吉野山嶺の白雪踏み分けて
      入りにし人の跡ぞ恋しき

        しづやしず賤のおだまき繰り返し
                昔を今になすよしもがな



君の歌声が、遥か遠くまで響き渡る。
今一度、その声で私の為に歌っておくれ。



■ 遠浅 ■




桜が、風に攫われ舞い踊る。
時をどんなに紡ごうとも、このように咲き誇るのか。
問うてみたい衝動に駆られる。
見上げても、風に揺られるだけの桜に何が言えよう。
思って、懐かしそうに桜を眺めた。
「吾妹子を、お前は織っているか?」
手を伸ばして、花の一片を掌中に納める。
けれど、何も語りはしない。
「そう、か」
彼は呟き、花弁を手放した。
柵を乗り越して咲き乱れる桜に微笑むと、
歩みを進めるべく姿勢を正した。
誰かが近付いてくる気配がして、何とはなしにそちらを見やる。
独りではない、複数の声。
その高さから女性だろうか。
「…から、あの問題は解けないのだよ」
「そりゃ、アンタの頭が春色だからでしょ」
「彼氏が出来たばっかりだもんねぇ?」
重ねて聞こえてくる笑い声。
何気ない会話に、軽く嘆息した。
歩を進めれば、彼女達と近付き、すれ違う。
その瞬間。
彼は目を見開いた。
長い髪が、通り過ぎる。
思わず手を伸ばして、その髪に触れた。
「え?」
少女は振り向き、髪に触れる主へと怪訝な顔を見せた。
「…あ、の?」
けれど、彼は何も言わない。
そこにいる、『誰か』を見ているようだった。
彼女ではない、『誰か』を。




「…『静』…」





風にかき消されそうになりながら、その言の葉だけが響く。
「遙、行こうよ」
傍にいた友人達が、少女の手を引っ張る。
彼へ向けられた視線は、明らかに不審者を訝しがるそれだった。
慌てて、駆けていく少女達。
彼は、何かに囚われたように、そこに立っていた。



始業前、ざわめく教室。
「ねぇ」
参考書を開きながら、ひとりの少女が口を開いた。
その少女へ視線を投げながら、
前に掛けていた少女が振り返る。
「何?」
「…『シズカ』って、誰だっけ?」
隣に座っていた少女も、そちらを見やった。
「ドラ●もんとこのヒロイン」
「工●静」
口々に言う2人へ、シャープペンシルと消しゴムを投げる。
「そうじゃなくて!」
ずっと、引っかかっていた。
昨日、出会った少年が口にしたのは『静』の名。
己の名は『遙』なのにも関わらず。
最初は人違いだろうと思った。
けれど、それにしては違和感があった。
何だか分からないけれど、何かが心に引っかかっているのだ。
「あとは、コレ」
消しゴムを受け取ると、彼女が開いていた参考書を素早く抜いた。
歴史のページを開いて見せる。
「へ?」
「源義経の愛妾『静御前』」
「何、ソレ?」
「昨日の日本史で習ったばかりでしょうが」
呆れて、ひとりの少女は参考書の角で、もうひとりの少女を叩く。
涙目になって反論しようと、口を開いたその瞬間に担任の教師が入ってきた。
「HR始めるぞー」
ガタガタと机を並べなおす音がして、全員が立ち上がった。
「規律、礼、着席」
いつも通りの号令を総務委員がかけて、席につく。


―――源義経の愛妾『静御前』


そうだ。
昨日の授業で、そう習った。
だから引っかかっていたのだ。
遙は強引に、その考えをねじ込んだ。


男性教員は後ろからついて来ていた少年に、中へ入るように促した。
「今日は、転校生を紹介する」
その台詞に、生徒は色めき立つ。
「静かにしなさい。自己紹介を」
教師は苦笑すると、持っていた出席簿で机を軽く叩く。
彼の忠告に、声は静まっていった。
「ハイ」
少年は顔を上げると、ヒトの良さそうな笑みを浮かべた。
瞬間、遙は大きく心臓の音を打ち鳴らした。
「…ねぇ、鈴ちゃん」
「うん?」
震える指で、前に座っている友人を呼ぶ。
「あれ、昨日の変なヒトじゃない?」
出来るだけ声を小さくして、見つからないように尋ねた。
彼女はよく憶えていないらしい。
首を捻り、前に立つ少年を見やる。
「そうだっけ?」
そうだよ、と大声で叫びたい衝動に駆られる。
けれど、ここで叫ぶわけにも行かない。



