●○終わりと、始まり――そして、別れ。○●



ぽかぽかと、暖かい午後でした。
窓から見える風景の向こう側には、蒼い空を映した湖が、きらきらと煌めいています。
今日も良い天気です。
湖の渕まで広がる花達が、嬉しそうにお喋りしています。
庭では、家族のひとりであるおばあちゃんが日向ぼっこをしていることでしょう。
肩口で切り揃えられた銀の髪を揺らしながら、
美しい少女は、ソファに座っている青年を振り返りました。
手にはたくさんの花を抱えています。
リースでも作るつもりでしょうか。
「ねぇ、ハウル」
呼ばれた青年は、深い藍色の髪を耳にかけながら、顔を上げます。
淡く光を放つエメラルドのピアスが、きらりと揺れました。
彼の膝には、幼い少年が頭を預けて寝入っています。
「何?」
足元にいた、何とも言えない面立ちの犬もゆっくりとソフィーへ顔を向けました。
「マダム・サリマンに、お礼とか言わなくても良いのかしら」
「お礼?」
「だって結局、戦争を止めるように進言して下さったのは、あの方だと聞いているわ」
「うん、そうらしいね」
他人事のように言う彼へ、ソフィーは僅かばかり顔を顰めました。
ハウルはと言えば、マルクルの髪を撫でてやっています。
時折頬を突付くと、煩わしげに眉を顰め、無意識でそれを払うのです。
それが面白いのか、ハウルはマルクルに視線を落としたままで、でも、と言いました。
「必要ないと思うよ」
「あら、どうして?」
少し不機嫌な面差しのまま、ソフィーは花をバケツの水に浸けました。
とん、と水面に波紋が広がります。
「僕とあのヒトは、違うものだから」
伏せられた瞳が、泣いているように見えたのは気のせいでしょうか。
ソフィーは言い返そうとした口を噤みました。



―――良いですか、ハウル



ずっと昔に、聞いた声を思い出しました。
何度も、何度も言い聞かされた言葉が浮かんできます。



―――魔法使いは、国家に殉じてこそのもの。国の為にあることこそが、国に暮らす人々を護るということに繋がるのです



黒髪の少年は、純粋な瞳で頷き返します。
「はい、サリマン先生」
幼いハウルは、それこそが真実なのだと信じて疑いませんでした。
いいえ、確かに彼女の言っていることも、その意味も分かっていたのです。
彼女の望みも、確固たる信念も間違いではなかったのです。
「よろしい」
とても厳しい先生でしたが、
そう言って、穏やかに微笑む彼女が、ハウルは大好きでした。
時々、母とはこのようなものなのかもしれない、と思うこともありました。
もし今、抱きついたら仕方の無い子だと微笑うでしょう。
サリマンにとっても、可愛い教え子だったに違いありません。
「…貴方は純粋で、優し過ぎるから、とても心配だわ」
「そうなのですか?」
きょとん、と首を傾げる少年に、サリマンは苦笑しました。




だからこそ、いつか道を違えることも、
サリマンにとって予め分かっていたことだったのかもしれません。





ハウルは泣くように叫びました。
「どうしてですか、サリマン先生!」
実際、ハウルの空色の瞳からはぼろぼろと涙が零れていました。
拭っても、拭っても、次から次に溢れてきます。
「戦争とはそう言うものです」
サリマンは、努めて冷静に答えました。
「ならば、ハウル。もし、私が彼らを助けたとしましょう」
ゆったりと、サリマンは自分の椅子に掛けました。
サリマンの自室は、綺麗に整頓され、
壁に並べられた書棚には所狭しと世界各国の本が並んでいます。
まるで図書館です。
「助かった彼らは我が国の兵士を殺し、町を焼き、王陛下の首を跳ねるのです」
その内の一冊を手に取り、パラパラと捲ります。
敵を助けたからとて、こちらを助けてくれるとは限りません。
限らない、どころではないのです。
間違いなく、町や、丘や、別の誰かの生命を奪うのです。
「そうならない為の犠牲だと、分からないのですか」
「だったら、どうして!」
真っ赤にした目で、いつもの臆病風はどこへやら、
ハウルは彼女を睨みました。
声高にして叫びます。
「どうして、戦争を止めないのですか!?」
自分の為ではない涙に、
サリマンは微かに眉を顰めましたが、ハウルは気付きません。
「どうして、どちらも傷付き、どちらかが殺されねばならないのですか!?」
呆れたように溜息を吐きました。
本当は呆れではなかったのかもしれません。
けれど、ハウルには呆れられたように見えました。
そうしてまた、まるで自分がとても浅はかな、
愚かなことを言っているようだと憤慨しました。
ヒトの生命とは、そんなにも簡単で、軽いものだと言うのでしょうか。
「この国の為に行うこと、それは王陛下がお決めになられるのです。私達が口を挟むことなどもってのほか」
なんと言うことでしょう。
余りに驚いて、ハウルの泪は止まってしまいました。
サリマンの言い方では、魔法使いはまるで物か道具のようではありませんか。
巻き込まれる町のヒトは、まるでチェス盤の駒のようではありませんか。
「貴方にも何れ、分かる時が来るでしょう」
冷静にそのようなことを言えるサリマンに、
心のどこかで失望していたのかもしれません。
畏敬の念が、すぅっと引いて行くのを感じました。
「だったら僕は、分からないままで良い」
ぐいっと服の袖で目元を拭うと、
ハウルは本に目を落としたままのサリマンに言いました。
王室付き魔法使いになど、誰がなるものかと思い始めたのは、
この頃だったかもしれません。
「戦争なんて、大嫌いです!!」
サリマンは、寂しそうに目を細めました。
そうして、危惧していたことになってしまった、
と誰にも聞こえないように呟くのでした。




