麗かな春の訪れ。
目覚めの季節。
其は、何れの帝の御時か。
高貴なる上達目が意中の姫君に文を贈る、
そのような雅な習慣もとうに消え去った頃。
時代は移ろい、世もまた移ろう。
公家ではなく、武士が世を治める幕府なるものを築いて、早数百の刻を迎える。
西の覇王は破れ、東の覇王もまた滅びた。
世の流れは、兎角盛者必衰の理を表す。
一休宗純なる者が、生まれ出でたのもこの時代。
時は流れ、ヒトは在り続ける。
そうして、在り続けるのはひとでなしもまた同じこと。
「御館様、何を御覧になっていらっしゃるので?」
何処からか、声が聞えてくる。
年寄り染みた声。
耳を澄まさねば、よく届かぬやもしれぬ程の。
「冥加、御前には見えぬか」
冥加と呼ばれた声は、間抜けな声をあげる。
「見えぬか、と申されましても、儂と御館様の目では見えるものが違います故」
「それもそうか」
言われて、納得する。
『御館様』と言われるには、余りにも若い相貌。
否、年端は関係の無いもの。
ただ、余りにも若く、余りにも美しかった。
長い銀の髪は風に靡き、幾筋もの光を帯びた。
切れ長の瞳は黄金に輝き、耳は尖り異形と見えた。
彼の『御館様』は、ひとでなし。
人で在る者は、彼を妖怪と呼んだ。
ひとでなしで在る者は、彼を大妖怪と呼んだ。
ヒトの世を治めるのが覇王で在るのならば、
ひとでなしの世を治めるのは彼で在るのだろう。
高い木の枝に立ち、遠くを見つめる。
「何が、御見えになるのです?」
声が、問う。
一瞬、肩に掛けられた毛皮の上で、何かが跳ねた。
よくよく目を凝らしてみれば、それは蚤のようであった。
よくよく耳を澄ましてみれば、声は蚤から発せられたようであった。
老人に見えなくも無い、その小さな影は首を傾げた。
「…月が」
晴れ渡る空に浮かぶ、真白な天体。
見上げて、彼は目を細めた。
「躊躇いの月が、見えるのだ」
冥加も彼に倣って、空を見上げる。
高く、遠く、透き通る月。
今夜は、さぞ美しい月夜となるだろう。
雪のような桜が、庭を覆い尽くす。
さらさらと庭の中を流れる水路は、蒼い空を映した。
紅い橋の架かった小川を見ると、何時だったか絵巻物で見た曲水の宴を思い出す。
御簾を持ち上げ、縁側に出てみると、温かい風が頬を撫でた。
没落したとは言え、此処は貴族の住い。
未だ、雅さは儚く残っている。
「いと美し」
少女はふわりと微笑み、腰を下ろした。
扇で顔を隠さずとも、訪ね来る者などいない。
口喧しい乳母も、今は娘の出産の為に、里下がりをしている。
ほぅ、と少女は溜息を漏らした。
「矢っ張り、春はこうでなくては」
中宮定子に侍った少納言の君は、『春はあけぼの』と詠ったけれど。
少女は目覚めを報せる曙よりも、のんびりとした午後が好きだった。
蝶が舞い、桜が舞うこの時間が好きだった。
さりとて、夜もまた良い。
月明かりに浮かび上がる白い花弁が、はらはらと舞う様は、妖しく美しく思う。
とくりと揺れる心の臓は、胸騒ぎとときめきを覚えた。
何かを思いついたのか、少女は再び部屋へと戻り、琴を持ち出して来る。
指先で弦を弾くと、高い音が静かな屋敷へと響いた。
流れるように指を動かせば、音は色となり、春の光へと溶け込んで行く。
音が煌きを持つのならば、恐らくそれは光り輝いていたことだろう。
1曲弾き終えた頃、見事、と声が聞えた。
少女は手を止め、辺りを見回す。
「だれ?誰か居るの?」
呼びかけるが、姿は一向に現れない。
空耳だったのだろうかと、もう一度琴へと手を伸ばした。
「余りにも、素晴らしい音色だったので」
少女は顔を上げ、目を凝らす。
その声は、高いところから聞えた気がした。
何処にも見えぬその姿に怯えることなく、少女は淡く微笑んだ。
「まぁ、嬉し」
花の蕾が綻ぶような笑みは、春めかしいとすら思う。
少女はあぁ、いけない、と呟き、懐から扇を取り出す。
開き、口元から目の下にかけて覆った。
扇には蝶と桜が描かれている。
季節が変わる毎に扇を変えるのもまた心躍るもの。
新しい季節に、新しい扇を選ぶのは楽しみでも在る。
慌てた様を悪ろしと嘲笑うでもなく、穏やかに微笑む感がした。
