想時雨


古ぼけた井戸を覗き込み、少女が溜息をひとつ。
蔦の絡まった其れは、見るからに年代を重ねたもので、
手を掛ければきしりと鳴った。
昼間でも薄暗い井戸の底は、雰囲気からして心地良いものでは無い。
例えるならば、妖かしか悪霊の類が手薬煉を引いているような。
添うして其れは、強ち間違いでも無い。
『骨喰いの井戸』と呼ばれる其れは、
実に長い間、妖かしの亡骸を喰らって永らえている。
中に水は存在せず、放り込まれた亡骸は、何時しか姿を消すと言う。
だが、其の怨念とも言えるであろう残留思念は在り続け、
良くないものを呼び寄せる。
此の時代、然して珍しいことでも無い。
ヒトと妖かしの入り混じる、死の匂いと隣り合わせの御時世は、
乱れ始めた室町の末頃から総じて『戦国時代』と呼ばれることと成る。
織田の血を色濃く受け継いだ嫡男が、
戦上手と謳われるにはもう少しだけ暇が要るだろう。
井戸の縁に腰掛け、少女は空を仰いだ。
蒼い、空。
白い、雲。
変わらぬもの。
変わり行くもの。
当然のものである其れを、愛おしいと想うのは何故だろう。
少女
――珊瑚は、隣に立つ法師へと視線を投げた。
「…かごめちゃんも、さ」
「うん?」
シャラリ、と錫杖を鳴らし、法師は呟きを漏らす珊瑚を見やる。
有髪である其の法師は、年の頃と似つかわしくない紫の法衣を纏っていた。
其れ成りに徳を積んで与えられた物か、其れとも在る物を適当に羽織って居るだけか。
どちらとも分からなかったが、惚けた顔をしている割には、彼は結構強かだ。
「慣れないだろう山道とか、すごく懸命に付いて来てると思うんだ」
大地へと直に腰を下ろし、続ける珊瑚を見上げる。
井戸よりも幾分低い其処は、
僅かに伏せられた少女の瞳が揺れているのにも気付くことが出来た。
「犬夜叉も、多分、気付いてる。でも、かごめちゃんが何も言わないから、何も出来ない」
「あぁ」
錫杖を肩に立て掛け、静かに、相槌を打つ。
肩越しに振り返れば、
薄暗い妖かしの骨を喰らう井戸が次の獲物を待っているように、
じとりと湿気を纏い、鳴いて居た。
風の音だったのだろうが、井戸の中で響く其れは、確かに咆哮にも聞こえた。
「もどかしいって言うか、腹立たしいって言うか」
微かに地に着けた足を揺らす。
こつん、と井戸の側面にぶつかった。
「だからって、半端に優しくするのって、狡いと思う」
俯くと、自然眉根が寄せられた。
顰め面のまま、井戸の淵を強く掴む。
手の中でぎゅ、と木造りの井戸が収縮するのが分かる。
「優しくされたら、期待するだろ」
「珊瑚」
呼ばれて、彼を見やる。
「かごめちゃんが、可哀想だよ」
暫く黙った後に、弥勒は口を開いた。
面持ちに感情は殆ど見えない。
こういう顔は決まって、法師としてのお役目を果たす時。
感情に流されず、教えのままに。
「其れは、私達がかごめ様を織って居るからだ」
彼は其れに慣れているようでもあった。
添うやって生きてきたようでもあった。
時々、其れが寂しく思える。
「如何いうことさ?」
「私達は、かごめ様の仲間で、友人で、言わば身内のようなもの」
咎めるでもなく、諭すでもなく、ただ静かに。
昔語りでもするように、ゆっくりと。
「笑って居る所も、泣いて居る所も見て居るから、其のように思う」
錫錠が、高く鳴った。
「若し、逆だったら如何思う?」
彼の質問の意図が読めなかったのだろう。
首をかしげて問い返す。
「逆?」
弥勒は言い方を変えて、重ねて問うた。
「桔梗様と、かごめ様が逆で在ったら」
珊瑚の目が一瞬、見開かれるのが分かった。
揺れたのが分かった。
「私達の仲間が桔梗様で、かごめ様が甦った巫女で在ったなら」
続ける弥勒に、何か言い返そうと口を開くが、
珊瑚の口元は音を持たずに動くだけで、言の葉にまで行き着かない。
「添うしたら、今度は桔梗様を憐れに思うのでは無いか?」
ぎゅ、と目を瞑り、勢い良く立ち上がる。
頭を大きく左右に振った。
「其んなの関係無い!あたしはかごめちゃんだから、好きに成ったし、仲間だと思う。第一、あたしが出会ったのはかごめちゃんだよ」
ほんの一瞬だけ、添うかもしれないと思ってしまった自分が嫌だった。
だから、打ち消すように大声を出した。
何もかも、彼には見通されている気がしたけれども。
次いで、漏らされる苦笑。
「其の通りだ」
恐る恐る
――と言うのが相応しかったように思う――目を開き、珊瑚は目前の弥勒を見つめる。
「過去に在ったことに『若しも』は無い。我々はかごめ様と出会い、仲間に成った」
錫錠を支えに、法師が立ち上がった。
黒染めの衣がしゅるりと鳴る。
「だったら、何で添ういうこと」
戸惑いを隠せずに、俯く。
不意に、伸ばされる腕。
「添ういうことも在ったかもしれない、と憶えておいて欲しかったのだ」
次の瞬間には、彼の腕の中へと誘われていた。
抗うことも忘れ、身を任せる。
「別に、桔梗様の肩を持つ訳では無いが、哀しみ、苦しんでいるのはかごめ様だけでは無かろう」
梳かれる髪が心地良い。
通る低い声が安心する。
「御前は、優し過ぎるから」
沈黙は肯定。
彼が言わんとしていることが分かったから、珊瑚は口を噤んだ。
「時折、周りが見えなくなる」
心のままに。
添うありたいと思っていても、ままならないこともある。
添うした時に、後悔することもある。
「御前には、犬夜叉も、かごめ様も居る。雲母や、七宝も」
本当は、珊瑚とて理解しているのだ。
頭が理解していても、心が理解しきれない。
だからこそ。