ハウルは立っていました。
真っ直ぐに、サリマンを見つめていました。
サリマンは、いつものように微笑むことも、窘めるような困った顔もしていません。
ただ、色を浮かべずにハウルを見据えています。
「ハウル、自分が何をしたのか分かっていますね」
厳しい声音でした。
ハウルは静かにそれを受け止めます。
「はい、サリマン先生」
ほんの一瞬、サリマンは目を伏せました。
とても長い一瞬でした。
「お世話になりました」
淡々と紡がれる言の葉を、彼女はゆっくりと噛み締めました。
「悪魔と手を切るつもりは無い、と」
「はい」
「何故?」
少年は、にっこりと微笑いました。
悪魔などに心奪われた者だとは思えない、優しい笑みでした。
「どうか、お元気で」
ハウルは一礼すると、扉へと向かいます。
サリマンもくるりと背を向けました。
「もし」
ぴたり、と歩みを止めて、ドアノブに掛かった手をそのままにしました。
ひんやりと冷たい金属の温度が、手の平に染み渡ります。
「…もし、次に出会うのが戦場であったのであれば、私は貴方を殺すでしょう」
「えぇ、そうでしょうね」
微かに、目が見開かれました。
あの臆病で、弱虫な少年が、
死ぬことを畏れていないとでも言うのでしょうか。
いいえ、違います。
サリマンは、はっきりと感じていました。
けれど、それを口にすることは出来ませんでした。
「お行きなさい」
何故ならそれはきっと、サリマンとは違うものであったのですから。
「さようなら」
ハウルは、今度こそ扉から出て行きました。
静かな部屋には、静かな分だけ、扉の閉まる音が響いていました。



それでも、最後の最後までサリマンはただの一言も、
ハウルの行いを間違っているとは言いませんでした。



もう一度顔を上げたハウルは、
臆病で弱虫なことを忘れてしまいそうなくらい大人びていました。
ソフィーはドキリとしましたが、
それ以上にハウルが穏やかで、寂しそうに見えて仕方がありませんでした。
「…そう」
「うん」
箒をそっと壁に立てかけると、ハウルを優しく抱き締めました。
今にも泣き出しそうで、
ハウルの心が遠くに行ってしまいそうで不安だったのです。
ヒンが小さく鳴きました。




いつもならば向こう側が見える透き通った水晶玉には、
温かい色をした部屋が映っています。
サリマンは、持っていた杖を肩へと抱いて、
困ったように微笑みました。
「もう、良いのよ」
呼ぶと、水晶の端に丸く歪んだヒンの顔が映ります。
「そんな申し訳無さそうな顔をして、義務感のようにして連絡を寄越さないで頂戴」
ヒン、と掠れたような声で、使い犬はもう一度鳴きます。
ハウルとソフィーが映りました。
ハウルの膝では小さな子どもが眠っています。
傍の暖炉の火が、優しく揺れているのも見えました。
「ハウルはもう、平気。貴方も居心地が良いのでしょう、その家の方が」
サリマンはくすくすと笑います。
脇に立っていた小姓が、何かの書類を差し出しました。
さらさらとサインをすると、そのまま小姓は下がります。
「いつか、また…いいえ、永遠にさよならね、ヒン」
水晶を眺めれば、段々と映っていた風景が薄れて行きます。
「護れないかもしれない約束は出来ないわ」
それにもし、とサリマンは呟きました。
「会えたのなら、その偶然にそれこそ喜びが増すでしょう?」
楽しそうに小首を傾げる様は、まるで少女のようです。
撫でるように、白い指が水晶の上を横切ると、
その中はすっかりと水晶の向こう側を映していました。




ぽた、と何かが落ちる音に気付き、ソフィーは足元を見下ろしました。
ハウルから離れ、ヒンの傍へと屈みます。
ハウルも何事かと、少しだけ背を屈めました。
「どうしたの、ヒン?貴方、泣いているの?」
抱き上げると、ヒンはソフィーの肩に顎を乗せて、小さく、本当に小さく鳴きました。
不意に、ハウルがソフィーの腰を抱いて引き寄せました。
吃驚して声を上げそうになりましたが、
ハウルの肩が震えているのに気付き、そっと背中を撫でてやりました。
「…もう、今日は本当に一体どうしたって言うのかしら?寂しがり屋さんばっかりね」
ソフィーは、理由を聞きはしませんでした。
ただ、黙って傍に居てくれました。
そろそろ、夕飯の支度をしなければなりません。
ソフィーはハウルとヒンの大好きなものを作ろうかなぁ、とぼんやりと考えていました。







END



あとがき。
初・ハウルSSです。
ハウソフィのらぶらぶにしようと思ったのに、何故か・・・。
サリマン先生とかヒンとか幼ハウルとか書きたくなってしまったワケでございまして。
サリマン先生の『殺すでしょう』って言うのは、
ハウルへの最後の優しさであるのと、
彼を1人の魔法使いとして認めたというのを含めました。
全く違う道を進むのであるから、必ずぶつかる時があるのも分かっていて、
でもお互いの信じるものの為に貫くものだから、お互いにそれは理解しているって言う、
そういう雰囲気で書きたかったんですが・・・どうだろう(爆)。
お礼は言えないんじゃなくて、言わない。
お互いに、お互いの利益の為に動いただけであって、お互いの為では無いから。
それに連なって自然に発生する事柄については、
礼を言う必要も、また、それを望んでもいないから。
礼を言ってしまうということは、相手のそれまで生き方、考え方を否定することに他ならないから。
子どもなハウルもスキですが、こういう大人びたのもスキです。

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