□ C r y □
忘れたいだなんて、 思ったことないよ。 何もかも。 楽しいことも、 辛いことも、 嬉しいことも、 悲しいことも。 みんな、大切な『思い』だから。 「アンタたち、誰?」 悟空の口から吐き出された台詞。 はっきりと聞こえたのに、八戒たちは我が耳を疑った。 「悟空?」 雨の降りしきる中、悟空はずぶ濡れのまま立ちすくんで、 空を見上げていた。 異変に気付いたときには遅かった。 すでに、悟空はこの状態になっていた。 瞳に光を宿していない。 感情という感情を、 全て無くしているように見えた。 まるで、 人形のように。 事の起こりは数時間前。 雨が降りだす前だ。 悟空が宿の者の手伝いをすると言って、使いに出かけた。 帰りが遅いので、悟空を迎えに行くついでに、 どこか外で食事をしようという話になったのだ。 悟空が使いに行った場所へは一本道で、 道なりに行けば、必ずはち会う。 そして、確かに会った。 ただ、 そこにいたのは悟空ではない『悟空』だった。 宿へ戻り、 身体の異常がないか、 八戒が診てみたが、 とくにそれらしい外傷も見当たらない。 どこか強く打ち付けて、 その時、記憶障害に陥った可能性もあったからだ。 色々と尋ねてみても、綺麗さっぱり抜け落ちていた。 500年間、岩牢に閉じ込められ、 記憶を封じられても覚えていた、 自分の名前さえも。 返事といっても、 『う…ん』 『多分』 というような、曖昧なものばかりだった。 分かっていたのは、 悟空から感情というものが、消えてしまっていたこと。 いつも、くるくると変わる表情は、凍りついたように、固まったまま。 笑いもしない、怒りもしない。 黄金の瞳に映るのは、 そこにある目の前のものだけ。 見ているのではない。 映っているだけなのだ。 「マジかよ…」 呆然と呟く悟浄の声に、 八戒は知らず知らずのうちに手を強く握り締めていた。 何故、こんなことになったのか。 考えても答えが見つからない。 「…何か毒に犯されたのかも…」 あるだけの可能性を考えてみる。 強いショックを受けた。 だが、それはありえない。 現に、三蔵が刺されたときにも、 暴走はしたが、記憶が消えたなどということはなかった。 今の悟空にとって、 仲間の危険以外に強い衝撃などありえなかった。 他にあるとしたら、失った記憶に関するもの。 昔の記憶を取り戻して、自分達を忘れたのならまだ分かる。 だが、今の記憶も昔の記憶も、どちらも封印されてしまっている。 それでは、毒。 記憶障害を引き起こすような性質を持った、 毒が悟空の進んだ道のどこかにあった。 だが、それならば交通手段として使っている、 町の人間にも同じ症状の人間がいるはず。 近づかないのが常識であろう。 そこへ行こうとしている旅人に、注意しない訳がない。 強く打ち付けた。 それは先ほど診た限りでは、ありえなかった。 他に、何か…。 じっと考え込んでいる八戒に、悟浄はため息をつく。 「考えてもしょーがねえだろ」 原因を考えても、 ここには結果しかない。 全てを失った悟空が、ここにいるという事実しか。 手立てを考えるために、悟空を寝かせ、 自分達は別の部屋へと移った。 本日は相部屋だったため、部屋は2つある。 重い沈黙。 誰も言葉を発しない。 3人はテーブルにつき、椅子に腰掛けていた。 三蔵にいたっては、いつもどおり、新聞を広げている。 悟浄も耐え切れないのか、くわえている煙草に火をつけた。 「…どうすればいいんでしょうね」 先ほど入れたお茶を眺めながら、八戒が呟いた。 方法が思いつかない。 そもそも、何故、悟空があんな状態になったのか分からない。 どう動けばいいのか分からないのだ。 「簡単だろ」 不意に、三蔵が口を開く。 「三蔵?」 その声に、悟浄、八戒は顔を上げた。 「アイツをここに置いていけばいい」 ガタン、と激しい音を立て、悟浄が立ち上がる。 「テメェ、本気で言ってんのかよ?!」 三蔵の法衣の襟を掴み、 悟浄は叫んだ。 だが、当の三蔵は動じる様子もなく、淡々と言葉を紡ぐ。 