Strength





「武王、御子が出来ました」



それは突然の出来事だった
書簡を持ってきた邑姜は、いつも通りの声音で簡単にそう告げた。
手に持っていたそれを置くと、武王が目を通し終わった書簡を持って、
部屋を出ようとする。
「…ちょ、ちょっと待てッ!邑姜!!」
呆気に取られていた彼であるが、正気に戻ったらしく、
邑姜を呼び止めた。
「はい、何でしょう?」
振り向いて、姿勢を正す。
彼女の動きには無駄がなく、
見ていて、不快感を感じるものではない。
歩き方も、身のこなし方も、申し分のないほどに優雅である。
「今…なんて?」
「ですから」
一度目を閉じ、武王に先ほどと同じように告げる。
「御子が出来ました、と申し上げたのです。」
持っていた筆を硯に置き、書簡を脇にどける。
額に手を当て、考え込むようなしぐさをした。
「…誰がだ?」
「私がです」
「誰の子を?」
「貴方です」
しばらく沈黙が続く。
用事が終わったと判断したのか、
再度、邑姜は武王に背を向け部屋を出ようとした。
「だから、ちょっと待てって!」
「まだ、御用がございますか?」
呆れるようにため息をつき、邑姜は肩越しに振り返る。
先ほどまで響いていた、彼女の靴の音が同時に止まった。
武王は椅子から離れ、邑姜の側へ歩み寄る。
邑姜より背が高い為、彼女は彼を見上げた。
呼吸を整えると、武王は口を開く。
「邑姜、お前を正室へ迎えたい」
「え?」
ぽかんと、彼を見上げる邑姜に武王は苦笑する。
「嫁に来いって言ったんだよ」
「はぁ」
考えてみれば、最近ようやく国も落ち着いてきて、
正室や側室を迎えてもおかしくない状況であった。
ただ、邑姜は周公旦達とそのような話を、執務的に話すだけであって、
自分にはあまり関係のない事だと感じていた。
国を治めるとなれば、世継ぎが必要となる。
それには、一個人の感情はあまり用いられるものではない。
「しかし、私には政治の仕事がありますし」
「やらなくていい。この国も落ち着いてきた。あとは旦に任せておけばいいさ」
邑姜の顔を見やれば、何やら釈然としない面持ちである。
「邑姜?」



「嫌です」



発せられたのは、拒否の言葉。
武王は、驚いた顔で彼女を見つめた。
「世継ぎの事がございますから、正室には入ります。でも、私はもっと世の中を知りたいのです」
持っていた書簡を、胸できつく抱きしめる。
その手はかすかに震えているように見えた。
人が大勢いるにも関わらず、この部屋は、別の空間のように静かだ。
「それは、俺が…」
「殷の朱妃は、剣を持ち王と共に戦ったと聞きます。私は、飾りではいたくありません。私も、貴方と共に」
真っ直ぐに、武王を見据える。
その瞳の光は、強さを秘めていた。
彼女は強い、だが、誰かに頼る事を知らないのではないか。
そう感じる事も少なくなかった。
凛とした態度で、自分よりも遥かに年上の大臣達と対等に張り合える。
そして、彼らも彼女を認めている。
見ていて頼もしい限りではあったが、同時に心配でもあった。
しかし、邑姜の気持ちは違っていた。
信頼しているから、強くいられたのだ。
ただそばにいるだけの、守られているだけの王妃ではいたくない。
外で何が起こっているのかも分からないまま、
安穏と暮らしているなど、彼女には我慢ならない。
だから、彼女なりの言葉で。



「私も、貴方と共に戦いたいから」




武王は、すぐに返事をする事が出来なかった。
彼女の言葉を反芻して、次の言葉を見つけようとする。
しかし、何も見つからない。
彼は、あきらめたように両手を挙げて苦笑した。
「分かった、俺の負けだよ。邑姜、お前は今まで通り働いてくれ」
「ありがとうございます」
武王に向かって、優しく微笑む彼女を見ていると、
この先も彼女にかなわないのではないだろうかとさえ、考えてしまう。
「だがな、邑姜」
「はい?」
「共に戦うという事は、共に助け合うという事だ。たった一人では戦えない。たった一人で戦ったって意味がないんだ。だからさ…。」
いつもとは違い、真剣な話を始めた武王に、邑姜は不思議そうな表情を浮かべた。
「も少し、俺を頼ってくれてもいいんじゃねえか?」
邑姜は、思わず吹き出してしまった。
その言葉が、あまりに子ども染みていて、可愛く感じた。
口を抑えていたが、それでも耐えられず、声を上げて笑ってしまう。
邑姜が何故笑い出したのか分からないのか、武王は真っ赤な顔で反論した。
「何、笑ってるんだよ?」
「い、いえ」
涙を拭いながら、邑姜は武王に向かい合った。
「武王。私は貴方を頼りないなんて思っていませんよ」
その言葉に、武王は一瞬動きが止まる。
「失礼致します」
にこ、と笑って邑姜は部屋を出た。
彼は、今度は呼び止める事をしなかった。





