陸奥の館に移り、月日は流れる。
夏の終わり。
生温い風が頬を撫でる。
日ノ本の国の夏は、湿気が多い。
じっとりと汗ばんでくる衣。
薄衣でも、まだ暑い。
水行でもしたら涼しいかもしれない。
大きな腹をして、十六夜は庭を眺めていた。
空には、ぽっかりと月が浮かんでいる。
十六夜は臨月を迎えていた。
子どもは十月十日で生まれる。
ひとでなしとヒトの子が、その理に準えるか如何かは分からない。
ただ、何時産気づいてもおかしくない頃になっていた。
時折、月を見上げては、愛おしいヒトを想う。
月日が流れようとも、色褪せることの無い姿。
彼もまた、月を見上げては自分を想っていてくれるだろうか。
そうだと、良い。
うつらうつらと、そのようなことを考えながら、十六夜は微笑んだ。
昨晩から、陣痛が始まった。
人払いをし、部屋には十六夜独りになった。
子どもが生まれる時には、穢れを負い易い。
母子だけではなく、周りに居る者も。
それを考えれば、出産時に祈祷師や陰陽師が在るのも頷ける。
然し、それよりも何よりも、館は緊張に満ちていた。
生まれ来る子どもの妖気に惹かれ、妖かしが集まるやも織れない。
やや子の父妖怪が、子どもと姫を取り戻そうと襲い来るやも織れない。
不安と緊張は高まっていた。
「なりませぬ、十六夜様は産気付いておられます」
十六夜の部屋へと繋がる廊下の端に控えていた乳母は、
通り過ぎようとする武丸を咎め、留める。
子どもが生まれようとする場所に、男が入り込むなど言語道断。
あってはならないこと。
「姫の宿しているのは妖怪の子供だ」
ヒトと同じ気遣いも決まり事も無用だ、と短く言い放つと、
乳母の手を払い除け、十六夜の部屋へと足を踏み入れた。
姫の自室に断りも無く足を踏み入れるなど、
普段であれば、決して赦される行為ではない。
苦しげな息遣いが几帳の向こうで聞える。
几帳を乱暴に押し退け、十六夜の傍らに座り込む。
「武、丸」
顔を傾け、苦しげに微笑む。
掠れた声に、武丸は顔を顰めた。
何故、姫がこのような思いをせねばならないのか。
悪いのは全て、あの妖かしであるのに。
尋常ではない怒りが、沸々と込み上げて来る。
それらを揺り動かし、突き動かすのは赦されぬ恋情。
身分の違いは、想いを告げることすら赦されない。
「逃げ、て。あのヒトには、皆、敵いません」
絶え絶えに告げる。
頬に触れる風が変わった。
彼は必ず来る。
少女を救いに来る。
子を産むなど耐えられる身体ではない。
幼い頃から乳兄弟として仕えてきた武丸は、それを織っていた。
そうして、彼もそれを織っているのだろう。
子を産めば、恐らく十六夜はただでは済まない。
命を落とすやも織れない。
だから。
ならば。
「十六夜様」
この手で楽にして差し上げよう。
腰元から刀を抜く。
虚ろな瞳で、十六夜はそれを見上げた。
その瞳に恐怖は無かった。
受け入れるように、ゆっくりと瞳を閉じる。
「武丸は、貴方様を御慕い申し上げて居りました」
告げて、振り下ろされる剣。
鈍い感覚が手の平に伝わる。
今際の際、十六夜の口元が小さく動いた。
声は聞えなかった。
けれど、聞えた。
―――ありがとう
刀に付いた血を薙いで払い、鞘に納める。
立ち上がると、部屋を後にした。
届かぬ恋情も在る。
届いてはならない恋情も在る。
密やかな想いは、密やかなままに。
ただ、募る。
轟く爆音。
濛々と立ち込める砂埃。
巨大な白い山犬が館へと突進してくる。
各々、矢を放ち、剣を構えるが一向に効いている様子は無い。
高く一鳴きすると、みるみるうちに山犬は美しい青年へと姿を変えた。
「十六夜!」
背にずぶり、と数本の矢が刺さる。
痛みを感じないのか、気にもせずに叫んだ。
「何処だ、十六夜!!」
未だ飛んで来る矢を鬱陶しげに手で払う。
廊下に飛び移り駆けながら、十六夜を探す。
目前に、影が立ちはだかった。
見据え、何時でも抜けるように刀の柄へと手を掛ける。
確か、自分を屋敷で見咎めた男だ。
「我が名は、刹那武丸」