「私だって、居る」




他の誰かが、仲間や大切なヒトが居ることにどれだけ救われているか。




「私、は」




想われていることに、どれ程救われているか。




珊瑚の声を遮り、或いは聞こえなかったのかもしれないが、弥勒は言の葉を紡ぐ。
「なぁ、珊瑚」
珊瑚の瞳は、暫く宙を彷徨った後、ようやっと彼へと向けられた。
見上げる彼の視線は此方には向いていない。
「もう少し私に、心配でも迷惑でも掛けてくれないか」
其の方が彼らしいと思えるようになったのは、何時からだったろう。
本気になればなる程、茶化してはぐらかす癖に気付いたのは何時だったろう。
「確かに、頼りに成らんかもしれん」
彼のふとした瞬間に見せる悲しげな瞳に、
たまらなく惹かれてしまっている自分に気付いたのは何時だったろうか。
「其れでも、御前の背中を支えておく位は出来るだろう?」
幾度も想う。
幾度も、惹かれる。
彼の弱さに。彼の強さに。
「…莫迦だなぁ、法師様は」
珊瑚はくすくすと微笑い、彼の背中に腕を回した。
「とっくに、支えてくれて居るのにさ」
紅くなった顔が見られないように、彼の胸に顔を埋める。
「添う、か」
穏やかに微笑むと、少しだけ彼女を抱きしめる腕を強くした。














あとがき
実は一ヶ月以上前から書きかけていたブツです(爆)。
否、実際には暑中見舞い小説の没ネタだったんで、去年の夏頃か…ら…。
…救えねぇ。
この二人書くときは静かにのんびりが好きです。


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