―――アンタが痛い時には『痛い』って言っても良いのよ



アイツはそう言って、涙を乱暴に拭った。




べられるはずも





窓に当たる雨の雫が筋になり、流れ落ちる。
昨日の夜から雨が降り続いていた。
彼らに宛がわれた部屋は、普段よりも一段と静かだ。
廊下から聞こえる笑い声は弟だろう。
飼い犬の声も一緒に届くということは、戯れているのかもしれない。
機械鎧の修理に戻ってきた故郷リゼンブール。
彼の、彼らの家はもう、無い。
黒ずんだ瓦礫が残るだけだ。
霧がかった外を見やり、その向こうが見えないことに安堵する。
応急処置だけ施された腕を睨む。
発注していた部品が明日にならないと届かないらしい。
溜息を吐いて、ベッドに寝転んだ。
手元を探ると、暇潰しに借りた幼馴染の本にぶつかった。
他愛も無い三文小説。
あまりにも読み易過ぎると文句を言えば、
偶には考え事をしないで済むようなものを読んで頭を休めろと怒鳴られた。
広げて読んではみたものの、3分の1程度で挫折しかけている。
「…やっぱり面白く無いじゃねぇか、莫迦ウィンリィ」
ぼそり、と呟くと同時に勢いよくノックも無しに開かれた扉。
条件反射で飛び上がり、身を縮める。
「な、なっ?!」
紡ごうとする言葉が上手く出て来ない。
つかつかと歩み寄って来る彼女に、スパナ1本くらいは覚悟した。
開かれたウィンリィの口元に思わず目を瞑る。



「脱いで、エド」
「…………………………は?」



たっぷりと間が空き、何て間抜けな声だろう、と他人事のように思った。
そのような彼の思考が追い付くよりも先に、ウィンリィはもう一度口を開く。
「下、脱いでって言ってるの」
「は?!いや、ちょっと待て!お前、何を突然…ッ?!」
「自分で脱がないなら、パンツごと下げるわよ」
「…勘弁して下さい、マジで」
目が本気の彼女に、半ば涙目になりながらエドワードはベルトに手を掛ける。
一体、何がどうしてこんな羽目に陥っているのか。
助けとなる弟を探してみるも、近くに気配は感じない。
その前に、年頃の女が幼馴染とは言え、男にいきなり脱げとか言い出すか普通。
エドワードはそう反論しようとしたが、
どうにも睨まれている気がする彼女を見ると怒気すら失せた。
下穿きをベッドに放り投げれば、言われるがままに腰を下ろした。
「…我慢、してたでしょ」
「は?」
一体、本日何度目の台詞だろう。
ウィンリィはベッドの淵に腰掛けた彼の前に、傅くようにして床に腰を下ろす。
白い手が左足に触れた。
「雨の日には付け根が痛むって、機械鎧整備士なら誰だって織ってる」
言われて、あぁ、とエドワードは嘆息した。
「何だ、そんなこと」
確かに痛む。
けれど我慢出来ないほどではない。
今は随分と慣れた。
それでも、優しく摩ってくれる手は心地良い。
「こんなの…」
「『アルの痛みに比べたらどうってこと無い』?」
エドワードの台詞を遮り、ウィンリィは言う。
目を丸くしている彼を見る限りでは、外れていなかったのだろう。
言い当てられたことで、バツの悪そうな表情を浮かべ視線を逸らす。
「…そうだ」
言った瞬間、彼女の顔が顰められたことにも気付かない。
摩る手を止めずに、零された言の葉。





「何でアンタにアルの痛みが分かるの」





今度こそ見開かれた瞳。
エドワードは何か言おうとして開きかけた唇を、横一文字に引き縛った。
眉根がきつく寄せられる。
「アンタはアルじゃない。だからアルの痛みなんて分かるはず無い」
「…何だよ、それ」
「アルの痛みはアルだけのものよ。アンタの痛みも、私の痛みも、自分だけのもの」
辛辣な表情を浮かべ、彼は手元のシーツを握り締める。
広がる、波紋。
改めて言われるまでもない、残酷な事実。
代わることの出来ない、痛み。
だから、と彼女は手を止めた。



