『出会い』 |
Pure Heart |
俺は、いつものように学校をサボって歩いていた。 ただいつもと違ったのは、 違う道を選んだこと。 別に理由は無くて、 ふと気付いた方向に道があったから。 それだけだった。 ほんの偶然。 ――カタ 頭上で音がした。 ――キィ 扉か窓が開く音。 それに気付いて見上げてみれば、 それがガラス張りの扉だったことに気付く。 二階のバルコニーから、 一人の髪の長い少女が俺を見下ろしていた。 惹かれた。 何故だか分からないけれど、 その瞳に。 射抜かれた気がした。 どこか悲しげな、その眼差しが、 心に突き刺さるようで。 痛かった。 「…お暇なら、お茶でもいかが?」 少女は、透き通った声でそう、問いかけた。 俺は、惹きつけられたように頷いた。 彼女は、白いルームドレスに、ショールを羽織っていた。 秋という季節には丁度良い格好かもしれない。 俺は、学校帰りであったため、詰襟の制服。 とは言っても、着崩していたけれど。 改めて見てみると、 彼女の住んでいると思われる家は、 屋敷と言われたほうが似つかわしい。 洋式に建てられたレンガ造りの壁。 二階にあるバルコニーは、 まるでシェイクスピアの 『ロミオとジュリエット』のワンシーンを思い出させる。 カーテンが、弧を幾つも描きながら ふわりと、風になびいて。 甘い、香りも漂う。 庭でのティーパーティ。 広い庭には、白いアンティークなテーブルが。 木の蔓のレリーフだろうか。 細工が施してある。 彼女が用意してきたティーポットからは、紅茶の香り。 差し出されたクッキーは、小さなバスケットに入れられている。 感じている甘い香りはそれだけではないだろう。 目の前のそれとは別に、 漂ってくる。 注がれる紅茶から目を離し、 一本の木に気がついた。 大きく、 でも、細い。 細かな葉と花を付けた一本の木。 甘い香りは、それから漂ってくるものだと確信した。 「金木犀か」 不意に口をついた言葉に、 彼女はあぁ、と微笑んだ。 「いい香りでしょう?」 俺は頷いた。 木の根元に散らばる橙色のカケラは、 芝生の緑と相反して美しく見えた。 「私の好きな花なの」 優しく微笑む彼女に、 俺は、胸が締め付けられる思いだった。 ぎゅっ、と心臓が鎖で縛り付けられるような。 どうしてそんなことを思ったのかわからない。 ただ、 彼女が、無理に微笑んでいるような気がしてならなかった。 差し出された紅茶は、オレンジペコ。 男なのに、と笑われるかもしれないが、 俺は紅茶が好きだ。 大体、香りと味で何の種類かもわかる。 「どうぞ」 彼女に促され、そのカップを手に取る。 白い、シンプルなカップ。 カチャ、とソーサに触れていた部分が音を立てた。 持ち手からも感じる、あたたかさ。 立ち上る湯気は、 カップのそれと同じように白く、天へと昇って行く。 「……」 彼女は、そんな俺の仕草をただ黙って眺めていた。 ティーポットを持ったまま。 静かにそれを置いたかと思うと、 彼女はぎゅ、と目を閉じる。 俺は気付かなかったけれど。 その表情は、苦渋に満ちていた。 本当に苦しかったのは、 彼女だったのに。 どうして、気付けなかったのだろう。 「―――…っ!」 カップに口をつけようとした瞬間、 彼女は勢いよく、俺の手を払った。 ――ガチャン 音を立てて、カップが地面へと落ちた。 落ちた瞬間にテーブルにも接触して、 紅茶が滴っている。 それは、大地に吸い込まれるようにして、 染み込んでいった。 「!?」 俺は驚いて顔を上げる。 当の彼女は、 両手を胸の位置で握って、俯いていた。 その手は、微かにだけれども確かに、 震えていた。 「……?」 訝しげにのぞきこむ俺に気付いて、彼女はようやく顔を上げた。 だが、 口は開かない。 何かに怯えている表情だった。 「ごめ…ん…な…さい…」 その表情のまま、 彼女は謝罪の言葉を震えるように吐き出した。 「?」 ますますもって、俺には分からなかった。 「私」 彼女は俯き加減のまま、 ぽつり、 ぽつりと言葉を紡ぐ。 だけど。 俺は耳を疑いたくなった。 「エイズなの」 嫌でしょう? 汚らわしいでしょう? そう問い掛ける彼女に、 俺は深々とため息をついた。 「どうして?」 はじかれたように、 彼女は顔を上げた。 「え…?」 『繍伽さんは何もしなくていいから、ね?』 申し訳なさそうに言う、彼女のクラスメート。 そんな風景を思い出していたことにも、 俺は気付かなかった。 俺はエイズについて少しの知識しかないけれど。 家が病院なので、 かじる程度は知っている。 「こんなので感染するわけないじゃん」 それくらいは知っていた。 たしかに、エイズの患者を毛嫌いする人はいる。 簡単には感染しないことを知っていたとしても。 