淡やかに揺るる在りし日の






出仕を終え、早々に帰路に着いた稀代の大陰陽師と謳われる安倍晴明は、
屋敷の門を潜るなり盛大な悲鳴と賑やかしい足音に出迎えられた。
若く麗しい整った顔立ちをした彼は、
やれやれと呆れた様子を見せながらも何処か楽しげだ。
「晴明っさ、ま
――――っっ!!」
奥から走り出して来るのは愛らしい少女で、其の瞳は潤み今にも泣き出しそうに成っている。
はしたないと分かっては居るのだろうが、
少女は堪え切れずに帰宅した晴明にがっしとしがみ付いた。
「ただいま、若菜。今日は一体どうしたんだい?」
「きょっ、今日はですね、小鬼達が私が繕い物をしている傍から糸や針や着物を積み重ねて行くのですっ」
其れは手伝ってくれて居たのではないだろうか。
かこん、と頭の上から杏でも降ってきたような感覚で晴明は添うかと若菜の背を撫でてやるが、
其の肩は震えていて、薄らと目の端に涙を浮かべているのを少女は見逃さなかった。
此方は必死なのにあんまりだ。
「晴明さまは若菜が怖い目に合っても平気なのだわ」
「其んなことは無い」
「いいえ、有ります」
「有りません」
「有るんですっ」
ぷぅっと子どものように頬を膨らませ、若菜は晴明にくるりと背を向けた。
…のが悪かった。
如何やら彼女の見鬼の才は目の前の大陰陽師すらも凌ぐほどの強さらしく、
だからと言って調伏だの封滅だのを出来る陰陽師では無いのだから、
言ってしまえばただ鬼が見えるだけのごくごく普通の常人なのだ。
まあ其んな訳で在るのだから目の前に、
然もようやっと住み慣れた我が家の柱にみっしりと葡萄の実が生るが如く人畜無害な雑鬼や妖かしが鈴生りに成っていれば、
悲鳴のひとつも上げるという訳で。
―――…ッッッ」
現実には悲鳴のひとつも上げることも出来ずに、
若菜はぷつりと糸が切れた全身から力が抜けて行くのを他人事のように思いながら意識を手放すしか無かった。
恐らくは此れも日常茶飯事なのだろう、晴明は寸分違わず伴侶の背に腕を伸ばして抱き留める。
添うして目の前で面白そうに笑っている妖かし達をこら、と目で諌めた。
「お前達、若菜が怖がるのが面白いのは非常に分かるが悪戯もほどほどにしておくれ」
少しばかり聞き捨てならない台詞が聴こえないでも無かったが、
此処は狐の子、後にはたぬきとも言われる男が言うのだから捨て置いて欲しい。
「だってなぁ」
「面白いもんなぁ」
「俺達なーんもしてないのに」
「見ただけで悲鳴あげるんだぜ」
「ひとりでつまんないだろーから、折角遊んでやってるのに」
「でも面白いよな」
「なぁ」
此れでは会話の悪循環が始まりそうだ。
よいせ、と晴明は真っ青な顔で気を失ってしまった若菜を抱き上げ、
自室へと足を向ける。
足元に纏わり付いて来る妖かし達はもう寝る時間か、遊ばないのかと口々に騒いでいる。
職業上、其れが無くとも彼の類稀なる才能上、
悪意が有る無しに関わらず異形のものを惹き寄せる自覚は在った。
だからこそ彼は何も望まなかった。
若菜は晴明に自分のことなど如何でも良いのだと言ったけれど、
初めて少女から御簾越しに掛けられた声がどれ程彼を救ったのか、
きっと少女は知らないのだろう。
花が綻ぶように微笑う若菜は晴明の光だ。
愛らしいと想う、狂おしい程に愛おしいと想う。
珍しく穏やかな表情をしていた彼に気付いたのか、
妖かし達は一瞬静かに成り次の瞬間一斉にさざめき合った。
珍しく、と形容している辺り、普段どれだけ彼が胡散臭いのかを物語っている。
「今、晴明が笑ってたぞ」
「うん、見た見た」
「でも若菜と一緒に居るときはあんな顔だぞ」
「晴明もヒトの子だったんだなぁ」
「晴明、そいつに惚れてるんだ」
「惚れてる惚れてるー」
やいやい言い出す妖かしに彼は事も無げに肯定する。
「あぁそうだねぇ、惚れてるねぇ」
くつくつと笑いながら廊下を行く晴明は本当に穏やかだ。
若菜の長い黒髪が動く度に光を宿して揺れる。
本来人付き合いと言うものが苦手な性分である晴明は、
常々家に篭って仕事が出来たらと無精者のようなことを考える。
どうせなら生まれ持った特異な能力を最大限に利用して、
早々に偉くなって誰も文句が言えないような権力を持ってしまおうかと、
前向きなんだか後ろ向きなんだか分からないことも最近考え始めている。
添うすれば伴侶と共に過ごす時間も増えるし、
寂しい想いをさせることも無い。
其んなことを言えば『若菜は寂しいと想ったことなんてありません』と言い切られてしまうような気がして、
思わず晴明は口元を緩ませる。
其れはきっと自惚れでは無くて、
彼女を知る者なら誰でも思い浮かべられる程真実に近きもの。
ふたりも楽しいが、そろそろ家族が増えても良いなと思っていた晴明に、
妖かしが添う言えば、と思い出したように口を開いた。
「若菜の腹にやや子が居るぞ」
何でもない世間話をするように、あぁ居るよなと他の妖かしも合いの手を打つ。
まさか陰陽師である晴明が気付くよりも先に妖かしに教えられるなど屈辱だと言いたいところだが、
其んな細かいことを気にする彼では無い。
寧ろ、何処かで気付いていながら無意識に気付かないふりをしていたのかもしれない。
彼らの物言いだと如何やら若菜は気付いていないらしい。
さて、いつ気付くのかと黙っているのも一興、
教えて驚いた顔を見るのも一興。
もう直ぐ訪れるであろう遠くない未来を思い浮かべ、
晴明は込み上げる想いを何と名付ければ良いのか考えあぐねていた。










あとがき。
最初に思いついたのがコレかよ。
ジジ世代万歳!




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