吹き荒れる風が、容赦無く二人を嬲って行く。
銀糸が虚空で揺らめき、光と成って鏤められた。
深い、深い夜だった。
まるで、明けることの無いような宵だった。
「如何しても、行かれるのか。父上」
殺生丸は、彼の背中へと問い掛ける。
答えは無い。
「ならば其の鉄砕牙、此の殺生丸に御渡し願いたい」
返答の無い彼の背中に、殺生丸は乞うた。
「殺生丸よ」
答えが返る代わりに、彼は問う。



「御前に、護るものは在るか」



其の問いへ何の感慨も湧かず、彼は直ぐに返す。
考える必要も無い。
其のように思わせた。



「此の殺生丸に、護るものなど在りませぬ」



瞬間、強い風が巻き起こる。
殺生丸は思わず眼を閉じた。
腕で眼前を覆えば、次に眼を開けた時には、父の姿は消えていた。
腹の中に石が残っているような感覚。
すっきりとしない、重たい感覚。
残っていたのは、ただ其れだけ。
「護る、もの」
殺生丸は、言の葉を唇に乗せる。
宙空に舞った言の葉は、感情の色も無く、漆黒の闇へと消え失せた。



父の護るべきものは、母でも、殺生丸でもなく。



ただの憐れな人間と、半妖の赤子だった。





其のことが、彼の中に怒りと悔しさを植え付けた。
あのような愚かしいものの為に、目標としていた存在を失った。
何時かは、其の手で倒し、超えたかった父を失った。
疑問は怒りとなり、歯痒い思いが未だ嘗て無い程に身体の中を駆け巡った。
母は父の最期まで涙を見せなかった。
彼らしい最期だと、笑っていた。
笑って、笑って、けれどきっと、其れは泣いていたのだろう。
涙を流さずに、泣いていたのだろう。
亡骸に触れること無く、声を聞くこと無く。
突然とも言える別れ。
彼が、己の最期を知己へ委ねたのは、
彼女に自分の最期を見せたくなかった為かもしれない。
彼女の為に闘って、死に逝く訳では無かったことに、
多少なりとも負い目が在ったのかもしれない。
其れも、今となっては織り得ぬことだ。





不意に漏れてきた匂い。
今まで、何かに護られていたように、全く分からなかった気配が浮かび上がる。
姫と幼子の住む場所に、何らかの呪か結界が張られていたのだろう。
微かな匂いを辿って、彼は空を駆けた。
「母上、母上」
幼子の声が聞える。
幼子特有の、高い声。
しゃくりあげそうに成るのを、必死で耐えているようで在った。
「母上、いぬやしゃと一緒に、遊、ぼう?」
けれど、殺生丸にとって、其れは煩わしいものでしかない。
声を押し殺して泣いている幼子の背に、自分の母が重なった。
其れが更に苛立たしかった。
ふわり、と風に乗るようにして、大地へと降り立つ。
突然現れた影に、幼子は驚いて振り返った。
涙の痕を衣の袖で擦ると、目元が紅く染まる。
見覚えの在る禁色の狩衣は、紛れも無く父の所有物だった。
「…だれ?」
幼子はゆるゆると顔を上げ、殺生丸を見上げる。
未だ瞳は潤んだままで、黄金の瞳は、微かに紅味を帯びていた。
「殺生丸様、此の小僧が?」
後ろに控えている邪見は、訝しげに主を見やる。
殺生丸が冷たく一瞥を加えると、彼は口を噤み、後方へと下がった。
「御前が、我が父の残した忌み子だな」
子どもを見るには厳しすぎる視線を投げるも、幼子は首を傾げるだけだった。
彼は無言で、手を伸ばす。
鋭い爪が幼子の頬を掠めると、一筋の紅いものが伝う。
片手が首に掛けられ、其のまま持ち上げられた。
軽く力を入れるだけで、簡単にへし折れそうな身体。
こんなものの為に、父が逝ったのかと思うと、腹立たしさが一層増した。
「いぬやしゃ、殺す、の?」
首を抑えられて苦しいのか、犬夜叉は掠れた声を絞り出す。
「御止め下され、殺生丸様!」
突如、老人の声が響いた。
気付けば、犬夜叉の首を掴んでいる腕に小さなものが飛び跳ねている。
彼もよく、見織った者だ。
「邪魔をするか、冥加」
依然、静かな瞳で冥加を見やる。
彼の熱弁にも、大した関心は抱かない。
「たった御二人の御兄弟では在りませぬか!御父上が哀しまれますぞ!!」
「兄弟!」
両の眼が見開かれ、殺生丸は声を荒げた。
弾かれたように笑い出す。
「此の卑しい半妖と、私が!」
彼は尚も笑う。
声を上げて笑う彼を見るのは初めてだ。
だが、此れは純粋な笑みではない。
ぞくり、としたものが背中を走る。
「父の知己で在る従者とは言え、無礼にも程が在る」
笑いは突然止み、非道く冷たい、渇いた視線で射抜かれた。
「殺生丸様」
冥加は言葉に詰まる。
彼に何と声をかけたら良いのか分からない。
何を言ったとしても、今はただ、彼の逆鱗に触れるだけで在ろう。
不意に、犬夜叉が漏らす。