「この旅は危険なものだ」 牛魔王の蘇生実験を阻止する。 それにともない、 邪魔も入る。 当然、命を賭けたものとなる。 「戦闘能力もない、今の抜け殻の悟空を連れて行けるほど甘くない」 「…それ、は…」 悟浄も、口を噤んだ。 確かにその通りだった。 考え方に間違いはない。 頭では分かっていても、心が納得していない。 「だったら、全てを忘れてしまった方が、倖せなんじゃねぇのか?」 その言葉に、今まで黙っていた八戒が口を開く。 「本気でそう思っているんですか?」 静かに、怒るでもなく、抑揚のない声で彼は呟いた。 「本気で、今の悟空の状態が倖せだと思っているんですか?」 悟浄は、八戒を振り返るように、三蔵の胸元から手を退ける。 「僕はそうは思いません」 八戒は、三蔵と正面から向き合う。 視線をそらさずに、真っ直ぐに見据える。 「あんな悟空が、倖せなわけがないでしょう!?」 普段、温厚な彼が、声を荒げて叫ぶなど殆どない。 それほど、腹立たしいということか。 「だったら、どうする」 三蔵は眼鏡を外し、 テーブルに置く。 「アイツをココに置いていく以外の、いい方法があるっていうのか?」 「探します」 「西へ向かうのが最優先事項だ。ココへの滞在は認めない」 「だったら、悟空を連れて行きます」 「妖怪が襲ってきたら?」 「僕が悟空の分まで闘います」 ―――ドン 机が強く叩かれる。 「甘ったれてんじゃねえッ!」 湯のみが倒れ、テーブルを伝って床へと茶が滴り落ちる。 「俺達は馴れ合うために旅してるんじゃねえんだよ!」 「分かってます」 「それなら、何故、そこまで悟空に執着する!?」 冷めてしまったお茶を、握り締め、 八戒は口を開いた。 「悟空だからです」 何を言っているのかと言うように、 三蔵が顔をしかめるのが分かった。 「僕は、どこかで悟空に救われていたのかもしれません」 『俺、キレーな目だと思ったんだぞ?!』 「僕だけじゃない」 『燃えてるみたいに真っ赤だからさ、熱いのかと思った』 「悟浄も」 『待てよ、三蔵っ!』 「三蔵も」 あの、無邪気な笑顔に。 あの、純粋な思いに。 「僕は、悟空に何が出来ました?」 どこか、救われていた。 心が軽くなっていく気がした。 「何も出来なかったじゃないですか」 記憶に新しい紅孩児との闘い。 止めてくれと言われたのに、 暴走する悟空を止めることも出来なかった。 「結局は、自分の力で何とかしなければならないのは分かっています」 そうしなければ、 意味がない。 自分で乗り越えなければならないものもある。 「ですが…」 躊躇いがちに、八戒は口を開く。 「今の悟空を放っておけば、必ず後悔します」 「八戒…」 悟浄は、その言葉に八戒の真剣さを感じる。 同じ思いだったのかもしれない。 『後悔』するという、思いが。 きっと、引きずっていくだろうと。 「これは、僕の我侭です」 悟空は、思い出すことなど望んでいないのかもしれない。 本当は、静かに暮らしたいと思っているのかもしれない。 やっと手に入れた外の世界なのに、 危険と隣り合わせの生活。 そうだとしても、 今のままの悟空を見ているのは、 自分が嫌だから。 『我侭』。 ひょいと片手を上げて、 悟浄も口を開く。 「俺も、八戒にさんせーい」 三蔵と八戒が、彼を見やる。 「あのまんまの猿ほっといたら、戻ったときにうるせーしな」 面白げに笑いながら、 椅子に座り直し、頬杖をつく。 舌打ちをして、三蔵は新聞を広げる。 「馬鹿ばっかりか、ここは」 「貴方も、ですよね?」 八戒はいつもの笑みを浮かべると、 三蔵に微笑んだ。 不意にキィ、と音がして扉が開く。 「?」 3人が見やると、 一人の少女がそこに立ちすくんでいた。 12、3歳ほどの少女。 大分前からそこにいたのだろうか。 おそらく、八戒たちがケンカを始めたので、 入るに入れなくなったというところだろう。 「あ…あの…」 八戒は立ち上がって、扉を完全に開く。 「スミマセン、騒いでしまって。何か御用ですか?」 苦笑して、 彼は問い掛ける。 