| 
 
 
 
 躊躇いの月が終わると、立待月が廻り来る。
 廻り、廻れば十五夜へ。
 十六夜の月は、訪れる。
 
 
 
 
 
 
 
 紅い月が空に浮かぶ。
 風が走り、唸る。
 音も無く地に舞い降りる人影は、ヒトならざるもの。
 「刀々斎、居られるか」
 もう一度、刀々斎、と呼ぶと、洞窟の奥から間延びした返事が聞えた。
 彼の姿を見るなり、ぎょろりとした目が若者を眺める。
 「ほぉう、珍しい客人も在るもんじゃ」
 口元から黒い煙を吐き出しながら、
 明々と燃ゆる竈から一振りの刀を取り出す。
 その剣もまた紅く燃え、熱を帯びていた。
 「儂に何ぞ頼み事か?」
 彼に背を向け、長い金槌で刀身を叩く。
 かつん、と火花が散った。
 「刀を打って頂く以外に、頼める事が?」
 座り込んでいる刀々斎の後方に、胡座をかいて腰を下ろした。
 かかか、と笑い声が壁に響く。
 「言うじゃねぇか、犬の大将」
 「こりゃ、刀々斎!御館様に向かって、何て口を」
 彼の肩口から小さなものが飛び降り、老人の鼻先に止まった。
 「何じゃ、冥加。居ったんか」
 驚きもせずに、鼻先から冥加を摘み上げる。
 じたばたと忙しなく両手足を動かし、彼を叱り飛ばした。
 「勿論じゃとも。この冥加、御館様の傍を片時も離れたりはせん」
 片時も、と言う台詞に、彼は眉根を寄せる。
 珍しく神妙な面持ちをしたかと思うと、指を離した。
 「覗き見たぁ、あんまりいい趣味じゃねぇな」
 突然、落とされた冥加は腰を摩りながら起き上がる。
 「人聞きの悪いことを言うな」
 二人の様子を苦笑して眺めていた青年は、
 彼等の会話が終わったことを確認し、口を開く。
 「刀々斎、刀を二振り、打って頂きたい」
 打っていた刀身をそのまま竈に放り込む。
 金槌はそのまま肩に掛けた。
 鋏を端に避けると、彼らと向かい合って座り直す。
 「どんな刀だ」
 言いながら、彼の腰元に視線を投げる。
 既に帯びている刀は、胡乱げな妖気を漂わせていた。
 銘を蒼雲牙、と言ったか。
 何処で手に入れたかは、聞いたことが無い。
 虚ろを操る、奇しき刀。
 この世のものでありながら、あの世の者を操る刀。
 気に入らないのか、皺の深い顔に、重ねて皺を刻む。
 「百の妖怪を薙ぎ払う刀。そして、百の命を救う刀」
 強く言い切る彼を眺め、ふぅんと唸る。
 頭を掻くと、その手を顎に当てた。
 「そりゃまた、極端だな」
 目を瞑り、腕を組む。
 一見すれば、眠っているのではないかと勘繰ってしまう。
 「難しいか」
 擡げていた首を、更に擡げる。
 「御前さんの無理難題は、今に始まったことじゃ無ぇしなぁ」
 面白そうに笑う老人は、片目だけを開けて顔を上げた。
 ぱん、と膝を叩く。
 「この刀々斎に打てねぇ刀なんて、この世に在るもんか」
 肩に乗せていた金槌をくるりと回し、切っ先を彼に突きつけた。
 「牙二本で手を打ってやる」
 早々と寄越せ、と言い放つ刀々斎に、彼は破顔した。
 
 
 
 
 