見えた訳ではないけれど、何故かそう思った。
「驚かせて済まない、直ぐに立ち去ろう」
高くはない、けれど低すぎもしない心地の良い声だった。
うっとりと聞き入ってしまいそうな、声。
涼しげで在るのに、眠りへと誘われそうな、何処か温かい声。
少女は遠ざかりかけた気配に、柔らかく乞うた。
「御名を、御聞きしとうございます」
暫くの沈黙の後、彼は答える。
「好きなように、呼ぶと良い」
名を明かせぬような身分の者なのかと、少女はほんの少し驚いた。
仕草の端々に感じられる高貴なる雰囲気。
決して、地下の者では無いと分かる。
若しかしたら、御忍びで歩いていらしたのかもしれない。
若しかしたら、供の者とはぐれてしまわれたのかもしれない。
色々なことを考えたけれど、それは詮無きこと。
此処から動けぬ女が、何を如何することが出来ると言うのか。
そもそも、彼が困った風には感じられなかったし、
かと言って、密やかにしている風にも感じなかった。
「では」
思い直して、少女は声のした方を見つめた。
あちらも、此方を見ているような気がした。
「琴の音が恋しくば、何時でも御出で下さいませ。『春暁』の君」
「…なかなかに、をかしな名だな」
暫くの沈黙の後、苦笑を交えた声で彼は言う。
でしょう、と可愛らしく首を傾げると、彼は益々笑った。
「気に入った」
彼につられて、少女も微笑む。
ふわりとした風が、庭を包んだ。
「また、参ろう。十六夜の君」
大地に敷き詰められた桜の花が空に舞う。
扇で顔を完全に覆い、思わず目を閉じた。
気付いた頃には完全に消えた気配に、少女は不思議そうに瞬きをする。
「不思議な、御方」
何も持たぬ片手で、小さく琴の弦を弾いた。
『春暁』とは大陸の歌人が詠った詩。
春の麗かな朝のまどろみを詠ったもの。
舞う花は桜ではなく、桃の花であったけれど。
それでも、春の訪れは何処にあっても同じ。
清らかに、艶やかに、心躍るもの。
風は、嵐。
ほろほろと、琴が奏でられる。
たおやかに、儚げに。
琴線を弾く白く、細い指は最初からそう在るかのように、音色を紡ぎ続ける。
時折、琴の音が恋しくなり、人里に下りた。
心奪われたのは、琴の音か、それとも花舞う蝶か。
彼は高い木の枝に腰掛け、屋敷の縁側とも言える廊下を眺めた。
運が良ければ、彼女を垣間見ることが出来る。
大抵は乳母が傍についており、言葉を交わさず屋敷を去ることも多かった。
ただ、琴の音に耳を傾けた。
御互いに、言葉は無くとも存在を感じる。
それだけで、良かった。
身体が弱いのか、臥せっている様も見受けられた。
廊下を歩いている時も、重を重たそうにしながら引き摺っている。
顔色が悪い、と思ったのは、一度や二度ではない。
そうして、幾月が過ぎた夜のこと。
季節は移ろい、すっかりと夏の装い。
静まりかえった屋敷で、さらさらと川の流れる音が響く。
蛍がぽつり、またぽつりと浮かび上がり、闇に消える。
空には星も無く、ただ月ばかりが煌々と輝いていた。
夏は夜。
此れには、十六夜も正にその通りだと思った。
葛城の神よろしく、姿の見えない闇夜。
扇も必要ないと思ったのだろう。
少女は琴を持ち、縁側へと進み出た。
ぃん、と鳴く琴線。
月だけが照らし出す闇夜だと言うのに、何故か、彼が聞いているのだと思う。
否。
琴を奏でる時には、何時でも彼が傍に居た。
姿は見えずとも、少女が奏でる琴の音を好んでくれる者がいる。
そのことだけで、嬉しかった。
「良い、月夜でございますね」
少女は、琴線に触れる指を止めることなく、囁くように呟いた。
ざわ、と風が揺れた。
「『春暁』の君。いらっしゃるのでしょう?」
押し殺した笑い声が耳に届く。
あぁ、矢っ張り、と少女は微笑んだ。
「女の感とは、薄ら寒いものだな」
「羨ましゅうございましょ?」
のんびりと言ってのける少女に、彼は夜闇に溶けるように笑った。
「全くだ」
誰も織らない、密やかな逢瀬。
織らないからこそ、重ねられた逢瀬。
織られてしまえば、壊れてしまうと思わせるような。
その実、それは真実でもあった。
ヒトと妖かし。