すると、 その少女はその場に座り込んだ。 「?!」 イキナリの出来事に、 三蔵以外は驚いた。 何か悪いことでも言ったのだろうか。 「ごめんなさい…っっ!」 突然の謝罪に、 3人は訳がわからない。 「あの…?」 尋ねようとしても、 少女は泣きじゃくりながら、 謝罪の言葉を繰り返すだけだ。 「オイ」 限界に来た三蔵が立ち上がり、 少女の前に立った。 「さ、三蔵っ」 慌てて、悟浄が止めに入る。 『お前、これ以上泣かせるつもりかよ?!』 驚かさないように、小声で三蔵に忠告するが、 彼は聞く耳持たぬようだ。 「泣いていたって、何も分からん」 少女が、 ビクリ、と肩を震わせるのが分かった。 「ごめんな…さい…っ」 なお泣きじゃくる少女に、 三蔵はため息をつく。 「分かるように話せ」 彼女は黙りこむ。 涙は流れたままだ。 八戒は、背をかがめて、 少女と視線を合わせた。 「今の悟空の状況と、何か関係があるんですね?」 しばらくの間。 少女は、 ゆっくりと頷いた。 声が聞こえる。 怒っている声。 何も覚えてないのに、 『怒っている』って分かる。 何でだろ。 ここには何もないはずなのに。 知っていたのかな? 誰かが教えてくれた? 誰が…? 悟空は自分の手を見つめた。 まだ年齢の割には、完全に成長していない手。 何を掴んだ? この手で。 何か。 綺麗なモノが。 ここにあった気がする。 誰か。 ここにいた気がする。 何か。 楽しいコトが。 ここにあった気がする。 何か。 悲しいコトが。 昔、あった気がする。 ムカシ? ムカシって何? いつの事? ここにいる俺は、誰なんだろ? ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 ワカラナイ。 だけど。 忘れちゃいけなかった気がする。 何もかも。 ノックの音がして、 扉が開かれた。 「悟空」 八戒の声。 後ろにいるのは三蔵と悟浄。 しかし、 彼らの動きは次の瞬間止まってしまった。 「悟空?」 無造作に開かれた窓は、 カーテンが弧を描きながらなびいている。 降り止まぬ雨が、 開け放たれたそれから降り注ぐ。 漆黒の闇がそこに広がっていた。 悟空が眠っていたはずのベッドは、 もぬけの殻で。 悟空の姿はどこにもなかった。 「あの、バカ猿が…」 窓の外を見ながら、 三蔵が呟く。 「探しましょう」 八戒が短く提案する。 「今の悟空に妖怪が襲ってきたら、ひとたまりもありません」 「しゃーねーな」 めんどくさそうに、悟浄は踵を返す。 それに続くようにして、 三蔵、八戒も外へと続く扉へと足を向けた。 事の起こりは少女達の好奇心。 この町に、『堅忘却』という、 迷信めいた薬草がある。 忘れたくないことほど、 忘れさせてしまう効能を持っているのだという。 それを誰かに試そうということになったのだ。 御伽噺だと言って、 誰も信じてはいなかったが、 誰もそれを試そうとした人間はいなかった。 例外として信じている者といえば、 老人くらいであったろう。 悪戯で、旅人の食事の中にその薬草を混ぜたのだ。 運悪く、 その標的になったのが悟空だった。 まさか、 本当に忘れてしまうなんて思ってもみなかったのだろう。 彼女達はうろたえた。 そして先ほどに至る、というわけだ。 雨の降る中、 傘も差さずに、歩く。 悟空は自分がどこへ行こうとしているのかも分からなかった。 ただ、何かに導かれるかのごとく、 歩いていた。 どこにいるのかも分からずに。 木々が生い茂る、暗い森の中。 雨の雫が容赦なく、 彼の身体を打ち付ける。 びしょ濡れになり、 気持ち悪くないはずがないのに、 悟空は気にする様子もなく、 歩みを進めた。 ふと、足を止め、 空を見上げる。 そこに、 何か大事なものがあったかのように。 「……ん…?」 誰かを呼ぼうとして、 誰の名を紡ごうとしたのか分からず、 口を噤む。 その言葉は確かな音にはならなかった。 「誰……?」 今、誰を呼ぼうとした? 考え込むようにして、 悟空は目を閉じた。 Next?