Rain Day
雨の音が聞こえる。
空が一瞬明るくなり、
どこかで、雷が落ちたような音が響いた。
どこまでも続く暗闇に、幾筋もの稲妻が浮き上がる。
それを合図としたように、
いっそう雨の音が激しくなる。
光明三蔵は、その雨の音に目が覚めた。
「…だいぶ、降ってきましたね」
誰に言うともなく、呟いてみる。
「洪水にでもならなければ良いのですが」
雨戸を閉めた窓から、外の様子が見えるわけもないが、
そちらの方向を見やった。
ふと、ある事を思い付く。
「江流は、一人で平気でしょうか」
江流とは、4年ほど前に光明が拾ってきた捨て子の事である。
一人という言葉は、全てが正しいわけではない。
寺ということもあり、一人部屋であるのは光明や大僧正など、
それなりに位のある者である。
ほかの者はたいてい数人で1部屋を使う。
江流の場合も例外ではなく、数人で部屋を使っている。
幼い他の小坊主もおり、彼らと寝食を同じくしているのだ。
それを光明があえて『一人』といったのにはわけがある。
江流は、『川流れの江流』と妙な字で呼ばれるように、
河に流されているところを光明に助けられた。
それゆえ、河の流れる音を極端に嫌っている時期があったのだ。
昼間に人が大勢いるところでは平気のようだが、
もし、こんな夜に一人で起きているとしたら…。
光明はかけていた布団をどけると、廊下に向かって歩き出した。
「少し、様子を見てくるだけですよ」
言い訳のように独り言を言うと、彼は江流の寝ている部屋へと足を運ぶ。
スウッと障子を開き、中の様子を覗き込む。
少しの間は、真っ暗で何も見えないが、
しばらくすれば目が慣れて、部屋の中も見えてくる。
静かな寝息を立てて、ほとんどの小坊主達が深い眠りについていた。
おそらく、よっぽど大きな音を立てないと、目など覚めないだろう。
光明は苦笑すると、近くの小坊主の布団からはみ出している手足を、
元の場所へと戻してやる。
「おや…?」
光明が部屋の奥を見て見ると、
江流が寝ているはずの布団は空になっていた。
無造作に、どけられた掛け布団がしわだらけになって置かれている。
そちらに歩み寄って、布団に触れてみる。
「まだ暖かいですね」
ということは、ついさっきまでここで寝ていたという事だ。
部屋を見回してみたが、どこにもいる様子はない。
「どこに行ったんでしょう…」
(探してみますか)
光明はそう考えると、静かに障子を閉めて部屋を出ていった。
しばらく暗い廊下を歩いてみたが、人の気配がしない。
(誰かの部屋へ行っているとも思えませんし)
江流は、周りの人間から厄介者のような扱いを受けている為、
光明以外の寺の者にはほとんど心を許していなかった。
唯一例外があるとすれば朱泱くらいのものだ。
(しかし、朱泱は一度眠ると起きませんし、彼の部屋には他の僧もいたはず…)
だとしたら、江流が行くはずも無い。
(……あ)
そこまで考えて、ある事に思い当たる。
だとしたら江流が行くのは……?
(私の部屋…?)
