兎が、逃げたの。 どこにも、いないの。 真白で、小さな兎。 ねぇ、誰か。 私の兎、見なかった? |
ゆ き う さ ぎ |
傍らの気配を察して、ふと、剣心は目を覚ます。 薄らと目を開ければ、部屋の中は暗く、 其れが雨戸を閉めている故の暗さで無いことも分かった。 深夜と呼ばれる闇夜は、未だひっそりと腰を落ち着かせている。 「薫殿?」 間を空けず、頻りに聞えてくる咳は伴侶のものだと直ぐに織れた。 起き上がって、背を摩る。 「御免なさい、起こしちゃったのね」 漸く咳が止み、薫も体を起こした。 余りに長く続いた所為であろう。 息苦しそうに呼吸をしている。 「確か元斎先生に頂いていた薬があったでござるな」 一寸待っているように告げ、腰を上げる。 彼が持って来た薬を飲んで、咳も何とか形を潜めてくれた。 綺羅綺羅しい光が、雨戸を開けば飛び込んでくる。 「冷えると思ったら」 感嘆の声をあげ、剣心は眩い煌きに微笑んだ。 一面の銀世界。 庭の木に積もった雪が、朝日を浴びて堕汰と流れる。 ぺたり、と可愛らしい足音が近付いたと思うと、 その主に恨めしげにこちらを睨まれた。 「お早う、剣路」 「…ん」 昨夜、薫が風邪だったら移るから、と別の部屋に寝かされた剣路は、 朝からすこぶる機嫌が宜しくない。 幼子は、ちら、と外を見ると、更に顔を顰めた。 苦笑して、剣心は軽く頭を撫でる。 けほ、と微かに咳き込む声が聞える。 其れに反応して、剣路は声のした部屋へと足を向けた。 ついて行くように、其の後を歩く。 「剣路、近付いたら駄目よ」 障子を開けるなり、母親から出入り禁止を言い渡され、入り口付近で地団太を踏む。 「矢っ張り、熱が出たでござるな」 「気を付けてはいたのだけれど」 剣心は剣路の上から、ひょい、と顔を覗かせた。 中には、肩に羽織を掛けた薫が、床に座している。 「もう直ぐ弥彦が来るから、元斎先生を呼びに行って貰おう」 足元で座り込んでしまった我が子の顔は、先程よりも更に不機嫌なものになっている。 流石に、母親に近寄れないだけで此処まで機嫌を損ねるだろうか、と不思議に思い始めた。 「多分其れ、私の所為だわ」 苦笑して、薫が口を開く。 疑問符を浮かべて、彼は妻に視線を投げた。 「前に雪が降ったら、一緒に遊ぼうって約束してたの」 「嗚呼、成る程」 愛子の機嫌の悪さを、ようやっと理解する。 然し、病気では仕方が無い。 其れは剣路とて、理解している筈。 葛藤の末の態度で在るのか、と妙に納得した。 「ならば、拙者と一緒に遊ぼうか?」 「や!」 屈み込み、我が子と視線を合わせるも、直ぐに逸らされ拒否された。 少なからず突き刺さるものを感じる。 薫は苦笑すると、もう1度咳をした。 頬を膨らませている幼子は、不意に顔を上げ、剣心の袖を引いた。 何事かと見下ろせば、頻りに外を指差している。 「剣路?」 「おんも、いく」 気が変わったのか、剣路は早くと急かした。 此処で機嫌を損ねては、其れこそ大事である。 肩越しに振り返ると、薫は小さく笑って手を振った。 「行ってらっしゃい」 「温かくして、寝ているでござるよ」 「分かってるわ。心配しないで」 床に着くのを確認して、剣心は障子を閉めた。 半ば引き摺られるように、縁側を降りる。 冷たい雪が、草履では足りずに足袋へと解けて染み込む。 濡れて凍える、と剣心は傍の剣路を見やったが、 気にもせずに幼子は雪を掻き集めていた。 「子どもは風の子、か」 苦笑して嘆息すると、納屋から雪靴を出して履かせた。 