「夢であったのなら、良かったのに」



ゆめうつろ






少女は添う言うと、ことりと俯いてしまった。
長い黒髪がさらりと背を流れ、襲の上にに波紋のように広がる。
青年は何も言うことが出来ずに、只々少女の隠れてしまった横顔を目の端に映すのみ。
けれど、と呟く少女に青年は琥珀の瞳をつい、と動かす。

「夢なら、覚めなければ良いのに」

春暁の君、とか細い声が彼を呼ぶ。

「如何か、忘れて。私が果てた其の時は全て、泡沫だったのだと」

彼は僅かに目を細め、少女の頬へと手を伸ばす。
冷え切った手が触れても尚、其の頬は冷たく凍えるようだった。
十六夜、と彼は躊躇いの月姫の名を紡ぐ。
鋭く尖った爪が姫御前を傷付けぬよう、用心深く、
けれど穏やかにあまりに白過ぎる頬を撫ぜる。
「其れでも此れは、現なのだ」
彼の声が届いたのか、届かなかったのか、十六夜はふわりと微笑む。
触れてしまえば、解けてしまうのではと思わせるほどに儚く、淡く
―――…切なく。


「うつしとうつろには、如何ほどの違いが有るのかしら」


現と、虚。
在るものと、無きもの。
在っても無きものであることも在るし、
無くても在るものであることも在る。
ならば其の境は何処なのか。
青年には、少女の問いに答える術は無かった。
だが抱き締めることも叶わず、じっと目を見開く。
生きながらにして死を、洞を抱え続ける少女に何を言えば、
如何すれば想いを伝えることが出来るのか皆目見当もつかない。



「全ては夢、水面の泡沫。散り行くだけの、沙羅双樹」



少女の奏でる琴の音によく似た音色を思わせる声に、
青年はちくりと胸の奥に痛みを感じる。
「私は何時か、滅び行くもの」
貴方よりも先に、言外に告げられる言の葉に激しいまでの抵抗感を覚えた。
青年は長き刻を生きる妖かし。
なればこそ、刹那を生きるヒトなどを愛してはならない。
だからこそ、十六夜は強く願う。
忘れて欲しい、と。
夢であったのだ、と。
愛おしいと想うが故に、捨てねばならぬ恋情が在る。
狂おしいまでに募る想いが在る。
在るのに在ってはならないものが、在る。
「忘れぬ」
伏せていた睫を震わせ、十六夜は息を呑む。
分かっていた。
添う言えば、少女が哀しみ、困り果てることなど分かっていた。
分かっていても、譲れなかった。
「私は、忘れぬ」
彼は繰り返す。



「虚など、私が現に変えてみせよう。御前が現と虚が同じだと言うのなら、私が此処に夢を顕現せしめよう」



髪を一房掬い取り、そっと唇を寄せた。
彼の其のような仕草すら夢に思える自分が厭わしく、呪わしい。
忘れてしまいたいのは自分。
忘れなければならないのは自分。
彼を此処に留まらせているのは、他でもない十六夜自身。
溢れそうになる涙を懸命に抑え込み、少女はまぁ、と作った笑みと共にゆっくり零した。
「素敵、ね」
想ってもいない言の葉を紡ぎ、
笑ってもいない笑みを浮かべる。
其の滑稽さが莫迦莫迦しくて、泣くことすら出来ない。
現も、虚も、泡沫も、何もかも。



―――全て



決して醒めぬ、夢であったのなら良かったのに。










あとがき。
犬父母は淡やかな切ない感じが似合うと思う。




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