慌しく、周公旦が邑姜の部屋の前で声を上げる。
「邑姜様、武王が!!」
邑姜は、自分に『様』など要らないと言ったのだが、
王以外の人間がそう呼ばなければ、民に示しがつかないと言って、
それを放棄した。
確かに、それももっともな話ではあるが。
部屋の中から、何度か音がしてその扉が開かれる。
その傍には武王と邑姜の子ども、ヨウがいた。
1歳ほどになるであろう、その子どもは武王の面影を持っている。
少年を抱き上げ、邑姜は周公旦を見やった。
「周公旦様、貴方がこちらへいらっしゃるなんて。一体何があったのですか?」
慌てている彼とは反対に、落ち着いて口を開く。
彼の慌てる事など、全く見た事がなかった邑姜は怪訝に思った。
ただ、分かっていたのはよっぽどのことがあったということだけ。
周公旦は言いにくそうに口を開いた。
「武王の容体が…悪化しました」
「武王の…?」
一瞬、何かで頭を強く打たれたような衝撃にかられる。
その様子を見て取ったのか、ヨウは心配そうな顔を邑姜に向けた。
「…大丈夫ですよ、ヨウ」
優しく抱きしめて微笑むが、周公旦から見れば、
邑姜が自分に言い聞かせているようでならなかった。





「失礼します、邑姜様がお出でになられました」
臣下が恭しく、寝台に横たわっている武王に頭を下げる。
その周囲には、武王が信頼している臣下や友人達が集まっていた。
邑姜は、ヨウを抱いたまま武王に近付く。
彼女に道をあけるように、人間が避けていった。
「武王」
ヨウを降ろし、膝をついて彼の名を呼ぶ。
彼は、静かに瞼をあげると顔を邑姜へと傾けた。
「邑姜か」
「はい」
「俺は、もうすぐ死ぬのか」
もう一度瞳を閉じる。
邑姜は武王の伸ばした手を握ると、同じように目を閉じた。
「……はい」
その肯定の返事に、部屋にいた人間は目をむく。
周公旦以外は、である。
普通ならば、『何を言っているのです』とでも言うだろうから。
だが、邑姜は違った。
「そうか」
武王はおかしそうに笑う。
「相変わらずだな、お前は」
「それは貴方もですよ、武王」
くすりと微笑む。
二人の和やかな雰囲気に、緊迫していた雰囲気がやわらいでしまう。
本当に今際の際の風景なのだろうか。
ふと、武王は怪訝な顔を向ける。
「お前は、泣かないのか?」
周りを見回せば、目に涙を浮かべているものも少なくない。
隠そうとしているが、彼には分かっていたようだ。
「貴方が、笑っている私の方が良いと言ったのではありませんか」
呆れたように嘆息する邑姜に、武王は苦笑した。
「そうだったな」
「そうですよ。だから、私は笑っているんです。例え、貴方が死んだって」
ふと、脇を見るとヨウが武王を覗き見ている。
邑姜に握られている手と反対の手をヨウに伸ばす。
「ヨウ」
おそるおそる、その手に触れるヨウ。
いつか抱き上げてくれたその手は、驚くほどやせてしまっていた。
ヨウは、まだ死というものを理解できないだろう。
それもまた、不憫に思えてならなかった。
「邑姜、ヨウは任せたぞ」
「はい」
「無理するんじゃねえぞ」
「分かっています」
これが最期だと言わんばかりに、次々と言葉が出てくる。
周公旦は、見かねて後ろから口を開く。
「兄様、これ以上は御体に」
そこまで言うと、邑姜に手で制された。
周公旦は、彼女の横顔を見、一礼して後ろに下がる。
言いたい事が言えず、死んでいくのは未練が残るものだ。
それを邑姜は悟っていたのだろう。
だから、武王の言葉を制限しようとしなかった。
一番つらいのは彼女なのだ。
しかし、一番気丈にふるっているのも彼女である。
「邑姜」
「何でしょう?」
彼女が返事をすると、握られていた手を邑姜の頬に伸ばす。
ビクリと、邑姜の顔が強張った。



「…愛してる」



初めて聞いた時のような気がした。
今まで何度も聞いた言葉なのに。
頬に伸ばされた手を両手でそっと触れた。



「私も」



もうすぐだと感じていた。
それなら今までの中で、一番の微笑みで。



一番綺麗な自分で。



「愛しています、武王」



その言葉を聞いて、武王は満足そうに微笑んだ。
それが、武王の最期だった。
ちらほらと、すすり泣く声が聞こえてくる。
ヨウは何が起こったのか分からず、きょろきょろと辺りを見回す。
全く動こうとしない邑姜のそばにより、周公旦が声をかけた。
「邑姜様」
そして、驚いた。
彼女は笑っていた。
武王の寝顔のように安らかな死に顔を見つめながら。
その両目からは、涙が溢れているにも関わらず。
ぽたぽたと、寝台の布に滴が染み込んでいく。
「邑姜様…」
彼は、今までで一番強い彼女を見た気がした。





『邑姜』
そう呼ぶあの人の声が、今でも聞こえてきそうな気がして、
邑姜は静かに目を閉じた。
いつでも返事が出来るように。





END


あとがき

邑姜殿と武王殿の話は、思い付かないと思っていたんですけど、見事に思い付きましたねえ。
どうやって終わらせようか、最後まで迷いました。
本当は、調べてから書こうと思ったのですよ。
邑姜殿が正室にいたかどうかとか。
結局調べる暇が無かったので、適当に書いてしまいました。
言い訳ですが、邑姜殿は笑っていると言っただけで、泣かないとは言っていないです(笑)。
屁理屈ですけれどね。