「説破翔です、よろしくお願いします」



変わらず、笑みを浮かべたまま、軽くお辞儀をする。
目を奪われ、遙と視線がかち合う。
目が合うと、彼はニコリ、と笑った。



嫌な予感と、心が躍る予感。
それが同時に襲ってきた気がした。



陽が高くなりはするものの、窓から入ってくる風もまだ肌寒い。
公立高校には、冷暖房完備などという言葉は見当たらないのだ。
そうしてまた、そんな中、校内を練り歩くような物好きも、
よっぽどの用事が無い限りいない。
「こっちが図書室?」
「そう。で、あそこにあるのが第2化学室」
何故か遙は、転校生に校内を案内していた。
何故、というよりも、たまたまクラス委員をしていた遙が
担任から頼まれたからだった。
男子のクラス委員は、病欠だったらしい。
表に出さないまでも、心中は穏やかではない。
(何で私が、こんな変態に学校案内しなきゃいけないのよ)
それを悟ってか、翔は苦笑して、顔を覗き込んだ。
「ごめんね」
「へっ?!」
心の中を読まれたのかと、一瞬どきりとする。
声が裏返ったことに、彼は笑いを堪えた。
「昨日」
慌てて長い髪を後ろに流すと、一息つく。
安心して、胸をなでおろした。
「織っているヒトに、よく似てたから」
少し、寂しそうに微笑う翔に、遙は不思議と胸が締め付けられる。
何とはなしに尋ねてみた。
「似てた?」
こくりと頷く。
立ち止まって、窓を開けた。
空を指差す。
蒼く広がる空に、白い雲がゆっくりとたゆたう。
流れるように伸びて、別の雲と繋がる。
重なり、追い越す。
風の悪戯。
「手の届かない程に、遠いヒト、かな」
「大切な、ヒト?」
「叶うのならば、一緒に倖せになりたかったヒトだよ」
ふと、過去形になっていることに気付く。
射抜かれた視線は、とても物悲しくて。
言葉を、失う。
立ち入ったことを聞いてしまったと、遙は顔を紅くして反省した。
「ごめんなさい」
謝られたことに、不思議そうな表情を浮かべる。
「どうして謝るの?」
「だって…」
くしゃり、と翔は、遙の頭を撫でた。



「優しい、ね」



―――全てを慈しむような瞳をして
―――全てを拒絶するような瞳をして
―――どうして、貴方は笑うのですか?



同時に、翔の頭に響いてくる懐かしい声。
けれど、もう、聞く事は出来ない。
愛しいその両腕で、抱いてくれることも無い。
望めば望むほど、己の愚かさが身にしみた。



呆然と、眼前の少年を見詰めていると、遙の背後から声がかかる。
慌てて、彼から視線をそらした。
「何やってんだ、翔」
「速水」
振り向くと、見るからに軽そうな男が片手を挙げて近寄ってきた。
染められたにしては、自然な茶髪。
もしかしたら、地毛なのかもしれない。
中途半端に伸ばされた髪は、そのままに流してある。
腕や首には十字架やら、髑髏やらのアクセサリ。
遙は思わず、あとずさる。
「あ、の。じゃあ私、先に戻るから」
言うと、彼女は走り去ってしまった。
苦笑して、彼女の後姿を見送る。
「アレが、そうか?」
「あぁ」
翔は頷くと、隣の背の高い男を見上げた。
速水が声を立てて笑いだす。
「また、えらくはねっかえりになったもんだ」
「心根は変わらないさ」
穏やかに微笑う少年の肩に手を乗せ、顔を近づける。
「ほぉ、言い切るか?」
「言い切るとも」
す、と速見の腕を退かす。
彼と向き合った。
「出来るなら、巻き込みたくは無いが」
不意に真摯な眼差しになって、翔は真っ直ぐに彼を見据える。
目を伏せて、速水は頷いた。
「けれど、恐らく…」
ため息混じりに吐き出された言の葉に、突き刺さる刃を感じた。
眉を顰め、翔は拳を強く握る。
「分かっている」
遠くで、鈴によく似た音が響く。
それは、警鐘であり、共鳴。
逃れ得ぬ宿命が、再びこの世に廻り来るという神命やもしれない。
鳴かないで欲しいと願っても、その音は確実にそこにある。
心の奥で未だ鳴り響く澄んだ音色を、疎ましくさえ思った。
「好きなようにすればいい」
微笑って、速水は頭を押さえ込む。
速水の力に押されながら、何とか踏みとどまった。
「俺は、どこへだってついて行くぜ」
屈託の無い台詞に嘘は無い。
彼を信頼しているからこそ、翔は思う道を進んで来ることが出来た。
今までも、これからも。