光明は踵を返すと、自分の部屋へと足を向けた。
案の定、光明の部屋へ近付くにつれて、
誰かの嗚咽が聞こえる。
それは、必死でこらえているようにも聞こえた。
「江流?」
少し障子が開かれている。
確かめるように、自分の部屋の中へ呼びかけた。
中にいた人影は、一瞬ビクリと肩を震わせ、
こちらを振り返った。
「ここにいましたか」
安堵して、ため息をつく。
「おし…しょ…さま…っ」
江流は彼の姿を見つけると、
安心したのか、関を切ったように泣き出した。
何度も自分の手の甲で涙をぬぐうが、
次から次へとそれは溢れてくる。
「寒かったでしょう?」
光明はそう言うと、自分の布団を手繰り寄せ、江流にかけた。
「すみませんでした、江流」
少し考えれば、江流がどんな行動をとるか
分かったはずなのに。
江流は、首を大きく振りながら、何かを言おうとするが、
鳴咽でそれはかき消されてしまう。
「あ…めが…いっぱい…でっ、かわ…ながれて…みた…でっ…」
「分かっていますよ」
光明は、優しい声で彼を抱きしめた。
落ち着くように、彼の背中を軽く撫でる。
いつも、大人と同じように気丈に振る舞っている彼との違いに、
やはりまだ子どもなのだと認識させられる。
「明日には、きっと止みますから」
その小さな手が、光明の寝巻きを一生懸命つかんでいる。
光明は、それを見てクスリと笑った。
(自分の子どもがいたら、こんな感じなんでしょうかねえ)
余談だが、僧侶は女性と結婚するという事は認められてはいない。
例外として、玉女との交わりだけは高尚なるものとして許されているが。
江流から目を離し、外の音に耳を傾ける。
「江流、河は確かに怖いものかもしれません」
聞こえていなくても構わない口調で話し掛ける。
「でもね。全てのものに生命を与えるものでもあるんですよ」
「いの…ち…?」
江流は、顔を上げて光明を見やる。
「ええ」
彼は笑顔で答えた。
「木々も、大地も、動物も、魚も、勿論、私たち人間だって水が無かったら生きていけませんよ」
ねえ、と言うように光明は顔を傾ける。
「ある意味、『神様』なんです」
思い出したように彼は笑う。
江流は、そんな光明を不思議そうに見ている。
「貴方は、『神様』の子どもだったのかもしれませんね、紅流」
二人は、顔を見合わせると吹き出した。
笑っている江流を眺めながら、光明は口を開く。
「ほら、もう怖くないでしょう?」
言われて、初めて気付く。
「あ…」
江流は、まだ目に溜まっていた涙を手の甲でぬぐうと、
光明を再び見上げた。
「はい…怖くありません、御師匠様っ!」
大声を出した事に気付いて、
江流は慌てて口を抑える。
光明も、口に人差し指を当てて、
静かにするように促す。
しかし、そう言っている光明自身もさっきから笑っている。
江流はそれにつられるように、また笑い出した。
「さて、もう遅いですし、一緒に寝ましょうか?」
江流を抱えて布団へと寝かせる。
「御師匠様」
「はい?」
自分も布団へ入ろうと、少し持ち上げながら返事をする。
「俺、神様の子どもよりも、御師匠様の子どもがいいな」
一瞬、絶句する。
こんな自分の子どもがいい?
他の人間は自分を三蔵法師としてしか見ようとしない。
江流は、光明を一人の人間として認識しており、
その上で、自分が親のように言われると、なんだか照れてしまう。
「そうですか?」
「はいっ」
その返事に、光明が優しく微笑むと、江流は目を閉じた。
「…おやすみなさい、紅流」
やがて、悪夢の朝が来る。
それは、これから10年以上後の事。
再び、江流は雨が嫌になる。
あの忌まわしい記憶とともに、彼の中によみがえる。
『強くおありなさい、玄奘三蔵法師』
あの人の最期の言葉が聞こえる。
敬愛する、『父』の声が。
END
あとがき
ずっと、書きたかったのです。光明三蔵様と江流殿の話って。
でも、ネタがなくってですねえ(汗)。
いくら、あの三蔵殿でも子どもの頃であれば、少しは可愛気(笑)があっただろうと思い、書いてみました。
これのイメージとして、イラストも描いてみました。それはILLUSTRATIONの方でどうぞ。
雨というのは、恵みの雨とも言いますが、一度牙をむくと怖いものです。
でも、それは人間への警告にも思えます。
壊すだけ壊して、何かが起こっても対処しきれない、
人間とはどこまで愚かなのだろうと思う時があります。自分勝手ですよね。
自分が犯した罪も償いきれないのに、更にそこから罪を犯すのですから。
ちなみに、玉女の話は、思いっきり、某小説からの受け売りです(笑)。