Water Surface


水面に映るは、永遠なる空。
流れ行く雲は、永遠にはあらず。
だが。
空の蒼も、永遠にはあらず。

気付きし者は、どれほどだろうか。

膝をつき、
揺らめく水面に、観世音は手を伸ばす。

「…冷てぇな」

波紋が広がり、空が揺れた。
皮肉気に歪められた口元は、誰へのものか。

蓮の花が一面に広がる池。
神殿の造りの特徴なのか、紅い柱に白い壁。
吹き抜けの天井は、蒼い空をどこまでも映し出す。
風が吹き、それを肌に感じた。
池に向かって一つの椅子が置いてある。
腰掛けているのは。

「なぁ。ナタク」

未だ500年前の時を彷徨い続ける、幼き魂。

「お前は、感じることが出来るか?」

屈んだままの体制。
水を両手ですくって、ナタクの前に差し出す。
ポタポタと、指の隙間から水滴が落ち、

無くなる。

「変わらぬものなど無いと言うのに…」

何も無い、濡れた手のひらをじっと見つめる。

「お前はいつまで待ち続ける?」

太陽の光に反射して、光を帯びる手のひら。

「そうやって」

立ち上がり、ナタクの腰掛ける椅子の背もたれへ寄りかかる。

「変わらぬ姿で」

静かに、
目を閉じる。

聞こえているのか、いないのか。
紫暗の瞳は、虚ろに水面を映すだけ。
その瞳に、光は無い。
確かに、時は流れていると言うのに。

「ナタク」

彼の名を呼び、伏せ目がちに目を開く。

「やはりこちらにおいででしたか」

聞きなれた側近の声に、観世音は顔を上げた。

「二郎神、か」

そう呼ばれた男は、
軍人のように、甲冑を身に纏っている。
初老の、いかにも堅物な人物に見えた。

「書類が、机の上で山になっていますよ」

ため息と共に吐かれる台詞。
だが、咎める様子はなかった。
観世音が仕事をしないことなど、百も承知。
気まぐれであることも、長い付き合いから知っている。
やろうと思えば、すぐに処理できてしまう仕事でも。
気が向かなければ、観世音は動こうとしない。

「らしいな」

面白そうに笑う観世音を見て、また一つため息を吐く。
椅子の背もたれに、後ろから寄りかかったまま、
観世音は池へと視線を戻す。

「二郎神」

彼に呼びかけた。

「はい?」

何故呼ばれたのか分からず、返事をする。
クスリ、と笑みを浮かべると、観世音は、こう、切り出した。

「昔話をしてやろうか」

「昔話…と言いますと?」

「なぁに」

クッと微笑し、口の端が持ち上げられた。

「ほんの、500年前の話さ…」

見上げるように空を仰ぎ、
観世音は風を感じて目を閉じた。



手を上げて、扉を叩こうとする。
しかし、直前でその手は止まり、
ぎゅ、と強く握られた。
少し俯き、その手を見つめる。
もう一度扉を叩こうとした。

「入れよ」

少年は、突然頭上から降ってきた声に、肩を揺らした。
陰った視界をめぐらせれば、自分を見下ろす者に気付く。
面白そうに眺めるその人物に嘆息した。
男とも女とも取れる、その美貌は、どこか子どもっぽく見える。

「…いるんなら、そう言って下さい」

その台詞に目を細め、
観世音は口の端を吊り上げた。

「いる」

再びため息をつき、頭を抱える。
やっているうちに、観世音は扉を開き、中に入るよう促した。
「失礼いたします」
少年は、恭しく一礼した。
彼の様子に、観世音は机の上に腰掛けながら、笑う。
「堅苦しいしゃべり方すんなよ」
彼が、どんな話し方をするかよく知っている。
実際に直接会ったのは、今、ここでだが。
噂くらいは聞き知っていたようだ。
「で、俺に何の用だ」
どこか、悪戯でもする子どものような表情で、観世音は問う。


