I promised...
あの方はおっしゃいました。
『その女、気に入った。俺が買おう』
私は、泣きながらその方の顔を見上げました。
その方は、とても澄んだ瞳をしていて、『王子』と呼ばれていらっしゃいました。
私でも存じ上げている方です。
『今日から、俺の元で働け。もちろん薬師としてだ。いいな?』
ぶっきらぼうに、私にそうおっしゃいました。
『はい、紅孩児様』
―――ありがとうございます
私はあの方に救われました。
そして、誓ったのです。
この方に、一生お仕えしようと。
この命、果てるまで。
今日は、とても良い天気です。
こんな日には、歌でも歌いたくなってしまいますね。
「こんな日が、ずっと続いたらいいのに」
そんな事を思いましたが、すぐに首を振りました。
だって、それは有り得ないのですから。
私は、ベランダの花に水をあげながら、歌を歌い始めました。
ガタン!
「『ガタン』?」
何かがジョウロにあたったような?
私が振り返ると、一つ鉢植えがなくなっています。
落としてしまったのだと気付き、私は慌てて下を見下ろしました。
そして、更に驚いたのです。
下にいらっしゃったのは。
「紅孩児様!!」
ああ!鉢植えがあの方にあたってしまったら!!
ですが、さすがは紅孩児様。
見事に、鉢植えを受け取られました。
ナイスキャッチです!
「八百鼡、これはお前のものか?」
「ハッ、ハイ!申し訳ございません、紅孩児様!!」
見とれている場合ではありません。
紅孩児様にもしものことがあっては、一大事だったのに!
ああ、私ってば、どうしてこうなのかしら。
「お怪我はございませんか!?すぐに取りに参ります!!」
私は、急いで部屋から出ようとしました。
「必要ない」
「え?」
気付けば、ベランダに紅孩児様が!!手には私の落とした鉢植えが握られていました。
跳んでいらしたのでしょう。
ここは二階ですから、無理なことではありませんが、紅孩児様に手間をおかけした
ことには違いありません。
私は頭を下げて謝りました。
「申し訳ございませんっ!!」
ふと、私は紅孩児様の髪から水の滴が落ちているのに気付きました。
水?
私が、さっきまでしていたのはお花の水やり。
鉢植えを落としたとき、下にいらしたのは紅孩児様で。
もし、その前から下に紅孩児様がいらっしゃったとしたら・・・?
私は、恐る恐る紅孩児様に尋ねました。
「あ・・・あの・・・紅孩児様。いつからあの場所に?」
ベランダの柵に腰掛けていらっしゃった紅孩児様が、私をご覧になられました。
あの頃と変わらぬ澄んだ瞳。
「今日は、雨が降ったり、鉢植えが降ってきたりと妙な天気だな」
紅孩児様は、少し目を細めて微笑まれました。
私は顔が紅潮して行くのを感じました。
「重ね重ね、申し訳ございませんっっ!!」
私はすぐに、部屋に戻り、タオルを取ってまいりました。
風邪でもおひきになられたら、大変です。
その上、肺炎にでもおなりになったら・・・!!
軽く目眩を覚えましたが、倒れている場合ではありません。
私のベッドに腰掛けられた紅孩児様は、タオルで、濡れている場所を拭いておられるご様子。
私は、濡れた上着を風通しの良い場所に掛けました。
天気も良く、そこまで濡れているわけでもないので、すぐに乾くでしょう。
「紅孩児様、私が髪をお拭きいたします」
「あぁ、頼む」
紅孩児様は、私にタオルを渡されました。
「髪・・・以前より伸びましたね」
初めてお会いしたときよりも。
「そうだな」
紅い髪は水を含んで、美しく光を帯びます。
愛しい方との時間。
とても幸せで。とても短くて。
この方の背中には、小さくてたくさんの傷があります。
一つ一つは、私の目から見てたいした物ではありません。
ですが、いつも不安なのです。
軽い怪我ならば良いのです。すぐに私が治します。
もしも、もしもですよ。
この方が大怪我をなさって、私が治すことが出来なかったら?
私の所為で、この方に、もしものことがあったら?