「せっしょう、まるは、いぬやしゃのこと、きらい?」



ぴくり、と腕が震える。
次いで、其の拳が血管の浮き出るほどに強く握り締められた。
「嫌いなのでは無い」
歯噛みし、深く眉間に皺を刻む。
口調こそ淡々としていたものの、
其の面には怒りとも憎しみともつかぬ色が浮かんでいた。
「憎いのだ」
吐き捨てるようにして、彼は言う。
言を交わすことすら穢らわしいとでも言うように。
けれど、幼子は安心したように微笑んだ。



添う。
安心したように。





殺生丸は眉を僅かに顰めた。
小さく、よかった、と呟いた幼子に。
「いぬやしゃを好きなヒト、みんな、いなくなった」
たどたどしく紡がれる言の葉は、御世辞にも流暢とは言い難い。
覚えた言の葉の中から、合っているで在ろうものをひとつひとつ、
貝合わせのようにして繋いで行く。
「だから、いぬやしゃのこと、にくくていいよ」
幼子に、『憎い』という意味は分からなかった。
けれど其れが、『嫌い』よりも深い負の感情で在ることは知れた。
だからこそ安心した。
彼が自分を想っていてくれないことに。
「殺したら、せっしょうまる、うれしい?」
此の状況に似つかわしくない笑みを浮かべた幼子を見ていると、
先程とは違う苛立ちが生まれた。
死ぬことを甘受している、其のような境遇に同情した訳では決して無い。
首を掴んでいた手を離し、落とされた犬夜叉は強かに足を打つ。
「犬夜叉様は未だ此のような幼子にございます。古きより御仕えして来た此の冥加に免じて、如何か生命ばかりは」
小さな従者は懇願する。
突然、侵入してきた酸素に噎せ返っている犬夜叉に目もくれずに、
共に降りた冥加へと口を開いた。
「鉄砕牙は何処だ」
微かに、寄せられる眉根。
尤も、冥加は此の問いを予想していたはずだ。
殺生丸が欲したのは、何者にも屈せぬ強き力。
一度口を開くが音を成さず、次に紡がれた言の葉は、彼が求めた答えでは無かった。
「…御答え出来ませぬ」
くるりと彼に背を向け、犬夜叉を心配そうに見上げた。
すぅ、と殺生丸の目が細められる。
「此の私にもか」
「御父上との約束事にございますれば」
「添うして、次に仕えるのは殺生丸では無く、其の半妖という訳か」
忌々しげに吐き出すも、彼は小さな侍従の背を眺める。
頑なに口を閉ざす彼の背は、何時かの父の背に良く似ていた。
殺生丸は顔を顰める。
刀に手を掛けようにも、彼が持つのは『癒しの刀』。
他を斬り殺す刀では無い。
つい先日託された『天生牙』は彼の望んだ剣では無かった。
其れ故に、百の妖怪を薙ぎ払うという『鉄砕牙』を望んだのだ。



「『見えるが見えぬ場所。”真の墓守”は決して見ることの出来ぬ場所』」



ぽつり、と口を閉ざしていた冥加が呟いた。
「御館様より赦された言は、此れのみにございます」
手掛かりとして紡がれたのは、繰言ともつかぬ謳。
彼は其の台詞を繰り返し呟くと、ふ、と冷笑した。
「貴様に免じて、此の場はおめおめと引き下がってやろう」
踵を返し、歩き出す。
邪見は戻ってきた殺生丸へ一礼をした。
思い出したように、彼は歩みを止める。
怪訝そうな面持ちで、邪見は主を見やった。
肩越しに、顔だけを振り向かせる。
「冥加、其の童に生きる術を叩き込め。曲がりなりにも、我が父の血を受け継いでいるのだろう」
「殺生丸様」
歓喜の念を込めた眼差しを彼へと向ける。
だが、返って来たのは先刻と露程も変わらぬ冷たい瞳。
「思い違いをするな」
念を押すようにして、彼は言う。



「多少なりとも、強くなった其の時は」



途中で野垂れ死ぬような者で在れば、其れまでのこと。



「此の手で直々に息の根を止めてくれる」



兄弟の情など、最初から何処にも在りはしない。





「其れが、貴方様の答えでございますか」





冥加の呟きに、殺生丸は顔色も変えずに口を開く。
「其れ以外の真実など、何処に在ると言うのだ」
言は返って来ない。
彼は顔を戻し、再び歩みを進める。
冥加は、ぎゅ、と強く目を瞑り、ゆっくりと開いた。
其の背中を、目に焼き付けるようにして見つめる。
幼き頃から見て来たのは、何も犬夜叉だけでは無い。
「如何か、御身体御慈愛下さいませ」
御互いに、顔を合わせるのは遠い未来だと分かっていた。
彼の姿が見えなくなる迄、冥加は深く深く頭を垂れた。





