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 日に日に、増していく痛み。
 確実に、心へ宿る恐怖と焦り。
 
 
 ―――あぁ、早く
 
 
 手を伸ばして、触れられるはずも無く。
 分かっていても、伸ばさずにはいられなかった。
 掴んでくれたその手は、決して望んでいたものではなかったけれど。
 掴み返したその手もまた、それを織っていたはずなのだけれど。
 それでも、
 いきたいと思った。
 掴んだその手を、間違いだとは思えなかったんだ。
 掴んだソレは、違うものだったけれど、
 待ち望んでいたものには変わらなかったように思う。
 おかしな感覚に戸惑いながらも、
 俺は俺の生き方を選ばなければならなかったんだ。
 
 
 そう。
 あの日に。
 
 
 
 間違えてはならないと、心の中で何かが叫んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 ゴトリ、と鈍い音が響いて、悟空は振り返った。
 「ってぇ!!!」
 悲鳴をあげる声の主を、見上げる。
 座り込んでいたため、見上げても視界がすぐにははっきりしない。
 目に入ったのは、鮮やかな紅。
 「っの、莫迦猿!!ヒトんち散らかしてんじゃねぇよ!!」
 転がっていた積み木を踏みつけたらしく、悟浄は非難の声を投げかけた。
 見れば、周りには点々と色んなものが散らばっている。
 後ろからくすくすと笑いながら、八戒はお茶を運んでくる。
 「悟空は、好奇心の塊ですからねぇ」
 彼は散らかっているものを、上手く避けながら部屋の真ん中のテーブルへ行き着いた。
 雑誌類を整えて、元の場所に戻す。
 「コーキシン?」
 「興味のあることには何でも飛びつく、でしょうか?」
 「ははっ!違いねぇや」
 「悟浄、煩い!!」
 悟空は叫ぶ。
 だが、身長で負けている為、頭を抑えられて身動きが取れない。
 三蔵が仕事で忙しい為、いつもの如く、悟浄の家へと足を運んだ。
 そうして、いつもの如く喧騒が始まる。
 もう見慣れた風景に苦笑して、八戒は珈琲をカップへと注ぐ。
 「悟空、少し片付けましょうか?」
 「うん。悪ィ、八戒」
 「何で八戒には素直なワケ?」
 納得の行かない表情で、悟浄はソファにどかりと座る。
 「日頃の行いの差ですね」
 きっぱりと言い切る八戒に、苦虫を潰したような顔を浮かべる。
 「へー、そうデスか」
 騒々しい音を立てながら、悟空は散らかしたものを片付ける。
 「なぁ、八戒。これはどこに片付ける?」
 「それは、そっちの棚に。終わったらティータイムにしましょうね」
 お茶菓子の包みを開けながら、悟空へと指示する。
 珈琲カップを受け取って、悟浄は口へ運ぶ。
 「ホント、お猿さんの莫迦っぷりは見てて飽きないねぇ」
 冗談交じりに、悟空をからかった。
 「何だよ、悟浄まで!!」
 拳を振り上げて、彼へと怒鳴る。
 八戒は苦笑しながら、悟空へ問い掛ける。
 「三蔵にも言われたんですか?」
 「へ?」
 きょとん、と八戒を見上げる。
 不意をつかれたのか、八戒と悟浄まで不思議そうに彼を見やった。
 
 
 
 
 「言われて……無い、よ…?」
 
 
 
 
 『お前の莫迦っぷりは、見ていて飽きないな。』
 
 
 
 
 途端、響く聞き覚えのある声。
 けれど、思い出すことの出来ない声。
 「え?」
 悟空の台詞に、八戒達は思わず疑問の声を漏らす。
 呆然と、焦点の合わない視線。
 悟空は何を見るでもなく、ただ、見上げていた。
 
 
 
 「誰が…言った…っけ?」
 
 
 
 『莫迦って何だよ、『   』!!』
 
 
 
 引きつったような笑みを浮かべる。
 ガンガンと、頭を打ち付けるような痛みが、忙しなく襲い来る。
 「悟空?」
 突然、黙りこくった彼に歩み寄る八戒。
 だが、依然として悟空の瞳には何も映っていない。
 「悟空?」
 もう一度呼んでみるが、悟空の焦点は合わないまま。
 どうしようかと、背後の悟浄を見やるが、彼もどうしたら良いのか分からない。
 「オイ、莫迦猿!!」
 大声で悟空を呼ぶと、非道く驚いた様子で、悟浄を見上げた。
 「…ッ…あ…」
 今までの己が見えてなかったかの如く、悟空はすっくと立ち上がる。
 「八戒、片付けたからお菓子食べてもいい?」
 「え…あ…、いいですよ」
 コロリと変わった悟空について行けず、八戒は口ごもる。
 「…悟空」
 ソファに座り、お茶菓子に手を伸ばす。
 努めて、いつも通りに振る舞おうとしている幼子が、2人の目には痛々しく映った。
 「いっただきまーす」
 口元へ運び、そうして、寸前で止める。
 少しの間。
 2人が不自然に思えるほどの。
 「…今の…さ」
 ぽつり、と俯き加減で悟空は口を開く。
 「誰かに、言われたことあるよ。誰かは覚えてないけど」
 手の中で菓子をもてあそびながら、俯いたまま笑う。
 「ただ、懐かしいなーって思っただけで」
 
