしら繋がっている話が多いのです。

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