 空を駆ける。
 例えるならば、疾風。
 否、そのものだったかもしれない。
 肩口から御館様、と呼ぶ声が在る。
 顔を傾ければ、冥加が跳んだ。
 「その刀、十六夜様の御為でございましょう」
 少しだけ神妙に声を低くする。
 百の妖怪を薙ぎ払う刀。
 百の命を救う刀。
 それは、十六夜を想うが故に。
 「それが如何した?」
 質問の意図が分からず、彼は首を傾げた。
 蚤の老人が、うめく。
 「何故で、ございますか」
 「何故、とは?」
 責め立てるように、冥加は畳み掛けた。
 分かっていて、惚けているのか。
 本当に分かっていないのか。
 主を苛立たしく思うことを、
 赦されないと織っていても、彼は抑え切れなかった。
 「北の方様を護ろうとする刀は在りませぬのに」
 冥加は重ねて、何故と問うた。
 北の方を憐れと思ったのではない。
 それは僭越で在るし、仕える臣下としては無礼でも在る。
 それでも、何かが歯痒い。
 同じに愛する女子ならば、もっと心を傾けても良いのではないか、と。
 二人が肩を並べる様など、数える程しか見たことが無い。
 「何を言うかと思えば」
 彼は、声を上げて笑った。
 面白そうに、笑った。
 冥加はますます顔に皺を刻む。
 戯れだと、繰言だと思われたのか。
 彼の面は雄弁にものを語る。
 「あれは、護られることを良しとせぬ。そこらの妖怪が束になっても敵うものか」
 楽しげに口を歪める主を、ぽかんと眺めた。
 そうして、悟る。
 彼等には、彼等にしか分からぬ絆が在るのだと。
 甘言を繰り返し囁くような、世の男女の常とは違う。
 争いの中に在ったからこそ、生まれる愛も在る。
 「…僭越に、ございました」
 冥加は、自分の思慮の足りなさを恥じた。
 彼の北の方は、強く誇り高き女人。
 纏う気品は、他のものを寄せ付けない。
 気性が荒い訳ではなかったが、その強さは桁が外れていた。
 護られるだけの姫で在るのを厭い、疎んだ。
 その気高さを、彼は選んだ。
 彼女もまた、彼を選んだ。
 彼らの選んだ縁は、彼等だけのもの。
 傍で、寄り添うだけが愛ではない。
 遠くとも、想いは届く。
 儚くとも、想いは伝う。
 
 
 
 
 何時の世も、変わり無く。
 
 
 
 
 
 色が無くなる。
 木枯らしは、色を連れ去り、冬を連れて来る。
 ちらちらと揺れる雪は、ふわりと舞い上がった。
 部屋の真ん中に置かれた火桶には炭が折り重なりあって、時折火花を散らす。
 程よく暖められた室内は、ほっこりとしていて居心地が良い。
 「刀、が」
 雪のような白の重を纏い、十六夜は彼の腰元を眺めた。
 光に照らされると、梅の模様が浮かび上がる。
 今日は気分が良いのか、円座に腰掛けている少女に、彼は目を細めた。
 御簾越しに見える雪が、松の枝に静かに降りる。
 「新しく拵えたのだ」
 触れると鍔がぶつかり、かつんと鳴った。
 傍らに掛けている彼は、三振りの刀を腰元から抜き、床に置く。
 十六夜とは反対側に柄だけが見えた。
 「随分と物々しい。まるで戦にでも行かれるよう」
 目を眇め、手を伸ばしかけて引き戻す。
 戦。
 統治する者が在ったとて、戦が消えた試しなどない。
 統治しようとする者が在るが故に、戦が起こるのかもしれない。
 ヒトの世は、どの時代も戦の上に成り立つ。
 ヒトの世と同じく、妖かしの世も同じで在るのならば。
 争い続けることこそが、生きる証となるのならば。
 考えて、十六夜は身を堅くする。
 否定など、出来ない。
 彼が、選んだ道を後悔していないから。
 後悔はしていないからこそ、
 それに他人を巻き込むつもりも無いのだと、織って、しまったから。
 「貴方が御名を仰らなかったのは、それに連なる縁に私を巻き込まぬ為」
 睫を震わせ、小さく俯く。
 ほんの一瞬、彼の瞳が揺れた。
 十六夜を見つめていた瞳が、逸らされる。
 次第に積もっていく雪の白さに、織らず心が痛んだ。
 「そう、なのでございましょう」
 無言は肯定だと受け取る。
 視線を合わせず、返事もしようとしない彼に膝を勧めた。
 「貴方は大妖怪なのだと、冥加から聞きました」
 着いた両手に、簀子の冷たさがしん、と伝わる。
 しゅるり、と衣擦れの音が響く。
 ぱちり、と火桶の炭が爆ぜた。
 「私が貴方の御名を織るということは、そういうことなのでございましょう?」
 繰り返し、問う。
 けれど、答えは返らない。
 だから言い募った。
 想いを重の如く、重ねるように。
 触れようとしているのは、纏おうとしているのは、きっと禁色の裳。
 「それでも私は、貴方の御名を織りとうございます」
 片腕に縋りつくように、額を押し付けた。
 赤い唇が、音を紡ぐ。
 言の葉を、生み出す。
 「『春暁』の、君」
 織りたいと思った。
 彼の背負うものを、少しだけでも。
 痛みも苦しみも、一人だけで耐えて欲しくないと、そう、思った。
 一人だけで耐えようとする彼が、歯痒くて、腹立たしかった。
 「蝶は留まらぬものだと思って、いた」
 ぽつり、と呟く。
 彼の漏らした声に、え?、と十六夜は顔を上げた。
 頬に触れた冷たい手に、心の臓が高鳴る。
 