覚悟、と低く唸ると刀を手に斬りかかった。
大きな振りには自然、隙が生まれる。
だが、どちらにしてもヒトの力に負ける気は無い。
呪術師と闘う方か、どちらかと言えば厄介だ。
奇しき風を纏う刀。
瞬時に抜き放つと、軽く、斬り付ける刀を弾いた。
そのまま、妖気を纏った風をぶつける。
炎と混ざり、辺りが見えなくなった。
たん、と跳ねると、武丸の生死の是非も問わずに、十六夜の元へと駆ける。
ヒトとの諍いなどに構っている暇は無い。
館に突っ込んだ時に、飛んだ火の粉が屋根に移り、明々と燃え出している。
木の造りである館では、直ぐに燃え広がるだろう。
匂いを辿り、十六夜の部屋に立てられた几帳を大きく払った。
「十六夜!」
既に息が無いことに気付く。
彼は慌てることなく、腰に下げていた一振りの刀に手を伸ばした。
倒れた十六夜を、ヒトならぬものを見る目で睨む。
雑鬼が十六夜の周りに、舌なめずりをして待ち構えていた。
地獄へと引き摺り下ろそうか。
それとも、此処で魂を屠ってやろうか。
若い女の死霊は珍しい。
そのようなことを相談しているようだった。
「天生牙」
名を呼ぶと、じわりと広がる鼓動。
それが応えたことを認めると、鞘から放った刀身を縦に薙ぐ。
魑魅魍魎は、一瞬のうちに霧散した。
直ぐに刀を仕舞い、十六夜を抱き起こした。
「う、ん」
睫が微かに、動く。
何度か瞬くと顔を傾け、彼を見上げた。
「あな、た」
ばたばたと、勢い良く炎が燃え盛る。
十六夜は周りの状況に目を見張った。
自分は一度死んだはず。
こうして生きていると言うことは、
恐らく彼が黄泉帰らせたのだろう。
彼の腰に在る刀は、百の命を救う刀だと言っていた。
銘を、天生牙。
あぁ、私はまた生き延びてしまったのか。
然し、直ぐに思い直す。
傍らに感じる確かな温もり。
十六夜はゆっくりと手を伸ばし、未だ産声を上げ続ける幼子を抱き上げた。
晒しで身を包み、抱き直す。
「この子が、私を現世に留めたのですね」
まだ、死ねない。
死んでは、いけない。
愛おしげに頬を摺り寄せた。
彼と同じに煌く、白銀の髪。
微かに開いた瞳は黄金だった。
生きねばならない、そう思った。
彼女と赤子の無事を確認すると、彼は懐から一枚の衣を取り出す。
禁色の袍。
明々と燃ゆる炎に負けぬ程の、深緋。
「火鼠の衣、此れを」
火鼠の衣と言えば、なよ竹の耀夜姫が所望したと語り継がれる宝物。
それが本物ならば炎に燃えないことは、百も承知だ。
頭から被せられ、彼を見上げる。
淡く微笑んだ。
ほんの一瞬だけの抱擁を交わす。
いざ、脱出しようとした時だった。
「逃が、さぬ」
「武丸…!」
彼は少女を背後へと庇う。
片腕を失った姿に、十六夜は声を失った。
滂沱と流れる血は、廊下から続いている。
それでも刀を手放そうとはしない。
彼の後ろに立つ十六夜を見やると、微かに目を見開く。
けれど直ぐに、怒りのそれへと変わった。
「あなた」
背に庇った少女は、彼の袖を引いた。
誰も失いたくないというのは、贅沢な望み。
けれど、それでも。
「十六夜」
びくり、と少女の肩が揺れる。
そうして悟る。
口出しは出来ない。
此れは妖かしとしてではなく、一人の男としての戦。
彼は何よりも、礼儀を重んじる。
満身創痍になりながらも挑んでくる武丸に、
背を向けることはしないだろう。
彼は、妖しく、鈍く煌く刀を抜いた。
目に見えずとも、纏う妖気はざらりと心地悪い。
それが良きものではないということは分かる。
「犬夜叉、だ」
凛とした響きが、炎の音を遮った。
「いぬ、や、しゃ」
十六夜は音を確かめつつ、反芻した。
もう一度、犬夜叉、と呟く。
腕に抱く子どもの名だと、直ぐに織れた。
遺言とも聞える台詞に、十六夜は眉根を寄せる。
否、そのつもりなのだろう、と感じた。
此処に留まっていては、彼の想いを無駄にする。
「十六夜様、御早く」
何時の間にか肩に止まっていた冥加が、二、三度跳ねた。
床へと飛び降り、先導する。
後退りながら、彼の背を見つめる。
