風が過ぎ、花が舞う日に思い出す微かな記憶。 けれど、決して色褪せない思い出。 触れた手のぬくもりは、今も確かに覚えている。 |
女郎花 |
土間に置いてあった籠を背負い、少女が振り返る。 「桔梗お姉様、薬草を採ってくるだけです。私ひとりでも、本当に大丈夫ですよ」 「分かってるよ、楓。けれど、ひとりよりも二人の方が早いだろう?」 白の着物に緋袴。 一見して巫女と分かる装束を纏った女が微笑う。 長く艶やかな髪はゆったりと結われ、背を流れている。 紅を差さずとも紅く染まる唇は、白い肌に一層映えた。 己が姉でありながら、楓は彼女を美しいと思う。 護身用だろうか。 弓矢を肩に掛け、囲炉裏端に座していた桔梗も立ち上がった。 入り口に掛けてある筵を掲げれば、朝の日差しが差し込んでくる。 「今日は、晴れそうだな」 「はい」 楓は嬉しそうに頷き、隣に並ぶ桔梗を見上げた。 彼女は目標であり、誇り。 たったひとりの家族で、楓の全てだった。 「如何した?」 少女の視線に、桔梗は不思議そうに首を傾げる。 「いえ、何でも…」 ふと、彼女達の前を、見織った母子が通り過ぎる。 小さな村だ。知らぬ者は居ない。 桔梗に気付くと、小さく頭を下げて挨拶をした。 「お早う御座います、桔梗様」 幼子も母に倣って、たどたどしく『おはようございます』と紡ぐ。 其の様子が愛らしく、桔梗と楓は織らず顔が綻んでいた。 「お早う御座います」 小さな手が伸びて、共に歩いていた幼子が母を急かした。 「おかあちゃん、早くお迎え行こ」 「何か、待ち遠しいことでも在るの?」 屈んで、楓が幼子に問えば、ぱぁ、と表情が明るくなった。 勢い良く何度も頷く。 「おとうちゃん、帰って来るの」 「出稼ぎから今日帰ると、先日文が」 「添うですか。其れは楽しみですね」 「起きてからずっと此の調子で。帰るのは昼過ぎだと言っているのに」 けれど、困ったように微笑う彼女も、何処か心落ち着かない様子で。 其れが余計に微笑ましくて、二人は母子の背を見送った。 小さく、本当に小さく楓が溜息を吐く。 恐らくは、漏らしたことに自身が気付いていない程の。 「………」 まだ成長しきれていない手が、背負い帯をきゅ、と握るのを見た。 「さ、お姉…」 「楓」 「はい?」 「前に、女郎花を摘んで来てくれたことが在ったね」 訳が分からず、是と頷く。 桔梗は困惑した楓の手を取り、足を踏み出した。 「何処に咲いていたのか、私にも教えておくれ」 「え?でも、今日は薬草を…」 慌てて歩みを進め、桔梗に並ぶ。 「気に入られたのなら、また私が」 「私が見に行きたいんだ」 「でも」 其れでも躊躇う楓に、桔梗はぐ、と顔を近付けた。 「今日が良い」 普段と違う、何処かあどけない様が可笑しかった。 有無を言わせない彼女に、思わず噴出す。 添うして、悟る。 決して、添うとは言わないけれど、此れは彼女の優しさだ。 普通の家族というものを羨む、自分への。 姉が嫌いな訳では決して無い。 かと言って、親が恋しくないと言えば嘘になる。 たったひとりの家族だからこそ、桔梗の優しさが嬉しかった。 素直に甘えるのは矢張り気が引けるものの、楓は彼女手を握り返した。 「仕方ないなぁ、お姉様は!」 わざと年長者のような口ぶりをすれば、桔梗は目を瞬かせた後、 堪えきれないといった風に笑い出した。 さらら、と背の高い草が鳴る。 殆どが楓の背丈すら隠れてしまう程伸びている。 楓を見失わないように、桔梗は歩いた。 尤も、彼女が妹を見失うなど在り得はしないが。 「此方です」 「ちょっと待って。足元が歩き難い」 「御年ですか」 「…御前と幾つも変わらないんだがね」 ようやっと楓に追い付き、桔梗は顔を上げた。 女郎花の群生。 一面、黄金色に染まり、眩さに一瞬だけ目を細めた。 まるで、月の光が降り頻るようだ。 「凄いな…」 言って直ぐに、口を噤み、自分を恥じた。 感嘆の言葉すら滑稽だ。 もっと他の言い様があるだろうに。 「前に薬草を採っていた時に見つけたんです。秘密ですよ?」 「私と御前の?」 添う言うと、楓は頬を綻ばせた。 暫く見て回った後、少し小高い丘に腰を下ろす。 楓は、流れ行く雲を女郎花の向こう側に見ながら、姉の肩に重心を預けた。 