 確かに眠る、記憶。
 時折、微かによぎる誰かの声。
 まだ、目覚めはしないけれど。
 まだ、目覚めの時ではないけれど。
 
 「そんな時、思う」
 
 ゆっくりとあげられる双眸。
 
 「早く思い出さなきゃって」
 
 哀しみを湛えた微笑は、強く、優しく。
 どんなものよりも、儚く映った。
 
 「こう、振り向いたら、さ」
 
 歩いてきた道。
 道だけが光り輝き、辺りは闇に満ちる。
 見失わないように、しっかりと足を踏み固めた。
 
 「すぐ後ろは道がぷっつりと切れてるみたいで」
 
 ふと振り返れば、歩いてきたはずの道は消えていて。
 
 「行きたいんだけど、行けなくて」
 
 慌てて戻ろうとすれば、足元は崖になっていて。
 下を見れば、奈落の底。
 体が震え、冷や汗が吹き出る。
 そんな感じ。
 一度、言葉を切って、悟空は口を真一文字に結んだ。
 
 
 「過去を捨てることと、忘れることは違う」
 
 
 過去を捨てても、過去は過去としてそこに残る。
 だが。
 悟空は過去を忘れた。
 『忘却』とは果てなく『無』に近いモノ。
 
 
 「何も、無いんだ」
 
 
 菓子を菓子器に戻す。
 手を何度か握り、感覚を確かめる。
 
 
 「決まって、訳の分からない焦りが襲ってきて」
 
 
 例えば。
 声を出そうとしているのに、出せない感覚。
 あぁ、早く。
 早く。
 早く。
 どうか、早く。
 願う。
 
 
 「無性に淋しくなる」
 
 
 気づいて貰えない幽霊のような、淋しさ。
 勿論、幽霊になどなったことは無いが。
 そう。
 だから、例えばのハナシ。
 
 
 「ここにいる自分が何だかニセモノみたいで」
 手を見やれば、すき間のある間接部。
 カラカラ、と乾いた音を響かせるマリオネットのそれに見えた。
 「無性に、怖くなる」
 作り上げてきたものが無い自分は、ぽん、と作り出された人形のようだ。
 だから、未来しかない。
 現在しかない。
 過去は無い。
 二度、生まれ変わった。
 そう言っても過言ではないだろう。
 
 「早く、思い出したいよ?」
 
 へら、と笑って、勿論、と言うように頷く。
 
 「けど、それも怖い」
 
 顔を上げて、首を振る。
 
 「情けないね」
 
 自嘲気味な笑顔は、彼には似合わないと思っていたのに。
 非道く不自然で、けれど、非道く似つかわしかった。
 
 「そんなことありませんよ」
 八戒は、彼の台詞を打ち消すように口を開く。
 「貴方が貴方であることには変わりないんですから」
 悟空が座り込んで居た場所から、立ち上がり悟空の隣に腰掛ける。
 「誰だって、確かな自分なんて分からない」
 コトリ、と悟空に持って来た珈琲を手に取った。
 彼の空いた手にすっぽりと収まる小さなマグカップ。
 「本当の自分を織ることを恐れる」
 振動で、悟空の持つ珈琲の表面が揺れる。
 それに映った彼らの姿も。
 「それは、ちっとも恥ずべきことじゃないんですよ?」
 言って、八戒は悟空に微笑む。
 「八戒も…?」
 恐る恐る彼を見上げ、質問を投げる。
 「えぇ」
 ゆっくりと頷く。
 「悟浄も…?」
 珈琲カップを握り締め、再び問う。
 「勿論」
 にこ、と笑って、八戒は自分のカップを手に取る。
 口に運びながら、また頷く。
 「じゃあ」
 幼子の言葉遊びのように、繰り返し、繰り返し。
 
 
 
 「三蔵…も?」
 
 
 
 カップは口元まで運ばれたままで、八戒は手を止めた。
 
 
 
 
 「…そうです、ね」
 
 
 
 
 思案気に、彼は言葉を濁らせた。
 
 
 
 
 
 「あの人は、僕達以上に恐れているかも…しれませんね」
 
 
 