長い髪が、炎に揺らめいた。
くるりと踵を返す。
一瞬立ち止まり、彼を振り返った。
「行くのだ、十六夜」
ぎゅ、と眉根を寄せ、こくりと頷いた。
促されるようにして、十六夜は駆ける。
泣いてはいけない。
立ち止まってはいけない。
産後の身体が思うように動かない。
下腹部に走る鈍い痛み。
何度も、何度も倒れかけ、膝が折れた。
その度に自分を叱咤し、想いだけで身体を突き動かす。
裸足の足が土を蹴る度に、擦り切れ、傷を作る。
「此処まで来れば」
漸く、先を走っていた冥加が立ち止まる。
そこは小高い丘で、館を見下ろせる場所だった。
荒れ狂う炎が、館を覆い尽くす。
暗い森を、炎が紅く照らし出した。
柱が炭になり、ゆっくりと音も無く崩れ落ちて行く。
夢のような光景だった。
つい今しがたまで居たはずなのに、遠い場所に見えた。
「御館様」
冥加も共に見下ろしながら、小さく呟いた。
たった、一言だけ。
それっきり、一度も口を開かなかった。
口を噤み、俯いてしまった彼にかけるべき言葉など、十六夜は織らない。
忘れていた痛みが、今になって込み上げてくる。
立っていられず、座り込んだ。
腕の中の犬夜叉は、泣き出す直前のようにぐずっていた。
遠くから、馬の蹄の音が聞える。
冥加は顔を上げると、十六夜を振り返った。
「御迎えが参った御様子。儂にはまだ、せねば成らぬことが在ります故、此れにて御免」
何れ、また。
そう告げると、彼は闇夜へと姿を消した。
馬の嘶きが直ぐ傍で響く。
宥める声が聞えると、傍らにニ、三頭の馬が止まる。
最初は訝しげな視線が投げられていたが、
彼女を認めるなり、馬から下りて、膝をついた。
「姫様、何故このような所に」
「そなた達こそ、如何して」
「厭な予感がするから、と御館様に命じられ」
言いかけて、従者は目を見開いた。
彼女の背後に見えるのは、燃え尽くされる直前の館。
何が在ったのか、想像も出来ない。
少女が無事で在って良かったと思うしかなかった。
するり、と深緋の衣が肩に落ちる。
同時に目に映ったのは、見たことも無い見事な銀の髪をした赤子。
獣と同じに生えた耳。
ヒトと妖かしの合いの子、忌み子で在った。
「私達は、何か在ったのならば十六夜様を御連れするよう仰せ遣って居りますが…」
語尾を濁し、彼女の腕の中をちらちらと見る。
意味を理解すると、十六夜は赤子を庇うように抱き締めた。
「この子を殺すと言うのであれば、私も死にます」
睨み、彼の残り香のする衣を強く握る。
誰が殺させるものか。
立ち上がる力も残っていないのに、
如何してこのような強気な発言が出来るのだろう。
自分を奮い立たせる何かを、十六夜は感じていた。
「父の元へは、この首を持ち帰りなさい」
家臣達は戸惑い、代わる代わる顔を合わせる。
如何しようか迷っているようであった。
散々逡巡した結果、所在無さげに頷く。
彼らは十六夜と赤子を屋敷へと連れ帰った。
眠らずに馬を走らせた御陰だろう。
明け方には、屋敷に着いた。
然し、家に帰ると、そこでも一騒動起こった。
小袖に禁色の袍を被る姫に、見るからに妖かしのやや子。
館主は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「如何いうことだ!」
庭先で、裸足のまま十六夜は廊下の父を見上げた。
遣いの者を背に控えさせる。
「この者達に罪はありませぬ。私が、勝手を申したのです」
言葉を飲み込むも、眼光鋭く目前を睨む。
気丈に振る舞う姫に辛く当たるのも憚られたのか、つい、と視線を逸らした。
「この子に死ねと言うのであれば、私も共に死にましょう、と」
目を見開き、何と、と漏らす。
強く目を瞑り、そのまま、背を向けた。
気のせいだろうか。
肩が震えていた。
「勝手にするが良い」
簀子縁から遠ざかる父を、哀しげに見送る。
謝りたい。
けれど、謝る理由が無かった。
御子を産んだことも、彼を愛したことも、誇りこそすれ、後悔はしていない。
していないのだから、謝るのはおかしな話。
