オイルとは違う匂いがすぐ傍で香る。
心臓が早鐘のように喧しく鳴り続けているのは警鐘かもしれないと、
エドワードは息を呑んだ。
指先でも触れる肌がひどく柔らかくて、溺れてしまえたらどんなに良いだろう。
「待っ」
「…もう無理、駄目、いい加減に覚悟を決めろ」
ベッドがぎしりと沈み込む。
「ちょ、やめ…っいやあああああああああッッ!!」
穏やかな午後の、もうちょっとでお茶の時間になりそうな日常の最中、
ロックベル家中に絶叫が木霊した。



非凡な彼らの平凡な日常






アルフォンスは胸中にてカウントダウンをしていた。
先程の絶叫が聞こえてから20秒をきっちりと。
(3、2、1)
0が浮かんだ瞬間にリビングの扉が勢い良く、しかも荒々しい音を立てて開く。
あまりに慣れきってしまった日常に、アルフォンスは溜息を禁じえない。
寝転がっていたカーペットの上で寝返りを打つと、兄の姿を見て一言。
「わぁお。随分色っぽい姿になってるよ、兄さん」
「…煩ぇ」
肩で息をしているエドワードへ向かっての台詞は明らかに他人事だ。
否、関わるのが莫迦らしいのと、馬に蹴られたくないのと、
喧嘩するほど何とやらを知っているからに他ならない。
乱れた服装を整えながら、極力アルフォンスの傍に腰を下ろす。
周りを気にしている姿は挙動不審以外の何物でもない。
「大体!好きな女に襲われかけるってどんな状況だよ畜生ッッ!!」
「それハボックさんとこ辺りで言ってみなよ、渾身の力で殴られるから」
そうなのだ。
先程の絶叫然り、エドワードがウィンリィを襲う状況ならまだしも、
エドワードをウィンリィが襲う状況
――全て未遂ではある――が日常的になりつつある今、
男の沽券にも関わる大問題なのだ。
(それが笑い話なんだと言うことにいつになったら気付くんだろう)
呆れ半分以上でアルフォンスは肩を竦める。
確かに、彼は結婚するまで彼女に手を出さないと断言しているし、宣言もした。
ただし、それは彼だけの決意であり、彼女には何ら全く微塵も関係がないのだ。
そういうワケで冒頭に至る。
「ウィンリィに相互理解を求めないからそういうことになるんだよ」
ぐ、とエドワードは喉を詰まらせる。
弟の言い分は最もで、反論など出来ようはずもない。
言ったのだ、一応は。
渋々ながらも一度は頷いてくれたのだ、彼女も。
ただ、過去に一度だけ堪え切れずにぎりぎりまで近付いてしまったのが不味かった。
あたしだって我慢してるのにずるいとわんわん泣かれてしまって、
宥めるのに2日はかかった。
ウィンリィが求めるものを知っているのに、
目を逸らし続ける彼とて罪悪感がないではない。
ないのだが、未遂を起こしかけたとしても譲れないものが彼にもある。
他人から見ればどうということではないのかもしれないが、
エドワードにとっては絶対に曲げられないものが。
「アル!!」
再びリビングの扉が勢い良く開かれる。
兄が可哀想なくらいに怯える様を目にしておきながら、
アルフォンスは問答無用でエドワードを前に差し出した。
「どうぞお納めください」
「てめ、アルフォンス!兄を売る気かぁッ!?」
「やだな、売るんじゃなくて寄付だってば」
あははははと乾いた笑いで一歩も譲らない弟は非常に良い性格をしていると思う。
エドワードを挟んで、アルフォンスの正面にウィンリィは腰を下ろした。
何だこの居た堪れない座位置は。
「聞いて、アル。こいつ逃げるのに何したと思う?!」
「え、何なに、何したの?」
「わあああああああああああっっ!!」
嬉々としてウィンリィの話を聞こうとするアルフォンスを押さえ込もうとして、
逆に口を塞がれたエドワードに兄の威厳は存在しない。
格好の餌食にされる我が身を嘆くしかない彼に逃げ場などどこにも無かった。
「コイツったら息止まるかと思うまでキスして、抵抗出来なくなるのを見計らって逃げたのよっっ!?」
追いかけて来るのに時間差が生じたのはその為か。
合点が行ったアルフォンスは、
うわぁと何とも言えない表情で羽交い締めにしている兄を眺める。
耳まで真っ赤にするくらいならやらなきゃ良いのに、
突発的だといつも本能で動く人間なんだとつくづく思う。
「…ケダモノ」
アルフォンスはエドワードにだけ聞こえる声でぼそりと呟いた。
本気でご立腹らしい未来の義姉に逆らうのは有益ではないと判断した彼は、
「僕、ばっちゃんの手伝いしてくるね」
兄をウィンリィの方へと押しやってさっさと退散する道を選んだ。
「ど、わぁっ?!」
「わわっ」
待ての台詞すら言わせずに、アルフォンスはリビングを後にする。
廊下の奥でで愛犬の鳴き声が聞こえた。
一瞬固まってしまっていたエドワードは、
自分が今どんな状況に置かれているかに漸く気付くと、
ウィンリィと距離を話そうと身を起しかけた。
が、虚しくそれは阻まれる。
彼の頭を抱え込むようにして、彼女は両腕を回した。
柔らかなものが頬に当たるやら、行き場のない手がカーペットを握りしめるやら、
正に身動きの取れない体勢に陥ってしまった。
「…放してくれませんか、ウィンリィさん」
「放したらまた逃げるじゃない」
「逃げないから」
「嘘だもん、逃げるもん」
「せめて、この体勢どうにかして…」
真っ赤な顔をして半泣き状態のエドワードにウィンリィはくすくすと笑い出す。
反省しているか否かは別にして、
彼が本気で困っているのは分かったが、
