Past and Present



忘れた事など無い。
それは自分に対する戒めだから。
何かを守るなんて、おこがましい。
自分一人を守るだけで精一杯。
そうだ。
―――俺は、弱いから。


途中、ジープの調子が悪くなり、
休憩を余儀なくされた。
だだっ広い草原で、他には近くに湖が見えるくらいだ。
予定外のアクシデントなど、日常茶飯事になってしまったこの頃では、
皆が苛つく事も、ほんの少しだけ少なくなった。
ただし、そのアクシデントに対してだけだが。
西に近付くにつれて、気温も穏やかになってきているようだ。
春のように温かな日差しに、八戒は目を細める。
「良い天気ですね、三蔵」
微笑みながら後ろを振り向くが、彼は他2名に制裁を加えている最中のようだ。
いつもの風景に、八戒は苦笑する。
キューという、ジープの鳴き声にまた視線を戻す。
「大丈夫、すぐに治りますよ」
ジープの頭を撫でるように、車体を優しく撫でた。
(疲れが出てきただけでしょうし)
「ったく」
三蔵はハリセンを肩に乗せ、八戒のいる場所へと戻ってくる。
苛ついているのか、煙草を取り出しくわえた。
ライターが無いのに気付き、ジープにある荷物を探る。
「ライターなら、ここですよ」
八戒は、手にあるものを三蔵に渡す。
怪訝そうにそれを見ながら、煙草に火を灯す。
紫煙を吐き出しながら、八戒に問うた。
「何で、お前が持っているんだ」
「三蔵が苛ついていたんで、そろそろ煙草を吸うかなあと思いまして」
用意周到とはこのことだ。
しかし、彼が苛ついているのは、年がら年中のような気がしなくも無い。
遠くにいた2人も戻ってきてはいるが、相変わらず口喧嘩を続けている。
「煩いと言ったのが…」
くわえていた煙草を足元に落とし、踏みつけると、再度ハリセンを取り出して、
悟空、悟浄の頭上に御見舞する。
「分からねえのか!!!」
スパーンッと、気持ち良い音が2度聞こえてきた。
「三蔵、その辺り散歩でもしてきたら如何ですか?」
見かねたのか、八戒が助け船を出す。
「悟空、悟浄は僕の手伝いをして下さい」
後ろに、どうせ暇なんでしょうとでも聞こえてきそうな言葉に、
2人は大人しく返事をする。
「はーい」
「おう」
小学校の生徒のように、片手を挙げて三蔵から逃れる。
軽い舌打ちが聞こえたが、2人は聞こえないふりをした。
方向転換し、ジープから離れていく三蔵に、八戒は笑顔で手を振って見送る。
「行ってらっしゃい」


一人で歩くのも、たまには良い。
丁度良い風が、何度も通り過ぎていく。
近くに柑橘系の木でもあるのか、甘酸っぱい香りが漂ってくる。
湖のそばまでやってくると、その向こうに森があるのが分かった。
鬱蒼と茂ってはいるが、不思議と重々しい感じはしない。
湖も、蒼い空と真っ青な草原を映し出し、
そちらにも別の空間があるのではないかと思ってしまう。
風が吹くと波がたち、その映像は崩れていく。
それが止めば、あっという間にもとの映像が形成された。
(こんな簡単に、物事が戻ったら…)
考えたが、あまりに馬鹿馬鹿しくてすぐに考える事を止める。
戻りはしない。
どんなに願ったって。
どんなに祈ったって。
「戻れるわけがねえ」
誰にともなく呟くと、自嘲気味な笑みを浮かべる。
戻ったところでどうする?
もし奇跡が起きて、あの頃に戻ったとしても、守る自信があるか?
「…くだらねえ…」
湖のほとりを、重い足取りで歩く。
温かかった風が、涼しくなってきた。
水がそばにある所為でもあるだろう。
寒いと感じるそれではない。
今日もまた野宿だろうが、これなら大丈夫だ。
まあ、西に近付いているのだから、温かくなるのは当たり前なのだが。
先ほどから考え事ばかりしていて、
気付けば結構な時間が過ぎていたようだ。
空を見上げれば、
高かった太陽が、ほんの少し傾いている。
2時くらいだろうか。
「戻るか」
そう呟くと、三蔵はもと来た方向へ足を向けた。