 
 
 
 耳元に寄せられた唇が微かに動いた。
 
 
 
 
 直ぐに離れ、顔を合わせる。
 十六夜は目を瞬かせた後、雪解けのような笑顔で微笑んだ。
 「そちらの方が、矢っ張りよく似合う」
 彼はそのまま、十六夜を抱き締めた。
 腕に収まる小さな身体は、ほんのりと温かい。
 驚きもせずに、少女は気持ち良さそうに身を任せた。
 「消えてしまいたいと、今でも思うのか」
 少しの間を空けて、彼女は瞳を閉じた。
 ゆっくりと、頷く。
 「はい」
 彼は眉を顰めた。
 抱き締める腕に力を込める。
 雪に溶けてしまわぬように。
 消えて、しまわぬように。
 十六夜は、けれど、と呟いた。
 「貴方と共に在りたいと想う私も、居る」
 顔を上げると、彼の視線とかち合った。
 哀しげに、瞳が揺れる。
 切なげに、唇が歪められる。
 「赦されるはずなど、無いのに」
 この瞳に映っているのは、現で在るはずなのに。
 想えば想うほど、警鐘が鳴り響く。
 「赦さぬと、誰が言った」
 「いいえ、赦されはしない」
 力無く、首を振る。
 白く、柔らかな手を掴み、彼は真っ直ぐに見つめた。
 鋭く、強い視線が飛び込んでくる。
 「ならばこの想いは、如何すれば忘れられる」
 僅かに見開かれる双眸。
 とくとくと、鳴り続ける心の臓。
 「そなたを愛おしいと想う心は、如何すれば失せるのだ」
 彼の紡ぐ言霊が、ひとつ、またひとつ染み込んでいく。
 心の奥から、熱いものが込み上げてくる。
 「忘れろと言うのであれば、今此処で、心の臓に刃を突き立てよ」
 一番高く、心の臓が鳴った。
 冷たいものが、すぅっと流れた。
 「そなたの手で、私を殺せ」
 出来るはずが無い。
 大きく頭を振る。
 十六夜は織らず、叫んでいた。
 「そのようなこと!」
 掴まれていない手で、彼の着物を強く握る。
 首を振り、彼の胸に顔を埋めた。
 「そのような、ことが」
 掠れる声。
 目頭が熱い。
 涙が、滲んでくる。
 哀しみではない。
 喜びでもない。
 悔しさでも、歯痒さでも。
 ならば、この伝う涙は、何だと言うのだろう。
 「貴方が愛おしい。けれどヒトの身で在る私は、貴方を穢してしまう」
 次から次に溢れる涙。躊躇いの月は、織っていた。
 とうに、理解していた。伝う涙の意味など、とうに。
 「貴方を縛り付けてしまう」
 ほとり、と落ちる涙は、衣に染み込み、痕を残す。
 愛おしさが溢れる。
 愛おしくて、愛おしくて、言葉に出来ないほどの。
 涙は、愛しさ。
 愛おしいと想うからこそ、零れた想い。
 「だから、駄目」
 十六夜は、ぎゅ、と眉根を寄せる。
 ヒトと妖かし。
 縁を結べば、それぞれに過酷な道が続くのだと織っている。
 一度結ばれた縁は、決して消えない。
 彼が彼女を護りたいと想ったように、
 彼女もまた、彼を護りたいと想った。
 だから、拒んだ。
 想う気持ちに、名前を付けようとはしなかった。
 「駄目、なのに」
 言い淀む。
 肩から黒髪が、流れた。
 「御慕い、して、おります」
 どうして、想いを止められよう。
 募り続ける想いを、抑えおくことなど出来はしない。
 「貴方を、ずっと御慕いしておりました」
 そう、誰も。
 誰も想いを止める術など、織らないのだから。
 