仮に、謝ったとしても、彼も納得しないであろう。
侍女が新しい着物を手にして、慌てて十六夜に駆け寄った。
「さ、姫様。此方へ」
部屋の中へと促して、少女の手を引く。
たくさんのことが一度に起こり過ぎて、感情がよく整理出来ていない。
思い起こして、全てを理解したのなら、
その時こそ涙を流そう、と心に決めた。
今はまだ、夢へと深く落ちて行きたかった。
後で他の者が走った所、陸奥の館は無残に焼け落ち、
ヒトの死体があちら此方に転がっていたと聞いた。
彼女に長く付き添ってきた乳母も逃げ切れず、炎に撒かれたのだろう。
館主が意図してか、それとも全く別の理由からか、
終ぞ、妖かしと思われる骸が見つかったとは聞かなかった。
早、幾年の月日が流れた。
子どもが成長するには十分な月日。
軽快な足音が簀子縁に響く。
翻る禁色の袍。
それに良く映える長い銀の髪。
ヒトのそれより高い場所に在る獣の耳。
一室へ飛び込むと、中にいた女人に勢い良く抱き付いた。
「母上っ」
「如何したの、犬夜叉」
驚きもせず、穏やかに微笑み、童の頭を撫でる。
童は気持ち良さそうに、母に擦り寄った。
「何でも、ない」
「そう」
ほんの三歳程度に見える姿。
ヒトと妖かしの子ども。
半妖。
ひくり、と獣の耳が揺れる。
顔を上げ、犬夜叉と呼ばれた幼子は、にっこりと元気良く笑った。
「母上、良い匂いがする。いぬやしゃ、母上好き」
まぁ、と呟いて、くすくすと笑う。
「母も、犬夜叉がいといとほし、よ」
首に縋り付いて来る幼子を抱き上げ、円座に座らせた。
文机には、紙と硯が置いて在る。
書きかけの文字は、連なり、幼い犬夜叉には分からない。
姿勢を正すと、十六夜は筆を取り、続きを綴る。
物珍しそうに首を傾げて眺めていた。
「此れ、なぁに?」
「かな文字と言うの」
脇から、ぴょこぴょこと忙しなく頭を出す童に苦笑する。
文机に腕を伸ばして、その上に顔を乗せた。
「いぬやしゃも出来る?」
小筆を犬夜叉へと差出す。
きょとん、と大きな黄金の瞳をくるりと耀かせた。
「書いてみる?」
「ん」
頬を蒸気させ、大きく縦に頷いた。
「御前の名前を書きましょう。此れが『い』、次に『ぬ』」
幼子を膝に乗せ、手を取りながら書き綴る。
たどたどしく、一通りの文字の羅列を終える。
紙に書かれたかな文字を眺め、母を見上げた。
「如何いう意味?」
微かに目を見開き、十六夜は我が子を抱き締める。
名付けたのは、今は亡き大妖怪たる背の君。
「夜叉とは、『金剛夜叉明王』という、仏様のこと」
犬は戌として、夜叉とは仏の名。
暫くして考えてみれば、何と物々しい名なのだろうと思った。
名に潰されてしまわないだろうかと危惧した。
「ヒトの目に見えない全ての不浄物、心の穢れや煩悩を喰い尽くすもの。過去・現在・未来の悪ろしき欲を呑み尽くし、取り除く神仏」
「け?」
全く理解の出来ない言葉が、次から次へと出て来る。
破壊を以って、良しを齎す神仏、それが夜叉。
薙ぎ払う風。
彼の面差しを残す幼子も、何時か刀を持つ日が来るのだろうか。
この子もまた、闘う宿業を背負っているのかもしれない。
犬夜叉はうぅん、と首を傾げすぎて、膝から転げ落ちる。
「もう少し大きくなってから、また教えてあげましょう」
「ぜったい、ね?」
母の膝に頬杖を着くと、十六夜は小指を立てて犬夜叉の目の前に手を差し出す。
「約束」
にこりと微笑み、幼子も頷く。
小さな小指が、彼女のそれに触れた。
「指きりげんまん」
「嘘ついたら針千本?」
目を瞬かせ、首を振る。
頬杖にしていた腕を伸ばして、寝転がった。
「いぬやしゃと蹴鞠で遊ぶの」
ほんの少し頬を膨らませて、顔を背ける。
「母上居てくれたら、いぬやしゃ他のヒト居なくて良い」
つい先日開かれた宴の様子が、思い出された。
その台詞を聞いて、十六夜も表情を曇らせる。
―――穢らわしき半妖めが
背負わせてしまったのは、己。
理に背き、ひとならざる者と縁を結んだその時から。
―――母上、『はんよう』ってなぁに?