(……?)
ジープへ戻って来たは良いが、そこには誰もいなかった。
「おい、アイツらはどこだ?」
ジープへ尋ねるが、眠っているのか返事がない。
眠っているものを無理矢理起こして聞き出す事でもないと判断したのか、
仕方なく辺りを見回してみた。
しかし、そこには相変わらず草原が広がるだけで、
誰かがいる気配などない。
草原なので、隠れる事が出来るような場所も、
遊ぶ事が出来るような場所もない様に思えた。
足元を見ても、踏み荒された跡はなく、
敵が襲ってきたのではない事を教えている。
ここらで、見失うような場所と言えば、
先ほど行った湖の向こうの森程度だが、
そちらから三蔵は帰ってきたのだから、
それはありえない。
もし、彼らが向かっていたのなら、必ず会うはずだ。
「まあ、良いか」
三蔵は懐から煙草を取り出すと、
それを一本取り出し、口にくわえた。
先程、八戒から差し出されたライターを袖から出すと、
くわえている煙草に火をつけようとした。
火をつける為、煙草の先を見ていたが、ふと、その向こうに人影が見えた。
一点を集中して見ていると、周りの風景がぼけて見えるのは良くある事だ。
まして、三蔵は目が悪い事もあり、それが誰だか、すぐには確認できなかった。
八戒達かと思ったが、それは一人であった為、すぐに違うと思った。
彼らのうち、一人だけが戻ってきたと考えても不自然ではなかったが、
その人物の雰囲気は彼らの誰とも違った。
(……?)
逆光が更に、その人物を見えにくくする。
目を細めて、目の前の風景をよく見てみた。
「……っ!?」
彼はくわえていた煙草を足元に落とした。
持っていたライターも、いつのまにか手の中にはなかった。
何かを話そうとしているのか、
彼の唇は震えている。
しかし、それは音を生み出すには至らない。
目の前にいた人物は、優しく微笑むと、口を開いた。
あの頃と全く変わらぬあの声で。
あの微笑みで。
「久しぶりですね、江流」
彼は、三蔵に近付いた。
1メートルほど近くに来ると、歩みを止めた。
彼を見つめ、また微笑む。
彼は殆ど微笑みを絶やす事がないが、笑ったままで、
少々驚いた様子の表情を浮かべていた。
「少し見ない間に、随分大きくなりましたねえ」
まるで世間話でもするように、彼は穏やかに話しかける。
三蔵は、一向に話そうとする気配はない。
驚いたままの表情で固まっている。
それは、いつもの彼には珍しく、
困ったような、哀しそうな表情だった。
「江流?あれから、10年以上経ちましたからね、忘れてしまいましたか?」
「…んな…こと…」
絞り出すような声で、三蔵は口を開く。
膝をつき、彼の前に傅いた。
「…忘れるはずがありません、御師匠様」
その姿も、
その声も、
その微笑みも。
何もかも、昨日の事のように覚えている。
彼の辛そうな声に、光明三蔵は顔を顰める。
「頭を上げて、お前の顔を良く見せて下さい」
立ちなさい、そういったニュアンスを含む彼の言葉にも、
三蔵は動こうとしなかった。
「江流」
「出来ません」
意思の強さを思わせる声音。
しかし、それは少しでも触れれば、
今にも崩れてしまいそうな強さだった。
「俺は、貴方を守る立場にありながら、貴方を守る事が出来ませんでした。それなのに、今更、どんな顔をして会えば良いと言うのです!?」
「江流」
相変わらず動こうとしない三蔵の隣に、彼は座り込んだ。
これには驚いたらしく、三蔵は顔を上げてしまった。
作戦通りだったのかどうだか分からないが、
光明は三蔵の顔を見て、ふっと笑った。
そして、彼の服の後ろ首を持ち、無理矢理座らせる。
バランスを崩した三蔵は、彼の隣に座り込む事になってしまった。
「御師匠様…」
それでも、俯いたままの三蔵に、光明は空を見上げて話しかけた。
「玄奘三蔵」
彼の名を呼ぶ。
昔のそれではなく、今のその名を。
彼が名付けた、その名を。
バツが悪そうに、三蔵は目をそらす。
「私が貴方に言った、最期の言葉を覚えていますか?」
今の法名を授かる時、彼に呼び出しを受けた。
三蔵法師たる称号を彼に託す、その言葉。
受け継ぐ基準などない名を託した、あの時。
『強くおありなさい、玄奘三蔵法師』
そして、彼を失ってしまった、忘れる事など出来ない、忌まわしい記憶。
「…はい」
返事をするが、その声音にいつもの覇気はない。
風が通りすぎ、光明は目を閉じた。
その面には、笑みが浮かんでいる。
「良い友が出来たようですね」
「友…ですか…?」
釈然としない表情を浮かべる三蔵に、光明はまた微笑む。
「貴方が、貴方らしくいられる場所みたいですから」
彼らの前では、三蔵という称号を気にする事もなく、自分らしく振る舞える。
一応、寺院などでは、あれでも大人しくしていたらしい。
作られた人格のようなもので、振る舞っているに過ぎない。
その方が、彼にとっても楽であったからだ。
深く触れあう事もなく、自分一人でいられるのだから。
悟空達と出会ってからは、そんな事はなくなった。
そんな事をする必要がなくなったのだ。
「どうして…」
「え?」
突然、思いつめたように三蔵は光明を見つめた。
「どうして、俺なんかを守ったんですか?」
驚いた表情を浮かべて、光明はわざと考える風な態度をとる。
頤に手を当てて、うーんとうなってみた。
「理由はないんですよねえ」
「は?」
本当に考えていないような彼に、三蔵は呆けた声を上げる。
「あの時は、あぁするのが当然の様な」
「俺は…!!」
それを重く感じていないのか、光明はのほほんと答えた。
三蔵は、光明に詰め寄る。
その拳は、草の上で強く握られていた。
「俺は、貴方に死んで欲しくなんてなかった!本当なら、あの時死んでいたのは、俺だったのに!!」
そんな三蔵を彼は苦笑しながら見つめた。
「私もですよ」
その穏やかな表情に、三蔵は息を呑む。
何も言えなくなった。
「貴方に死んで欲しくなかった」
彼の未来が見えていたわけではない。
だが、ずっと考えていた。
きっと、この子は誰かを導く光になる、と。
つうっと、三蔵の瞳から一筋の光が流れ落ちる。
それに気付き、手の甲で目を拭う。
しかし、止まる様子もなく、
三蔵は、両手で顔を覆うと俯いた。
光明は微笑んで、三蔵の肩を抱く。
「こんなに大きくなったのに、子どもの頃と変わりませんねえ」
反論しようとしても、きっとそれは鳴咽に変わってしまうだろう。
三蔵は、声を押し殺した。
強く歯を食いしばって、言葉が口から漏れない様に。
「でも、泣きたい時は泣きなさい。それを明日へ進む糧にすればいいんですから」
三蔵は、黙って小さく頷いた。
もう一人の三蔵法師は、そばにあったすみれの花を摘むと、三蔵の膝に乗せた。
「花の香は、心を落ち着けてくれますよ」
自分の行動に、理由をつけるように言葉を付け足す。
「すみれなんて、殆ど薫りなんざしないじゃないですか」
子ども扱いされたのが恥かしくて、ぶっきらぼうに憎まれ口を叩く。
「おや、いつものお前に戻りましたか」
彼は、歳と不釣合いにころころと笑う。
そして、そういえばお前の瞳と同じ色ですね、と呟いた。
三蔵は、心の中で言葉を紡ぐ。
――――申し訳ありません、御師匠様
それが通じたように、光明は、三蔵に優しく笑いかけた。