 
 
 
 牡丹雪積もる月夜。
 縁は、結ばれた。
 
 
 
 
 
 雪が降るか、降るまいか。
 分からないような、どっちつかずの空。
 厚い雲がのっそりと漂う。
 彼は御簾を持ち上げ、簀子縁に出た。
 ヒトの気配を感じた時にはもう遅い。
 「曲者!」
 武士のように鍛えられた体躯をした若者が、刀を抜き、彼に斬りかかる。
 顔を其方に向け、たん、と大きく一歩後ろに飛び退いた。
 「おのれ、物の怪め!!」
 続けて逆袈裟斬りで、彼の鼻先を掠める。
 後ろに仰け反り、手を着いてくるりと身を浮かすと、彼は庭先に降りた。
 ふわりと垣根へと跳び移る。
 刀を抜く気配は、無い。
 「やめて、武丸!」
 やっとのことで事態を把握した十六夜は、御簾から飛び出した。
 武丸と呼んだ若者の背に縋り付く。
 「御放し下さい、十六夜様!」
 肩越しに振り返り、離れるように乞うた。
 恐らくは臣下であろう。
 主君であるヒトの姫を無下に扱う訳にも行かない。
 無理矢理振り解くことは可能であるのに、そうしようとはしなかった。
 「行って、行って下さい!」
 そうして、必死に叫ぶ。
 十六夜の声に促され、彼は微かに目を細めた後、姿を消した。
 武丸は暫く宙を睨んでいたが、完全に消えたことを悟ると、刀を鞘に納めた。
 どちらも傷付かなかったことに安堵し、少女はその場に崩れ落ちる。
 良かった、と心底思った。
 若者は身体の弱い十六夜を気遣い、身を折った。
 けれど、その想いだけで疑問が払拭されるはずなどなかった。
 彼女が妖かしを庇った事実は、消えずにそこに在る。
 十六夜が無事で在ることを確かめると、訝しげに眉根を寄せた。
 まさか、と思う。
 そうして、それはきっと間違ってはいないのだろう。
 「十六夜様、もしや」
 弾かれたように、十六夜は顔を上げる。
 見つかってしまった。
 見咎められてしまった。
 「武丸」
 哀しげに双眸を揺らす。
 けれど、何も見なかったことに、とは言わない。
 黙っていろ、とも言わない。
 少女は、己が主で無いことを織っていた。
 彼が仕えるべき主君は、ただ一人なのだと。
 武丸は立ち上がり、目礼をして踵を返す。
 とす、と軋む簾子縁が乾いた音を立てた。
 「武丸!」
 呼ぶ声は遥か、陸奥に。
 密やかなる逢瀬は、もう廻らない。
 我が君、と少女は憂いた声で呟いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 次項
 |