差別される。 まるで、 汚らわしいものでも見るように。 悲しいけれど、 それが現実なんだ。 だけれど彼女の告白は、 あまりに衝撃を与えるものだった。 本当は、 その時、俺は思っていることを平常心で、口に出すことが精一杯で。 こんな虚勢を張ったとしても意味があるのか、 俺にはわからなかった。 ただ。 怖かったのかもしれない。 俺には、彼女を傷つけることが、 何よりも罪に思えて。 この時は、同情だったのかもしれない。 そう、この時は。 「俺は、楢崎慧」 「繍伽、紗倖」 俺はティーカップを地面から拾い上げて、 彼女に差し出した。 「おかわりくれない?紗倖」 「…え…?」 困惑気味に、彼女は首をかしげる。 「友達になろう」 そう、この時は。 まだ。 知らなかった。 自分の気持ちさえ。 「…えぇ」 ティーカップを受け取り、 彼女は微笑んだ。 初めて、笑顔を見た気がしたのは、 気のせいだったのだろうか。 それから、 俺は紗倖の屋敷によく出向くようになった。 他愛ない話。 それでも、彼女は楽しそうに笑う。 もっと聞かせて欲しいと言う。 そんなに特別な話をしているわけでもないのに、 まるで、御伽噺でも聞いているように、 彼女は子どものように目を輝かせて。 変わらない。 そう思った。 同じ年頃の少女と。 彼女の年齢は、俺と同じ17歳。 学校へは行っていない。 行っていたらしいが、 彼女がエイズだと知れると、 両親が学校をやめさせたらしい。 彼女の預かり知らぬところで。 紗倖が、あの大きな屋敷で一人で住むことに、 まず疑問を覚えた。 時々、何週間に一回だろうか。 家政婦のような人がきて、 掃除などをして行くが、 住み込んではない。 料理を作ったりもする。 けれど、その日一日の分だけらしいので、 いつもは紗倖が自分で作っているのだろう。 庭は、いつも綺麗にしてある。 庭師が来て、 整えてくれるのだと彼女は言った。 はたから見ても、 彼女がお嬢様だということが分かる。 だが、 家族から離れて、 たった一人でこの屋敷に住むことが分からなかった。 「体裁を気にしているの」 いつか、 彼女が呟いたことがあった。 「一族に、私がいることが恥ずかしかったんじゃないかしら」 笑いながら言っていたけれど、 それはとても悲しいことだと思った。 全ての親が、 子どもを愛しているだなんて言わない。 だけれど、 それを理解している子どもが、 こんなに寂しいものだったなんて、 俺は知らなかった。 テーブルに紅茶を置いて、 彼女は椅子から立ち上がった。 はらはらと、金木犀が香りを漂わせながら散っていく。 俺は、飲んでいた紅茶をソーサーに置くと、 彼女を見やった。 「ここはね、別荘だったの」 背を向けたまま、 手を伸ばし、 金木犀の花びらを手に取る。 風が、それを舞い上げ、 彼女の羽織っているショールをふわり、と波打たせた。 「昔から、大好きだった場所」 幼い頃に、よく来たお気に入りの場所。 微笑んで、そう言った。 「そして」 接続語を口に出すと、 風を受けるように、両腕を左右に広げた。 「私の死ぬ場所」 彼女はこちらを向いて微笑んだ。 きっぱりとその言葉を口にして。 聞き違いではなかった。 聞き違いだと思いたかった。 あまりに柔らかく微笑む彼女が、 痛々しくて。 「自分の死ぬところぐらい、自分で決めたいじゃない」 くるりと振り返り、 俺と向かい合う。 「どうせ死ぬのなら、大好きな場所がいいでしょう?」 まるで、ココで死ぬことが本望のような言い方。 苦しかった。 悲しかった。 誰にも、弱さも苦しみも吐き出そうとしない彼女が。 「紗倖」 俺は、名前を呼ぶことしか出来なかった。 そのときの俺は、 どんな顔をしていたのだろう。 彼女は、俺を見ると苦笑したんだ。 「仕方のないことだもの」 ―――一人は慣れているわ そう言って。 彼女のエイズは薬害だった。 幼い頃、輸血した血の中にHIVがあったらしい。 気付かないうちに感染して、 数年が経ち、 気付いた頃には手遅れだった。 エイズは現代では『不治の病』。 進行を遅らせることは出来る。 だけど、それだけ。 結局は、死んでいく。 進行状況は人によって違っていて、 いつ何が起こるかわからない。 彼女がそれを知らないはずは無かった。 知っていて、なお。 微笑むことが出来るのだ。 彼女の強さを、 感じて、 俺は。 自分の弱さを思い知ったんだ。 その頃の俺は、親に反発していた。 学校へ行くのも面倒くさくて。 継げと言われている病院を、 継ぐことも嫌で。 でも、それを面と向かって話し合うこともしなくて。 逃げてばかりで。 一人で何でもできるだなんて、 思っていた自分が恥ずかしくなった。 自分の弱さが、 悔しくなった。 Next |