そう、それは。
遥か遠くの、歴史の紡ぎ糸。






走りながら、遥は思う。
(あんなヒトとも、交友関係があるんだ)
昨日のことはともかく、今日見た限りでは意外だと感じた。
「あれ、遙」
「先輩」
急ブレーキをかけると、遥は『先輩』の傍で立ち止まる。
手に持っているのが体操服ならば、次の時間は体育だろう。
「今日はバスケの部活、いらっしゃるんですか?」
「マネージャーの練習メニューが厳しいって、後輩達が泣いてたからなぁ」
「私の所為じゃないですよっ?!」
真っ赤な顔をして、遥かは叫ぶ。
その様子を見て、彼は噴出した。
「冗談だよ。よくやってくれてるって、皆言ってるし」
「本当ですか?沢木先輩」
ぱぁ、と明るい顔になった彼女に、小さな包みを差し出した。
とりあえず、受け取ってみる。
開くと、甘く、香ばしい薫りが漂ってきた。
マフィンだ。
「さっき調理実習だったからな。頑張っているマネージャーさんにご褒美だ」
「貰っていいんですか?」
沢木はウインクすると、遥の頭を撫でた。
頬が紅潮していくのがわかる。
「そういえば、慌ててたみたいだけど、どうかしたのか?」
思い出したかの如く、彼は口を開いた。
「いえ、転校生を案内してて…」
言いかけて、首を振る。
「遥?」
「わ、私は、先輩一筋ですから!」
「男子生徒だったんだ?」
余計なことを言った、と、遙は苦虫を噛み潰したような表情になる。
ひとり、百面相をする彼女に、沢木は苦笑した。
「大丈夫、誰も疑ったりしないって」
彼の優しさに、遙は微笑んで頷いた。




「疑ったりは、しないさ…」




遙が去った後、呟かれた台詞は聞えなかったけれど。




暗闇の中、桜の花びらだけがはっきりと映し出される。
舞っては落ち、落ちては舞う。
ほのかに光さえ灯しているようにも見えた。


『しずやしず…』


高く、透き通った、ゆっくりとした旋律の唄。
時折、ポォンと鼓の音が響く。
浮かび上がるようにして、ひとりの女性が姿を現す。
白拍子の衣装を纏った女性は、
はらはらと涙を流しながら、それでも唄う。
紅い紅のさされた唇は、形良く、確かな旋律を奏でた。
途端、男の罵声が聞え、女の悲鳴が響く。
静かであったはずの空気が、一瞬にして騒然とした。
けれど、女は動かない。
目の前は紅く染まり行き、そこで意識は途切れた。



『どう、して…』



思わず目を見開き、上半身を起こす。
「な…に…?」
肩で息をしながら、遙は髪を掻きあげる。
寝汗をかいているのだと確認すると、気持ち悪さがこみ上げてきた。
ぞくり、と悪寒が走る。
「夢…何の夢、だっけ?」
思い出そうと瞳を閉じるが、薄靄がかかったように遠くに思える。
懸命に、思い出そうとすればするほど、夢の記憶は遠ざかる。
そうして、終には何もかも忘れてしまった。




