必死に伸ばしても届かない腕。


―――シリウス!シリウス!!

―――駄目だ、ハリー!!


あの時、僕を抑え付ける両腕が震えていたことすら気付けないほどに、
僕は、やっぱり自分のことしか考えて無かったんだ。


彼が死んだと言うのなら。
彼が殺されたと言うのなら。



それはきっと、僕の所為だ。

僕が、殺したんだ。



  うつ







晴れている。
空は蒼く澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れる。
風もあたたかい。
夏休みはもうすぐそこだ。
中庭の芝生には生徒が座り、談笑している。
時折、自分のことが載った新聞を高らかに見せ付ける者もいたが、
気にもならなかった。
見てはならないと思った。
自然、早足になって中庭を横切る。
風が額を撫で、稲妻のような傷跡が前髪を払いのけて見え隠れする。
魔法界ではその名を知らぬ者の無い、
ハリー・ポッターという少年の証。
あたたかな日差しも、風も、戻ってきた和やかな学校の雰囲気も、
何もかもが夢のようで、けれど何もかもが現実だった。
何が現実なのかと考える必要すらなく、事実は否が応にも四六時中付きまとう。
足音が耳障りだ。
耳の傍を抜けていく風が鬱陶しい。
―――…っ」
考えるな、考えては駄目だ。
違うことを考えようとしても、浮かぶもの。
振り切れるはずの無いもの。



声。

―――まだ、覚えてる



顔。

―――大丈夫、思い出せる



心。

―――忘れるはずが、無い






では、その姿は何処にあるのか。







不意に、立ち止まる。
足がメデューサに石にされたかのように動かない。
重たく、引きずることも出来ない。
すぅ、と影がすれ違う。
弾かれたように、ハリーは振り返った。





『どうした、ハリー?そんな顔して』





気付けば、大人の癖に、子どものような笑みを浮かべる男が立っていた。
「…シ」
眼鏡の奥の目を大きく見開き、彼を呼ぼうと口を開く。
だが、それは叶わない。
名を紡ごうとした瞬間に、その姿は立ち消え、向こうの風景が広がるだけだった。
幻覚であったと気付くまで、どれだけの時間が必要だったろうか。
声が声にならず、喉の奥で潰される。
溢れてくるものを無理矢理に抑え付け、ハリーは踵を返した。
歩いていては振り切れない。
ヒトにぶつかるのも構わず、彼は走り出した。





心が否定していても、頭の何処かで理解している。




部屋に戻るとすぐに、
ベッドの上にトランクからも鞄からも中身をばらまいた。
焦ったようにして、全ての荷物をひっくり返す。
「…あっ、た」
ひとつの鏡を取り出し、安堵してため息を吐いた。
逸る鼓動を抑え、呼吸を整える。
ズレた眼鏡を指で戻す。
新学期が始まる前に、彼に手渡された鏡を覗き込んだ。
何処にいても、片方を持っていれば、会話をすることが出来る呪物。
ハリーは静かに、彼を呼んだ。
「『シリウス・ブラック』」
鏡の向こうには、天井と自分が映るだけで、他には何も見えない。
何とも言えない、否、何の色も浮かべてはいない自分の顔が目に入った。
その鏡にはもうひとつ、条件がある。






持っている相手が
―――生きてさえ、いれば。





「『シリウス・ブラック』」





もう一度、呼ぶ。





「『シリウス・ブラック』」





もう一度。
否、何度も、繰り返し。
けれど、映るものに変わりは無い。
何も、誰も映らない。
抑え付けていたものが、押し寄せた。



「なん、で…っ」



己の短慮さが、浅はかさが身に染みる。
一体、周りの人間がどれだけ自分に警告していた。
警鐘をどれだけ鳴らしていた。
聞き入れようともせず、自分の不幸を嘆くばかりで、
それをヒトに当り散らすばかりで。
挙句、大切なヒトを失った。
彼らの言葉を素直に受け入れていたのなら、
こんなことにはならなかったはずなのに。
回避できる事象を、自ら引き起こした。
自分には、彼を想って泣く資格などあるのだろうか。
「ごめ、な…さ…っ」
ベッドの上に蹲り、身を丸くする。
握り締めたシーツが波を打つ。
「ごめん、なさ、い」
謝って、赦されるものか。
渦巻く思いが圧し掛かる。
取り返しのつかないこと。
一番恐れていたこと。
決して、繰り返してはならなかったこと。
嗚咽ともつかぬ声を漏らし、ハリーはシーツの海に顔を埋めた。




いっそ泣いてしまえたら、どんなに楽になるだろう。
いっそ叫んでしまえたら、どんなに軽くなるだろう。
そうすることも全て、意味の無いものに思えた。





だから、貴方を想って泣くことも出来なかったんだ。





END





あとがき。
暗い。
ホントは漫画にしようと思ったんですよ。
シリウスの声が聞こえて振り返る瞬間の間とか、描きたかったんですよ。
時間がな?足りなくて、な?(爆)
五巻ラストで、ロン達と別れた後付近。

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