「お姉様」 視線だけを投げれば、楓は何処かぼんやりした様子で口を開く。 「女郎花、お母様が好きだった、って昔仰っていましたよね」 あぁ、と頷く。 彼女が幼い頃、確か其のようなことを言った気がする。 余りに楓が泣くので、あやす為に散歩をしていた時に見た女郎花。 摘んで差し出せば、母の花だと、やっと笑ってくれた。 「此処を見付けた時、私はやっぱり寂しくて泣いていて」 親のことなど、微塵も覚えていないというのに、恋しいと思うのは何故だろう。 「だから、お母様が呼んでくれたような、気がしたんです」 姿はおろか、声すら織らないのに。楓はくすくすと微笑う。 実際、聞いたことが有っても、其の頃の自分など覚えていない。 ぬくもりは、覚えていない。 「楓」 「勘違いしないで下さいね」 何と声をかけて良いのか分からずにいる桔梗に、楓は顔を上げる。 「私は、お姉様しか居ないから寂しい、なんて思ったことは一度もありません」 楓は、真っ直ぐに姉を見つめた。 時折、風が髪を浚っていく。 「お姉様が居るから、嬉しいんです」 桔梗の手を取り、額を寄せた。 祈りの姿にも似た其れは、正しく添うだったのかもしれない。 「お父様とお母様を恋しいと思うことはあります。でも、だからって寂しいとは思わないんですよ」 少女の手のぬくもりが心地よい。 桔梗は、其のまま楓を抱き締めた。 驚いて、目を見開きはしたが、直ぐに嬉しそうに目を閉じた。 「有難う御座います、桔梗お姉様」 其の言の葉は、何に向けられたものだったのだろう。 否、全てに対してだったのかもしれない。 楓を楓たらしめるもの全てに。 だとすれば、桔梗こそが紡ぎたい言の葉だ。 楓が居て、救われていたのは桔梗も同じ。 ひとりだったのなら、生きていることすら恨んだかもしれない。 「…墓土と骨だけの死人でも、夢を見るのだな」 皮肉げに歪められた口元は、何処か寂しい。 ふわり、と白く透き通った羽の生えた、蛇のようなものが夜闇に浮かび上がる。 木の懐に預けている背を其のままに、桔梗は夜空を見上げた。 煌々と照らし出す月に手を伸ばしかけ、止めた。 「犬夜叉との夢すら、見たことが無いと言うのに」 女郎花を思い出す色は、死人の身で触れてはならない気がした。 もう、戻ることの出来ない時が、鮮やかに思い出されるのは、 夢に昔を垣間見た所為だけだろうか。 黄泉帰った時に見た幼い妹だった楓は、老婆に変わっていた。 時が流れた。 今も、流れ続ける。 其れは変えようの無い事実。 捻じ曲げることの出来ない真実。 老いを織らぬ此の土くれは、想いだけで留まり続ける。 何と浅ましく、愚かなのだろう。 縋る姿は、何と醜いのだろう。 死魂虫が運んできた死魂がひとつ、桔梗の身体に染み込んだ。 其の度に、切なさが募る。 戻りたい、などと願えるはずがない。 望みなど、疾うに果てた―――はず、なのに。 「…浅ましきこと」 ぽつり、と呟く声すら、夜闇に吸い込まれる。 桔梗はひとり、瞳を閉じた。 巫女装束の老婆が顔を上げる。 夜も更けたと言うのに、村人に頼まれた薬の調合でもしているのだろうか。 囲炉裏にくべられた薪が、微かに爆ぜる。 壁に映った影が大きく揺らぎ、動く。 徐に立ち上がると、入り口の筵を掲げた。 外からの明かりなど疾うに消え、月の光が差し込むばかり。 ふと、足元に落ちているものに気付いた。 拾い上げると、楓は辺りを見回す。 けれど、闇が広がるばかりで、何も見えない。 「お姉様……」 老いた隻眼には、何が映ったろうか。 寂しげに、だが懐かしそうに、楓は手にした女郎花に目を落とした。 其れは、過ぎし日の懐かしい思い出。 遠く、遠い、忘れられぬ女郎花。 了 |
あとがき |
お待たせしました! 『桔梗様単体、または悲劇的過ぎない、犬桔の短編小説』のリクを下さった、梓サマに捧げます。 悲劇的過ぎないとか言う時点で、シリアスしか書けない私には無理だ、と(笑)。 単体と言うよりも、楓さんが出てきてしまって、何とも申し訳ない限りなんですが…スミマセン。 ちなみに、女郎花の花言葉は『約束を守る』です。 |
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