「アンタが痛い時には『痛い』って言っても良いのよ」



目の端に薄らと浮かんでいた涙が、一筋流れる。
ウィンリィは手の甲でそれを乱暴に拭った。
目尻が紅く染まる。



「それはアンタだけの痛みなんだから、誰も責めたりしない」



彼女は織っているのだ。
彼がどんなに自分を責めているか。
彼の弟がどんなに彼を想っているか。
どこまで踏み込んで良いのか分からずに、地団太を踏むしかないことも。
「ほら次、肩出して」
ベッドにもうひとり分の重さが加わる。
沈み込むスプリングに、体が微かに傾いた。
「…あぁ、悪いな」
エドワードは振り向かずに呟く。
触れる手があたたかいだけで、どうしてこんなにも安心出来るのだろう。
泣きたくなるほどの優しさに、いつかの亡くした母を思い出した。
「全くだわ」
わざと不機嫌に返された言葉に、エドワードはじとりと半眼で肩越しに振り返った。
「可愛くねー」
「可愛くなくて結構」
「女らしさをドコに忘れて来たんだ、お前」
「こんな優しい幼馴染つかまえてよくもまぁそんなことが言えるわね、この口は」
「ィいっっ?!こあ、はなへふぃんひぃ!!」
「何言ってるんだか分からないから却下」
「何やってるの、2人とも」
呆れた声が降ってきて、2人は部屋の入り口を見やった。
足元に前片足が機械鎧の犬を連れ、はぁ、と仰々しく溜息を吐く。
「騒がしいと思ったら、また喧嘩?」
「違う!俺はウィンリィに襲われたんだ!」
「はぁ?!何言ってるのよ、この豆は!!」
「豆っつぅな、機械オタク!」
「…やっぱり喧嘩なんだね。仕方ないなぁ、ねぇデン?」
デンと呼ばれると、黒い犬はくぅんと鳴いた。
エドワードとにらみ合っていたウィンリィは、
くるりと振り返って部屋を出ようとしていたアルフォンスを呼ぶ。
「何?」
「コイツの機械鎧の付け根、雨の日痛むから摩ってあげて」
「ウィンリィ!」
エドワードは大声でウィンリィの言葉を遮る。
睨めば口だけ動かして莫迦と言われた。



「うん、良いよ?」



きょとん、と首を傾げて、アルフォンスは疑問符を浮かべる。
「どうしたの、兄さん?あ、分かった。どうせ、また兄貴なのに恥ずかしいとか情けないこと言うんだろ」
仕方がないんだから、彼は笑いを堪えきれずに、
あはは、と声を立てて部屋を出て行った。
驚いたような、気を抜かれたような顔で、エドワードは呆ける。
「ほら御覧なさい。どれだけアンタの勝手な思い込みかよく分かったでしょ」
ウィンリィにぺしりと叩かれた背中の感覚さえ朧げで、現実が何か良く分からない。
赦されない。
弟の痛みに比べたら。
自責の念に潰されかけて、それでも大切な家族を護ろうと必死に足掻いて。





―――あぁ、そうか





唐突に思い付く。





―――比べられるはずも無かったんだ、最初から






エドワードの痛みは、アルフォンスの痛みではない。
アルフォンスの痛みだと思い続けていたものはきっと、
自分自身の背負いきれなかった罪咎の意識。






『ほら御覧なさい』





掴んだものはあたたかくて。
あたたかすぎて。





涙が溢れそうになった。





雨はまだ降り続ける。
鈍い痛みに、右腕と左足に疼く。
それは彼の痛み。
彼だけが感じる痛み。
心のそれもまた、彼だけのもの。
「莫迦だな、俺」
ぽつりと零した呟きを拾い上げ、ウィンリィは微笑った。
「織ってるわよ」
何度も言っているじゃない、と雨上がりの向日葵のように微笑った。
雲間から差す天使の梯子が遠くの山裾に見える。
きっと雨ももうすぐ止むだろう。







END



あとがき。
エドウィンと言うよりも、幼馴染メインで。





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