どんな小さな出来事も、忘れては駄目だと、
織らずに言い聞かせていた。
忘却を畏れているのだと、気付いたのはその時だった。




情けなさと悔しさと、切なさが当然の様にして襲って来る。
この螺旋階段は一体、何時まで続くのだろう。


Remind




小気味良い乾いた音が響く。
即座にもう一度。
「ってぇ!」
「何で、俺まで!?」
「喧しい!!」
「定番ですねぇ」
最初に非難の声をあげたのが、茶髪に黄金の瞳をした少年。
次に叫んだのは、紅い髪に紅い瞳の男。
ハリセン片手に眉を吊り上げているのが、金髪紫暗の瞳を持つ僧侶。
和やかに、ひとりお茶を啜っているのが緑の瞳の男。
どれ程じっと眺めていても、全く関係が分からない彼等は、
慈悲と慈愛の象徴である観世音菩薩に遣わされた者達である。
と書けば、聞こえの良いものではあるが、
御遣わしになられた仏様自体が、まぁ、ほんの少しばかり問題のある御方で。
ついでに言うと、彼等もまた、ほんの少しばかり問題がある訳で。
簡単に言ってしまえば、
後世に残る西遊記演義とほんの少しばかり違った世界なのである。
「前にも、ほら、三蔵の部屋でお菓子ばら撒いて」
苛立ちながらも椅子を引いて腰掛ける三蔵を見上げながら、八戒は口を開いた。
2つのベッドに向かい合わせで腰掛けた悟浄と悟空は、彼等を見やる。
「あぁ、あん時は俺と猿で隅々まで掃除させられたよな、三蔵様に」
面白そうに笑う悟浄に、三蔵は舌打ちをする。
眉は依然吊り上ったままだ。
「当たり前だ。ヒトの職務室を」
悟空はきょとん、と首を傾げる。
「そんなこと、あったっけ?」
「うわ、都合の良いこと。忘れたのかよ」
上から頭を抑え付けられ、必死で堪える。
悟浄を下からねめつけて、唸った。



「憶えてねぇだけだろっ!」



言葉にした瞬間の違和感。
キィン、と耳鳴りがした。
浮遊感のする感覚を押し留めるように、耳元に手を伸ばす。



―――分かんねぇ。何も憶えてないんだ



憶えている。
失われたものを、必死に手繰り寄せようとする両手の感覚。



「忘れ、た、だけ…?」



どくん、と心臓が脈を打つ。



微かに俯いた表情を覗き込む様にして、悟浄は呼びかけた。
「悟空?」
覗き込んだ瞳には、何も映っていない。
何時か見た、光を望まない瞳。
望むことを禁忌だと思っている瞳。
少年は、きっと気付いていない。
「何で、も」
ない、と言いかけて、息を呑む。
ぐるぐると、訳の分からない感情が胸の辺りで渦巻いている。
不安と、焦りと、苛立ちが同時に襲ってきた。
思いっきり叫ぶことが出来たのなら、少しはすっきりしたのかもしれない。
「どうしたんです?顔色が悪いですよ」
黙ってみていた八戒が、水差しからグラスに水を移して、
ベッドの脇まで持って来る。
手渡そうとしたグラスを受け取らず、悟空は何処かぎこちなく笑った。
「俺、その時、そこに居たんだよな」
疑問符の浮かんだ八戒の表情を認めることなく、質問を畳み掛ける。
答えを望んだ問い掛けではない。
確認するようでいて、否の答えを望んでいる様な、そんな問い。
「俺、織ってるんだよ、な?」
畏れが、どっと溢れて来る。
どろりとして、黒々とした感情が両手足を縛り付けていく。
「笑ってたっけ?怒ってたっけ?」
振り解こうとしても、余計に絡み付いてくるそれは、正しく己を絡め取るもの。
何時までも、心の奥底に残っているしこりが蔦となり、生い茂る。
何も見えなくなる。
塞がれたのは視界だけだっただろうか。
「俺、その時、如何してたっけな」
曖昧に笑みを浮かべる少年を危く思う。
「お前、ナニ言ってんの?」
わざと茶化すように口を開く悟浄。
けれどその台詞は、ただ宙に浮かぶだけだった。
不安と狼狽が入り混じった表情で、悟空は焦点の定まらない瞳を揺らす。
「如何しよう」
笑ってしまおうか。
叫んでしまおうか。
否。どれも選ぶことは出来ない。



