―――そうね、三週間くらい


貴女はそう言った後、微かに頬を染めて微笑んだ。






籠の扉は開かれたままに







いつからだったろう。
世間知らずの常識知らずだったはずの少女が、
素晴らしい御婦人だと評されるようになったのは。
「ねぇ、あなた。今度の晩餐会までにはウィリアムも歩けるようになるかもしれないわね」
「気の早い話だな」
「あら、気の早いのはあなたの専売特許だと思っていたのに」
くすくすと口元に手を当てて微笑う。
その膝に抱かれている息子は、母を見て嬉しそうに頬を緩めた。
着実に、確実に歩んでいる上流貴族の道を嬉しく思うはずであるのに、
何故こんなにも不安が募る。
リチャードは微かな違和感に眉を顰めた。
「どうしたの?」
かと言って、不思議そうに首を傾げるオーレリアに、
尋ねることすら分からずに尋ねることは出来なかった。
招待状が折り重なったテーブルを眺め、
何でもないのだと首を振った。

増えていく晩餐会。
昇っていく社交界での地位。
囁かれる羨望と嘲り。
お互いがお互いに足を引っ張り合おうと、
表で笑みを浮かべながら、裏では腹の裡を探り合う。
地位に固執する者もあれば、
それを手放し没落していく者。
誰が望んだ訳でもなく、誰が望まなかった訳でもない。
いつでも微笑を湛えているオーレリアが、
貼り付けたような笑みしか浮かべなくなったのはいつからだったか。
気付いていないはずは無かった。
踊りも刺繍も苦手だと言っていた彼女が、
嬉しそうに令嬢らしからぬ趣味を語っていたのが、
酷く遠い過去に思えた。
ひとつも不平も不満も漏らさず、
自分の体が、心が壊れていくことすら省みず、
ただ、リチャードの出世を望み、支えていたオーレリア。
どうしてもっと早く、手放してやれなかったのか。
どうしてもっと早く、あの場から遠ざけてやれなかったのか。
翼を持っていた彼女が鳥籠の中で、
生きていけるはずなどなかったというのに。


「私、肺なんて悪くないわ」
「いいや、肺が悪いんだ」


彼女を護る術など、疾うに織っていた。
選べなかったのは彼の弱さ。
彼女への恋情。
深い、思慕。


―――傍に居て、欲しかった


大切で、大事で、愛おしいから。
あの頃のように、微笑っていて欲しいから。


「すまない」


リチャードは、どうして謝るのと首を傾げるオーレリアを抱き締めることしか出来なかった。






彼に地位を捨て、共に来て欲しいとは言えなかった。
かと言って、それ以上彼の場所に居ることは出来なかった。
彼が、彼女を護る為に選んだ道を、どうして拒むことが出来ようか。
リチャードが変わらず愛していてくれることが分かったからこそ、
オーレリアは彼の傍を離れることが出来た。
恋しさに負けそうな夜には星の瞬く空を見上げる。
彼も何処かでこの空を見ているのだと想うと、
不思議と寂しさは感じなかった。
時折、手紙を出してみれば、
ぶっきらぼうな文章の手紙が返ってくる。
礼状や、招待状であればそれはもう流暢な美辞麗句を並べ立てるくせに、
こういう手紙は変に不器用なのだと、初めて織った一面もあった。




ぱちん、と暖炉の火が爆ぜる。
「オーレリア」
昔よりも幾分か歳嵩の声になったのだなと思うと、何だか可笑しくなった。
「少しだけ昔を思い出してたのよ、ミスター・ジョーンズ」
椅子に掛けているリチャードを見上げ、
わざと昔のように呼んでみる。
ふい、と顔を背けたのは照れ隠しだろうか。
ねぇあなた、呼びかける彼女に、瞳だけを動かした。
「今度は、もう少し素敵な手紙が欲しいわ。詩なんて添えられていると嬉しいわね」
「……ゲーテやハイネか?」
「私、マザーグースも好きよ。でもね、それも素敵だけど、貴方の詠んだ詩が欲しいの」
「詩は、苦手だ」
「織っているわ」
益々、顰め面を濃くした夫に、
彼女は面白そうに、嬉しそうに微笑んだ。
あの頃と変わらぬ、少女のようなオーレリアに、
織らずリチャードは目を細めた。


出会った瞬間に恋に落ちた。
出会う度に恋焦がれた。

そうしてこれからも、
私はあなたに恋をするのでしょう。







END







あとがき。

この時代にマザーグースとかハイネとかゲーテとか既に居たのだろうか(オイ)。
居る気がしないでもないけども。



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