―――己が為と言うので在れば、御前は何の為に己を護る



―――御前に護るものは在るか



―――其れが、貴方様の答えでございますか





其れが如何した。
何故、其のように問う。
何故、其のように問われねばならぬ。





何故、問い掛けばかりが繰り返される。





答えなど、とうの昔に出しているでは無いか。
閉じていた瞳を開き、殺生丸は眼前を見据える。
其処に何も無いことは分かっていた。
在るのはただ、漆黒の闇夜。
幾ら星が瞬こうとも、月が煌々と照ろうとも、夜の闇は明けやらぬ。
背後を見やれば、従者と連れの女童が健やかな寝息を立てて眠っている。
阿吽と呼ばれる龍染みた妖怪の片首が彼の視線に気付き、
片目だけを開けたが、直ぐに閉じた。
殺生丸は視線を戻す。
未だ残る蟠りが、胸に焼き付いている。
答えの出された問いに、何時までも囚われているのは何故か。
其れは、其の答えに自分自身が納得していないからでは無いのか。
自問自答は繰り返される。
添うして、気付く。
(私は、迷っているのか)
在り得ない筈の、己が感情に戸惑う。
だが、一度考えてしまえば、
今迄の囚われていたものが全て其の言葉に収まった。
気付いてしまった其れに、腹立たしくなる。
(あの頃から、まるで変わらぬでは無いか)
母の台詞を思い出し、苦虫を噛み潰した心地を覚えた。



―――御前は未だ、子どもだからね



違う、と内心首を振った。
(今でも未だ
―――…)
其処迄考えて、胃が鉛のように重くなる。
右手で、顔を覆った。
「殺生丸様?」
不意に覚えた、膝元の重みに殺生丸は顔を上げた。
心配そうに見上げる女童は、彼の顔を見るなり、にっこりと微笑んだ。
「良かった。殺生丸様、泣いているのかと思っちゃった」
「私が?」
相変わらず、おかしなことを言う子どもだ。
其のように思いながら、視線を投げる。
添う言えば、何時の間に起きたのだろうと訝しむ。
彼女の気配に気付かない程に、考え込んでいたのだろうか。
其のような彼の思考に気付く筈も無く、少女は尚も言の葉を紡ぐ。
此のまま放っておいても、しゃべり続けるのでは無いだろうかとすら思う。
「りんもね、寂しい時とか、哀しい時とか、いっぱい泣いちゃうもん」
「御前と同じにするな」
「うん、添うだよね」
言われて、こくりと頷く。
「殺生丸様は、強いもんね」
彼の膝に頬杖をついて見上げていたが、
何かを思い付いたようにして両の手をぱちん、と叩いた。
でもね、殺生丸様、と、りんは身を乗り出す。



「其れでも殺生丸様が泣きたい時は、りんがぎゅってしてあげる!」



思いも寄らなかった台詞に、一瞬面食らう。
言葉を無くし、何故か笑いが込み上げて来そうに成った。
「…早々と寝ろ」
「はぁい」
行儀良く返事をして、阿吽の傍へと駆け寄る。
あ、と漏らして、くるりと振り返った。
「おやすみなさい、殺生丸様」
返事は無かったものの、りんは満足げに微笑う。
月夜に浮かぶ彼の姿が儚く映ったと言ったら、笑うだろうか。
触れて、確かめたかったと言ったら、叱られるだろうか。
ただ、其の温もりが確かに其処に在ったのだと感じると、
りんは嬉しくて仕方が無かった。
其のような少女を脇に眺めながら、ふと、思う。
大切なもの、護るべきものを望まなかったのは、
母のような苦しみを背負い切れなかったからなのかもしれない。
逃げていただけなのかもしれない。
どんなに想っても、届かないものも在る。
手に入らないものも在る。
望めば、望んだだけ傷付くので在れば、
其のようなものは必要ないのだと、決め付けていたのかもしれない。
想いとは、泡沫の夢。
淡く消え行く、明け方に見る夢のようなもの。
だから望まなかった。
だから、望めなかった。
何も背負わない方が、強く成れるのだと信じていた。



護るべきものなど無い。
一度は出した答え。
其れが覆ることは、恐らく無い。
彼が傍に留め置くものは、きっと、
失うことなど決して無いという自信から来るもの。
失う筈がないから、護るので在って、
護るべきものだと思うから護るのでは無い。
他から見たら、其れ程の違いは無いのかもしれない。
けれど、彼にとっては大きく変わるものなのだ。



答えも、真実も、たった一つでは無い。



だからこそ、囚われることなど織らない。




己が信じた道を歩んで行くだけ。












後書き

《百花繚乱》殺生丸様サイドです。
あっちで丁度考えていたのが、犬ベストのタイトルと被ったので、
こっちも合わせてしまえ、と(笑)。
や、意味も丁度良かったし。
《清風明月》は囚われない心とか、そんな意味だったと。
普通、あちらが十六夜さまメインだったなら、こっちは殺母メインで行くのが対となるのですが、
あえて殺生丸様で。
オフィシャルで出ていないキャラを軸に置くのは、何か苦手と言うか。
一応、原作忠実がモットーなんで。
・・・・一応。ある程度は。
ひとり悩む殺生丸様がテーマで(笑)。
最後は殺りんで締めますともさ!