「俺、憶えてない」



無かったことにすること自体を、彼が畏れているのだから。



何時か口にしたような台詞は、織らず、己が胸を締め付ける。
言葉にしなければどうしようもなく不安で、
けれど、口にしたところで、その不安が消えることも無かった。
八方塞とはこのことかもしれない。
「分かんねぇ。何も、本当に憶えてねぇんだ」
頭を抱え込み、膝に額を押し付ける。
冷たい金鈷の感触を、着衣の上からでも感じられた。
冷たい、枷。
忘れてはならなかったはずの、罪。
妖力制御装置である金鈷が押し留めているのは、何も、彼の妖力だけでは無い。
「忘れていくのかな。また、何もかも全部、忘れちゃうのかな」
彼の身にかつて施されていた呪は、今も尚、彼を苦しめる。
縛り付ける呪は、既に放たれているというのに。
心は、未だ彷徨い続ける。




―――呼べる名前も無くて




冷たく、重く。




「厭だよ?俺、厭だよっ!?」




見えない重圧が、圧し掛かってくる。




―――誰か、って叫んでた




手を伸ばしても触れることの出来ない、もどかしさ。
触れてはならないという、響く警鐘。




生きたいと願いながら、その実、終焉を望んでいた自分が厭でたまらなかった。
忘れてしまったのならば、もう二度と思い出さずに済むように。
もう二度と、何かを忘れずに済むように。
いつも。
いつも。




半分パニックを起こした悟空の肩を掴み、八戒は宥める。
「生きていれば、忘れることくらいあるでしょう?」
「違う!俺は…っ」
強く頭を振り、八戒の腕を反対に掴む。
彼には、痛いほどの、懸命な、怯える悟空の手を振り払うことなど出来なかった。
何と言うべきか、考えあぐねて、悟浄を見やる。
彼も如何して良いか分からず、逡巡した面持ちを見せた。
不意に、背後で低い声が響く。
「俺が」
3人は、声の主へと視線を移した。
当の本人はと言えば、こちらも向かずに、
何時の間にか広げた新聞に目を通している。
白い煙が上がっているということは、煙草を咥えているのだろう。
「五行山から連れ出してやったことを憶えているか?」
怪訝そうに眉を顰めながら、悟空はぎこちなく頷いた。
「え…うん」
とん、と手元の灰皿に灰を落とす。
ばさり、と新聞が捲られる。
「忘れてねぇんだろ?」
次の問いにも、悟空は頷く。
「う、ん」
忘れるはずが無い。
光に触れた、あの瞬間を。
心の奥底に閉じ込めようとしていた、望みを。
泣きたい衝動に駆られた、喜びを。



「なら、いいじゃねぇか」



紫煙と共に吐き出された台詞は、淡々として、
何処か、如何でも良いことのようにも聞えたけれど。



「…そっか」



たっぷりとした沈黙の後、悟空は呆けた顔でぽつりと呟いた。
解放された八戒の両腕は、立ち上がる為に己が両腿に支えとして添えられる。
彼が立ち上がると同時に少年は口を開く。
「あ」
何事かと見やれば、思い出すようにして、たどたどしく言の葉を紡ぐ。
「悟浄と菓子取り合って、両方から引っ張った?」
途端に、鮮明に浮かび上がってくる情景。


『誰が持ってきてやったと思ってんだ、この猿!!』
『土産なら俺が貰ったって構わないだろっ!』
『そーいう問題じゃねぇだろうがっ!』
『じゃあ、どーいう問題だよっっ!!』


「三蔵に思いっきり拳骨喰らったトキ?」


『テメェら…』
『でぇっ?!』
『今直ぐ、直ちに、とっとと片付けろッッ!!』
『三蔵、僕達はあっちでお茶にしましょう』


じん、と胸の奥が熱くなる。
「憶えて、た」
自然、笑みが零れた。
くすぐったそうに、微笑う。
無邪気に。
「憶えてる」
本当に、嬉しそうに微笑った。
時々、笑い方を織らないのではないかと危惧する笑みではなくて。
自然な、少年のそれで。




「俺、覚えてるんだ」




肩越しに一瞬だけ振り返ったかと思うと、三蔵は短く言い捨てた。
「気色悪い」
彼の言い様に、八戒と悟浄は破顔する。
あぁ、いつもの彼らだ、と。
そうして、この雰囲気を感じて安心するのも事実だった。






忘却は罪だと、誰かが言った。
それは、きっと痛いほど分かっている。
けれど、全てを憶えておくことは出来なくて、
やっぱり少しずつ忘れたり、曖昧になっていく。
嬉しかったこととか、厭だったこととか、途切れ途切れの記憶の中で、
ヒトは生きていくのであって、
つまるところ、それが生きていくということなのではないかと思う。
忘れたり、思い出したりを繰り返しながら、
ヒトは生きていくのだから。



忘れたら、思い出せば良い。
思い出したら、忘れれば良い。



それでも、歩き続けて行くのだから。





END



あとがき

こう、ね?
忘れることを怖がる悟空を書きたかった訳ですよ。
というか、時代モノ小説ばっかり書いていたから、
どこか言葉の使い回しがおかしい。
そこのところは生温かい目で見てやってください。



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