大人用の其れは、流石に剣路には大き過ぎたのであろう。 歩く度に前のめりに倒れかけ、其の度に剣心が支えた。 当の剣路は面白がって、あちらこちらを駆け回る。 後ろに出来た大きな足跡と、自分の雪靴を見比べて、嬉しそうに笑った。 幾らなんでも寒すぎると、上着を羽織らせる。 最初は嫌がったが、母の様に寝込む事になると告げれば、大人しく羽織ってくれた。 子どもの体力は、大人とは比べ物にならない。 歳かなぁ、などとぼやきながら、縁側に腰掛けた。 暫くすると急に静かになり、剣心は怪訝そうに顔を上げる。 「剣路?」 名前を呼ぶが、こちらを見向きもしない。 せっせと何かを手元で作っている。 小さな、小さな、白い雪の塊。 楕円の半球の様な形だ。 (嗚呼、若しかして…) 思い当たる節があり、剣心は立ち上がる。 剣路は時々、悴んで来たのか、手を擦り合わせて息を吹きかけていた。 ぎゅぎゅと、雪を固める音が響く。 粗方固め終わると、今度は辺りを見回し始めた。 「此れを、探しているでござるかな?」 剣心は、剣路の前にしゃがみ込み、手の平を広げる。 ぱぁ、と明るくなった顔に、彼は思わず微笑んだ。 「ん」 言葉の通り、赤く染まった紅葉の様な手は剣心の手の中に在ったものを取る。 ひんやりとした感触が手の平に残った。 「母ちゃんに、持って行くのか」 ―――私はね、雪兎が好き。ほら、こういうの。剣路、冬になったら一緒に作ろうね 其の台詞に、剣路は勢い良く頷いた。 赤い南天の実二つに、深緑の椿の葉を二枚。 出来上がったのは、小さな冬の兎。 台所から持って来た黒塗りの小さな盆に、崩れないようにしてそ、と載せた。 「親子揃って、雪遊びとは。此れもまた、風情じゃのう」 「元斎先生」 縁側を行く老人は、二人を見下ろしてほほ、と笑った。 弥彦が後ろから、顔だけを覗かせる。 「連れてきたぜ。じゃあ、俺は道場行くからな」 「有難う、弥彦」 ぱたぱたと、廊下を走る音が遠退いて行く。 其れを見送りながら、元斎は手招きした。 「随分と長い事、外に居たんじゃろう。患者が増えては困る。そろそろ中に入りなさい」 剣路が誰の為に雪兎を作っているのかを見抜き、 少しならば、部屋に入っても大丈夫だから、と付け加える老人には頭が上がらない。 苦笑する剣心を見て、元斎もまた笑った。 盆に載った雪兎を差し出すと、薫は嬉しそうに微笑んだ。 「有難う、剣路。覚えていてくれたのね」 同じく、嬉しそうに笑う幼子の頭を撫でる。 元斎が退室を促し、剣路は剣心に連れられ、名残惜しそうに部屋を出て行った。 薬湯を用意しながら、元斎は口を開く。 「一時は如何なるかと思っておったが、あれでなかなか」 彼が言わんとしている事を感じ取り、薫は苦笑する。 「先生にも御迷惑をおかけしました」 「迷惑だとは思っておらんさ」 声を上げて笑う老人の目元に、皺が深く刻まれる。 薬湯の入った湯呑みを渡し、うむ、と頷いた。 「良い生き甲斐になっておるよ。礼を言いたいくらいじゃ」 「そんな」 がらり、と障子が音を立てて開いた。 剣心は不思議そうな顔をして、二人を眺める。 「如何か、したでござるか?」 火鉢の炭が、ぱちり、と崩れた。 「いやいや。お前さん方が倖せそうで安心したと言っておったのよ」 ぱたん、と薬箱を閉じて、元斎は面白そうに笑う。 二、三、剣心に注意事項を言付けると、元斎は部屋を出て行った。 飲み終わった湯呑みを受け取り、剣心は枕元の盆に目をやった。 