ガタンと、ジープが揺れる。
三蔵は、その振動で目を開いた。
「あ、起こしちゃいました?すみません、三蔵」
ジープを運転しながら、八戒が苦笑する。
ふと、辺りを見回すと、風景はジープのスピードで流れていた。
後部座席には、いつものように悟空と悟浄が座っている。
騒ぎ疲れてしまったのか、2人とも寝入ってしまったようだ。
「いつ…?」
八戒は、それをジープが治った時を聞いているのと考え返事をした。
「ついさっきですよ。ジープ、良く眠って体調が回復したみたいです」
三蔵が聞きたかったのは、自分がいつジープに乗って、
いつ眠ってしまったのかだったが、もう、どうでも良くなっていた。
「そうか」
欲しい答えではなかったが、三蔵は曖昧に返事を返した。
「三蔵?どうかしたんですか?」
「…いや」
(夢…だったのか)
当たり前だ、自分の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
あの人は、もうこの世にいないのだから。
幽霊になっても会えるなど、そんな都合の良い話がある訳がない。
三蔵は、ドアによりかかり、腕を預けた。
「ジープ」
名を呼ぶと、キューと返事が返ってくる。
さっきまで、バテていたのが嘘のように元気だ。
「…お前、何か見たか?」
ジープにしか聞こえない声で、三蔵は呟いた。
ある程度小さな声なら、ジープのエンジン音にかき消されてしまう。
不思議そうな声を上げた。
気付くと、彼の膝に花が乗っている。
三蔵はわずかに目を見開くと、それを手に取った。
「すみれ…」
―――ただの、偶然、だ
その花を持ち上げて眺める。
風が良い香りを運ぶ。
彼が手の力をゆるめると、それは呆気なく風に舞ってしまった。
一瞬、掴もうかと手を伸ばすが、その手は途中で止まる。
「いいんですか?」
八戒が意外そうに三蔵に尋ねた。
彼が花を持っている事も意外だった。
それ故に、大事なものかと思ったのだ。
「構わん」


―――ここにあるのは、今だけでいい
過去は、自分の心にあるだけで。
それだけでいいんだ。



END


あとがき
三蔵殿夢オチバージョンです。八戒殿に続き、三蔵殿でやってみました♪
悟浄殿と、悟空殿はどうしましょうか。
とくに、悟浄殿は描きにくそうですねえ。
光明様の口調は、考えてみれば、八戒殿と似ています(笑)。
一緒にいなくて良かったと心から思います(爆)。
どんなに祈ったって、過去に戻る事は出来ません。
だから、今を一生懸命生きているんです。
それが、時には躓いて、転んでしまったとしても、それは、きっと、
自分が強くなるには必要だと思います。
失敗を恐れて、一歩も進めないなんて、嫌じゃないですか。
後悔するよりは、当たって砕けろくらいの思いでぶつかった方が良いと思います。
それでも、何も出来ない事もたくさんあるとは思いますけど。
題名は、”過去と今”です。