決して交わってはならないもの。
世の理が、そう定めたもの。
交わり、縁が結ばれたのなら、異端と蔑まれた。
それでも、繰り返される玉の緒たる縁。
背の君がヒトでなければならないなどと。
妖かしでなければならないなどと。
そのような根元の見えぬ曖昧な約束事で、想いを束縛することは、出来ない。
突然、音色が止み、ひゅうと息が飲まれる。
「十六夜の君?」
ざん、と琴線が悲鳴をあげると、十六夜は琴の上に覆い被さった。
苦しげに途切れる呼吸。
衣擦れの音が、聞える。
胸元を強く抑え、必死で堪えた。
―――どうして、このような時に
奥歯を噛み、強く目を瞑る。
握り過ぎた所為か、指先は白い。
―――何と、悪ろしき姿
肩口から、長く艶やかな黒髪が流れてくる。
御願い、鎮まって。
歯痒く思いながら、痛みが去るのを待った。
ふと、肩に何かが触れた。
優しく後ろに抱き寄せられ、目の前に手が差し出される。
手の平には、小さな丸いものが乗っていた。
「この丸薬を。直ぐに鎮まる」
言われた通りに、手を伸ばそうとしたが、それすらもままならない。
震える手は崩れ落ち、床についた。
崩れかけた身体を、片手で支える。
不意に、彼が動く。
丸薬を口に含み、腰に下げていた竹筒を傾けた。
無理の無い様に十六夜の顔を上に向けさせると、口移しで薬を飲ませる。
確実に飲み下したのを確認し、唇を離した。
彼の言った通り、痛みは直ぐに治まり始め、意識もはっきりとしてきた。
傾けられた顔は、肩に添えられた手に気付く。
妖しいまでに月に煌く、鋭い爪を持ったヒトならざる者の、手。
瞬間、不安が押し寄せた。
妖かしの差し出した薬を飲んでしまったという、恐怖。
今まで逢瀬を重ねていたのがヒトではなかったという、驚愕。
身体を硬直させながらも、ゆっくりと首を擡げた。
目を奪われるとは、このことだろうか。
否。
心も同じに奪われた。
空に浮かぶ月を背負った、美しい若者がそこに居た。
高いところで無造作にまとめられた白銀の髪は光を帯びて煌き、
細められた切れ長の目は仄かな黄金をしていた。
見たことも無い鎧に、肩から掛けられた滑らかな毛皮。
息を呑むほどに、美しかった。
恐怖を忘れた。
畏ろしいとは想わなかった。
ただ、心奪われた。
「私が、おぞましいか」
自分を凝視する少女に、彼は苦笑した。
姿を見せるつもりは無かったのだと、申し訳なさそうに笑った。
その様が寂しく、切なく見えて、十六夜は首を振る。
「いいえ。いいえ、『春暁』の君」
自分の力で座り直し、彼の手を取った。
温かい。
生きている温もり。
確かに此処に在る存在。
ヒトも妖かしも、生きるは同じ。
それを理解すると同時に、嬉しい、と想った。
とくん、と心の臓が高鳴る。
「貴方は矢張り、『春暁』の君で在ったのですね」
見惚れていたのでございます。
十六夜は、そう囁いた。
春のまどろみ。
ゆっくりと訪うもの。
嵐のように華を散らし、けれど心奪うもの。
季節が廻ろうとも、春を忘るるはずもなく。
ただ、焦がれる。
空が高い。
桜の花が敷き詰められていた庭は、今や紅葉と銀杏が覆っていた。
韓紅の秋は、深まりつつあった。
十六夜は、床に伏せることが多くなった。
外に出れば病を貰い、熱を出す。
免疫力が極端に落ちているようであった。
昼餉――と言っても粥のようなもの――を口にして、少女はもう一度横になる。
乳母は膳を下げて、一度部屋に戻ると言っていた。
衾を肩まで引き上げ、ひとつ溜息を吐く。
気分転換に琴を奏でたい。
そのようなことを言っても、叱られるか、嘆かれるか、ふたつにひとつだ。
十六夜はまた溜息を吐いた。
正直、身体が重たく、寝返りをうつのも億劫だった。
御簾越しに流れてくる涼しい風に、ゆっくりと目を閉じる。
「眠って、いるのか?」
遠慮がちにかけられた声に、少女は瞼を持ち上げた。
そうして、力無く微笑む。
「まぁ」
けれど直ぐに、表情を曇らせた。
御簾に触れた手へと、視線を移す。
「此方へ来ては、駄目。病の穢れが、その身に宿ってしまう」
彼は、彼女の忠告も聞かず、御簾を持ち上げ部屋へと入る。