「『闘神ナタク太子』?」


「…俺を誰か知っていたんだな」
呆れるように評すと、表情を子どものそれへと戻す。
大人びた表情は、他人を遠ざけるためのもの。
他人から干渉されないためのもの。


「『観世音菩薩』サマ?」


口調を真似て、わざとらしく敬称で呼ぶ。
ふ、と表情を崩し、観世音は笑った。
「俺にそんな口きくのはアイツらだけかと思ってたぜ」
扉の前で立ち止まったまま、ナタクは口を開いた。
「…悟空…たち、か?」
観世音が、どんな者たちと付き合いがあるかなど、
この天界ではよく知られている。
反対に言えば、
名を持つ神のことを知らぬ者などいないということだ。
『名(メイ)』は『命(メイ)』。
名とは、即ち、持ち合わせている『力』を表す。
それだけの知名度もあるのだ。
観世音にしても、ナタクにしても。
前者に対しては、名だけでなく、その破天荒ぶりでも、
知らぬ者などいなかったのだが。
「どうしてそう思う?」
問いを問いで返し、意味深な笑みを浮かべる。
ナタクは答えるつもりは無い。
観世音は答えを聞くつもりは無い。
意味の無い問答。
自分がわかってさえいればいい。
それだけで。
笑って、ナタクは扉に寄りかかる。
「さあ?」
何となく。
そう答えただけで、何も答えなかった。

しばらくの沈黙。

先に口を開いたのはナタク。


「アンタに頼みがあるんだ」


その面からは笑みが消え、真剣な眼差しがあった。
子どものそれと同じく、真っ直ぐな、純粋な。


一つの思いを宿した光。


「『頼み』?」
その台詞を反芻し、観世音はナタクと視線を絡める。
「アンタは何でもできるんだろ?」
「まぁな」
自信ありげに笑う観世音を確認して、
ナタクは切り出した。

「もしも」

観世音は机上に腰掛けたまま、足を組む。
シャラ、と身に付けている装飾品がぶつかり合い、音色を奏でる。
「金蝉童子…それに、捲簾大将、天蓬元帥が…」
俯かずに、
真っ直ぐに観世音を見据える。
「アイツの…悟空の好きな奴等が皆死んでしまうようなことがあったら…」

自分は『好き』な奴には含まれない。
自分は悟空を傷つけたから。
それでも、アイツは笑ってくれた。
嬉しかった。
だから、もう会えない。
いつものように、
『またな』とは言えなかった。

俺は、もう決めたから。

決めてしまったから。


「悟空の記憶を消して欲しい」


ゆっくりと、彼の言葉に目を細める。
「悟空が死ぬことは考えていないのか?」
目を閉じ、小さく首を振る。
「考えていないわけじゃない」
だけど。
呟いて、目を開いた。
「アイツらが、絶対に悟空だけは護ると思うから」

「…違いねぇな」

微笑んで、観世音は肯定した。
だが。
「ナタク」
観世音は、彼を呼ぶ。
「悟空がそれを望んでいなかったとしたら?」
記憶を消されることを。
彼らと過ごした時間を忘れてしまうことを。


「それでも」


伏せられた双眸に、確かな光を宿して。
紫暗の瞳は、小さく揺らぐ。


「アイツはそれを受け止めることなんて出来ない」


まだ、負の感情を知らなすぎる。
受け止めるだけの容量がない。
そうなればきっと、悟空は壊れてしまう。



「壊れるのは…俺だけでいい」



再び開かれた瞳は、慈愛に満ちた神を映し出す。
その表情は、いつもの観世音からは考えられぬほど穏やかで。
改めて、『観世音菩薩』の名を思い知る。

「分かった」

短く。
了承の意を口にする。


「約束しよう」


ナタクの真剣さを目の当たりにして、観世音はそう言った。
少しでも迷いがあるようなら、観世音は適当にあしらうつもりだった。
だが、それはなかった。
そして、気付いていた。



ナタクが死ぬつもりだと。



全てを捨てて死ぬのではない。
全てを背負って死のうとしている。
どんな言葉で止めたとしても、きっと彼の耳には届かない。
決して揺るがない『思い』。

だから。

「神と神の約束だ」

最期の『思い』を、受け止めて。

「あぁ」

ナタクと観世音は微笑んだ。



「…ふん。所詮は不浄の者ということか」
横に手を挙げる李塔天の周りの者への指示を遮るように、
ナタクは剣を具現化させた。
牛魔王との戦いにも用いた剣だ。
一室に緊張が走る。
「!!」
「…俺がいなくなれば、貴方がのさばることだって出来ないはずだ」
(ごめん、悟空。俺は、この方法しか選べない)
剣が李塔天を貫くことはなかった。
その剣の切っ先を真っ直ぐに自分の心臓へと向ける。
真っ赤な鮮血があたりに広がり、
深々とナタクの胸を貫いた。
背中からは、剣の切っ先が出ている。
ぽたぽたと流れ落ちる紅い血は、剣の柄まで流れ落ちる。
白い手は、真っ赤に染まって行く。