子どもの前では絶対に泣かないと決めていた。
ただでさえ、良い環境とは言えないこの屋敷で、不安がらせてはいけない。
己の見えない場所で、どのような謂れを受けているのか分からない。
時折作ってくる傷は、偶然にしては多過ぎる。
それでも、犬夜叉が平気だと気丈に振る舞うから、何も言えない。
幼子にそのようにさせてしまう我が身が口惜しかった。
けれど、堪えきれずに、犬夜叉の前で初めて流した涙。
謝る理由など無いのに、謝ってしまいたかった。
「犬、夜叉」
十六夜は、犬夜叉をそ、と抱き締めた。
此れから先、一体どれだけの刻を共に過ごせるだろうか。
ヒトで在る彼女の身は、もう直ぐ朽ち果てる。
此処まで身体が持ったのは奇跡だった。
一度死に、黄泉帰った所為かもしれない。
犬夜叉を産んだ当初は、身体も軽く、健やかにしていた。
けれど、此処最近は覚えのある痛みや眩暈が微かながらも襲って来る。
矢張り自分の身体なのだと、唇を噛んだ。
他のものには成り得ない。
然し、何よりも気懸かりなのは、幼子の行末。
親を亡くしたら、如何やって生きて行くと言うのか。
屋敷の姫である彼女が居なくなれば、此処に居る理由が無くなる。
追い出されるのは目に見えていた。
そうして、死ぬことを畏れている自分に苦笑する。
消えてしまいたいと思っていたあの頃の自分が、今では遠く感じた。
今はただ、腕の中に在る幼子の傍に居たいのだと強く、願っている。
ぺたぺたと、簀子縁を歩く足音に気付き、はち合った老人が顔を上げた。
目を細め、幼子を眺める。
日の光に煌く銀の髪と、黄金の瞳。
何と、美しい。
何と、愛らしい。
けれど、彼にはそう思うことは赦されない。
彼は一族を纏める主であり、屋敷に住まう主であった。
彼が治める者が在り、彼に仕える者が在る。
上に立つ者として、己が姫を労わることも、孫を慈しむことも出来なかった。
優しい言葉ひとつ、かけてやることは出来ない。
本当は、娘に背の君が在ったと聞いた刻、何も言わずに背中を押してやりたかった。
何も織らないまま、嫁がせたかった。
相手が何で在ったとしても、彼女が真に愛おしいと思う相手ならば喜んで。
彼は彼の立場をよく理解していた。
彼女もまた、己の役割と立場を理解していた。
だから、何も言わなかった。
彼女が通した我侭は、子を産み、育てること。
妖かしの元へ行きたいとも、縁を認めろとも言わなかった。
何かを物強請るような娘ではなかった。
初めて彼女が口にした我侭を、如何して跳ね除けることが出来よう。
彼は織っていたのだ。
とうに、織っていたのだ。
「このような所で何をしている、半妖」
此処は彼の屋敷であって、幼子が暮らしている屋敷でもある。
分かりきった事実を織っていても、館主は忌々しげに吐き捨てた。
はんよう、と口の中で繰り返し、ぶんぶんと頭を振った。
「いぬやしゃ、は、いぬやしゃ」
ね?と首を傾げる童に、ふん、と鼻を鳴らす。
掠れる様に小さな声で、彼は呟いた。
「…誠、あの男によう似ておるわ」
憶えている。
風に靡く銀の髪。
高い上背に変わった鎧。
愛おしげに、優しく十六夜を見つめる黄金の瞳。
この世のものとは思えない程の、美しい面。
彼は織っていた。
とうに、織っていた。
己が姫の想い人が、ひとでなしで在ったことを。
誰も織らないのであれば、何も織らない振りをして、送り出すつもりだった。
けれど、見咎められていた。
忠誠心厚い臣下に、気付かれていた。
進言を受ければ、織らない振りは出来ない。
十六夜が、違います、と偽ることを望んだ。
然し、十六夜は嘘を付かないと分かっていた。
館主は、館主としての判断をせねば成らなかった。
子を想う、父として背を押してやることは出来なかった。
貴族に生まれなければ。
