たくさん知ってるよ。
花の、名前。


チューリップ。
たんぽぽ。
菜の花。
それと、それと。


さくら。
サクラ。
櫻。
桜。



大地いっぱいの桜の、華。






の名






「春の花ばかりだな」
金糸の有髪僧は、呆れたように評した。
手元の書簡は、どんなに筆を滑らせても減っているようには見えなかった。
きょとん、と幼子は琥珀色の瞳を瞬かせる。
「春、の?」
「そうだろ?」
顔を上げること無く、職務に勤しむ姿だけ見れば、どんなに優良な僧侶に見えたことだろう。
実際が異なると織っているのは大勢居る。
酒は飲む、煙草は吸う、口は悪い、ガラも悪い。
僧侶らしいことと言えば色欲に溺れぬことくらいで、
他には経を読み上げる程度しか思いつかない。
玄奘三蔵法師、最高僧に位置する称号こそが、彼の背負う業。
「ほんとだ」
ぼんやりと考えながら、幼子はうんと頷く。
言われて初めて気が付いた。
まるでそう思わせたが、事実、それはその通りだった。
最初、この世界に産み落とされた時に空に浮かんだ天体の名すら織らず、
光を求めて手を伸ばした。
時折会うヒトと言うものから明るく、地上を照らすものを太陽と呼ぶのだと教えられ、
あの時初めて見たものがそうなのだ――本当は月なのだと後で織った――と思い込んだ。
斉天大聖、自分がそう呼ばれるものなど織ったのはつい最近のこと。
自分にも呼びなわされる名があるのだと織ったのも最近のこと。
けれど、己が瞳を金晴眼と呼び、
禁忌とされると織ったのは、ずっと昔だったような気がする。
兎も角、500年もの間手足を戒めていた枷はもう無い。
見えぬ枷は繋がったままではあったけれど、自由だと言われても実感が湧かない。
封印された記憶の奥底で、
言い様の無いものが闇へ、闇へと引きずり込もうとしているのが分かる。
「おい、悟空」
呼ばれ、悟空はハッと顔を上げる。
不機嫌そうな――いつも同じようではあるが――三蔵が此方を睨んでいた。
「何?」
莫迦面してんじゃねぇよ、といつものように悪態を吐こうとして止めた。
止めるだけの理由が其処にあった。
悟空が、封印されていた年月を差し引いたとしても、幼子らしくないのは織っている。
笑うことに一瞬躊躇する。
雪が舞う冬に凍りついたかのように動けなくなる。
舞う桜を見上げ、懐かしそうに、愛おしそうに、泣き出しそうに顔を歪める。
幼子らしくない、という形容は似つかわしくないようにも思えた。
悟空が背負うものは、恐らく、大の大人でも背負いきれないような重く、苦しいものだ。
いつか、幼子の所在を伺う為に三仏神を訪ねたことがあったが、
天界にて大罪を犯した神に近しい存在だと言う答えしか返って来なかった。
それは非道く曖昧な答えであったが、今の悟空を見ていると、
すとんと納得出来てしまいそうになる。
本来、幼子が幼子として赦されている所業に、
ブレーキをかけているものがそれなのだとしたら、納得するしかなかったのだ。
そうして悟空はそれを憶えていない。
忘れることが自己防衛の手段だったのか、
神々が与え給うた罰だったのか、
それともまったく別の理由からか。
ひとつとして織れないけれど、確かなことはあった。



―――悟空がそれを望んだワケでは無い、と言うこと



縋り付くように名を覚えていたことや、
懸命に過去を思い出そうとすることから、それだけは織れた。
だが、よほど強く封印されているのだろう。
容易く叶うものではないらしい。