―――ごめん、な


ナタクが倒れ、騒然となる。
捕らえて、洗脳してでも彼を使おうとした、
李塔天の目論見は大きく外れた。
「こんなことになるとは…ッッ!」
悔しそうに歯噛みし、李塔天は壁を叩く。


「取り込み中失礼する」


その声に、李塔天の体が大きく揺れる。
ゆっくりと振り向くと、
そこには、男と女、両方の強さを併せ持つ神がいた。
「か…ん世音菩薩…」
呆然と、信じられないものでも見るように、
彼は観世音の名を紡ぐ。
誰も逆らうことが出来ないまま、観世音に道を開く。
ナタクの傍まで歩み寄った。
ピチャ、とナタクの血で出来た池が足に触れる。
顔色一つ変えずに。


「…こいつは俺が貰う」


「?!」
突拍子もない台詞に、その場にいた全員が目を剥く。
「観世音菩薩?!」
李塔天が叫ぶ。
「いいじゃねえか」
彼の胸に深々と刺さった剣を抜き、
血に汚れることも構わず、観世音は彼を抱き上げた。
ぐったりとしたその身体からは、生気が感じられない。
ぽたぽたと、その間にも血が床へと流れ落ちる。


「壊れた人形はいらねぇだろ」


静かに囁くと、
観世音はナタクを抱いたまま、李塔天の部屋を後にした。



血まみれになったナタクを抱いて歩く観世音に、
皆は奇異の目を向ける。
知らぬ間に、観世音を避けるようにして、
皆が道を開けた。
しかし、
観世音は気にする様子もない。
歩いてきた廊下には、血が滴り落ちている。
その手は真っ赤に染まっていた。

「なぁ、ナタク」

聞こえるはずもないのに、
観世音は話し掛ける。

「お前がそうまでして護りたかったのは何だ?」

一歩、一歩、ゆっくりと歩みを進める。

「悟空の好きな奴に、自分が入っているのに気付かなかったのか?」

どちらが傷ついているのか分からないほどに、
鮮血に染まっていく衣装。

「本当に、他の道はなかったのか?」

ギィ、と自然に開かれる自室の扉。
中に、二郎神が立っていた。

「貴方はどうして、そう無茶ばかりなさるんですか」

呆れるように、観世音を見やる。
「見てて飽きないだろ?」
いつもの覇気を持たない笑い。
観世音の話を聞いて来たのだろう。
二郎神が観世音の部屋にいると言うことは。
その証拠に腕に抱かれているナタクを見ても、
驚きもしなかった。


「ナタク太子…」


静かに呟くと、
二郎神は目を伏せた。

「傷を、治しましょう」

服も新しいものを。
そう言って、二郎神は部屋を出て行く。
観世音は自室に入ると、その場に座り込む。
ナタクを抱きかかえたまま。
ゆっくりと、光がナタクを包み、傷が消えていく。
だが、その瞳は何も映さない。

「ナタク」

呼んでみるが、返事はない。
呼吸はある。
脈もある。
なのに。


その瞳は、光を持たない。


「…本当の『死』とはこのことなのかもしれないな」


小さく呟くと、観世音は薄く笑った。
その小さな身体を抱きしめて。


静かに。



静かに。




目を閉じた。




観世音の瞳は空を映し出す。
「観世音菩薩…」
二郎神は、絶句する。

「悟空の記憶を封印したのは俺だ」

ナタクの言った通りになった。
いや、ナタクは知っていたのかもしれない。
父の目論見も、誰が狙われていたのかも。
それが、防げることができるものではなかったということも。

「だが、記憶なんて、完全に消せるモンじゃねぇ」

いつかは思い出す。
欠けた記憶を取り戻す。
「だから、思い出したときには」
そのときには。


「お前もそこにいるといいな」


ナタクの頬に触れ、優しく撫でる。

悟空は金蝉を…三蔵を呼んだ。
だったら。

「アイツを呼んでやれよ」

悟空が、昔、お前を煩いほど呼んだみたいに。
友達として、呼んだみたいに。


「頭ん中響きまくって、煩いってくらいにさ」


きっと、アイツは気付くから。



「『悟空』って呼んでみろよ」



遠くから運ばれてきた風が、一番近くで吹きぬけた。


水面を揺らしながら。




END

あとがき
異例のタッグ(笑)で書いてみました。
何か、二郎神殿がえらく男前になってしまったわ☆
いつも振り回されてばっかりだから、
こんな場面もあるかなあ、と。
話の時間の流れは、
『So Long』と絡んだところです。
この二人、どこで接点があったんだろうかと思って書いてみました。
途中、『So Long』の文を抜粋してます。
決して手抜きではないですよ!(笑)