主として此処になければ。
若しも、なんて在り得ない。
在り得なかったからこそ、己が身を悔やみ、責めた。
ずっと昔に拵えた華やかな花嫁衣裳は、未だ櫃の中にひっそりと眠り続けている。
この先も、纏われることは無いだろう。
「爺様」
彼の心を読んだように、犬夜叉は呼びかける。
思わず、びくりと肩を揺らした。
返事もせずに、視線だけを投げる。
「母上居なくなったら、そうしたら、いぬやしゃ消えるから」
無邪気であればあるほど、痛々しいと思う笑み。
犬夜叉はにこりと笑う。
「あと、もう少しだけ、此処に居させて」
踵を返して、元の道を辿る幼子。
その愛らしい姿を抱き締めることも叶わない。
伸ばしかけた手を、強く握り締める。
今思えば、子どもらしくない子どもだった。
それが余計に、心を締め付けた。
そうしてまた、月日が流れる。
深夜。
皆が寝静まった頃に、慌しい声と足音が響いた。
「夜分、御無礼御許しくださいませ、御館様!」
部屋の外で、雑色が叫ぶ。
声音と纏う雰囲気で、彼は少女の終わりを悟った。
肩から袍を掛け、廊下に出る。
袿を羽織っただけの侍女達は、
彼に気付くと、その場に手を着き頭を垂れる。
簀子がやけに煩く響いた。
部屋に入れば、啜り泣く声があちら此方から漏れ、
乳兄弟であった十六夜付きの側女は俯いたまま頭を下げた。
「親より先に逝く、など」
十六夜の床の傍らに腰を下ろし、眠るように横たわる彼女を見つめた。
莫迦者め、と呟くと、皺の深い顔に、更に皺が刻まれる。
十六夜はいざよう。
身体の弱い娘に躊躇いの名を付けたのは、
黄泉路へと向かうのを躊躇うように。
この世に留まるように、と願って名付けた。
名は力を持つもの。
命と成るもの。
然しそれには、必要な器も耐え得るだけの力を持たねばならない。
彼女の身体では、それに耐えられなかったのかもしれない。
歯噛みしながら俯けば、床に広がる黒髪が一房、切り取られたようにして無くなっていた。
誰も気付いていないようであった。
彼だからこそ、気付いたのかもしれない。
そうして、愛おしさが込み上げた。
聡い子だった。
聡過ぎる子だった。
十六夜が儚くなると、幼子は何時の間にか屋敷から姿を消していた。
たった一度、名を呼ぶことも叶わなかった。
半紙に包まれた一房の黒髪。
犬夜叉は黙りこくって、それを見つめた。
屋敷から離れた森の奥。
泉の傍で、野花が咲き乱れる。
緩やかな風に飛ばされないよう、幼子は半紙を閉じた。
「犬夜叉様」
肩に止まった、小さな家臣に目を向ける。
「母上の、お墓作らなきゃ」
何処か光の宿らぬ瞳で、力無く微笑んだ。
泣き方を織らないのかもしれない。
そう感じる笑みであった。
「母君の骸、犬夜叉様なら御担ぎになれたでしょうに」
ほんの一握りの遺髪が包まれた半紙を眺め、老人は口を開く。
けれど、彼の台詞に犬夜叉は首を振った。
「爺様も、母上のこと好きだから。母上居なくなったら、哀しいから」
自分が疎まれる存在だと織っていた。
犬夜叉が居る所為で、祖父は母を気遣うことが出来なかったし、
周りの人間も母に近寄ろうとはしなかった。
本当に親しい人間だけ、犬夜叉が居ない時に部屋を訪う。
母の傍に居てはいけないのだと、本能で悟っていた。
「母上、いぬやしゃのこと『いといとほし』ってたくさん言ってくれた」
『いといとほし』、大好きよ、と。
抱き締めてくれた温もりを、憶えている。
「だから、いぬやしゃは此れだけで良い」
小さな手で遺髪を握り締める。
目を閉じて、胸に抱いた。
「そうで、ございますか」
こくりと頷き、叢に半紙を置いた。
腰を下ろして、半紙が入るくらいの穴を掘る。
鍬も何も無かったので、手で掘った。
爪の間に土が入って気持ち悪い。
それでも一心に掘り進めた。