「教えて貰ったの、それだけなんだ」



悟空がぽつりと零した。
「うん、多分それだけ」
記憶ではなく、知識。
ただ漠然と刻まれているそれは、違和感無く悟空の中に染み付いている。
自分自身分かってはいないのであろうが、悟空は乾いた笑いを唇に乗せた。
音、しかなかった。
「三蔵、憶えてて」
「あぁ?」
「俺、きっと明日になったら忘れてるから」
懇願する悟空の言の葉に、三蔵は怪訝そうに顔を顰めた。
「いつも、そうなんだ」
仕方無さそうに笑う悟空は、大人びている。
そこらの大人よりも余程。
窓枠に腰掛け、外に広がる桜の群生に目を細めた。
「思い出したと思ったら、次の瞬間には忘れてる。全部、消えてく」
手を伸ばそうとして、窓の硝子に阻まれる。
こつん、と指先がぶつかった。
「これが俺の贖罪で断罪、なんだろうね」
無理に手を伸ばそうとはしなかった。
ぎゅ、と手を握り、膝の上に落ち着かせる。
その腕は、まだまだ細い。
肌の色も、ようやっと白さが抜けてきたくらいだ。
幽閉されていた岩牢の中では腹は減らなかったと言っていたが、
それでもやはり、同じ年頃の子どもと比べると貧弱に見えた。
「…俺にはよく、分からんが」
漸く一段落したのか、三蔵は筆を硯の上に置いた。
懐から吸い慣れた煙草を取り出し、火を灯す。
肺奥まで吸い込むと、紫煙をゆるりと吐き出した。
「刻まれた記憶は、そう簡単には消えない」
じわじわと煙草の先は橙から白に、灰に変わり始める。
悟空はぼんやりとその様子を眺める。
煙草は、彼と出会って初めて見たものではなかった。
誰かが吸っていた、それが誰なのかは思い出せない。
誰かはよく顔を顰めていたが、結局功を成したことは無かったように思える。
好きではなかったけれど、懐かしさを含む匂い。
「お前はただ、忘れているだけで、失ったワケでは無いはずだ」
灰皿の端で煙草を叩けば脆く灰が零れ落ちた。
微かに橙も見えたが、すぐに消え失せる。
「いつか必ず、思い出す。それが望ましいものかどうかは、織らんがな」
望ましいもの、悟空は反芻するように口の中で繰り返す。
何が望ましく、何が望ましくはないのか。
それすらも曖昧で、全てが罪のようで。
それでも今、此処に存在していること自体が望まれてはいないことだったとしても。



「…受け止める、よ。どんな過去だったとしても、それは俺だから」



―――罪であるからこそ逃れるのは卑怯だと、思うから



硝子に寄り掛かれば、冷たい感触を憶える。
春先にはまだひんやりとしていて、お世辞にも気持ちが良いとは思えない。
「受け止め切れなかったら?」
紫煙を燻らせ、三蔵が問う。
彼の言っている意味が分からないではない。
金鈷が外れ、理性が崩れ、破壊と殺戮を望むだけのアスラと成り果てたのなら。
背中を、冷たいものが走る。
「その、時は…」
悟空は、その台詞が予め決められていたかのように紡ぐ。
迷い無く、真っ直ぐに、はっきりと。




「三蔵が俺を、殺してよ」




大地に還して、呟く幼子に三蔵はあからさまに眉根を寄せた。
フィルタ近くまで燃された煙草を灰皿に乱暴に押し付ける。
椅子の背凭れに深く体重を預けた。
「…自分のケツくらい自分で拭え。俺は織らん」
あまりにもあまりな、彼らしい返答に悟空は破顔した。
目を閉じようとしている彼は、居眠りでもする気なのだろう。
僅かに声のトーンを落とし、そうだね、と呟く。
「そう、言うと思った」



―――ほい、げんまん



悟空は軽く手を上げ、小指を立てた。



―――コレはな、『指きり』ってんだ



「大丈夫、だよ」



―――大丈夫ですよ、悟空



「指きり、したんだ」



―――俺らはずっと、傍に居ますから



「約束、したから」



―――この次はきっと



「憶えてないけど、約束したから
―――…」





―――下界の桜の下で会おう




何の約束だったかは憶えていない。
それが成されたのかどうかすら。
想いだけが浮かんで消える。
流れる涙は、無い。
だから、ただ。




―――また、たくさん花の名前教えてね




約束の花を想い、描く。






END



あとがき。
ひっさしぶりの最遊記小説。
寺院時代ってか、三蔵と悟空が書きやすい。
天界編好きなんだ、薄ら憶えてるってシチュが好きなんだ!
似たような話ばっかでごめんなさい。




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