 
 手元に落とした視線を、悟浄に投げかけ、微笑う。
 「あぁ…そう、かもな」
 悟浄も苦笑した。
 「…どういうこと?」
 きょとん、と悟空は尋ねる。
 言われた意味をよく咀嚼できなかったようだ。
 「貴方には、分かっているんじゃありませんか?」
 苦笑して、小首を傾げる八戒。
 「きっと、まだ気付いていないだけで」
 だが、悟空はそれほど気にも止めない様子で頷いた。
 「ふぅん?」
 手のひらに、珈琲の温もりが伝わるのを感じながら、
 彼は、安心したように微笑う。
 「何か、変な感じ」
 「何が?」
 悟浄は灰皿を手繰り寄せて、上目遣いに悟空を見やる。
 
 
 
 「一人ひとり、違うこと考えてるはずなのに、同じように感じてる」
 
 
 
 感じる場所も、考えた結果も全く違うものなのに。
 同じ不安を抱えてる。
 何かしらに焦燥感を、憶える。
 
 
 
 「不思議だね」
 
 
 
 言われて、八戒は頷く。
 「そうですね」
 彼は手にしていた珈琲カップを、テーブルに戻した。
 そうして悟空の頭を片手で抱く。
 
 
 「たくさん、たくさん考えて、感じて」
 
 
 ゆっくりと、教えるように。
 
 
 「そうして成長していくんですよ、ヒトは」
 
 
 足をもつれさせながら。
 転びながら。
 怪我をしながら。
 
 
 「間違えることもあるかもしれない」
 
 
 ふと、見上げれば、そこは全然知らない場所で。
 道に迷ったことに気付くかもしれない。
 
 
 「でも、失敗を恐れて何もしないよりは、何でもやって失敗する方がよっぽど有益です」
 
 
 道に迷っても、道は続いているのだから。
 
 
 「失敗してもいいの?」
 八戒を見上げ、不思議そうに口を開く。
 「えぇ、何もしないよりは。完璧な存在なんて有り得ないんですし」
 悟空を手放し、微笑む。
 「それとも、悟空は完璧になりたいんですか?」
 弾かれたように見開かれる瞳。
 すぐに、元のそれへと戻る。
 「ううん」
 軽く首を振る。
 「だって、すき間がある方が色んなこと詰め込めるじゃん」
 珈琲を飲みながら、足をぶらつかせる。
 「足りないもの補って、その度に気付いてく」
 
 あぁ、こんなやり方もあったんだ。
 あぁ、こんなことも出来たんだ。
 
 
 「そっちの方が楽しいよ」
 
 
 要は考え様。
 ヒトの感じ取り方。
 
 
 「ま、猿らしい考えだな」
 ひとしきり笑うと、悟浄は茶化した。
 「猿って言うなっっ!!」
 
 けれど、それが君らしさ。
 
 八戒は悟浄と悟空の喧騒を眺めながら、口元を緩めた。
 
 いつだって、いつだって。
 そうやって君は壁を乗り越えていく。
 立ち止まっては、振り返り、また前に歩いて行く。
 過去への感傷は出来ないけれど、未来を切り開く力がそこにある。
 確かに歩いてきた足跡が、道を作っていく。
 
 
 誰よりも。
 
 
 
 強くなっていく。
 
 
 
 「いつか」
 
 
 
 悟空は呟く。
 
 
 
 
 「いつか全部を思い出すことが出来ても」
 
 己の犯した罪も、血まみれのこの両手も。
 何もかもを思い出しても、尚。
 
 「俺は俺のままでいられるのかな」
 八戒が頷いた後、悟浄も口の端を吊り上げる。
 「貴方がそれを願うのならば」
 少し不安に瞳を揺らし、悟空は微笑う。
 「…うん」
 膝を抱えて、頬を寄せる。
 それは、まるで自分に言い聞かせるように。
 
 
 「大丈夫、だよね」
 
 
 
 全ての不安が消えたわけではないけれど、
 ほんの少しだけ心が軽くなった気がする。
 それこそ思い違いなのかもしれないけれど。
 もしかしたら、俺が忘れた道は、非道く間違えた道だったかもしれない。
 選んではいけない道だったかもしれない。
 
 ただ、思うんだ。
 
 今歩いている道が、間違いでないのだとしたら。
 いくらでも修正が効くのではないか、と。
 
 だとしたら。
 
 過去を思い出したところで、うろたえることも無いのではないか、と。
 
 
 
 「絶対、思い出すから…待ってて」
 
 
 風が、通り過ぎた。
 決して、その呟きは八戒たちには届かなかったけれど。
 
 
 
 名も織らぬ、大切な貴方。
 
 
 
 風にかき消される呟きは、届いただろうか。
 
 
 
 ねぇ、『   』。
 
 
 
 
 
 
 END
 
 
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| あとがき。 |  
| シマッタ…。 ↑書きながら思ったことです。
 選んだテーマが重すぎたのか、だらだらとした文章になってしまいマシタ(泣)。
 途中でつながらなくなって、仕方が無いから、八戒殿にしゃべらせていたら、
 どうにか繋がりました。
 一安心?
 いや、もうイイ。失敗してることは分かっているんだからぁっっ!!(言い逃げ)
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