漸く出来た穴に母の遺髪をそ、と置く。
「母上の、匂いがする」
ぽつりと呟かれた犬夜叉の声に、冥加は顔を上げた。
肩から飛び降り、草の葉の上に座る。
「みょうが。母上、何処に居る?」
御父上と同じ場所に、と言いかけて口を噤んだ。
ヒトで在れば、行き着くのは黄泉の国。
黄泉平坂を通り、ヨモツフグリを口にして、黄泉の国の住人と成る。
遂げられずに残った想いが在るのなら、輪廻の理に従い、再び転生する。
けれど妖かしは違う。
妖かしには妖かしの黄泉の国が在る。
墓場をそこに拵える者も在る。
ヒトと同じ黄泉平坂を通ることは、無い。
それこそ、死んで一緒に成ることは無いのだ。
「犬夜叉、様」
掘り起こした土を掬い、遺髪の上に被せて行く。
ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり。
繰り返し、繰り返し被せる。
「匂い、まだするのに」
不思議そうに呟く幼子は、死を理解するには早過ぎたのかもしれない。
半紙が全部隠れてしまった頃、冥加は大きく跳ねた。
「冥加は、花を摘んで参りましょう」
ぼんやりと小さな家臣の背を見つめ、うん、と頷いた。
近くに転がっていた手頃な石を、転がしながら持って来る。
幾ら力が在ると言っても、
自分と同じくらいの大きさのものは、重さ云々の前に持ち難い。
やっとのことで持って来た石の前に座り込む。
先の尖った小石を、何処からか拾ってきた。
「名前、書かなきゃ」
がり、と石を削る。
削れた石の粉をふぅっと吹き飛ばした。
「えっと、『い』、『ざ』…よ、ってどんな字だっけ」
ひとつひとつ、十六夜に教えてもらったかな文字を思い出しながら、
拙い走りで文字を綴っていく。
―――ほら、此れが母の名前
犬夜叉の手を取って、何時だったか書いてくれた覚えがあった。
思い出して、止まっていた手元を再び動かし始める。
「『よ』、『い』。出来…」
全部彫り終わり、石の表面を見やる。
『いざよい』と中心が歪みながらも、確かに刻まれていた。
「…た」
笑っていたはずの目元から、何かがつぅっと零れる。
―――上手に書けましたね、犬夜叉
どんなに呼んでも、返事は無い。
どんなに手を伸ばしても、触れる温もりは無い。
ぼたぼたと、幼子の頬を暖かいものが流れた。
石の上に落ちて染みを作るが、暖かい所為か直ぐに乾く。
「ねぇ、上手に書けたよ、母上」
微笑みかけてくれるヒトは居ない。
抱き締めてくれるヒトは居ない。
「いぬやしゃ、もう、我侭言わないから。何でも、言うこと聞くから」
流れるままの涙に、死というものを、ようやっと理解したようであった。
何もかも、此処に在るのに。
まだ何も、忘れては居ないのに。
ただその存在だけがふっと消えて、ぽっかりと穴が開いたよう。
蝋燭台に点いた炎を思い出した。
「母上、母上」
犬夜叉は呼ぶ。
此れがヒトの死というもの。
儚いヒトの生命というもの。
目元を小さな腕で覆う。
ねぇ、と犬夜叉は掠れた声を漏らした。
「母上、いぬやしゃと一緒に、遊、ぼう?」
まだ母が恋しいであろうに。
大声で泣きたいだろうに。
厭だ、逝かないで、と叫びたいだろうに。
冥加は摘んで来た花に埋もれ、ぎゅ、と目を閉じた。
護らなければ。
この小さく、幼い主を。
声を上げることなく、涙を流す心優しい幼子を。
そう、心に決めたのはこの時だった。
花が舞う。
風が走る。
季節は廻り、静かに訪う。
月は欠け、満ちて行く。
そして―――…。
「一緒に居ても、良い?」
「居て、くれるのか…?」
時は流れ、想いも伝う。
強い風が通り過ぎ、花が、舞い上がった。
空に向かって、高く、高く。
了
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