生徒がまばらになり、下校の鐘が校内に鳴り響く。
「どう思う?」
椅子に掛けている翔を、後ろから立ちながらに覗き込む。
「何が?」
怪訝そうに言葉を発した速水を見上げ、翔はいくつかの本を広げた。
すべて日本史の、しかも鎌倉時代のものばかりだ。
「嘉禄元年、つまり1225年に亡くなったのは『政子』殿じゃない」
どの書物にも記してある生没年は、同じもの。
だからこそ、違和感を持った。



「『静』だ」



顎に手を当て、更に眉間に皺を刻む。
「これまで見てきた色んな書物の中に、『政子』殿の没年が『静』の没年になっているものがあった」
源氏に関する残されたものを、どんな小さな可能性でも構わないから調べ上げた。
現代に残された関係のある血脈の、全てを辿った。
「たった、ひとつだけ」
思案顔のまま、彼は呟く。
幾つものパズルピースが、あまりにもかみ合わない。
さながら、間違って組み立てられた穴だらけのパズル。
「そうして、『政子』殿の没年は1186年」
あからさまに間違いだと思わせるほどの、全く異なる歴史の綴り。
後に、歴史的資料として相手にされないような。
まるで、意図的にそうしたかの如くに。
「どういうことだ?」
机に広げられていた1冊を取上げ、速水はぱらぱらと捲る。
「…分からない」
ただ、と彼は低く唸った。
言おうか言うまいか迷いながらも、意を決したように口を開く。



「たったひとつだけだったからこそ、僕にはあれが真実だと思える」



根拠はない。
どうして、と尋ねられても、明確な答えは出せない。
それでも、絶対だと思える。
速水はため息をついて、苦笑した。
「ま、お前の『御前』様に対する執念は並じゃないからな」
下校時刻になったと、アナウンスが流れ出す。
翔は片っ端から、本を閉じて片付けていく。
手伝いながら、彼は窓の外を見やった。
「もし、『御前』様が別の男に懸想していたら?」
「彼女が倖せであるなら、それでいい」
一瞬、考えるように瞳を閉じる。
「けれど、そうでないのなら」
淡々と、返事をする。
動かしていた手を止め、真っ直ぐに速水を見据える。




「奪うまでだ」




僅かに目を見開くが、すぐに笑みへと変わる。
「…どっちが悪モンだか」
翔も笑うと、首を振った。
「歴史に、悪も善もないさ」
自嘲気味に見えた笑みも、夕焼けに照らし出される。
姿かたちが変わっていても、変わらないとさえ思えた『想い』。
彼に、再び付き従おうと思えた『強さ』。





「あるのは、生き様の違いだけだ」





「違いねぇ」





変わらない彼らしさに、喉を鳴らして、速水は笑った。




(『私』が没して、その後一体何があった?)
翔の頭の中は、渦巻いていた。
否、とひとりごちる。
(『静』と別れた後、何があった、か?)
速水と別れ、ひとり帰り路につく。
暮れかけた空に寒さは無く、いつになく涼しげだ。
影が遠くまで伸び、壁へと映った。
ふと、目の前にヒトが居ることに気付き、顔を上げる。
ぶつからないように、道の脇に避けた。
同じ学校の制服だ。
3年生だろうな、などと思いながら歩みを進める。
「今、お帰りですか?」
突然かけられた声に、翔はすれ違った彼を振り返った。
「…えぇ」
名も知らぬ人間からの挨拶に、戸惑う。
その様子を見ても、何の変化も無い表情。
長身で、すらりと伸びた両手足。
何も無いことこそが、寒気を感じさせた。
「君が『説破翔』君ですね」
「そう、ですけれど?」
貴方は?尋ねようとして、喉が詰まる。
声が出ない。



「彼女は渡しません」



無表情のままで、彼は言う。
恐怖とも違う驚きで、翔は言葉を失う。
何か音を成そうとする唇は、意味も無く僅かに戦慄くだけで。
「さようなら。気をつけて」
彼は軽く片手を挙げて、そのまま翔と反対方向へ歩き出す。
ざぁ、と風が通り過ぎた。
彼の背中を、何も言えずに見送る。



「甦って、いたのか」



やっとのことで、搾り出すことが出来た言の葉。



「『兄…上』…」



瞳に映っていたのは、驚愕と危惧。
それは決して、憂いではない。
確かに来やる、予感。
焦燥感が、翔の心を襲っていた。




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