きしり、と床が鳴った。
一枚の畳を敷いた上に、蒲団が敷かれている。
奥傍らには香が炊いてあった。
ゆらゆらと、香炉から細い煙が天井へ吸い込まれていく。
「ヒトの病などに穢れるものか」
御簾に隔たれることなく、扇で顔を隠すことなく、
こうして顔を合わせるようになったのは何時からだろう。
「そのような、こと」
彼女の傍らに腰を下ろす。
微かに、細められた相貌は、憂いを帯びた。
「また、痩せたな」
少女は答えず、微笑んだ。
それが痛々しくて、彼は眉根を寄せる。
傷付けないように頬に触れると、熱っぽさが伝わった。
「気持ち良い」
くすくすと、頬を摺り寄せる。
「十六夜」
大人しくしていろと言うつもりが、先を紡げなかった。
十六夜は笑みを消し、悲しげに口元を歪めた。
「早く、消えてしまいたい」
ぽつり、と零れるように、少女は言った。
同じ年頃の娘と比べて、白過ぎるほどの肌。
「健やかなる身体があれば、力ある家に嫁ぎ、子を成し、この家の役に立てるのに」
女とはそう在るべきなのだと、幼い頃より言い聞かせられた。
夫である殿方に仕え、血脈を末へと残す。
けれども。
「このような身では、血を残すことすら出来ない」
身体の弱い女は、忌み嫌われた。
どのように美しい女人であったとしても、
子を成す力のない者は、女として恥ずべきものなのだと。
「せめて男であったのならば、学を修めて父君の役に立てたのに」
十六夜は末姫であった。
腹違いの兄や姉とは、年に何度か顔を合わせる機会があった程度だ。
末姫で在ったからこそ、父の寵愛を受けた。
母を早くに亡くし、父の家に引き取られた。
身体が弱くとも、可愛がってくれた父。
てて様、とたどたどしく呼ぶと、その腕に抱いてくれた。
手放しで愛してくれた父だからこそ、余計に心苦しかった。
何の役にも立てない我が身が、口惜しくて仕方がなかった。
だから、消えてしまいたかった。
十五夜を過ぎた十六夜のように、悪ろしく姿を晒すよりも。
いざよひはいざよう。
いざようは躊躇い。
躊躇いの月は、未だ此処に在り続ける。
月は不吉で在るもの。
あまりに眺めては、寿命を奪われる。
美し過ぎるからこそ、人々は妖し、と畏れた。
父は何故、この名を付けたのだろうか。
月を意味する、『十六夜』の名を。
躊躇いの、月の名を。
「『此の世をば 我が世とぞ思ふ望月の 虧たる事も無しと思へば』」
不意に紡がれた歌に、十六夜は微かに眉を寄せる。
それは、平安の都で藤の大夫が詠んだ歌。
藤の花が、美しく咲き誇っていた頃の歌。
「『春暁』の君」
少女は咎めるように、彼を呼ぶ。
「そなたが望むのであれば、健やかなる身体と、不老の呪いを」
真っ直ぐに見つめる瞳を、ほんの一瞬畏ろしいと思う。
彼の内に在る、妖怪の本性を寂しいと思う。
そうすることでしか彼は、
否、彼らは居場所を得ることなど出来なかったのだろう。
「貴方には出来ぬことなど無い、と?」
彼は是と頷いた。
けれど十六夜は、寂しげに瞳を揺らすだけだった。
小さく、首を振る。
「満開であった藤の花も、今は散ってしまった」
変わらぬものなど、無い。
頬に添えられた手に、己の手を重ねる。
いざよう想いは、切なく煌く。
儚い煌きすらも、美しいと想う。
「花は散る。月は欠ける」
十六夜は、ほんの少し、添える手に力を込めた。
長い睫を揺らしながら、瞳を閉じる。
「散らぬ花を、一体誰が愛でましょう」
今直ぐに消え入りそうな少女を、彼は憂いた。
「貴方が私を少しでも愛おしいと想って下さるのならば、どうか」
一旦、言葉を区切り、添えられた手をそのままに、枕に顔を埋めた。
じわりと伝わる、温かい水。
「このまま、散らせて下さいませ」
「十六、夜」
散らぬ花を、一体誰が愛でましょう。
少女の言葉が重たく、響く。
いくら妖怪であろうとも、何時かは老い、朽ち果てる。
咲き続ける花は無い。
欠けない月は無い。
ヒトもまた、何時かは儚く消え行く。
その儚さを憂い、初めて、畏ろしいと思った。
次項
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