真っ赤な薔薇とたくさんのお菓子






ひとつの部屋の前でチャイムを鳴らす。
何度も何度も訪れた、見慣れた扉が開くことは無かった。
けれども、その扉の向こう側に誰かが居ることは既に分かっている。
分かっていたからこそ、彼は静かに呼びかけた。
「グレイシア」
返事は無い。
彼は自嘲気味に顔を歪めた。
手にした花束はプレゼントだろうか。
ノックしようとして挙げた手の指を開き、掌をぺたりと扉にくっ付ける。
冷たい扉越しにぬくもりが伝わるはずも無かったが、
彼はこつん、と額をそれに押し付けた。
もう一度、彼のヒトの名を呼ぶ。
「グレイシア」
「…知らないわ、開けてあげない」
「あぁ、それで良いよ」
やっと返事があったことに、彼は安堵したように息を吐いた。
声が聞けただけでも良かった、まるでそう思わせる。
「どうして、なの?」
搾り出した声の問いかけは、不完全なものでも彼には理解出来た。
「俺が軍人だからだ」
「だったら辞めてしまえば良い!」
彼女は堪えきれずに叫ぶ。
一体何度この口論を繰り返しただろう。
初めてその話を聞いた時から、怖くて堪らなかった。
例え街中に居ようとも、聞こえてくる戦々恐々とした不安定な情勢。
同じ国の中での『戦争』。
安全な場所に自分が居るとして、その安全は何によって保たれているものなのか。
果たしてそれを、安全と呼んでも良いものかどうか。
彼女には難しいことは分からない。
分かっているのはたったひとつ。
彼が軍人で、闘わねばならぬ場所に居るということだけ。
だが彼は首を振った。
「今はまだ、駄目だ」
足元に視線を落とす。
手にしていた花束から、花弁がひとひら落ちた。
何も分からないまま、投げ出すことは出来なかい。
戦塵の中、闘い、傷付き、倒れていく友がある。


―――俺だけ、逃げられるかよ


笑い合った仲間が居た。
他愛も無い会話で盛り上がって、喧嘩もして、手を取り合った仲間が。
遠い彼の地での闘いに正当性など未だに見出せない。
何かがおかしい。
だが、それが何なのか分からない。
そもそも、戦争に正当性など何処にも無い。
やっていることはただの殺し合いだ。
「浮気してやるんだから」
「そりゃ困る」
扉の向こうから投げやりに言う彼女に苦笑する。
「貴方よりもうんと素敵なヒト見つけて」
「そうそう居ないぜ、こんな色男」
ぬけぬけと言う彼に、織っているわ、と零すがそれは彼の耳にまで届かない。
そんなことが言いたい訳ではなかった。
どうにかして引きとめられるものなら、とっくに彼は留まっている。
彼女は唇を噛み締めた。
「…怪我、するかもしれないわ」
「かもな」
「死んでしまうかも、しれない」
「死なない」
きっぱりと言い切った彼に、彼女は軽く目を見開く。



「死なない、絶対に」



念を押すように、彼は繰り返す。
彼女は堪らずどん、と扉を叩いた。
「分からないじゃない、そんなこと!!」
戦場で殺し殺される立場にありながら、絶対なんていう言葉はありえない。
もしかしたら、と過ぎる不安は拭えない。
手紙を出して、返事が訃報だなんて出来過ぎた冗談だ。
「嘘、吐き…っ」
彼女は口元を押さえ、その場にへたり込んだ。
「嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き!!」
いつも溢れてくる涙を拭ってくれる彼は扉の向こう。
閉ざしたのは、自分だ。
莫迦さ加減に情けなくなる。
何故、頼まれずとも待っている、とたった一言が言えないのだろう。
「ずっと傍に居るって言ったのはマース、貴方でしょう?!」
「あぁ、俺だな」
「死んでしまったら、何も残らない!」
自分の情けなさに呆れ果てて、どうせなら怒鳴ってくれた方がどんなに楽かと思う。
莫迦な女だと罵ってくれた方がずっと。



―――残るのは、貴方を愛しく想うこの気持ちだけ



軽い口調で、彼は笑う。
「だから、死なないって」
嗚咽を堪えてはいるが、彼女が泣いていることなど気付いていた。
彼も地べたに座り込み、扉に背を預ける。
「なぁ、どうしたら信じてくれる?」
心配させている。
不安にさせている。
扉越しの彼女を抱き締めることすら出来ない。
出来たとしてもそれはきっと誤魔化しだ。
だとしたら、何と言えば安心させられるのだろう。



「…約束を、頂戴」



ぽつり、と彼女は掠れる声で零した。
「絶対に帰ってくるっていう約束を頂戴」
決して霞むことの無い、絶対の約束を。
がりがりと頭を掻いて、彼は長く息を吐いた。
軽く天井を仰ぐ。
「俺、な」
懐を探り、掌よりも小さな箱を取り出した。
可愛らしくラッピングされたそれは彼の決意の表れ。



「今度の日曜にプロポーズしようって思ってた」



小箱を握り締め、廊下の電灯に翳す。
微かに翳って視界を遮る。
はは、と乾いた笑い声が静かな廊下に響いた。
「なのに召集令だろ、参ったよ」
声を、奪われたかと思った。
彼女は音を伴わない唇を戦慄かせる。
「それが、約束…?」
「うん」
「…赦さない、から」
先程までと確かに違う涙が頬を伝う。
泣きたいのでは無い。
背を向けたいのでは無い。
叶うのならば、扉を開けて抱き締めたい。
けれど、その勇気は無い。


「プレゼントが両手いっぱいの真っ赤な薔薇の花束じゃなきゃ聞いてあげないんだから」


目の前を覆い尽くし、咽返るような深い紅を。


「何なら部屋いっぱいに埋め尽くすのも良いかも?」


愛の証を形にするならまだ、足りない。


「それに角のお店のケーキとクッキーとヌガーとショコラとそれから」


甘い甘い、お菓子よりも甘いものが欲しい。


「レースとリボンで豪華に飾って貰わなきゃな」


飾るのは言葉?装い?
いいえ、もっと違うもの。


「それから、それから…っ」


本当に欲しいものは、たったひとつ。



「帰ってくるよ」



―――貴方が居れば、何も要らない



プレゼントだって要らない。
作った料理をおいしいと言ってくれる笑顔が好き。
見かけによらず、子どもっぽいところが放っておけない。
「君のところに必ず帰ってくる」
こん、と扉を叩いた。
涙が止まらない。
声を出せば、嗚咽に変わってしまうだろう。
彼女は膝に額を押し付け、顔を埋めた。


―――あぁ、どうして


「約束は、守る為にあるんだ」


―――こんなに好きになってしまったんだろう


「愛している、グレイシア」



彼が立ち上がったのが分かる。
いってきます、と呟く声と、遠ざかる足音に切なさが込み上げた。
彼は、言わせなかった。
「ずるい、わ」
自分も、愛しているのだと。



「私には言わせないままなんて、赦さないんだから」



―――どうか、無事で



今は、祈るしか出来ない。
次に彼へと愛を告げるその時を、ただ
―――…。






END



あとがき。
恋人時代のヒューズさんとグレイシアさん。
イシュヴァール戦前。




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