考えれば、キリがありません。
『もしも』が起こらないという保証はないのですから。
起きるという保証もありません。
しかし、起きる確率の方が大きいのです。
この方は、いえ、私たちは戦いの中に身を置く者。
「八百鼡?」
黙ってしまった私を気遣って、紅孩児様がお声を掛けて下さいました。
私はうつむいてしまって、紅孩児様のお顔を拝見できません。
きっと、私は今、とても情けない顔をしていると思うのです。
そうすれば、お優しい紅孩児様のお心を煩わせてしまう恐れだって。
「紅孩児様」
私は失礼だと分かっていながら、紅孩児様の背中に額を押し付けました。
こんな情けない顔を見られるわけにはいきません。
「約束を、していただけませんか?」
「約束?」
頷いて、私は話し続けました。
「戦いに・・・私が供に参るときには、この命を懸けてでも、貴方をお守りします。ですが」
紅孩児様は、静かに私の話に耳を傾けて下さいました。
「八百鼡を供にお連れになられないときには、必ず、無事にお帰りになると…お約束、なさって下さい」
本当は、無理を言ったとしても、どんな時にでもついて行きたい。
本当は、そばでお守りしたい。
本当は、
ずっとお傍にありたいのです。
でも、そんなこと口が裂けても言えません。
紅孩児様はお優しいので、困らせてしまいます。
前に三蔵一行のもとに向かったときにも、結局は紅孩児様に助けていただいた。
私は守るといっておきながら、守られてばかりで。
そのことで、紅孩児様にご迷惑を掛けてばかり。
そんな自分が恥ずかしいのに、どうにも出来ないもどかしさ。
どうすれば強くなれる?
どうすればあの方のお役に立てる?
どうすれば。
考えれば考えるほど、自分が情けなくなってくる。
『どうすれば』なんて、他人に答えを求めているようなものだわ。
自分に言い訳して、他人に求めてばかり。
こんな私に、紅孩児様のおそばにいる資格なんてあるの?
でも。
「私は、貴方が戻られたときには必ず、微笑って『お帰りなさいませ』と、お迎えしますから」
「八百鼡」
私はあの時決めたの。
この方に一生お仕えしようと。
そして。
「分かった、約束しよう」
私の道は、この方の優しさと孤独と共に。
「私の心は、いつもおそばにあるということ、忘れないで下さい」
「すまない」
紅孩児様は目を閉じて、優しく微笑まれました。
お礼を言わなければならないのは私の方です。
こんな私をおそばに置いて下さるのですから。
「紅孩児様、ありがとうございます」
哀しいわけではないのに、次から次へと涙が零れてきます。
紅孩児様は、私が泣き止むまで、そばにいて下さいました。
ただ、静かに。
ずっと、不安だった。
いつか、こんな日が来るんじゃないかって。
「何のつもりですか!?こんな事して・・・貴方達一体どういうつもりなの!?」
『もしも』が起こった日。
「正直・・・かなり深手で、お前が居ても存命は難しかっただろう」
守れなかった。
紅孩児様だけでなく、李厘様も。
李厘様を守る役を仰せつかっておきながら。
紅孩児様のそばにいると言っておきながら。
私はあの方と約束しました。
必ず、微笑ってお迎えすると。
その約束さえも、守ることが出来なかった。
「紅孩児様の御無事を信じ、李厘様の行方を追いましょう」
独角が走り去った後、私はいつの間にか涙をこぼしていることに気付きました。
ああは言ったけれど、壊れてしまいそうなのは私も同じです。
大声を出して泣きたいくらい、情けなくてたまりません。
「泣いて、何が変わるの?」
私は、涙を拭いました。
そして、自分に言い聞かせるように口を開きます。
「紅孩児様は御無事です、きっと!」
きっと、またあの澄んだ瞳で、優しい笑顔で私の名を呼んで下さるはずです。
しかし、私はまだ気付いてはいませんでした。
そんな日が、もう来なくなってしまうかもしれないことに。
私が、そして独角が絶望を感じる日がすぐそこまで来ていることに。
そう、『悪夢』が、始まろうとしている。
END
あとがき
やはり、女の子を書くのは楽しいですね。八百鼡殿は、かわいらしくて好きです。
大切な人を守れないことが、どんなにつらいことか私にはわかりません。想像する
しかないのです。知ることは、聞けばできます。しかし、分かることはできないの
です。その人にしか感じることのない感情が存在しますから。
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