これくらいの仕返しは多めに見て欲しいものだ。
「やぁーだっ」
ぎゅうっとぬいぐるみでも抱き締めるかのような気軽さで、
ウィンリィはエドワードを抱き締める。
「…機嫌、直ったのかよ」
観念してされるがままの彼は、不貞腐れて口を尖らせた。
原因は自分だと分かっているからこそ、あくまで低姿勢だ。
けれど、謝ることは出来ない。
「直ってない、って言ったら?」
エドワードが少し顔を上げたかと思うと、ぐらりと上体が傾ぐ。
柔らかなカーペットの上にいつの間にか寝転がっていて、
彼の背後には見慣れた天井が映った。
「ナニ以外で何したら、直る?」
優しく押し倒されたウィンリィは意に介した風でも無く、
人差し指を口元に当ててうぅんと唸る。
「じゃあ、キス」
して、と言い終わる前に重ねられた唇がひどく甘くて、熱くて、
悔しいけれど嬉しくて仕様がなかった。
「直った?」
「まだ」
唇を触れ合わせるだけして、エドワードは訊いて来る。
「まだ?」
「全然」
吐息が重なる。
「あと、何回?」
「もっと」
指先が首筋を掠める。
舌先が鎖骨をなぞり、ちゅうと唇が押し当てられた。
「…ぁっ」
最後までしないと言っても、彼がどこまで触れて来るのか分からなくて、
不安で、けれど何かくすぐったかった。
纏った服から覗くふくよかな稜線をエドワードのどこか乾いた唇が這う。
「どこに、する?」
探るように、小さく音を立てて幾度も彼女の肌に口付ける。
何を訊かれたのか分らなかったウィンリィは、え、と潤んだ瞳でエドワードを見る。
「キス」
確かに場所は言っていない。
それでも最初にくれたのは唇だったから、ウィンリィもそのつもりだった。
エドワードの熱っぽい視線に、どこまでなら?と問いかける。
返答は無い。
身じろぎをすると、ふと背中に違和感を感じた。
ウィンリィは胸元を押さえて起き上がる。
「エ、エド…っ」
「あ?」
ワンピースの肩袖がするりと落ちた。
ぎくりとするエドワードの葛藤を他所にウィンリィは彼の胸へと額を押し付ける。
「なっ」
「…外れた、留めて」
何が、何を、訊く寸前に彼女の服と背中の肌の間に見えたものが答えを示す。
「ばっ、おま…っ」
「してくれたら許してあげる」
「ッッ!!」
逆手に取られた。
ほんの少しでも仏心を出したのが間違いだった。
そもそも相手はウィンリィなのだ。
生まれてずっと付き合ってきたのに、
未だに失念してしまうのはナントカは盲目としか言い様がない。
下から手を突っ込むワケにも行かず、エドワードは極力見ないようにしながら、
彼女肩口からワンピースをするりと下ろす。
肩が震えているのは決して恐怖からではなく、
笑いを堪えているだけなのだろう。
そうなると少しばかり面白くないエドワードは、
遮るものが何も無い彼女の滑らかな肌にそうっと指を這わせてみる。
「ひゃ、あっ?!」
微かに背を屈めて、うなじから背骨を辿って舌先で舐め取れば、
ウィンリィが慌てた様子で肩越しに振り返った。
「ちょ、エドっ」
「やれって言ったの、そっちだろ」
「そんなことしてなんて、言って…ぁっ」
「なに?」
「やっ、ぁン、ひぁ…っ」
(背中、弱かったのか)
びくびくと身体を揺らす彼女に、見当違いな感想が浮かぶ。
最後まで言えないのを分かっていながら訊くエドワードは意地の悪いことこの上ない。
だが据え膳が目の前にあって、最後まで手を出せないにしても、
お願いをされれば少しくらい箍が外れかけても仕方のない話なのだと分かって欲しい。
ウィンリィはエドワードに対する警戒心
――襲う襲われるを抜きにしても――と言うものが欠けているように思える。
背中の真ん中に一番強く口付けの痕を残して、肩をそろりと撫でた。
乳房と背中の境目を指先でくすぐるように撫でる。
真っ赤に染まった顔で睨んで来る彼女に、エドワードはようやっと悪戯を止めて、
さきほどの要求通り下着のホックを留めてやった。
「…言ってない」
服を着せて、目を合わせないようにしらばっくれる。
謝ることが出来ないのなら、黙秘を続けるしかない。
「まだ、言ってない」
は、とエドワードは目を点にする。
「言う前に、したら、駄目なんだから」
彼女がさきほどの行為に対して怒っているのではないらしいと勘付くと、彼はうろたえた。
途端に、自分のしたことにひどい羞恥心が込み上げる。
素面であのようなことが出来るはずもなく、
やはりネジの1本か2本外れていたに違いないと思い込むしかない。
「だから、もういっこ」
聞いて、ウィンリィはエドワードの手を取ると自分の胸元へと押し付けた。
固まってしまった彼の腕を逃がさないようにしっかりと掴み、上目遣いで覗き込む。


「ここに、して。真ん中に、キスして」


(反則だろ…)


頑なに拒んでいるのは彼女の為だった。
けれどいつだって、溺れるのは簡単だった。
望まれれば、してやりたいと思うのが常だった。
最後の最後まで譲れない一線のすぐ手前。
そこまでならば踏み止まって。
そうしたら本当に許してあげると彼を試す彼女に、
エドワードは嘆息してウィンリィへと唇を落とした。






END



あとがき。
表と裏の境界線が怪しくなってきた(笑)。
まだ大丈夫だと思っておく。




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