Old Days



ザバザバと、その女は川へと脚を踏み入れた。
透き通った川は、やがて河となる。
小さな木箱をその腕に抱え、水へと浮かべた。


「どうか…生きて…」


キラキラと輝く、長い金糸の髪は風になびきながら、
ゆっくりと艶を帯びて行く。



「この紫暗の瞳はあの人と同じ」


優しく頬を撫でて、赤子を慈しむ。


「この金糸の髪は私と同じ」


サラサラと光に透けるような金糸の髪にキスを落として。





「生きて…私の…私たちの愛し子」





静かに手を離し、流れに乗っていく木箱を見送る。
流れる涙は、川の水の反射した光に照らされて、光を帯びた。
遠くで、赤子の泣き声が聞こえてきた。
岸へと上がることもせず、ぼうっとその行く先を眺める。
自分の下腹部にそっと触れ、浅い川へと座り込んだ。
まだ冷たい水が、服へとしみこんでくる。
嗚咽を押し殺して、女は涙を流した。




『     』




光明は、不意に顔を上げた。
共について来ていた若僧が不思議そうに彼を見る。
「三蔵様?」
だが、彼からの返事はない。
もう一度呼んでみた。
「三蔵様、どうかされましたか?」
次も返事はなく、ますます若僧は首を傾げた。
そんな彼を気にするようでもなく、光明はそのまま振り返る。
「三蔵様?」
「何か…聞こえませんか?」
「え?」
やっと返ってきた答えはそれだけ。
彼は耳を澄ました。
聞こえてきたのは、風の音、水の音、鳥の鳴き声。
他には何も聞こえはしなかった。
「ほら、また」
「何も聞こえませんが…?」
彼がボケる様な歳でないことは一目瞭然だった。
「風の音か、何かでは?」
「いいえ…何か…いえ、誰かの…」








『声』が聞こえた。










光明はそれだけ言うと、今来た方向へと脚を戻した。
今度は何も言わずにその場を駆け出す。
「三蔵様っ?!」
慌てて、僧が彼の後を追った。
いや、追おうとした。
しかし、光明はすぐそばの河へと脚を踏み入れてしまう。
「三蔵様!この河は深うございます、お戻りを!!」
そんな声さえも聞こえなかったことにして、
光明は更に深い所へと脚を進める。



―――聞こえる



段々と重たくなってくる法衣を纏わりつかせ、
踏み入れるごとに深くなる河へと。











『         』










キィンと頭に響く『声』。
名を呼ばれたわけではない。
なのに、自分を呼んでいるのだと本能が叫ぶ。


さらさらと透き通った河の先から、何かが流れてきた。
「…木箱…?」
何故だか分からないけれど、光明はソレを自分の腕へと納めた。
まるで、それが必然だったかのように。
聞こえてくる赤子の泣き声。
その中身を見て、彼は驚きもせずこう言った。



「あぁ、貴方だったんですね」



にっこりと微笑み、光明はその木箱を抱えて岸へと上がる。
「三蔵様ッ!!」
慌てたように僧が駆け寄る。
身体を拭くために差し出された手ぬぐいも、
役には立たないほどの濡れ鼠。
うろたえる僧を尻目に、彼は微笑みながら赤子を抱き起こした。
ソレを見て、更に絶句する若僧。
「それ、は…」
「可愛いでしょう?」
何ともピントの外れた回答である。
「生まれたばかりのようですね」
光明は赤子の首の後ろへと手を回し、頭を固定した。
まだ首が据わっていない。
「捨て子、でございましょうか。どう致しましょう?」
嗜めるような、呆れるような声音で見上げてくる僧に苦笑して、
光明は簡単に言い放つ。


「育てますよ」


彼は目を剥いて驚く。
「三蔵様っっ?!」
完全に咎める口調。
だが、それも効き目はない。
この光明と言う人物、穏やかそうな外見に反し、絶対に意思を覆さない。
抜け目がないところもあった。
そんな性格のおかげで、彼にかなう者などいなかったほどだ。
力で攻めようにも、意外と強い。
口では勿論勝てるわけがない。
強さも知も兼ね備えた人物だった。
それを知っているからこそ、皆彼を慕い、彼に敬意を示した。
当の本人は謙遜するばかりで、それを気恥ずかしく思っていたが。

「本気なのですか、三蔵様」

彼の言葉に、光明は笑顔で頷いた。
「えぇ」
「皆には何とご説明なさるおつもりで?」

「聞こえたんですよ」

「は?」
突拍子もない台詞。
「『聞こえた』…ですか?」
僧は怪訝な顔をして、光明を覗き込む。
腕の中の赤子をあやしながら、彼は微笑んだ。





「『声』が、聞こえたんです」





彼にしか届かない『声』で。




「理由なんて、それだけで十分ですよ」




「……分かりました」
じゃら、と持っていた数珠を握りながら膝を折った。
目を閉じ、合掌する。
「貴方様にだけ聞こえられたと言うのなら、それは御仏のお導きなのでしょう」
「いいえ」
光明は静かに告げる。





「この子自信の強さが、私を呼んだんです」







きっと、その輝きの前では神々さえも敵わないでしょう。







赤子が育つには十分な時が流れた。
「あの子を必要とする者が必ず現れます」
廊下で、後ろに立つ朱泱へと不意に漏らす。
縁側であるその廊下に腰掛け、煙管をくわえた。
「それが私とあの子との別れのとき」
ふぅっと紫煙を吐き出す。
「ねぇ、朱泱」
朱泱は障子に寄りかかり、腕を組む。
そうして、彼の呼び声に視線を向けた。


一人前になって。
大人になって。
巣立っていくのは喜ばしいこと。
成長した姿を見ることが出来るのは嬉しい。
それでも、心のどこかで。




「寂しいと思うなんて、おかしな話ですよね」




淋しげに笑う光明の背中に、朱泱は目を閉じて声を投げた。
その口元には笑みがある。
「そうですかね?」
腕を解いて、光明へ背を向けた。





「普通だと思いますよ」





それじゃ、と一言残して朱泱はその場を去る。



ぽたり。

一滴の涙が脚へと落ちて染みを作った。
「おや?」
光明は自分の頬へと手を伸ばす。
一筋の川が乱れた。
「何を…泣いているんでしょうね」
す、とそれを拭って顔を上げる。


「…貴方に会えて、私はとても倖せなのに」


いつか旅立ち行く、愛しい我が子を想って。
光明はそっと目を閉じた。




「…江流…」







貴方と別れ行く日を思って。

今だけ泣いても構いませんか―――……?









END

3stg
光明様のお話でっす。
あぁもう、なんかまとまりないはなしぃ〜(泣)。
江流殿の『親』としての立場で書いてみました。
タイトルは『昔の日』が訳ですが、
私は『遠い日』という訳のが好きですねv

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