「約束してたの」 「うん」 「雪兎、作ろうって」 話を聞きながら、床に付く様、促す。 「小さい頃ね、父と作った事があるのよ」 ぽつり、ぽつりとしゃべる彼女は、 夢現に身を置いている様に思えた。 「不恰好で、とても兎とは思えなかった。あんな、簡単なのに」 力無く微笑み、天井に向かって手を伸ばす。 手の平、そうして手の甲へと翻す。 白い腕が、蒲団の上に落ちた。 「私のと比べて、すごく大きくて。耳とか、目とか小さすぎるのよ」 薬湯が効いてきたのか、 虚ろとした瞳で、ゆっくりと瞬きをした。 「父も意地っ張りでね。次の冬も、其の次の冬も雪兎を作ってくれた」 蒲団の上に落ちた手を、剣心へと伸ばす。 薫の其れよりも大きな手が、優しく包んだ。 「冬には雪兎を作るのが、楽しみになってた」 ずっと外に居た所為だろう。 仄かに冷たい彼の手が、火照った体温には心地よかった。 「でも、ずっと…作らなかった」 ふ、と笑みが消える。 「独りで思い出に浸るのは、辛かったのよ」 雪の反射光を、障子が一身に受けている。 お陰で部屋の中も明るかった。 不自然な程、煌く雪が眩しい。 「雪が降る夜も、真白な朝も」 ―――ねぇ、元斎先生 「静か過ぎて、怖かった。この世に私しか居ないのかと思わせた」 ―――兎、逃げちゃった ゆっくり、一本、一本、指を曲げながら、 剣心の手の平を握り返す。 「私、貴方達が来てから、本当に嬉しかったわ」 瞳を閉じて、微笑んだ。 今でも直ぐに思い出せる、遠くて、近い記憶。 一体、何度、時が止まれば良いと願ったか。 「何時か離れて行くと分かっていても、嬉しかった」 けれど、時が止まるはずもなく、ヒトは変わり、時代は流れた。 子は大人になり、大人は年老いていく。 「触れることの出来る温もりが、愛おしかった」 軽く、繋いだ手を掲げた。 「貴方と結ばれて、剣路が生まれて」 微かに上げられた瞼は、何度か瞬きを繰り返し、 其の瞳は剣心を見上げた。 「やっと、ね。また、雪兎作りたいと思ったのよ」 黒塗りの盆に、水溜りが広がる。 真白だった兎が、段々と透けて行く。 「この分じゃあ、また雪が降るな」 口を閉ざしていた剣心が、後ろを振り返った。 外の明かりで、此方側からは顔が良く見えない。 「え?」 薫に視線を戻し、微笑んだ。 少しだけ強く、けれど優しく手を掴まれる。 「今度は三人で、雪兎作ろう」 とくり、とくりと湯を注ぐ様な口調。 温かくなっていく、そんな言の葉。 「弥彦達も呼んで、雪合戦でも良いかな」 低くも無く、高くも無く、心地よい声音。 安心出来る、穏やかな微笑み。 「次の冬も、其のまた次の冬も」 どさり、と雪が雪崩れる。 「雪兎を、作ろう」 薫は、今度こそ瞳を閉じた。 目の端から、温かいものが零れる。 「うん、そうね」 何度も、頷く。 眉根は寄せられていたけれど、口元は下弦の月の様に笑っていた。 「とても、楽しみだわ」 涙を隠す様にして、剣心は薫の目元を片手で覆った。 兎を、見つけたの。 私の兎、貴方が連れて来てくれたのね。 もぅ、寂しくないよ。 END |
あとがき。 |
あれぇ? ほのぼのを書こうとしていたわけですよ。 ほんわか、あったかを書こうと。 ・・・なんで、こんなどシリアスになっているんですか、紅桜さん。 何か、痛いよ? 寒いよ? ごめんね!風雅サン!?(言い逃げ) |
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